2021/06/27

3. アリューシャン作戦(AL作戦)

3-1    北方での日本海軍の指揮命令系統

アリューシャン方面全般での日本海軍の命令系統を確認しておく。大命が発せられると細部は軍令部総長より指示され、これに基づき聯合艦隊司令長官は日本の東方を担当する第五艦隊司令長官に命令、第五艦隊司令長官は個別の部隊や艦隊の司令に命令、という指揮系統によって実施される [6, p431-432]。ただし聯合艦隊司令部の意向は軍令部にかなり影響を与えたようである。なおここでアリューシャン作戦(AL作戦)とは、ダッチハーバー攻撃からアッツ島とキスカ島の占領までを指すこととする。


3-2    北太平洋の哨戒

3-2-1 聯合艦隊

アリューシャン域での日本軍の活動を担ったのは日本海軍である。日本海軍の主力艦隊は、聯合艦隊だった。聯合艦隊とは日本海軍の複数の艦隊を統括する組織だった。本来は戦時のみの組織で、常設ではなかった。しかし、ワシントン海軍軍縮条約の締結を受けて、縮小された艦隊の技術を上げるため、1922年に聯合艦隊は常設化された。最初は第1艦隊と第2艦隊だけだったが、その後徐々に艦隊が増設された。日中戦争のために、支那方面艦隊が聯合艦隊とは別に独立して設立された。第二次世界大戦中は、支那方面艦隊以外の艦隊は概ね聯合艦隊に編入された。


3-2-2 第五艦隊

1941年の独ソ開戦によってソビエト連邦は連合国側の一員となり、日ソ中立条約はあったものの北方での日本の国際情勢は大きく変化した。開戦後にアリューシャン方面での戦いを行った第五艦隊は、ソビエト連邦を仮想敵とした陸軍の「関東軍特種演習(関特演)」に協力する艦隊として、1941年7月に舞鶴を根拠地として編成された。第五艦隊の司令長官は細萱戊子郎中将であり、艦隊は軽巡洋艦「多摩」を旗艦として、軽巡洋艦「木曾」、水雷艇「鷺」、「鳩」の4隻からなった [4, p40]。しかし、その後日ソ開戦の可能性はなくなったため、第五艦隊は日本本土東方海面の警戒と小笠原諸島の防備と海上交通保護を行うことになった [4, p42]。

連合国との開戦の頃から第五艦隊は強化されて、特設水上機母艦「君川丸」、特設巡洋艦「粟田丸」、「浅香丸」、若干の掃海隊と駆潜艇が配属された [4, p62]。特設巡洋艦とは大型貨物船を徴用したもので、巡洋艦という名前は付いているが、実態としては貨物船に多少の応急の武装を施しただけのものだった。北太平洋は北千島から南鳥島まで広大な間口を広げており、しかも島の少ないこの広大な海域の哨戒は容易ではなく、アメリカ軍の機動部隊はそのどこからでも東日本を奇襲攻撃することが可能だった。第五艦隊は1942年2月から漁船などを利用した哨戒部隊を編成して北西太平洋の哨戒を行っていたが [4, p205]、アメリカ海軍の機動部隊がもしこの方面から来襲すると、その発見は非常に困難であることが予想された。

第五艦隊ではこの北太平洋の哨戒の困難性を少しでも緩和するため、1942年1月末頃から日本軍が西部アリューシャン列島を占領して哨戒線を前進させることを提唱するようになった [4, p206]。また、1942年3月のアメリカ海軍の機動部隊による南鳥島空襲は、日本軍全体の北太平洋海域の関心を高めた [4, p206]。しかし、海軍軍令部が聯合艦隊司令部にアッツ島とキスカ島を占領するアリューシャン作戦(AL作戦)を要望するに至った経緯は明らかでない [4, p206]。経緯に関して関係者による戦後の回想は一致していないが、海軍軍令部はミッドウェー作戦を検討するに当たり、第五艦隊の考え方を受けてAL作戦の必要性を付随的に認めたようである。

3-3    アリューシャン作戦(AL作戦)の目的

作戦は当然目的を伴う。AL作戦では作戦の目的の立て方がその後の両島の保持・防衛に大きな影響となって表れたため、その目的を詳しく見てみる。

3.3.1    当初の目的

関係者の回想を総合すると、海軍軍令部ではアッツ島とキスカ島を占領するAL作戦の目的の候補として、(1)本土攻撃を企図する米航空機の基地としての利用の阻止、(2)米機動部隊の本土来襲に対する哨戒線の前進、(3)米ソ連絡の遮断、を考えていた [4, p207]。これらの目的は絞られることはなく、冬季が来るまでの占領予定だった。一方で聯合艦隊司令部では、「米国が大型機をアリューシャン西部に進め、わが本土を空襲する企図を先手を打って押さえるとともに、敵の北方進攻路を未然に防ぐのが目的」と考えていた [4, p207]。
 
これだけ見ると、海軍軍令部と聯合艦隊司令部の考えはそれほど異なってはいない。しかし、聯合艦隊司令部はミッドウェー作戦の主目的をミッドウェー島の確保というよりは米空母の捕捉撃滅と捉えており[43, p123-124]、AL作戦とミッドウェー作戦との整合性は曖昧だった。しかもAL作戦をミッドウェー作戦の陽動と考えていた人もおり、その目的についての関係者の回想は、必ずしも一致していない [4, p207]。それを示すかのように、西部アリューシャン列島の占領期間については、冬季の前に撤収するのか永続的に確保するのかが明確に決められなかった。このため、キスカ島占領の上陸部隊を任される予定だった海軍舞鶴第三特別陸戦隊司令官の向井一二三少佐は、4月はじめに聯合艦隊司令部との打ち合わせで9月撤収の説明を聞いた後に、海軍軍令部に赴くと恒久的基地建設用の膨大な資材リストを渡されて驚いた、と述べている [7, p21]。
 
海軍のAL作戦の方針は、4月15日に大本営陸軍部に打診された。その内容は「6月上旬ダッチハーバー、アダック島を攻撃し、キスカ島付近を攻略し、陸軍部隊が冬前まで進駐し、海軍は冬残る」というものだった。しかし陸軍はアリューシャン列島の攻略には消極的で、4月16日に海軍に対してAL作戦には兵力を派遣しないことを通知した [4, p208]。

3.3.2    ドゥーリトル爆撃のAL作戦への影響

しかしながら、1942年4月18日のアメリカ軍のドゥーリトル爆撃隊による東方海上からの日本空襲が、AL作戦に大きな影響を与えた。日本東方海上の哨戒能力の不足が明瞭となり、北方領域からその海域を哨戒する重要性が浮上した。陸軍も西部アリューシャン列島に哨戒基地を置く必要を認めて、4月21日に兵力の派出に同意した [4, p209]。結局アッツ島には陸軍が、キスカ島には海軍特別陸戦隊がそれぞれ上陸することになった。

陸軍はそのために、5月5日に穂積松年少佐を支隊長とする約1000名からなる北海支隊を設立した [3, p98]。これは北部軍の第七師団から抽出した部隊だった。同時に後にガダルカナル島で全滅する一木支隊も設立された。北部軍とは1940年に設立された北部日本の防衛を担う軍団で、主に第七師団と第五十七師団からなっていた [3, p19]。これはソビエト連邦に対抗する軍団で、開戦当初は対米戦に積極的には関わっていなかった。そのためAL作戦にも関わっていなかったが、この軍団は徐々にアリューシャンでの戦いに巻き込まれていく。北海支隊は、AL作戦の集合地点から先は第五艦隊司令長官の指揮下に入った。そして上陸作戦後の6月25日には大本営直轄となった [4, p277]。北海支隊とその後継部隊は、その後の軍の再編に伴って指揮命令系統がたびたび変わることになる。

海軍舞鶴第三特別陸戦隊副官であった柿崎誠一元大尉は、AL作戦の当初の目的を、海軍軍令部は第五艦隊司令部の哨戒線前進と敵機動部隊の誘致撃滅のための「ミッドウェー作戦の補助・牽制戦」として、一方で聯合艦隊司令部は「アリューシャン列島からの本土空襲の阻止」としていたと述べている [6, p433]。これらの考え方は、ドゥーリトル爆撃隊による日本空襲によって変わった。同氏はこの空襲を受けて、海軍軍令部は哨戒基地前進を主目的としてミッドウェー作戦とAL作戦を推進し、聯合艦隊司令部としてもこれに従うことになったと述べている [6, p433]。つまりAL作戦の目的は、次節に示すようにミッドウェー島とアッツ島、キスカ島の3島に基地を置くことによって、北太平洋に哨戒網を構築してアメリカ軍の機動部隊による本土襲撃や陸上航空基地の展開を防ごうとするものであった。しかしそれならばどうして陸海軍中央協定で冬季撤退となっていたのか、次に述べる作戦目的と作戦要領に一貫しない部分がある。また、陸上兵力と水上機を島に駐留させてさえおけば、敵の基地進出を防げるだろうという考えもわかる。

アリューシャン方面の命令系統図

3.3.3    発令された作戦内容

1942年5月5日に作戦は発令された。AL作戦に関する大海令、大海指、陸海軍中央協定は以下のようになっている [4, p209-211]。陸海軍中央協定での作戦の目的はわかりづらいが、敵機動部隊への哨戒だけでなく、陸上航空基地の進出を防ぐという趣旨も含まれていることになっている。なお、書かれているように陸海軍中央協定では占領は冬季までとなっていた。
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大海令第十八号 昭和十七年五月五日
一 聯合艦隊司令長官ハ陸軍卜協カシ「AF」及「AO」西部要地ヲ攻略スベシ
二 細項二関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム
(注、AFはミッドウェー、AOはアリューシャンを指す)

大海指第九十四号 昭和十七年五月五日
大海令第十八号ニ依ル作戦ハ別冊「AF」作戦ニ関スル陸海軍中央協定竝ニ「AO」作戦ニ関スル陸海軍中央協定に準拠スベシ

「アリューシャン」群島作戦ニ関スル陸海軍中央協定
一 作戦ノ目的
「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵ノ機動竝ニ航空進攻作戦ヲ困離ナラシムルニアリ
ニ 作戦方針
陸海軍協同シテ「キスカ」「アッツ」ヲ攻略スルト共ニ「アダック」ノ軍事施設ヲ破壊ス
三 作戦要領
(一)陸海軍協同シ先ヅ「アダック」ヲ攻略シ要地ノ軍事施設ヲ破壊撤収シ 次デ陸軍部隊ハ「アッツ」ヲ 海軍部隊ハ「キスカ」ヲ攻略シ 冬季迄之ヲ確保ス
(二)海軍ハ有カナル部隊ヲ以テ攻略部隊ヲ支援スルト共ニ上陸前母艦航空部隊ヲ以テ「ダッチハーバー」方面ヲ空襲シ主トシテ所在航空兵力ヲ撃破ス
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この「冬季迄之ヲ確保ス」という作戦要領は、冬季はアリューシャンから撤退して哨戒しないと受け取れる。しかしそれでは冬季だけ哨戒網に穴が空いてしまうので現実的ではなく、3.3.1で海軍が陸軍に打診した内容のように、海軍は冬季に残って哨戒を続けるつもりだったのではないかと思われる。

3-4    AL作戦に対する日米の準備

3.4.1    アメリカ軍

アメリカではワシントンの海軍作戦部の通信部(OP-20-G) が日本軍の暗号解読を行っていた。日本海軍のD暗号(JN-25B)は4月1日に改訂されるはずだったが遅れていた(結局改訂されたのは5月27日)。イギリスがドイツのエニグマ暗号をまるごと解読していたのとは対照的に、アメリカは日本海軍の暗号を通信解析によって解読しようとしていた(沈んだ日本の潜水艦から引き揚げた暗号書の利用もしていた)。

通信解析とは、通信内容はわからなくても、通信の宛先とその部隊の行動から、通信内容を徐々に解読していくやり方である。日本海軍は暗号通信の宛先に固定した符号を使っていた(AFがミッドウェーを指していたことは有名である)。発信源は方位測定からわかるので、その発信源の移動先と日本軍の行動を付き合わせれば、ある程度通信内容が推測できた。大量の通信があれば、そうやって解読できない通信の空白を徐々に埋めていくことができた。

4月1日時点でのアメリカによるD暗号の解読割合は85%だった [2, p24]。4月27日にハワイに置かれていた暗号解読部隊(HYPO)が、ダッチハーバーとコジアクの航空勢力を問い合わせている日本の通信を解読した。同じ頃、メルボルンの米豪合同海軍情報部は日本の第二艦隊(重巡洋艦を中心とする戦隊群)がアラスカ湾の海図を要求している通信を解読した。HYPOは同様にミッドウェー作戦を5月15日頃には4分の1を解読していた(残りは総合的な推測で埋められた)。そしてAL作戦をミッドウェー作戦の陽動作戦と判断した。

これらによって、日本軍によるポートモレスビーへの再度の侵攻を危惧していたアメリカ海軍は、焦点を太平洋中部へと絞ることが出来た。ミッドウェー作戦の日時はわからなかったが、日時を示す暗号の位置はわかっていたので、過去の暗号電文と付き合わせて、5月28日にはダッチハーバー攻撃を6月3日、ミッドウェー攻撃を6月4日(米国時間)と特定した [2, p25]。

アメリカ海軍のアーネスト・キング海軍作戦部長は、AL作戦による日本軍を迎え撃つために5月17日に北太平洋軍(North Pacific Force)を設立し、その司令長官にロバート・テオバルド少将を据えてアラスカ防衛のためのすべての陸軍、海軍とカナダ軍の指揮権を与えた。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は5月21日にテア任務部隊(Task Force Tare)を編成した。艦隊名は日本軍に秘匿するために司令官であるテオバルド少将の名前を模して命名された [8, p3]。アラスカ方面の海軍戦力は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦11隻、潜水艦6隻、水上機母艦2隻、その他4隻、沿岸警備艇10隻と哨戒艇14隻から成った。また、戦闘機94機、双発爆撃機42機、PBYカタリナ飛行艇23機などが配備された [8, p3]。

ロバート・テオバルド少将
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Alfred_Theobald#/media/File:RADM_Robert_A._Theobald.jpg

陸軍のアラスカ防衛軍は1942年6月1日には約45000名まで拡充された [2, p18]。ダッチハーバー、コジアク、シツカ砲台(アラスカ湾南西)には、陸軍によって合わせて6000名が派兵された [2, p18]。同じ時期に、アンカレッジとコジアクに対空レーダー(SCR-270とSCR-271)が設置された。

SCR-270レーダー
https://en.wikipedia.org/wiki/SCR-270

前述したように、アメリカ陸軍航空隊は1942年5月にアラスカから西に突き出した長い弧状のアリューシャン半島の先のコールド・ベイ(ダッチハーバーの北東300 km)とダッチハーバーのあるウナラスカ島の西隣のウムナク島のフォート・グレン(ダッチハーバーの南西約120 km)に秘密裏に航空基地を完成させた [9]。日本軍によるアラスカ方面への攻撃の可能性が出てきたため、フォート・グレン航空基地は、工兵隊が急いで8万個のはめ込み式の鉄板を敷き詰めて滑走路を作った [9]。

ウムナク島のフォート・グレン航空基地(1942年)。右手のウムナク海峡を隔ててダッチハーバーのあるウナラスカ島に接する。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fort_Glenn_Army_Airfield_1942.jpg

アラスカ方面に配備された航空機は、戦闘機94機、4発爆撃機7機、双発爆撃機42機であり、その中には初めて配備された双発双胴のP-38戦闘機や、レーダー装備のLB-30(B-24爆撃機のイギリス供与型)とB-17爆撃機それぞれ2機も含まれていた [2, p19]。ニミッツは、AL作戦を日本軍に消耗を強いる好機と捉えていた [2, p25]。アメリカ統合参謀本部は、アラスカ防衛軍を北太平洋軍の配下に置いたが、きまじめな北太平洋軍司令官テオバルドと豪放なアラスカ防衛軍司令官バックナーの二人はそりが合わず、その後の摩擦のもととなった。これは北太平洋軍司令官が1943年1月にテオバルド少将からキンケイド少将に代わるまで続いた。

3.4.2    日本軍

日本海軍は、ダッチハーバーに飛行艇24機、陸軍機10~20機、海兵隊700名の兵力が存在していると推定した [4, p242]。日本軍はダッチハーバーをアメリカ軍のアリューシャン方面の防備の拠点とみていたため、AL作戦時にここを叩いておく必要があった。この方面には、ここ以外にはアダック島とキスカ島に基地を建設中と判断していたが、ダッチハーバー以外に強力な地上兵力はないと考えていた。実際にはアダック島に軍事施設はなかったが、日本軍はAL作戦によってアダック島の施設を破壊すれば、アッツ島とキスカ島の攻略は容易であろうと考えていた [4, p241]。

日本軍は、アラスカより西の陸上航空機基地については、ダッチハーバーに小型機用の飛行場があるかもしれないという情報しか持っていなかった [4, p239]。そのため、5月11日に特設水上機母艦「君川丸」の水上偵察機(水偵)によって、西部アリューシャン列島の偵察が行われた。その結果、アダック島とキスカ島には艦船を認めなかった [4, p242]。さらに5月25日から6月1日にかけて、アダック島、ウムナク島、ダッチハーバーに対して潜水艦の潜望鏡による偵察が行われた。コジアク、キスカ島、アムチトカ島に対しては潜水艦「伊九」と「伊二十五」搭載の水偵によって飛行偵察が行われた [4, p243]。これらの偵察の結果、コジアクとダッチハーバーには艦船を認めたが、それ以外にはアダック島を含めて艦船や施設を認めなかった [4, p244]。

もしウムナク島を潜望鏡偵察ではなく飛行偵察していれば、フォート・グレン航空基地を発見していたかも知れない。フォート・グレンとコールド・ベイの新設の両航空基地は、ダッチハーバー空襲時の迎撃とその後のキスカ島の空襲に大きな役割を果たすことになる。もし日本軍が事前にこれらアリューシャン東部の航空基地の存在に気づいていれば、ダッチハーバーの攻撃の際に目標を変更したかも知れないし、日本軍のAL作戦は東の防備を固めるためにもっと積極的に東に進出していたかも知れなかった。

3-5    AL作戦の開始

3.5.1    日本軍の攻撃計画

アリューシャン作戦(AL作戦)でのダッチハーバー攻撃は、ミッドウェー作戦と連携して、ミッドウェー島攻撃より1日前に開始されることになっていた。AL作戦を担う北方部隊の構成は以下のとおりである [7, p16]。なお、北方部隊とは軍隊区分による呼称である。軍隊区分とは作戦に適合するように部隊を一時的に組織した場合の呼称であり、北方部隊とはここでは概ね第五艦隊を核とした部隊を意味する。
  • 主隊(司令長官細萱戊子郎中将直率)重巡洋艦「那智」、駆逐艦「若葉」、「初春」
  • 第二機動部隊(司令官 角田覚治少将)空母「隼鷹」、「龍驤」、重巡洋艦「高雄」、「摩耶」、駆逐艦「曙」、「潮」、「漣」、給油艦「定洋丸」
  •  アッツ攻略部隊(司令官 大野武二大佐)軽巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「初霜」、「子ノ日」、特設砲艦「まがね丸」、輸送船「衣笠丸」
  • キスカ攻略部隊(司令官 大森仙太郎少将)軽巡洋艦「木曽」、「多摩」、駆逐艦「電」、「雷」、「響」、「暁」、「帆風」、特設巡洋艦「浅香丸」、駆潜艇3隻(25、26、27号艇)、輸送船「白山丸」、「球磨川丸」。特設巡洋艦「粟田丸」、その他「快鳳丸」、「俊鶻丸(しゅんこつまる)」
  • 水上機部隊(司令官 宇宿主一大佐)水上機母艦「君川丸」、駆逐艦「汐風」(アッツ攻略部隊支援)
  • 潜水艦部隊(司令官 山崎重暉少将)潜水艦「伊九」、「伊十五」、「伊十七」、「伊十九」、「伊二十五」、「伊二十六」
  • 基地航空部隊(司令官 伊東祐満中佐)東港空支隊(飛行艇6)、水上機母艦「神津丸」など
空母「隼鷹」は排水量27500トンで搭載機48機だが、貨客船「橿原丸」を改造したものである。空母「龍驤」は排水量10150トンで搭載機36機である。それらは搭載機数からするとそれぞれ軽空母と小型空母クラスだった。北方部隊の本隊は5月26日に陸奥湾の大湊を出港した。ちなみにミッドウェー島を航空攻撃する第一機動部隊を主力とする艦隊は、5月27日に広島の柱島を出港した。

北方部隊の行動は大きく分けて3つに分かれていた。第二機動部隊がダッチハーバーとアダック島の空襲を行う計画だった。アッツ攻略部隊はアダック島を上陸攻撃した後に撤収してアッツ島に向かい、主隊とキスカ攻略部隊は直接キスカ島に向かう計画だった [4, p214-215]。この3つの部隊は別行動ではあったが、洋上での無線封止などで連絡が取りにくいにもかかわらずそれぞれの行動は相互に関連していた。またミッドウェー作戦に参加する戦艦「伊勢」、「日向」、「扶桑」、「山城」と軽巡洋艦「大井」、「北上」を主力とする警戒部隊は、6月4日にミッドウェーの北西約2000 kmの地点でミッドウェー作戦本隊と分離し、キスカ島の南900 kmの地点へ向かうことになっていた[43, p276]。このようにAL作戦そのものがミッドウェー作戦とも関連しているという極めて複雑な作戦だった。
       

アリューシャン列島とAL作戦予定図。
戦史叢書第43巻「ミッドウェー海戦」の各部隊の進撃行動図をもとに作成

3.5.2    アメリカ軍の迎撃計画

暗号解読により日本軍によるダッチハーバー攻撃を知ったアメリカ太平洋軍は、1942年5月27日(米国時間)に、北太平洋軍司令長官テオバルド少将率いる北太平洋艦隊を真珠湾からコジアクに向かわせた。彼は太平洋軍から空襲だけという日本軍の意図を知らされていたものの(情報源は秘匿された)、他の多くの提督と同様にテオバルドは暗号解読を信用していなかったため、日本軍がダッチハーバーに上陸することを危惧した。作戦に直接脅威になっている基地ならばともかく、はるか遠くの根拠地を1回だけ空襲しても、航空戦力はすぐに補充が可能なので一時的な効果しかない。わざわざ空襲に来るのであるから航空戦力を無力化した間に上陸するのではないかとテオバルドが考えたのも無理はなかった。彼はダッチハーバー西方のマクシン湾に上陸阻止のために駆逐艦9隻を配置した [2, p24]。そして自らは上陸時の反撃のために北太平洋軍の艦隊を率いてダッチハーバーから1000 km近く離れたコジアクの南東に待機した。なお潜水艦6隻は担当海域へと散って行った。

6月1日以降、アラスカのノームからシアトル沿岸にかけての海岸全域で24時間の厳戒態勢がとられ [8, p4]、全ての哨戒機と哨戒艇20隻が北太平洋とベーリング海で交代で哨戒に当たった [10, p27]。日本軍への反撃のために、コールド・ベイ基地にはP-40戦闘機12機とB-26双発爆撃機6機が、フォート・グレン基地にはP-40戦闘機6機とB-26爆撃機6機がそれぞれ配備された [2, p26]。


コールド・ベイ基地のB-26爆撃機。雷装している。(1942年5月11日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=25099

6月3日に、日本軍の空母2隻がキスカ島の南640 kmにいることが報じられ、第11航空軍の航空機全てがコールド・ベイ基地とフォート・グレン基地に集められた [8, p4]。奇襲という日本軍の期待とは裏腹に、アメリカ軍は暗号解読によって日本の攻撃を事前に察知し、ミッドウェー方面と同様にダッチハーバー方面においても相応の攻撃態勢を整えていた。

3.5.3    6月4日の攻撃

AL作戦においてダッチハーバー空襲を計画している第二機動部隊は、荒天と霧に悩まされたが、そのおかげでアメリカ軍に追跡されずに予定どおり進撃した。同部隊は6月3日2300時ころダッチハーバーの南西約330 km地点において、空母「龍驤」から零式艦上戦闘機(零戦)3機と九七式艦上攻撃機(艦攻)14機による第一次攻撃隊を発進させた。彼らは翌6月4日0040時ダッチハーバーに接近した [4, p245-246]。ほぼ同時刻にダッチハーバーに停泊していた水上機母艦「ギリス」のレーダーが接近する日本機を捉えた [8, p4]。直ちに警報が出され、コールド・ベイ基地のP-40戦闘機が迎撃のために緊急発進した。無線の不調によりフォート・グレン基地にはこの警報は届かなかった [2, p29]。

0100頃ダッチハーバーに到着した零戦は、離水しようとしていたPBYカタリナ飛行艇2機と重油クンクを銃撃した。PBYカタリナ飛行艇1機は離水の途中で撃墜されたが、もう1機はかろうじて雲の中に逃げおおせた [2, p29]。同じ頃、艦攻4機がダッチハーバー基地上空に侵入し、投下した爆弾は兵舎や倉庫に命中して25名が死亡しほぼ同数が負傷した [8, p4]。別な艦攻3機が投下した爆弾は基地からはそれたが、塹壕にいた兵士を殺傷し、艦攻1機の爆弾は無線室をかすめて無線中継施設を破壊した。残りの艦攻の爆弾は、望楼やトラックなどに命中し、数名の水兵を死傷者させた [2, p32]。


日本軍の空襲によって燃えるダッチハーバーのビル群(1942年6月4日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=424

約30分間の攻撃の後に、第一次攻撃隊は帰途に就いた。そのうちの4機がダッチハーバー西方でアメリカ軍のP-40戦闘機と交戦したが、全機無事に帰着した [4, p246]。コールド・ベイ基地からの迎撃機は、日本機が去った10分後にダッチハーバー上空に到着したため、戦闘に間に合わなかった [2, p32]。一方で空母「隼鷹」からは第一次攻撃隊として零戦13機と九九式艦上爆撃機(艦爆)15機が発進した。零戦2機だけは「龍驤」隊に合同して軍事施設を銃撃したものの、艦爆を含む他の機は低層の雲による天侯不良のため引き返した [4, p246]。この「隼鷹」隊の多くが天候不良で引き返したため、第二機動部隊司令部ではダッチハーバーに対して十分な打撃をあげることができなかったと判断した。

「龍驤」隊は、途中でダッチハーバー西方のマクシン湾に駆逐艦5隻を発見して通報した。そのため第二機動部隊司令官は残りの使用可能機全力をもって駆逐艦群に対する第二次攻撃を実施することにした [4, p246]。「龍驤」 の零戦9機、艦攻17機、空母「隼鷹」の零戦6機、艦爆15機、重巡洋艦「高雄」と「摩耶」から九五式水偵それぞれ2機が0600時頃発進した。しかし広がっていた低層雲によって攻撃隊は目標を見つけられず、水偵を除いて全機引き返した [4, p246]。低空での攻撃が得意な水偵2機が雲下に降りて目標を攻撃しようとした。そのうち1機がアメリカ軍のP-40戦闘機と交戦して自爆し、もう1機は被弾して艦隊の近くに不時着水した [4, p246]。引き返した攻撃隊は、たまたまダッチハーバー西方のフォート・グレン基地付近上空を通過したため、P-40戦闘機2機の迎撃を受けた [10, p29]。第一次、第二次攻撃の両方ともダッチハーバー西方でP-40戦闘機の迎撃を受けたため、日本軍はこの付近のどこかにアメリカ軍の陸上航空基地があると判断した [4, p246]。

一方で、アメリカ軍も第二機動部隊に攻撃をかけた。0500時頃にPBYカタリナ飛行艇1機が第二機動部隊に接近しようとしたが、上空護衛の戦闘機に撃墜された。助かった乗員は重巡洋艦「高雄」に救助され捕虜となった。第二機動部隊への接近に成功した別なPBYカタリナ飛行艇は撃墜されたものの、その前に艦隊の位置を打電した。しかしながら、この位置情報はダッチハーバーで受信されなかった [2, p33]。この乗員はアメリカ海軍の沿岸警備艇に救助された。

アメリカ軍の哨戒機PBY-5Aカタリナ飛行艇(コジアクにて1942年5月から1943年1月)
https://ww2db.com/image.php?image_id=12298

第二機動部隊は、翌日6月5日はアダック島を空襲する予定になっており、いったんアダック島へ向かった。しかし第二機動部隊司令部は、アダック島付近の天候が悪そうなことと、ダッチハーバーの戦果が不十分で付近の航空基地を攻撃する必要があると判断した。第二機動部隊は途中で作戦を変更し、反転して再びダッチハーバーへと向かった [4, p247]。第二機動部隊の参謀は、今度はアメリカ軍の反撃を覚悟したが、艦隊付近は天候が悪いため雲上から爆撃では精度が悪いだろうと考えていた [4, p247]。

3.5.4    6月5日の攻撃

6月5日の朝は雨でダッチハーバー上空は曇に覆われていたが、天候は回復傾向にあった。0500時頃、哨戒を行っていたPBYカタリナ飛行艇が第二機動部隊を発見して位置を報告した。その後、この飛行艇は魚雷攻撃を行おうとしたが、片方のエンジンが被弾したため断念した [2, p33]。この報告によりフォート・グレン基地から6機の雷装したB-26爆撃機が攻撃に向かった。しかし、B-26爆撃機を艦隊までレーダー誘導しようとしたPBYカタリナ飛行艇は艦隊上空の零戦に撃墜された上に、攻撃隊は霧と雲に邪魔されて艦隊を発見出来なかった。コールド・ベイ基地からも6機の雷装したB-26爆撃機が攻撃に向かった。この攻撃隊は第二機動部隊を発見し、数機は空母「龍驤」を雷撃したが魚雷は回避された。雷撃の困難さを悟った攻撃隊指揮官機は戦法を変えて、魚雷を空中からミサイルのように投下したが、魚雷は荒波で激しく上下する「龍驤」の甲板上を通り過ぎて200 m先の海上に落ちた [2, p33]。

空母「龍驤」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%A9%A4_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_aircraft_carrier_Ry%C5%ABj%C5%8D_underway_on_6_September_1934.jpg

午後にはレーダーを装備した2機のB-17爆撃機が第二機動部隊を発見した。1機が霧の合間を衝いて高度300 mから爆撃したが命中しなかった。もう1機は重巡洋艦「高雄」に撃墜された。フォート・グレン基地から再び6機のB-26爆撃機が攻撃に向かい、空母「龍驤」と「隼鷹」を雷撃したが、命中しなかった [2, p33]。このようにミッドウェー方面だけでなく、ダッチハーバー方面でもアメリカ軍の反撃は勇敢で激しいものだった。

1140時に空母「龍驤」から零戦6機、艦攻9機がダッチハーバー攻撃のために発進した。1150時には空母「隼鷹」から零戦5機、艦爆11機が発進した [4, p247]。ダッチハーバーのあるウナラスカ島東端の岬の一つであるフィッシャーマンズ岬にある陸軍の気象観測所は、1237時に日本軍の攻撃隊がエッグ島近くでPBYカタリナ飛行艇を撃墜した後、艦爆3機がダッチハーバーに向かったことを報告した [2, p34]。

艦爆隊は1300時頃雲の隙間から急降下爆撃を行い、ダッチハーバー基地の倉庫、格納庫と新造されて満タンだった4基の石油タンクを破壊した [8, p13]。また港に係留されて発電機と宿舎として使われていた古い商船「ノースウェスタン」に爆弾が命中し、火災は近くの倉庫に燃え移ったが、発電機と宿舎の機能は失われなかった [2, p34]。艦爆隊は1340時(現地では夕刻)に零戦隊と合同して空母へ向かった [4, p247]。

一方で、艦攻隊は1320時頃ダッチハーバーの海軍基地を爆撃し、艦攻4機の爆弾の1個は飛行艇格納庫に穴を開け、別な爆弾は高射機銃陣地に命中して2名が死亡した。残りの艦攻5機の爆弾は高射機銃陣地に命中して4名が死亡した [2, p34]。

        

日本軍の空襲によって燃えるダッチハーバーのオイルタンクと船(6月5日)
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この攻撃で地上を銃撃していた零戦1機が被弾して、ダッチハーバー東のアクタン島の平原に不時着しようとした。しかし、湿地の泥に脚を取られてひっくり返って搭乗員は死亡した。後にこの機体はアメリカ軍にほぼ無傷で接収され、零戦の性能が調査されて後の空戦方法に大きな影響を与えることになった。

ダッチハーバー上空で被弾した零戦
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日本の攻撃隊は帰途時に空中で隊形を整えるために、ウナラスカ島南西端上空1000 mを合流地点としていた [11, p114]。この合流地点は、ウムナク島のフォート・グレン航空基地とウムナク海峡をはさんで目と鼻の先にあった。零戦隊はフォート・グレン航空基地を発見してその海岸施設を機銃掃射したが、同基地のP-40戦闘機8機が迎撃してきて上空で交戦し、艦爆2機が撃墜された [8, p13]。アメリカ軍もP-40戦闘機2機を失った [2, p34]。

アメリカ軍は、帰投中に燃料が尽きかけた日本機が味方艦隊をさかんに無線で呼び出しているのを受信したため、多数の日本機が海上に墜落したと推定した [8, p13]。実際に艦爆2機が帰投時に夕闇の霧の中で艦隊を見つけられなくなっていた。通信電波から哨戒中と思われるアメリカ軍の大型爆撃機が艦隊のすぐ近くにいることがわかっており、艦隊は探照灯をつけることが出来なかった。燃料が尽きた艦爆2機は自爆した [11, p124]。

この日ミッドウェーでは第一機動部隊の空母4隻が攻撃を受けたため、第二機動部隊は約1800 km南の第一機動部隊と合同するように命令を受けた。1010時には第一水雷戦隊とキスカ島沖に向かっていた戦艦からなる警戒部隊もミッドウェーの主力部隊に合同するように命じられた[43, p542]。ミッドウェー島付近への到達には約3日かかるので、第二機動部隊は1140時から予定通りダッチハーバー攻撃を実施し、攻撃隊を収容後の1526時から南下を開始した [4, p248]。第二機動部隊の角田司令官は、6日0400時に5日の攻撃の結果を次のように報告した。戦果(1)飛行艇用大型格納庫大破炎上、(2)撃墜、飛行艇3、大型爆撃機1、戦闘機10、(3)撃沈、大型輸送船1隻、(4)重油槽群2か所と軍事施設の炎上。被害(1)「龍驤」戦闘機1自爆、(2)「隼鷹」艦爆4自爆、(3)空母「龍驤」と重巡洋艦「高雄」は大型爆撃機5機の雷爆撃を受けたが被害なし。ウムナク島東北部に相当大型の飛行場あり [4, p248]。

北太平洋軍の司令官テオバルド少将は、コジアクの南東に待機した艦隊にいたため無線封止で指揮が執れず、5日の午後にコジアクに戻ったが主な戦いは既に終わっていた。アメリカ軍は大規模な哨戒態勢と反撃態勢を構築していたが、雲と霧による天候と通信の不調により日本軍の第二機動部隊の位置を正確に追跡することが出来ずに、攻撃の成果を上げることができなかった。

アメリカ軍の最終的な被害は、爆撃で68名が死亡、64名が負傷した。乗員は25名が死亡したか捕虜となった。航空機はB-26爆撃機2機、P-40戦闘機2機、B-17爆撃機1機、LB-30哨戒機1機、PBYカタリナ飛行艇4機が撃墜され2機が損傷した。ダッチハーバーの施設の被害は、せっかく新設した石油タンクが破壊された以外は、大きな被害はなかった [2, p34]。

せっかくはるか東方まで遠征してのダッチハーバー空襲だったが、めぼしい成果はなかった。5月下旬の偵察でアダック島に軍事施設がないことがわかった時点で、アッツ島とキスカ島上陸時に陸上と海上からの大きな反撃がないことは予想できたと思われる。そうであれば、空母2隻とその搭載機80機以上を投入したダッチハーバー攻撃の必要性はなかった。石油タンクの破壊には成功したが、後述するように8月初めには北太平洋艦隊はキスカ島を砲撃しており、艦隊行動に大きな影響があったようには見えない。

日本軍の攻撃を受けて、6月5日にP-38「ライトニング」戦闘機がフォート・グレン航空基地に派遣され、さらにB-24爆撃機6機、A-29ハドソン爆撃機8機、B-17爆撃機4機がアメリカ本土からアラスカに集められた [2, p36]。アメリカ軍のP-38戦闘機は、本来は高高度の迎撃戦闘機として設計されたが、その双発エンジンによる長い航続距離は、アリューシャン列島付近の作戦に適していた。

この陸軍戦闘機は南太平洋の諸島を巡る戦いでも活躍することとなった。それまでの陸軍のP-39、P-40戦闘機は航続距離が比較的短く、そのため海洋上の戦闘には制約が多かった。P-38戦闘機の長い航続距離はそれを軽減した。よく知られているように、ガダルカナル島から長躯、ブイン上空で山本五十六搭乗機を待ち伏せして撃墜したのはP-38である。戦闘機の開発開始から配備まで4~5年はかかる。この戦闘機は航続距離の長いP-47、P-51単発戦闘機が出てくるまでの中継ぎの役割を見事に果たし、「間に合った」戦闘機となった。アメリカ陸軍の戦闘機開発思想と計画が成功した例の一つかもしれない。

P-38戦闘機の初めての戦果は、アリューシャン列島上空で8月4日に哨戒中に遭遇した九七式大艇の撃墜とされている [2, p52]。しかし大量養成されたパイロットはまだ十分な航法訓練を受けていなかった上に、アリューシャン列島には航法支援設備がほとんどなかったため、悪天候による犠牲も多かった。最初に配属された30名のパイロットの内、1年後に残っていた者は半数だけだった [10, p49]。

       

飛行中のP-38戦闘機
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3.5.5    AL作戦(アッツ島とキスカ島の占領)の再興

聯合艦隊司令部は、ミッドウェーで第一機動部隊が攻撃を受けつつある状況を受けて、6月5日1010時にAL作戦を一時延期することを発令した [4, p249]。これに対しミッドウェーの状況を知らない北方部隊司令部は、予定通り作戦を実施したい旨を具申したところ、聯合艦隊司令部は1430時にアッツ島とキスカ島の攻略の実施を許可した。これは山本聯合艦隊司令長官が、ミッドウェー方面の戦闘をまだ有利に進めることが出来ると判断したためである[43, p543]。しかし第一機動部隊の空母が全滅したことが判明した2355時に、聯合艦隊司令部はAL作戦の延期を発令した [4, p250]。この延期というのは実質中止の意味だったであろう。

一方で、山本聯合艦隊長官はミッドウェー方面での不利な戦況にともなって、アメリカ軍が北方方面で反撃に出ることを懸念し始めていた[43, p543]。聯合艦隊司令部はAL作戦再興によって当初の目的通り、敵航空基地の前進阻止を考えた [4, p251]。翌6日1130時に、聯合艦隊参謀長から北方部隊の中澤佑参謀長宛に、北方部隊の戦力を増強した上でAL作戦を継続するかどうかの意見を伺う電報が来た。第五艦隊司令部は、ミッドウェー作戦が不成功となったからには西部アリューシャン列島だけを攻略しても哨戒線の前進には効果がないと考えていた [4, p250]。しかし、北方部隊細萱司令長官は聯合艦隊司令部の意向を受けて、1210時にキスカ島とアッツ島の占領行動の実施を発令した [43, p544]。戦史叢書「北東方面海軍作戦」にも「アリューシャン攻略作戦は聯合艦隊司令長官の決心によって再興された意図が明瞭である。」 [4, p250]と述べられている。

その後海軍軍令部は大本営陸軍部と打ち合わせを行った上で、1630時にAL作戦(アッツ島とキスカ島の攻略)はこの際なるべく決行すべきという追認の命令を発した [4, p251]。ただし、アダック島の攻撃は、同島に重要な軍事施設がないという理由で中止された。アダック島を攻撃しない作戦計画はオプションとして予め立てられていた。

聯合艦隊司令部はアメリカ海軍との航空戦力が逆転したために、AL作戦の継続に不安を持った。しかし、アリューシャン方面は霧になることが多く航空兵力の十分な活動は難しいことが多いので、高速な水上部隊、潜水部隊を投入すれば有利な戦闘を期待できると判断した。また聯合艦隊は、アメリカ機動部隊が出てくれば、アリューシャン方面においてミッドウェーの仇討ちができるかも知れないとも考えた[43, p545]。

聯合艦隊司令部は、南下させていた第二機動部隊を北方部隊に戻すとともに、増援部隊として空母「瑞鳳」、第3戦隊の戦艦「金剛」、「比叡」と第8戦隊の重巡洋艦「利根」、「筑摩」、第四駆逐隊(駆逐艦「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」)、第十三潜水隊(「伊百二十一」、「伊百二十二」、「伊百二十三」)、特設水上機母艦「神川丸」を北方部隊に編入した[43, p545]。北方部隊とその増援部隊はアメリカ艦隊の来襲を予期してアッツ島の南約200 km(51°N, 174°E)へ向かい、6日にキスカ島とアッツ島への上陸を行っている間その海域で待機した [4, p253]。11日に海軍は、通信状況によりアメリカ軍の機動部隊がキスカ島に向けて北上していると判断して注意電を発した[43, p552]。



日本海軍特設水上機母艦「神川丸」、廈門に停泊中
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3-6    アッツ島とキスカ島の占領

3.6.1    アッツ島への上陸

アッツ島攻略部隊は6月7日夜にアッツ島のホルツ湾(北海湾)外に到着し、特設運送船「衣笠丸」に乗船した北海支隊は8日0010時(払暁)に濃霧の中で上陸した [3, p116]。戦史叢書「北東方面陸軍作戦」には「予想しない山岳が重畳し連大隊砲は一門も携行することができず、霧中の方向判定が困難で、且つ地図も不正確なので進路を誤ることがしばしばであった。」と記されている [3, p117]。6月とはいえまだかなり雪が残っており、それを踏みしめながらの進軍となった [12]。急峻な地形での一面の残雪をかきわけて進軍し、0730時にチチャゴフ湾(熱田湾)を占領した。日本軍は最終的に歩兵1個大隊(歩兵第26連隊第1大隊)、工兵1個中隊(工兵第7連隊の1中隊)、海軍通信隊など北海支隊約1143名が上陸した [7, p18]。


       

アッツ島へ上陸した日本軍兵士(6月8日)
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アッツ島にはアメリカ軍兵士は配置されておらず、37名のアリュート人とアメリカ人の無線技士夫妻の2人を保護した [4, p255]。なお、アメリカ側の資料と「キスカ戦記」ではアッツ島に住んでいたアリュート人は42名となっている [2, p37] [7, p412]。無線技士夫妻は自殺を図ったが妻は命を取り留め、捕虜として日本に送られた [7, p413]。彼女は戦争期間を通じて唯一のアメリカ民間人の捕虜となった。日本軍はアリュート人の居住地との境を決めて、彼らとは友好的に暮らしていた [7, p414]。日本軍は8月末にアッツ島を放棄した際に、アリュート人を連れてキスカ島へ移った。最終的にアリュート人はキスカ島から小樽に移住させられた [7, p413]。しかし、慣れない日本の風土で大勢が亡くなり、終戦時に生きていたアリュート人は24名だけだった [2, p37]。

アッツ島上陸の際に、輸送船「衣笠丸」からの物資(食糧3か月分)の揚陸には1週間は必要と見込まれたが、北方部隊は上陸3日後の10日には「衣笠丸」に帰投命令を出した [3, p119]。この理由は書かれていない。アッツ島には6月12日にPBYカタリナ飛行艇が偵察を行っただけで、空襲はなかった。アッツ島へ燃料(石炭)の補給を行っていた油槽船「日産丸」は、10日にキスカ島へ回航して航空燃料等を同島に補給することになった。これによって「日産丸」はキスカ湾で爆撃されることとなる。

3.6.2    キスカ島への上陸

キスカ島攻略部隊を乗せた輸送船「白山丸」と「球磨川丸」は、6月7日2227時にキスカ湾北の白糸湾(レイナルド・コーブ)付近に到着して上陸を開始した。最終的に3個中隊・高射砲隊・見張隊(電波探信員)と主計・医務・通信などの支援部隊からなる海軍第三特別陸戦隊550名と設営隊約750名が上陸した [7, p17]。キスカ湾の北西には5月18日に作られたばかりのアメリカ軍の気象観測所があり、そこに観測員10名がいた。彼らは日本軍の機関銃音で日本軍の接近を知り、1名がこの弾によって負傷した。あわてて暗号書を焼いたが、そこで2名が捕虜となった。残りの8名は逃走したが、負傷した観測員の傷が悪化したため、1名を除いて翌朝に日本軍に投降した [2, p36]。残りの1人も後に投降した。

        

キスカ島に上陸した日本軍(1942年6月中旬)
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両島の占領はミッドウェー海戦の敗北を覆う目的もあって大々的に報道された。アッツ島は「熱田島」、キスカ島は「鳴神島」と改称された。なお、キスカ島には食糧補給の足しにするために北千島の漁師2名も漁労班として送られた。近海は水産物に恵まれており、夏に漁をすれば鱈、ホッケ、カレイ、鮭、ウニなどが大量に捕れただけでなく、雁や鴨なども狩れた。空襲や嵐の合間に漁を行っていたが、漁労班がいつまでいたのかはわかっていない [7, p409]。

キスカ島には特設巡洋艦「粟田丸」によって水上機基地が設置された。8日には零式水上偵察機(零式水偵)が水上機母艦「君川丸」で輸送されて、哨戒飛行が開始された。また9日には東港海軍航空隊支隊の九七式大艇6機と防備のための駆潜艇3隻が到着した。さらに15日には水上機母艦「神川丸」によって水上機が増援された。その結果、キスカ島の小型水上機は零式水偵7機、零式観測機4機、九五式水偵2機となった [4, p269]。一方で、輸送船2隻からの荷揚げはなかなか進まなかった。12日からは次項で述べるようにアメリカ軍による爆撃が始まった。また大型発動艇(大発)を使った揚陸のために海岸に土嚢で作った桟橋は、波浪によって何度も損壊した。また揚陸物資を運ぶために、海岸から内陸への道路も開設しなければならなかった [7, p40]。


        

飛行中の零式水上偵察機
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3.6.3    上陸後のアメリカ軍の対応

アメリカは6月8日にキスカ島からの気象通報が来なくなくなったことに気づいた。9日に哨戒機がキスカ島の湾内の日本軍艦船とアッツ島に建設された幕舎を発見し [2, p37]、両島が日本軍に占領されたことがはっきりした。太平洋艦隊司令長官ニミッツは、空母「サラトガ」から6日にハワイの北で消耗した航空機の補充を受けた第16任務部隊(機動部隊)の空母「エンタープライズ」と「ホーネット」に対して、8日にキスカ島沖の日本軍北方部隊を攻撃するように命令を下した。第16任務部隊はキスカ島沖へ向かったが、ニミッツは東京からのラジオ放送がアッツ島とキスカ島の占領を終えたことを放送していることを知り、日本艦隊の待ち伏せ攻撃に遭うことを危惧して11日に攻撃を中止して艦隊を呼び戻した [2, p37]。日本海軍は5月28日に暗号を変更しており、そのためミッドウェー作戦以降の日本軍の計画が読めなかったことも関係しているかもしれない。

それまでアメリカは、アリューシャン方面に対して副次的な作戦価値しか置いていなかった。しかし、日本軍はさらに東へ侵攻する意図を持っているかもしれなかった。アメリカはアリューシャン方面に対する防衛の準備を整えるとともに、戦争資源の配分の優先度を上げざるを得なくなった。アメリカ軍はさらなる侵攻を食い止めるために、まずは日本軍の戦力を航空機による爆撃と潜水艦による攻撃によって消耗させて弱めるという戦略を採用した。アリューシャン方面の気候や地理などに関する情報はほとんどなかったため、航空偵察が頻繁に行われた。また古い地図が引っ張り出されたが、それらの地図ではほとんど海岸線の形しかわからなかった [10, p73]。

日本軍の上陸を知ったアメリカ海軍は、水上機母艦「ギリス」をアトカ島のナザン湾に派遣した。そこに20機のPBYカタリナ飛行艇を集めて、6月12日から15日までキスカ島の爆撃と銃撃を、ある搭乗員は24時間の間に19.5時間飛んだほど繰り返した [2, p42]。数機のPBYカタリナ飛行艇が修理不能なほど被害を受けたが、キスカ島上空で撃墜されたのは1機だけだった。

水上機母艦「ギリス」(1942年1月)
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-10000/80-G-13141.html

第11航空軍はアメリカ本土にいたB-17爆撃機とB-24爆撃機を急遽フォート・グレン基地に集めて12日からキスカ島の爆撃を開始した。柔らかい湿地の上に鉄板を敷いただけの滑走路は、重い大型爆撃機の離着陸の際にマットレスのように波打った。まず6月12日には、フォート・グレン基地からB-24爆撃機3機が出撃した。キスカ島に到着してみると、湾内の日本の艦船は防護のために高射砲による上空の援護の傘の下に集められていた。日本軍はB-24爆撃機1機トッド大尉機を対空砲火で撃墜し [2, p41]、この時の模様はキスカ島の日本軍の報道班員によってカメラに収められた[アリューシャン方面の戦い 「大日本帝国海軍」]。続いてアトカ島のナザン湾から発進したPBYカタリナ飛行艇5機が爆撃したが、その際に搭乗員3名が対空砲火を受けて死亡した。さらに続けてB-17爆撃機5機が来襲して爆撃を行い [2, p41]、この爆弾の一つがキスカ湾の入り口で対潜警戒していた駆逐艦「響」が右舷前部に命中した。「響」は奇跡的に一人の負傷者も出さず、駆逐艦「暁」によって曳航されてキスカ湾へ戻った [7, p68]。

アリューシャン列島方面を飛行するB-24爆撃機とP-40戦闘機(19437月)
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その後天候が許す限りアメリカ軍による爆撃は続いた。フォート・グレン航空基地からキスカ島まで往復2500 kmあり、アメリカ軍が長距離爆撃を行うにはキスカ島付近の気象情報が不可欠だった。そのため、ほぼ毎朝大型爆撃機を気象観測機としてキスカ島とアッツ島の周囲に派遣して、気象観測の結果を報告させていた [10, p38]。しかし、それより西の気象状況はわからず、変わりやすい天候と困難な予報のため、爆撃機は出撃しても途中で引き返したり、雲から頭を出しているキスカ富士を目印にそこからの経過時間を用いた推測爆撃を行うこととも多かった。日本軍にとっては幸いなことに、6月はアメリカ軍の空襲は天候などの影響で6回しか成功しなかった。7月は15回出撃したが、そのうち7回は天候悪化のため途中で引き返した [10, p39]。

3.6.4    上陸後の日本軍の対応

キスカ島では海岸の燃料集積所が爆撃されて、ガソリンが数日間燃え続けた。キスカ島の日本軍兵士たちは、アメリカ軍航空機の執拗な攻撃に緊張した。兵士たちは爆撃しているのはアメリカ海軍の飛行艇だと思っていため、12日に撃墜した飛行機を調べて、アメリカ陸軍の大型爆撃機だったことに驚いた。彼らは上陸してこれほど早くアメリカ陸軍の大型爆撃機が来襲するとは思っていなかった [7, p64]。この空襲は日本軍にとって全く予想外のことだった。キスカ島に配備された水上偵察機と水上観測機では、大型爆撃機を迎撃することが出来ず、また急いで海岸に敷設された野戦高射砲は数が少ないため、防空能力が不十分だった。そのため、後述するように当初の計画になかった二式水上戦闘機が防空のために投入されることになった。13日には軽巡洋艦「木曽」艦長が、第二機動部隊からキスカ島上空へ迎撃のための戦闘機を派遣してはという意見具申を北方部隊に対して行ったが、第二機動部隊の位置秘匿のため却下された [4, p262]。

九七式大艇は基地整備が終わった6月半ばから哨戒飛行を開始したが、この時期は頻発する霧のために搭乗員は偵察と離着水に苦労した。霧の上端高度は高くなく、島々の山は霧の上に首を出すことが多かったため、操縦者は霧の中での着水の際に、山の形から島の地形を記憶しておき、夜間着水法と同じ手法で霧の中に突っ込んで着水した [13, p204]。しかし、高緯度のためコンパスは大きく変位した。さらに前線が通過すると、出発時に地上気圧でゼロにセットした高度計(気圧計)は大きく狂った [10, p47]。

        

主翼支柱に爆弾を搭載した九七式大型飛行艇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%B8%83%E5%BC%8F%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%89%87#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KawanishiH6K.jpg

13日には「君川丸」の水上偵察機がアトカ島ナザン湾に水上機母艦1隻、飛行艇11機を発見した。日本軍は6月15日にこの水上機母艦を九七式大艇5機で攻撃した [4, p269]。しかし、この攻撃が行われたのは、水上機母艦と飛行艇隊の消耗によってアメリカ軍が14日夜にナザン湾から撤退した後だった [2, p42]。水上機母艦は事前に情報部から警報を受けて湾外に退避したという説もある [3, p124]。

キスカ島の飛行艇は、アメリカ軍の大型爆撃機の爆撃にも曝された。そのため6月21日から22日にかけて東港海軍航空隊支隊の九七式大艇はいったん幌筵へ引き揚げた。水上機部隊も水上観測機を除いていったんアガツ島へと待避した。それらは7月1日に再びキスカ島へ進出したものの、ガダルカナル島近くのツラギに展開していた飛行艇隊である横浜海軍航空隊が8月7日に連合国軍の上陸によって全滅したため、東港海軍航空隊支隊の九七式大艇は8月14日に全機横浜へ引き揚げた [4, p296]。これによって遠距離の哨戒は不可能となり、敵航空基地進出防止という目的の遂行に部分的な支障を生じることになった。なお、残ったキスカ島の水上偵察機部隊は、7月に送られた水上戦闘機を加えて8月5日に第五航空隊になった [4, p297]。

大湊に停泊中の特設水上機母艦「君川丸」
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6月19日にはB-24爆撃機5機とB-17爆撃機3機による爆撃で油槽船「日産丸」がキスカ湾内で撃沈され、キスカ湾に停泊していた艦船と輸送船2隻は残っていた資材を揚陸できないまま6月20日にキスカ湾から撤退した[4, p270]。アメリカ軍の空襲が効果を発揮した形になり、キスカ湾には駆潜艇3隻と大型発動機艇だけが残された。その駆潜艇も7月15日にキスカ湾外でアメリカ軍潜水艦「グラニオン」の攻撃で2隻が沈められた [4, p325]。

6月19日の空襲によって燃えるキスカ湾の日本の輸送船(おそらく「日産丸」とされている)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/80-G-11000/80-G-11686.html

3.6.5    アメリカ機動部隊邀撃作戦

通信情報からアメリカの機動部隊が北上する気配ありとして、6月11日に大本営は聯合艦隊と第五艦隊に警告電を発した [4, p258]。ただし前述したように、この日にアメリカ機動部隊は攻撃を断念して反転した。13日のアトカ島の水上機母艦の発見により、アメリカ軍機動部隊の出現に備えていた第二機動部隊は、その待機水域をアトカ島からの哨戒圏外のアッツ島の南西350 kmに変更した [4, p259]。また同日聯合艦隊司令部は、北方部隊に空母「瑞鶴」と駆逐艦などを増援したために第二機動部隊の空母は4隻となり [4, p260]、同海域で行動している日本軍の艦船は合計で80隻近くに上った。

アメリカ軍は大規模な日本艦隊の存在を察知して、アリューシャン列島全域が日本軍に占領されるのではないかと危機感を募らせた [8, p15]。日本艦隊の動向を探るため、1000トン前後の旧式S級潜水艦を北部太平洋に展開したが、このクラスの潜水艦にとって暗礁の多いアリューシャン列島付近での荒波の中での作戦は厳しかった。6月19日にはアムチトカ島付近で悪天候のためS-27が座礁して遭難した。乗組員は6日間救命ボートで漂流した後、救出された [10, p46]。

13日の「木曽」艦長からの提案に引き続き、今度は北方部隊司令官が空母「瑞鶴」と「瑞鳳」の2隻から艦上戦闘機を6月20日にキスカ島上空へ派遣して、大型爆撃機を迎撃する計画を立てた。しかし、20日の予報が悪天候だったためこの計画を21日に延期した。ところが聯合艦隊司令部は機動部隊の戦力を2分してのこの作戦に反対し、20日に北方部隊に大湊へ回航して次の作戦に備えるように命じた [4, p262]。そのため、結局この作戦は実施されなかった。増援部隊を含む北方部隊の全ての艦船は24日までには大湊などへ戻った。

日本海軍が暗号を変更したため、この時期のアメリカ軍情報機関の情報は錯綜していた。この機関は日本軍による西部アリューシャン列島の占領は、北太平洋全域の征服の始まりかもしれないと思っていた [2, p43]。6月20日にこの機関はレーダーによる情報から、日本軍の4隻の空母と2隻の戦艦を核とする大規模な艦隊がアラスカのノーム(北緯64.5度)に向かってベーリング海を北上していると判断した。陸路のないノームへの防衛のために、6月21日から2週間かけて140機以上の輸送機を用いて兵士と兵器の大規模な空輸作戦が行われた [2, p43]。それによって7月初めには2000名からなる部隊がノームに設立された。また日本軍の侵攻を裏付けるかのように、6月20日には潜水艦「伊二十六」がバンクーバー付近を砲撃し、6月22日には潜水艦「伊二十五」が西海岸にあるオレゴン州のアメリカ軍基地を砲撃した。

(つづく)

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2. 戦争前の状況

2-1    アラスカ方面の軍備

2.1.1    アメリカ軍の北太平洋での命令系統

アメリカ軍の北太平洋、アラスカ方面における命令系統を簡単に整理しておく。基本的には大統領のもとにアメリカ統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff)があり、その下に海軍と太平洋艦隊(US Pacific Fleet: 司令長官チェスター・ニミッツ大将)があり、さらにその下に北太平洋軍(Northern Pacific Force: 司令長官ロバート・テオバルド少将)があった。一方で、陸軍はアメリカ統合参謀本部の下に西部方面防衛軍(Western Defense Command: 司令長官ジョン・デウィット)があり、その下にアラスカ防衛軍(Alaska Defense Command: 司令長官サイモン・バックナー・ジュニア少将)、さらにその下に第11航空軍(US Eleventh Air Force)があった [5, p15]。

2.1.2    アメリカ陸軍の地上部隊

アラスカとアリューシャン列島は、アメリカ合衆国領ではあったがアリュート人が住む広大な辺境域で、内陸にはほとんど交通路がなかった。当時発達し始めた航空路についても、1931年にチャールズ・リンドバーグがアラスカのノームからカムチャッカのペトロパブロフスクへの冒険的な飛行に初めて成功した程度で、確立された航空路や大きな飛行場はなかった [4, p19]。第二次世界大戦直前の日本とアメリカ間の緊張は、この辺境地域に光を当てることとなった。アメリカ陸軍は1940年頃から日本軍によるアラスカ占領と基地設営の脅威を感じて、ジョン・デウィット中将を司令長官とするアメリカ第9軍(IX Corps Area: 後の西部方面防衛軍)の下に、1940年6月にサイモン・バックナー・ジュニア少将を司令長官とするアラスカ防衛軍(Alaska Defense Command)を設立した。アンカレッジに設立されたアラスカ防衛軍は、1941年9月30日までに、歩兵連隊4個、高射砲連隊3.5個、砲兵連隊1個、戦車連隊1個の21,565名に増強された [2, p9]。しかし未開の地アラスカでは、陸軍と海軍ともにまずはインフラ整備のための工兵隊や兵站部隊の割合が必然的に高かった。

ジョン・デウィット中将の写真
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/80/John_Lesene_Dewitt_copy.PNG

2.1.3    アメリカ陸軍航空隊

当時、アメリカ軍の航空機は、空母搭載機と水上機は海軍に属していたが、それ以外は全て陸軍航空隊(Army Air Corps)に属していた(1941年6月に陸軍航空軍(Army Air Force)となる)。アラスカ防衛軍司令長官に任命されたサイモン・バックナー・ジュニア少将は第一次世界大戦時に育成されたパイロット出身であり [2, p8]、航空機の重要性を認識していた。彼は広大なアラスカを防衛するには航空部隊が不可欠であることを認識して、アラスカ防衛軍においてまずは航空部隊開設を優先した。この第一世界大戦の頃のパイロットが司令長官クラスになっていたのは、他の兵科と異なって航空機の特性に基づいた独特な運用を必要とする航空戦にとって大きな利点だったと思われる。

サイモン・バックナー・ジュニア少将の写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Bolivar_Buckner_Jr.#/media/File:General_Simon_B._Buckner,_Jr.jpg

彼が奔走した結果、開戦直前の1941年10月17日にアラスカ防衛軍に航空隊が開設された。これは開戦後の翌年2月5日にアメリカ第11航空軍(US Eleventh Air Force)となり [2, p9]、司令官にはウィリアム・バトラー准将が任命された。もともとアラスカでは日常の移動には航空機を用いており、地元には地理や気象に精通したパイロットがいた。バックナーはアメリカ本土から来たパイロットに、地元出身のパイロットによるアラスカの気象に適応した訓練を受けさせた [2, p19]。これによってアメリカ軍パイロットは、後に日本軍が不可能と考えていた気象状況でも航空攻撃を行えることができるような操縦技術を身につけた。

激しい闘志と抜きん出た実行力を持ったバックナーは、アリューシャン列島の地理と気象を自ら出向いて調査し、そして飛行場適地を見つけた。官僚主義を軽蔑していた彼は、1941年夏にアラスカ半島西側のコールド・ベイに架空の魚加工会社を設立して、缶詰工場という名目で秘密裏に飛行場を建設した。その費用は軍の資金を違法に流用したものだったが陸軍省はそれに気づかなかった。また同省は11月にウムナク島オッター岬にフォート・グレン基地の建設を許可した [2, p9]。彼が秘密裏に基地を建設したのは、日本軍を欺くためだけでなく、陸軍省の目を逃れるためでもあった。これらの基地は後の日本軍のアリューシャン侵攻に対して大きな役割を果たすこととなる。

2.1.4    アメリカ海軍

アメリカ海軍は、アラスカの防備を沿岸警備隊(The US Coast Guard)に任せていた。沿岸警備隊は、旗艦である2000トンの砲艦「チャールストン」を除くと第一次世界大戦時の旧式駆逐艦8隻とSボートと呼ばれる旧式の潜水艦6隻、警備艇5隻などだったが、1940年には水上機母艦「カスコ」「ギリス」「ウィリアムソン」の3隻とカタリナ飛行艇20機を配置した。なお、日本との戦争が切迫した1941年5月には、さらに巡洋艦5隻と、駆逐艦4隻を追加した [2, p19]。また、アリューシャン列島のウナラスカ島にあるダッチハーバーとアンカレジ南方にあるコジアク島のコジアクに泊地の建設を進めた。ダッチハーバーは、アリューシャン列島の中で艦隊や飛行艇の泊地に適した数少ない重要な湾を擁しており、1941年9月までに海軍航空隊の飛行艇基地と潜水艦基地が建設された [4, p36]。日本との開戦後は後述するように北太平洋軍が設立され、その中に沿岸警備隊を元にした北太平洋艦隊が創設された。

 アラスカ周辺の地図

2.1.5    カナダ軍

カナダは1940年8月にアメリカと非公式に防衛合同委員会(Permanent Joint Board on Defense)を設立して、アメリカと共同での太平洋沿岸の防衛計画を策定した [2, p14]。そのため、ここではアメリカ軍とカナダ軍が合同した軍を連合国軍と記している。

2-2    千島とアリューシャンの日本軍の活動

2.2.1    アリューシャン列島

日本ではサンフランシスコやシアトルに滞在した駐在武官が、満州事変でアメリカとの緊張が高まった1932年にアラスカ方面の情報収集に当たった。シアトルでは日系の漁業関係者がアラスカ、アリューシャン方面に出漁するので、彼らに気象などの調査を依頼していた [4, p27]。日本軍はそれとともに日系アメリカ人のスパイを10人程度アラスカに送り込んでいたが、開戦直後に西部方面防衛軍司令長官デウィットの提言によって日系人は施設に強制収容されたため、彼らは開戦後に全く活動できなかった [2, p23]。一方で日本本土から出漁する北洋漁業者にも、アリューシャン方面の気象や海象の調査を依頼していたが、同方面の自然地理的に関する情報は全く不足していた。

2.2.2    千島

当時南千島には島民が常駐して主に漁業を行っていた。中千島は農林省の官吏だけが常駐して、政府は海獣保護と毛皮を取るための養狐事業を経営し、一般船舶の寄島を禁止していた。北千島の幌筵島は長さ100 km、幅28 kmの北千島では最大の島であり、柏原湾などいくつかの湾があって、漁業基地と缶詰工場などがあった。北千島周辺には大規模な漁場があり、夏季は関係者が数多く渡って漁業に従事していたが、冬季は少数の越年者だけが居住していた。

北千島の幌筵島には1934年に海軍航空基地の建設が決定され、1938年頃には完成した。しかし、1940年8月における同基地の状況では2本の1000 m滑走路があったが、200名収容の仮兵舎があるのみで、航空機格納庫もなく不時着場程度の施設だった。夏季はなんとか使用できたが、それでも低気圧の通過により強風が吹けば飛行機の係留は困難な状況だった [4, p30]。そのためか、連合国軍がアッツ島へ上陸するまで飛行場が基地として使われた記録はない。なお、幌筵島の柏原には1940年11月に陸軍の北部軍の北千島要塞司令部が置かれた。

2.2.3    千島とアリューシャンの気象観測

1933年~1934年頃から北方の気象観測の必要性が認められたため、幌筵に気象観測所が作られた。開戦時には北方には40か所程度の気象観測所があった。これらの観測所は、アリューシャン作戦にともなって1942年5月に北海道の厚岸に設立された第五気象隊に編入された [4, p240]。

日本の陸軍参謀本部はアリューシャン作戦が決まった1942年5月1日に、作戦部隊にアリューシャン列島で任務の参考にするために「アリウシャン群島事情」を編纂して発行した。それにはアリューシャン列島の沿革、位置、面積、地形、気象、産業、交通、通信、宿営及食糧、衛生、住民の状況などが記されていた。その中に陸軍気象部の調査による「航空気象要図」がある。それによると、アリューシャン上空の航空路は、6,7月は濃霧、10月~2月は暴風雨多しとなっており、10月から3月までは飛行可能日数は月に9~12日、11月から1月までは月に9日以下と判断されている [3, p103]。

この数字は、いくつかの当該地域の地上気象観測所のき観測結果から推測したものではないかと思われる。天候の変化が早いアリューシャン域の場合、飛行場の気象が良くて飛び立てても目的地に着く頃の気象が好適とは限らない。結果的にアメリカ軍機の活動を見ても、実際に出撃しても途中や目的地の天候が悪くて引き返した、あるいは目視の爆撃が出来なかった記録が出撃数の半数程度ある。そのことから、実際の航空機による作戦可能日数は、「航空気象要図」の飛行可能日数の半分程度だったのではないかと思われる。

(つづく)

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2021/06/17

「アリューシャンでの戦い」を書くに当たって

目次(クリックしてください)

1. はじめに
2. 戦争前の状況
3. アリューシャン作戦(AL作戦)
4. 西部アリューシャンの防衛
5. アリューシャン列島の冬
6. アッツ島沖海戦とその後
7. 連合国軍のアッツ島上陸
8. キスカ島撤収-「ケ」号作戦
9. 連合国軍によるキスカ島上陸
10. 日本軍にとっての総決算
11. いくつかの考察
12. 戦争全体の総括とおわりに
参照文献

世の中には多くの戦記がある。そこには物語があり、それによってわくわくしたり、驚いたり、感動したり、周囲の状況に憤慨したりなどを通して楽しみながら読めるものも多い。しかしながら「戦史」は必ずしもそうではない。そこに書かれているのは冷厳な事実であり、それは必ずしも感動や楽しみをもたらしてくれるものとは限らない。そこには現実の状況とそれに対する選択と決断、およびその結果が書かれているだけである。

人生とは自ら行動するようになって以降は、一瞬一瞬が自らの選択と決断の連続である。その一つ一つによって、自分の人生は大きく変わる。ましてや戦史には自らの命を賭した戦争における人間が考え抜いた上での選択と決断が書かれている。そこには人間個人として、組織として、あるいは民族としての地域や時代に依らない普遍的な原理や性向が含まれているかもしれない。しかし、そこからそれをどう読み取るかは人による。

アリューシャンでの戦いは、日本にとって派手な勝ち戦はなく、喝采してすっきりする部分はほとんどない。多くは寒くて陰鬱で霧でぼんやりした環境での重苦しいエピソードの連続である。しかし、私は目を背けずに直視することが必要な歴史の一つだと思っている。

この著述は「ブログ」というシステム上で発表しているが、日々の出来事の報告や主義・主張の表明などを意図してはいない。これは関連する戦史に対するレビュー(事実の整理と客観的な解説)を目指している。そのため、客観的な記録に基づいている部分には必ず参照元を付している。そして読んでいただければわかるように、大半は客観的な記録に基づいたエピソードの厳密な再構成となっている。なお、ここで使っている参照文献の一つ、U.S. Navyの"The Aleutians Campaign June 1942–August 1943"は、当初は軍内部の機密文書だったものが1993年に軍の機密解除となって印刷されたものである。その冊子としての発行は限定的だったと思われるが、2018年にインターネット上にpdfとして公開されたため、アメリカ海軍の資料の一つとして用いている。

キスカ島近くのセグラ島上空を飛ぶPBYカタリナ飛行艇
https://ww2db.com/image.php?image_id=17307

世の中には様々な著述物があるが、著述物の役割の一つは、事実に関するオリジナルの記録や見方を残すとともに、そこから生み出される新たな見方を記録として残すことも含まれると思っている。この著述がその大きな過程やサイクルの一部となれば幸いと考えている。なお、そのためにアフィリエイト(広告)などもここでは遮断している。

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2021/05/18

1. はじめに

1-1    忘れられた戦争

ここでアリューシャンでの戦いとは、1942年6月の日本軍によるダッチハーバー攻撃と西部アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の占領から始まり、翌年8月の連合国軍によるキスカ島占領までを指す。この一連のアリューシャン方面の戦いは、太平洋中部における日米の主攻線での戦いと比べれば、北方のへんぴな場所での戦いであり注目度は低い。もちろん「ダッチハーバー攻撃」、「アッツ島とキスカ島の占領」、「アッツ島沖海戦」、「アッツ島守備隊の玉砕」、「キスカ島守備隊の撤退」とエピソード毎に語られることは多いが、この戦い全体が通して語られることは必ずしも多くない。しかし、アメリカ側の資料を含めて全体を通して見ることによって、個別ではわからなかったことが見えてくるかもしれない。

アリューシャンでの戦いがそれほど顧みられないことはアメリカでも同様のようで、アリューシャン方面での一連の戦いは「忘れられた戦争(the forgotten war)」とも呼ばれている [1]。「Aleutian 1942-1943」の著者ブライアン・ハーダーは、「アメリカの文化は、目的の明確さ、決断力のある行動、際立つ英雄、そして簡明で具体的な事象に価値を置く」 [2, p91]と述べている。そして、それらに適う事象は中部太平洋や欧州での戦いには豊富にあるが、陰鬱で霧にかすむことが多いアリューシャンでの戦いにはあまりない。これらがアメリカでも忘れ去られやすい原因の一部かもしれない。

アリューシャンでの戦いは、南太平洋でのガダルカナル島の戦いより2か月早く始まり、それが終わるキスカ島からの撤退はガダルカナル島の戦いより約半年遅かった。最後はガダルカナル島と同様に、キスカ島からの撤退という形でこの方面の戦いは終了した。ガダルカナル島での戦いは、連合国軍の突然の上陸から始まった飛行場の争奪戦というめまぐるしいが焦点が絞られた戦いだった。一方でアリューシャンでの戦いは、アッツ島での戦いを除くと焦点となるような攻防は少なかった。連合国軍はアッツ島とキスカ島の日本軍とその補給線を1年以上かけて空と海から攻撃しながら、徐々にアリューシャン列島を西へと前進していった。この時期は日米両軍の戦力差はそれほどなかった。それだけに日米両軍の戦争に対する考え方の違いが結果に明瞭に現れた戦いではなかったかと思う。そして策をじっくり時間をかけて練ることができた戦いであったにもかかわらず、日本軍はアッツ島での玉砕とキスカ島からの撤退を避けることができかった。その理由は何だったのだろうか。

アリューシャン列島は北緯50°付近に位置しており、その気候は日米間の主戦場となった熱帯の中部太平洋とは大きく異なる。アリューシャンでの戦いは敵とだけではなかった。日米両軍の兵士たちは厳しい気候や地形とも戦わなければならず、それによっても両軍は大きな犠牲を出した。上記の各エピソードには気象が何らかの形で影響している。アリューシャンでの戦いは、気象や気候が戦闘に及ぼす影響が大きな貴重な例となった。アリューシャン方面での一連の戦いでのそれらの戦訓は、アメリカ軍にとってその後の第二次世界大戦における作戦に影響を与えた。ここではアリューシャンでの戦い一連の経過について、気象・気候との関連を含めて詳しく見ていくことにしたい。

1-2    アラスカとアリューシャン列島

1.2.1 地理

アリューシャン列島は、デンマーク生まれのロシアの探検家ベーリング(Vitus Bering)が1741年に発見した島々で、アラスカとカムチャッカ半島の間の2000 kmにわたって弧状に連なっている。列島は約120の火山島からなり、その多くは固い岩盤の急峻な山々を持ち、少し高い山は通年で冠雪している。植物は灌木以外はほとんど生えない。平地は少なく、あっても火山泥によって深さ1 m近くぬかるむ湿原で、歩くことさえ容易でない場所が多い [2, p5]。島々の入り江は複雑に入り組んでいる上に岩礁や暗礁も多く、付近の航海には注意を要した。なお、アダック島とキスカ島には港として適した湾がある。

アリューシャンでの戦いの舞台となるキスカ島とアッツ島は、北太平洋とベーリング海との境となっているアリューシャン列島の西部にある。その中でキスカ島は長さ35 km、幅8 kmの火山島で、北端にはキスカ富士(標高1218 m)、島中央部の東側にキスカ湾(鳴神湾)があり、その南西にやや小さなガートルード入江(七夕湾)があった。その付近しか人が住める場所はなく、派遣されていた数名のアメリカ軍気象観測所員以外は無人だった。アッツ島は長さ48km、幅13~24 kmを持つやや大きな島だった。同島の海からそびえ立った断崖は複雑で、1000 m級の雪を頂いた鋸状の尾根に挟まれた峡谷があちらこちらにあった。島の東端にチチャゴフ湾(熱田湾)があってそこに数十名のアリュート人が住んでいた。そこから西に半径10~15 km程度が人が往来できる場所で、戦闘もその範囲で行われた。島のさらなる西側(島の4分3以上)はほとんど人が入ることはなかった。

アッツ島チチャゴフ湾の風景(1937年)。険しい地形の中で現地の人々の建物が見える。https://www.loc.gov/pictures/item/2017872310/

1.2.2 歴史

アリューシャン列島を含むアラスカは、1867年にアメリカがロシアから購入した。当時この購入は、アメリカではそれを企図した国務長官の愚挙と誹られたりした [3, p92]。その後19世紀末からアラスカでゴールドラッシュが起こり人口が増加した。それまでアラスカ地区(District of Alaska)だったアラスカは、1912年に正式にアメリカ合衆国の領土となった。1924年には原住民を含むアラスカに住む人々全てにアメリカの市民権が与えられた。

ロシア領(旧ソビエト連邦領)のコマンドルスキー諸島を除くと、アリューシャン列島のアメリカ領の西端はアッツ島で、同島はアメリカ軍の根拠地だったダッチハーバーからは約1300 km、日本軍の根拠地だった千島の最北端の幌筵(ほろむしろ、英語名ではパラムシル)からは約1200 km離れている。1922年のワシントン条約によってアリューシャン列島と千島は現状維持とされたため、日米ともに軍事施設を置けなかった [3, p11]。ワシントン条約は1937年に効力を失ったが、その後も日米ともヨーロッパで第二次世界大戦が始まるまで、アリューシャン方面はほとんど無防備だった [2, p6]。それは日本領だった北千島も概ね同様だった。

1.2.3 気候

アリューシャン列島は日本から見るとはるか北にあるが、キスカ島やアッツ島のある北緯53度付近は、アメリカ大陸でいうとカナダのエドモントン付近の緯度で、ヨーロッパでいうとイギリスのグラスゴー付近とそう変わらない。大西洋では暖流であるメキシコ湾流は直接高緯度まで流れ込むため、ヨーロッパ西岸は高緯度でも比較的温暖である。しかし太平洋の暖流である黒潮は東北沖で地形や親潮の影響で東に向きを変えるため、アリューシャン列島はヨーロッパ西岸の同緯度ほど暖かくない。向きを変えた黒潮は少しずつ北に広がっていき、アリューシャン列島付近でベーリング海の寒冷な海水とぶつかる。そのため、そこの大気は霧や曇りなどの不安定な気象を起こすことが多い。なお、冬季は寒冷になるものの付近の海が凍ることはない。

アッツ島の月平均気温。戦前の資料による [4, p23]。

アリューシャン列島は、夏季を除いてストームトラックと呼ばれる北日本を通って発達しながら北東に進む低気圧の通り道になる。その発達した低気圧はアリューシャン列島付近でしばしば停滞する。そうなると日本では西高東低の冬型の気圧配置が続くが、アリューシャン列島では低い雲が垂れ込めてブリザードなどの暴風雪が続くこととなる。日本では冬季にこの冬型の気圧配置になることが多いことからも、この季節にアリューシャン列島付近で暴風雪の頻度が少なくないことがわかる。しかも地形によっては、急峻な山からウィリワウ(williwaws)と呼ばれる局地的な強風が突然吹き下ろすこともある。

また夏季は比較的穏やかな気候であるものの、太平洋からと北極域からの海流や気団のぶつかりによってこの付近では霧が多発することが知られている。戦前の資料によるとその平均頻度は、5月が18%、6月が26%、7月が57%、8月が38%、9月が19%となっている。また霧には高気圧性と低気圧性の2種類がある。高気圧性の霧は太平洋高気圧の北西縁辺に発生して持続することが多く、低気圧性の霧は低気圧の接近に伴って発生し、その通過とともに消散するとなっている [4, p25]。秋から冬と春にかけては曇天や暴風雪とそれに伴う強風と高波の継続、夏は霧の多発がアリューシャン列島が持つ独特な気象である。

1.2.4 戦場としての環境

地図だけ眺めると、北米から日本まで(あるいは日本から北米まで)は、アリューシャン列島を通るルートが大圏コースとして最短となる。それに加えて1600 kmにわたって多数の島が連なっているアリューシャン列島は、一見すると順次侵攻していくための理想的な条件を備えているように見える。しかも、西部アリューシャン列島は、航空機の発達による航続距離の急速な延伸により、開戦時にアメリカ領土から日本領土(北千島)を直接爆撃できる唯一の場所だった。

しかしながら、アリューシャン列島付近の冬季を中心とする寒さ、頻度の高い強風とそれによる激しい風浪、霧や雲による頻繁な視程の低下などの気候、およびアリューシャン列島の多くの島での雪を頂く急峻な山々と複雑な海岸線、ほとんど木がないゴツゴツとした固い岩や深い湿地に覆われたわずかな平地という地理は、他の戦場とは環境が大きく異なっている。アリューシャン列島の少ない湾と暗礁の多い海岸は、大規模な艦船の停泊地、補給基地として不向きだった。強風による高波や霧の多発、冬季の着氷、複雑な海岸線と多くの岩礁は、艦船の航行を困難にした。航空機にとっては、この地域の天候の急変、離着陸時の強風、霧や雲による視程低下の多発、翼への着氷などは安全に対する脅威となった。そして将兵にとっては、低温と強風や雪の頻発、歩くことが困難な泥湿地、寒冷で晴れの少ない陰鬱な気候、見通しのきかない霧の多発は、そこにいるだけで過酷な環境だった。また霧の多発による湿り気は、通信機器などの電子機器の動作を不安定させることも多かった。

人間である兵士と航空機、艦船を始めとする精密機械による近代戦闘兵器の使い勝手を考慮すると、アリューシャン列島はおよそ軍事には向かない自然といえた。しかも、両軍とも戦争の前にはアリューシャン列島のそういった自然・気象にほとんど関心を持っていなかった。


1-3 アリューシャンでの戦いあらまし

近年の若い人たちは、過去に日米が戦ったことを知らない人もいると聞く。さすがにここを読んでいる方々にはそういう方は少ないと思う。しかし、アリューシャンでの長い戦いを通して読むのは骨が折れるので、ここにあらましだけ述べておく。これを頭の中に入れておくと、2章以降がわかりやすいかもしれない。タイトルは本文と対応している。

戦争前の状況

日本は真珠湾攻撃によって連合国と開戦したが、東北・北海道地方の東方海上には島一つない広大な太平洋が広がっていた。そこからアメリカ艦隊の急襲を受ける可能性があり、日本北方海上の防衛を担当していた第五艦隊はその防備の困難性を感じていた。第五艦隊はアメリカ領である西部アリューシャン列島を利用した哨戒線の前進を大本営に要望した。大本営も1942年3月の南鳥島空襲によってその危険性を理解した。

大本営は、ミッドウェー島と西部アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を利用した哨戒線を構築することを計画した。また作戦の目的として連合国軍のアリューシャン列島を経由した日本侵攻の防止も考慮された。そのため、大本営は折から計画していたミッドウェー作戦と並行して、西部アリューシャン列島の攻略(AL作戦)を計画した。

しかし、AL作戦への参加の申し出を受けた陸軍はこれを断った。ところが、4月のドゥーリトル日本空襲によって陸軍も哨戒線前進の必要性を感じ、一転してアリューシャン攻略への参加を承諾した。その結果、キスカ島を海軍陸戦隊が、アッツ島を陸軍の北海支隊が上陸・占領することになった。

アッツ島、キスカ島の占領の際にはアメリカ軍による抵抗が考えられた。それはアッツ島、キスカ島のアメリカ軍部隊をアダック島のアメリカ軍基地が支援し、それをダッチハーバーにある根拠地が支援するというものだった。そのため両島の占領に当たって、ミッドウェー作戦と並行して空母2隻から成る日本軍機動部隊がアダック島とダッチハーバーを空襲する計画が立てられた。

5月下旬に行った海軍の潜水艦とその搭載水上飛行機による偵察の結果、アッツ島、キスカ島にはアメリカ軍はおらず、アダック島にも軍事施設がないことがわかった。しかし、ダッチハーバー空襲計画はそのまま進められ、その攻撃日はミッドウェー島攻撃の1日前に設定された。

アリューシャン作戦(AL作戦)

1942年6月4日に空母「隼鷹」と「龍驤」からなる第2機動部隊はダッチハーバーを空襲した。しかし、この地方特有の雲と霧の多い天候によって、実際に攻撃を行えたのは一部の攻撃隊だけだった。そのため第2機動部隊はアダック島攻撃の計画を変更して、翌日5日に再びダッチハーバーを空襲した。

第2機動部隊はアメリカ軍のB-17、B-26による果敢な攻撃を数度にわたって受けたが、幸いに被害はなかった。しかし、数機の九九式艦上爆撃機がダッチハーバー西方に秘密裏に新設された航空基地から発進した戦闘機の迎撃を受けて撃墜された。さらに暗闇と霧によって機位を失した2機が母艦に戻れずに自爆した。この新航空基地発見は聯合艦隊司令部へ報告された。

また、5日のダッチハーバー攻撃時に零式戦闘機が1機地上砲火で被弾し、アクタン島の湿地に不時着した。搭乗員は死亡し、飛行機は後にアメリカ軍に接収されて性能試験が行われた。

一方で、5日のミッドウェー作戦の失敗により、AL作戦(上陸作戦)もいったん中止された。しかし、ミッドウェー島を用いた哨戒線の前進が不可能になったにもかかわらずAL作戦は再開された。6月8日からのキスカ島とアッツ島の上陸は順調に進められた。

キスカ島では10名のアメリカ軍気象観測員が捕虜となった。アッツ島ではアメリカ民間人夫婦が捕虜となった。両名は自殺したが妻は生き残って大戦間の唯一の民間人捕虜となった。現地のアリュート族約40名は、一時期日本軍と友好的に共存して暮らしていたが、彼らは日本軍が8月にアッツ島を一時撤収した際に、キスカ島経由で日本に連行された。

西部アリューシャンの防衛

アメリカ軍は6月12日から主に長距離大型爆撃機B-24とB-17を用いたキスカ島への空襲を開始した。これはアリューシャン東部に新航空基地を建設していたからこそ可能だった。一方で、ダッチハーバーを攻撃するまでそれを知らなかった日本軍にとっては、想定外の反撃だった。

湾内で荷揚げ中の輸送船が被害を受けて、日本軍は防衛の強化に迫られた。大本営は二式水上戦闘機、甲標的(特殊潜航艇)、追加の大砲の輸送を行った。その際に湾外で駆逐艦3隻が潜水艦から雷撃されて沈没・大破したが輸送は成功した。

空からの爆撃では効果が少ないと考えたアメリカ海軍はキスカ島への艦砲射撃を計画した。しかし、その実行は霧のために延びて8月8日となった。この日はアメリカ軍の南太平洋ガダルカナル島上陸の翌日であったが、それと連動したものではなかった。日本軍の被害は少なかったが、日本軍にとって心理的影響は大きかった。

これによってアメリカ軍のキスカ島侵攻を危惧した大本営は、8月末にアッツ島の陸軍部隊を撤収してキスカ島に移動させ、防備を集中する配置を行った。アッツ島へ陸揚げされていた資材の多くは、万一敵が上陸した際に利用されないように焼却された。この配置変更は後のアッツ島玉砕の伏線となった。

一方で、アメリカ軍は8月末にキスカ島から400 km東のアダック島に上陸し、わずか2週間で滑走路を完成させた。そして9月15日から護衛戦闘機を随伴させた戦爆連合による大規模空襲を開始した。これによってキスカ島の防空はより困難になり、物資の輸送には駆逐艦が用いられることが多くなった。

この状況を受けて、第五艦隊では冬季の間に撤退も検討していた。しかし、大本営では西部アリューシャンの確保を継続し、10月にアッツ島の再占領と3月を目処としたアッツ島とキスカ島の滑走路の建設、アッツ島東のセミチ島(セミア島)の占領を計画した。10月末から11月にかけてアッツ島再占領はなんとか無事に行えたものの、11月に発令されたセミチ島占領作戦は、アッツ島での輸送船被害を受けて途中で中止された。南太平洋でのガダルカナル島攻防も日本軍の敗色が濃くなりつつあった。

アリューシャン列島の冬

冬季に入ると、荒天とその合間の空襲で輸送はいよいよ困難になってきた。しかも1943年1月になるとアメリカ軍はキスカ島からわずか130 km東のアムチトカ島に上陸して飛行場を建設し始めた。キスカ島の水上機数機が数度のアムチトカ島爆撃を行ったが、この程度では工事にほとんど影響がなかった。

2月18日にアムチトカ島の飛行場は完成し、天候が良くなる春にはアメリカ軍による激しい空襲が予想された。これは天候さえ良ければキスカ島上空がアメリカ軍機によって常時制圧されることを意味した。ちょうどガダルカナル島からの撤退が行われた頃だった。

危機感を募らせた大本営は飛行場建設と防衛のための輸送を強化するため、2月に「ア」号作戦と称して船舶による6回の輸送を行うことを決定した。ところが、2月19日にアメリカ艦隊が今度はアッツ島への艦砲射撃を行った。さらにその際に、「ア」号作戦の輸送を行っていた輸送船がアメリカ艦隊によって途中で撃沈された。このため「ア」号作戦で計画されていた5回の輸送が中止された。これがアッツ島防衛に大きな影響を与えた。3月3日には南太平洋でもビスマルク海海戦で日本軍の輸送船8隻と駆逐艦4隻が沈没し、ニューギニアへの輸送が阻止された。

アッツ島沖海戦とその後

第五艦隊はアメリカ艦隊の妨害を排除して輸送を強行するため、3月に巡洋艦と駆逐艦からなる強力な護衛を付けた「集団輸送」を計画した。この第1回目の輸送は3月初めに無事に成功した。第2回目の輸送の途中の3月27日、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻からなる日本艦隊は、アッツ島南西で重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻からなるアメリカ艦隊と遭遇した。

最初西へ、その後南へ高速で逃げるアメリカ艦隊を日本艦隊が4時間にわたって追いかける「アッツ島沖海戦」が起こった。戦力ではアメリカ艦隊より優っていた日本艦隊だったが、決定的な打撃をアメリカ艦隊に与えることが出来なかった。有利な態勢だったにもかかわらず、情報が錯綜していた日本艦隊は転舵して戦場から去り、輸送も中止された。

この後、キスカ島とアッツ島への輸送は潜水艦によるものだけとなった。キスカ島の飛行場の完成は5月になると見込まれた。

5月頃からアリューシャン列島は霧の季節となる。大本営では4月頃からこの霧を利用した「霧輸送」と称した輸送によって、霧の期間に半年から1年分の物資をまとめて輸送する計画を立てた。大本営は、前年秋に翌春の連合国軍による侵攻を予見したにもかかわらず、「霧輸送」の検討の際に、この時期に連合国軍が西部アリューシャンへ侵攻してきた場合の対応を全く検討しなかった。

連合国軍のアッツ島上陸

霧のために予定より遅れたものの、連合国軍は5月12日にキスカ島より日本に近いアッツ島へ霧の中を11000名を突如上陸させ、これを聞いた大本営はあわてた。アッツ島守備隊では独自の判断で上陸を警戒していたが、上陸は警戒態勢を解いた直後のことだった。連合国軍の霧の中での上陸を可能にしたのは、極超短波を用いたSGレーダーのおかげだった。

不意を突かれた大本営は対応に手間取った。2500名のアッツ島守備隊は補給途絶により物資不足だった上に、再上陸後防衛のための築城を後回しにして飛行場を建設していたこともあって、防備態勢は完成していなかった。

アッツ島守備隊は頑強に抵抗したが、霧が晴れると上陸部隊からの指示に基づいた戦艦による艦砲射撃と航空機によるピンポイント攻撃によって防衛拠点は次々に破壊され、徐々に不利に陥った。

アッツ島守備隊は、5月18日に建設中の飛行場予定地を明け渡してチチャゴフ湾奥の根拠地へと撤退した。反撃を計画していた大本営は、アッツ島守備隊が建設中の飛行場を明け渡したことで、5月20日にアッツ島救援を諦めるとともにキスカ島からの撤退も決めた。アメリカ軍が上陸してわずか1週間ほどのことだった。なお、日本軍の粗雑な建設能力を知っていたアメリカ軍は、日本軍が建設中の飛行場を使わずに後日別な場所に新たに飛行場を建設した。

北方軍は5月20日に訣別の電報をアッツ島守備隊へ送った。アッツ島守備隊はその後も頑強な抵抗を続けていたが、防御陣地が破壊された上に食糧が尽きていた。アッツ島守備隊は29日夜から30日の夜半にかけて最後の突撃を何度も繰り返して行った。一部は連合国軍の前線を突破したものの連合国軍は予備隊を含めた反撃を行い、アッツ島守備隊は全滅した。その際には自決した兵士も多かったと考えられている。アッツ島守備隊の全滅は日本国内では初めて「玉砕」と報道され、太平洋戦争における最初の玉砕となった。

キスカ島撤収-「ケ」号作戦

アッツ島玉砕後、キスカ島はアッツ島とアムチトカ島の連合国軍から東西から封鎖された形になった。そのため潜水艦を使った守備隊の撤収(第一次撤収)が5月29日から始まった。キスカ島には5600名の守備隊がいたが、潜水艦では1回で60~80名の収容しか出来ず、潜水艦を用いた撤収には9月までかかると見られた。

それでも潜水艦を用いた撤収作戦は当初は順調に進捗し、6月18日までに約870名の撤収に成功した。ところがアッツ島攻略が一段落した6月中旬から、連合国軍のキスカ島封鎖は強化された。当時の潜水艦は海中に潜ると長距離の移動は行えず、移動はもっぱら水上航行に依存していた。海上航行中の潜水艦は、霧の中で連合国軍の駆逐艦から相次いでレーダー射撃を受けて数隻が沈没した。これによってキスカ撤収作戦はいったん中止された。

連合艦隊は艦船を用いた一挙撤収を企図した第二次撤収を決定した。しかしこれは賭けだった。日本艦隊は霧が出ると航空攻撃は避けることができるが、レーダー性能が劣っているため、封鎖しているアメリカ軍の艦船から不意にレーダー射撃を受ける可能性が高かった。しかも、もし霧が晴れると航空攻撃からも逃れる術はなかった。撤収の際の敵攻撃圏内の滞在時間を最小にするために、輸送船ではなく、水雷戦隊の軽巡洋艦と駆逐艦を用いた撤収艦隊が組織された。

キスカ島付近の霧の出現を予測した撤収艦隊は7月7日に北千島の幌筵を出港した。艦隊はアメリカ軍の攻撃圏外に待機してキスカ島付近が霧になりそうな日を待った。いったんキスカ島へ突入しかけたが、安定した霧は現れず燃料もなくなってきたために、水雷戦隊指令官木村昌福少将は帰投を指示した。

この帰投はやむを得ないものだったが、大本営と第五艦隊は水雷戦隊の判断に疑念を抱いた。次回の撤収作戦には第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で途中まで随行することになった。2回目の第二次撤収は7月22日から行われた。今度は途中の霧が深かったため、部隊の一部が霧の中で行方不明になったり艦船が衝突したりした。

今回は霧の日が多かったにもかかわらず、同行していた第五艦隊司令長官は、最後の突入の判断に逡巡した。周囲の押しもあって7月28日に突入の命令は下され、7月29日にキスカ島での撤収が行われた。

キスカ島を封鎖していた戦艦を含む強力なアメリカ艦隊は、27日の夜に謎のレーダー反応によって、キスカ島の南で幻の相手に砲撃を行い、たまたま29日にキスカ島から離れた洋上で補給を行っていた。29日はキスカ島は霧が深かっただけでなく、日本艦隊にとって幸運にもアメリカ艦隊はキスカ島付近から一時的に離れていた。

キスカ島に突入した艦隊はわずか1時間足らずで、全将兵を収容して幌筵へ向かった。途中で霧の中でアメリカ軍の浮上潜水艦に遭遇したが、潜水艦は味方艦隊と誤認したようだった。艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして残りの5186名も無事にキスカ島からの撤収に奇跡的に成功した。

連合国軍によるキスカ島上陸

アメリカ軍は入念な砲撃と爆撃の後に、8月16日に約35000名がキスカ島へ霧の中を上陸した。引き続き頑強な日本軍が守っていると信じていた彼らは霧の中での同士討ちや日本軍が仕掛けた地雷などで二百数十名の死傷者を出した。連合国軍は最終的に8月23日にキスカ島の確保宣言を出した。連合国軍はアッツ島に航空基地を建設し、何度か北千島に小規模な爆撃を行ったものの、ここを根拠地にして北日本へ侵攻することはなかった。

以上がアリューシャンでの戦いのあらましである。

(つづく)

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