2021/07/01

12. 戦争全体の総括とおわりに

アリューシャンでの戦いは、太平洋の戦いにおいて初期から中期にかけて1年2か月にわたって細く長く戦われた。 日本軍が太平洋での戦闘をどのように考えていたか、そしてそれがどのように変わっていったのかを示す良い例だと思っている。そしてアリューシャンでの戦いを通して、アメリカ軍と日本軍の対応を対比させてきたが、その結果、日本軍は占領しても飛行場を作らないなど、そもそも航空戦に対する日本軍の戦争観が他国と異なっていたことがわかる。そして、日本軍の航空戦に対する戦争観は、欧米に比べて質・量ともに一時代昔のものだったのではないかと思っている。

第一次世界大戦後、日本の航空機開発技術は全く遅れていた。世界水準の航空機を自主的に開発製造出来るようになったのは、1935年頃からである[36, p35]。その後急速に技術が向上し、確かに1000馬力級では日本はいくつかの優秀な航空機(機種)を開発して、数百機程度の運用を行うことはできた。しかし、結果的にそれが限界だった。次世代航空機(2000馬力級)の開発は欧米より遅れ、一部の活躍はあったものの、2000馬力級の航空機数千機を用いた航空戦力の持続可能な安定した運用は、実質うまくいかなかったと言えると思う。

その原因は、個々の航空機が持つ性能(速度や航続距離、操縦安定性など)にのみ焦点が当たり、航空戦力を発揮させるための航空機の生産量や運用基盤の体系的整備体制(搭乗員への配慮、予備部品の補充、機体輸送、エンジンと機体整備、航法・通信システムなど)、航空部隊を有機的に結合させる手段などへの理解が足りなかったというのが私の感想である。航空機性能の一時的な優越と偏った戦争観が、米英と戦えると判断した一因とすれば、それは日本軍首脳部の奢りと航空戦力に対する狭い見方だったためとしか思えない。

航空機の生産量という概念が欧米に及ばなかった原因について

この原因は第一次世界大戦にあると思う。近年、第一次世界大戦と第二次世界大戦を一つの戦争として考え始められている。それまでの戦争は、銃砲弾などの消耗品を除いて、戦争開始以前に持っていた軍備を使い、それで大方の勝負がついた戦争だった。しかし、第一次世界大戦では、それ以前には全く使われたことのない新兵器を戦争中に大量に生産して戦場で使うことが行われた。典型的なものは航空機や戦車である。

航空機を見た場合、第一次世界大戦開始時は兵器としての威力はまったく不明だったが、戦争終了時にはその戦力の重要性ははっきり確立していた。それは、第一次世界大戦中にフランスが67000機、イギリスが49000機、遅れて参戦したアメリカが13500機の航空機を製造していたことでもわかる[46,p32]。これはそのための生産設備を整備し、運用体系を確立していたということである。

当然次の戦争が起これば、それに匹敵する機数が必要になることは容易に想像できる。そして、欧州で次の戦争の兆候が見られた段階で、各国、特にアメリカは戦争に備えた大量の航空機の生産計画を作成した。しかも日本以外の国々は、手直しは必要だとしても、第一次世界大戦を通して、ある程度はその開発・生産基盤をすでに持っていた。

ところが、第一次世界大戦で本格的に戦っていない日本は(駆逐艦の地中海派遣と青島攻撃のみ)、第一次世界大戦ではわずかな既存の航空機を青島攻撃で試験的に使ってみただけで終わっている。戦後、それから航空機をどう戦力として見なすかという議論が始まったが、その議論は航空機単体の性能と運用に終始した感がある。そして平時でもあり、航空機の製造はマスプロダクトではなくオーダーメイドであり、そういう生産基盤しか持っていなかった。

生産設備の拡充

陸軍が1935年に派遣した伊藤航空視察団、翌年の菅原航空視察団、1940年の山下独伊軍事視察団など、いくつかの訪欧視察団の報告によって徐々に航空戦力としてはその国産化と量の整備が必要であることの認識が始まった。海軍でも昭和十二年度海軍補充計画(③計画)、昭和十四年度海軍軍備充実計画(④計画)、昭和十七年度艦船建造補充、航空兵力増勢計画(⑤計画案)が制定され、不十分ながら結果としてその拡大が段階的に図られた。

しかし、生産設備の拡充には時間がかかる。もともと資源が乏しい上に手工業中心で生産基盤が薄いため、その生産拡充は後手後手に回った。つまり、生産拡充計画を立てても、その達成には5年なりの時間がかかる。しかし実際には数年たつと、計画は実態に見合わないものとなり、計画が達成されていないにもかかわらず、すぐに生産計画の見直しが始まった。その繰り返しが終戦まで延々と続いた。それが段階的という意味である。生産現場は、生産しながら生産設備の改修を図ることになり、それに相当振り回されたのではないかと思われる。

数値として見える航空機製造量というのは、氷山の水面上に見えているわずかな部分なようなものでしかなく、その生産量を支えるには水面下に膨大な生産基盤の整備が必要である。結局、資材の不足(原料不足や精錬施設の限界のため、既存の資材の陸海軍の取り合い、性能の劣る代替資材の利用)、製造設備の不足(一部の機械は輸入に頼っていたため、戦争が始まると自主開発に迫られた)、生産方法の見直し(1940年頃から熟練作業員の広範な工程にわたる手作業から一般工員ごとの工程の単一化による効率化)、生産設備の空襲による破壊や疎開作業などによって、計画した航空機の生産量に見合う生産基盤は最後まで整わなかった。

軍首脳や航空司令官に航空戦の経験者がいなかった

航空機の生産量や運用基盤の整備、有機的な運用が欧米に及ばなかったもう一つの原因は、航空機の運用(航空戦)を真に経験した軍首脳や航空司令官がほとんどいなかったことである。アメリカ海軍は航空隊の司令官を任命するに当たり、航空機の操縦経験を重視していた。これはアメリカ海軍初代航空局長だったウィリアム・モフェットが、1920年代に海軍航空部隊の指揮官と空母の艦長は、航空分野出身の士官のみから選出するという決定を行ったためである。また、それなりに航空経験者の蓄積もあった。

これによって、航空戦に理解のある指揮官を登用できただけでなく、海軍の有能な人材を航空分野にひきつけることができた。これによって、海軍航空局は海軍内部で影響力のある航空分野の上級将校の厚い層を生み出すことに成功した(塚本勝也、戦間期における海軍航空戦力の発展、戦史研究年報 第7, 防衛庁防衛研究所、2004p36)。

そのため、例えばアメリカ合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キングは、空母レキシントン艦長になるにあたり、48歳で航空機操縦免許を取得している。また、ウィリアム・ハルゼーは機動部隊を指揮するために52歳で航空機の操縦免許を取っている。太平洋の各地で上陸戦を指揮した海軍のリッチモンド・ターナーは、かつてはパイロットであり、また航空隊を指揮した経験もあった。

また、アメリカ海軍パイロットの第一号であったヘンリー・タワーズは、1942年10月太平洋航空部隊司令部司令官になると、第一線で活躍するには歳を取り過ぎているがパイロットの資格を持つ、数多くの予備役をその育成にあたせるという体系的なパイロット速成プログラムを作成した。これが大量のパイロットの育成を可能にした。

またアメリカ陸軍でもアラスカ防衛軍司令官だったバックナーを見てもわかるように、一部の司令官は第一次世界大戦で実際に航空機を操縦した経験があった。それが例えばアラスカでの迅速な航空戦力の整備の重視に貢献した。航空隊の司令官ではないが、連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワーは、350時間の操縦経験を持っていた。これは欧州で数々の地空海統合作戦を指揮するに当たり、大きな役割を果たした。例えばノルマンディー上陸作戦計画時、総司令官であるアイゼンハワーはイギリスにいる英米の戦略空軍の指揮権を持っていなかった。しかしその重要性を認識していた彼は強行に主張してその指揮権を手に入れている。その結果、それによってフランスにいるドイツ軍の防衛基盤の空からの破壊に成功した。

一方で当時の海軍の日本の司令官クラスを見ると、操縦経験を持っていた海軍高官は大西瀧次郎くらいだろう。他に山本五十六、塚原二四三、井上成美、草鹿龍之介、山口多聞は操縦経験はないが偵察員もしくは航空隊を指揮した経験を持つわずかな高官の一人だった。しかし、第一次世界大戦時とその後の航空機の量がわずかだった日本では、操縦経験者たちが海軍将官まではまとまって育っておらず、一部の航空経験者は個人的な対応に留まり、効果的な航空作戦を企図できる派閥や組織までのまとまった層にはなっていなかったと思われる。

日本海軍でも、航空戦力の拡充にともない、航空出身の高級幹部として早くから航空以外の分野から人材を選抜して、空母艦長や航空隊司令などに配属している(塚本勝也、戦間期における海軍航空戦力の発展、戦史研究年報 第7号, 防衛庁防衛研究所、2004、p42)。しかし、後述するような航空戦に対する肌感覚を身につけた高級幹部が少なかったことは、複雑で繊細な航空戦を戦うに当たって致命的になったと思われる。これは個人の問題と言うより組織の問題である。

では、なぜ操縦経験が重要なのだろうか?それはそれまでの兵器とは全く異なる航空機という特殊な兵器の運用への理解にある。航空機は攻撃に使えば強力であるが、その戦力を発揮する前に多くの弱点を抱える。それはそれまでの 戦力や兵器である歩兵・砲兵や大砲・軍艦などの運用とは全く異なる。それらの経験からは航空機(航空戦)の運用の複雑さを理解できない。しかも空母を使った航空戦力の使用は、ミッドウェー海戦を見ればわかるように、全く新しい極めて独特でかつ複雑なノウハウが必要となる。

陸上機の最前線の航空機の機体の運用だけ見ても、航空機の稼働率は高くなく(つまり使える機数は実数よりかなり少ない)、エンジンと絶えざる整備、弾薬燃料の補給、機体の修理・補充など、その運用にはさまざまな手間がかかる。しかも被害も多く、そうでなくてもエンジンや機体の寿命は短い。そのために定期的に前線への航空機や予備部品の補充(もちろん生産も)が必要となる。また航空機だけでなく、(設営能力を別としても)飛行場の維持管理や補修、敵の攻撃を防ぐ防空体制、通信施設の維持整備、気象状況の把握設備、搭乗員の健康管理などの関連基盤も必要となる。これらは総合的かつ体系的に運用されないと、どこか一つでも隘路があるとそれがボトルネックとなって全体に影響する。

操縦員を見ても、その技量の維持には定期的な訓練が欠かせない。一方で疲れも大きな敵となる。一定程度飛行を重ねると食欲の減退、判断力の低下、気力の低下を招く。これは航空病と呼ばれることもある。その対応に欧米では搭乗員への実線・休養・訓練のサイクルを確立するなどして配慮が行われていた。アメリカ軍では、空中勤務者には、300時間の戦闘飛行後、本国帰遠休暇の権利が与えられた。また、その中間で、オーストラリアヘの短期休暇が活用されていた [46,p275]。

日本では、戦前から航空疲労等の実体解明に努めていたが、「その原因・病理・治療法・予防法等について成案を得ないまま、大東亜戦争に突入した。」[46,p459]。戦時中の日本軍では航空機の特殊な環境はほとんど理解されず、操縦員を一般兵士と同様に酷使した。戦史叢書には、「慢性航空疲労のため無気力に陥った者を、卑怯者や精神病者と同一視する風潮も一般には存在した。」[46,p274]と書かれている。航空部隊が補充部品の不足や悪天候のため出撃できない状況を見て、航空兵科以外出身の指揮官が「空中勤務者は精神力が劣っているから再教育をすべきだ」との意見書を出した例もあった(由良 富士雄、 太平洋戦争における航空運用の実相, 戦史研究年報 第15号、2012、p86)。

その結果、搭乗員が病気のまま出撃したり、「死ななければ帰れない」というような悲観的な空気が流れた。坂井三郎氏の「大空のサムライ」にも、訓練している搭乗員に支給されていた特別栄養食を支給停止にした主計長を2座のゼロ戦の後部座席に乗せて、実戦同様の飛行を行って、操縦が如何に過酷であるかということを納得させたという話が記載されている。

航空戦の諸問題を理解しない司令官が、陸戦・海戦と同様な無理な要求を出して、補給・補充の悪い状態で第一線で操縦員を酷使した結果、熟練した搭乗員でも判断力の低下や体力の低下などで撃墜されあるいは墜落した者も数多くいたと思われる。例えば、ガダルカナル島での航空戦では、ラバウルからの無理な遠距離飛行も含めて、笹井醇一などの零戦の数多くのベテラン搭乗員が、性能が劣ると言われているF4Fワイルドキャットに撃墜されていることもこういった運用と関連しているかもしれない。

これらの航空機運用の繊細で特殊な面は、中央の司令部にいてはわからず、実際に飛行機を日々操縦して、現場で日常的に起こる疲労、整備不良、補給不足、天候による不時着、場合によって敵襲の問題を肌感覚としてわかっていないと理解できないだろう。そういった理解が日本の航空戦力に関する戦争指導層には不足していたのではないだろうか?

前線を支援する施設の整備

さて、航空戦力の基盤整備に話を戻すと、最前線が内地から遠いと、その航空戦力を支えるための支援施設が途中に必要となる。これは前線で消耗した航空機や交換エンジン、弾薬、燃料、エンジンオイル、補修部品などを集積して、必要な場所へ送るために施設である(これは今の物流でも同じである)。飛行場の維持に必要な物資も同様である。場合によっては前線で修理できない航空機の修理・改修も行う。当然、各地の前線の兵員を支える物資の輸送もここが拠点となる。

そして、ここは中間設備であるため、内地から物資を受け取って必要な場所へ送るための輸送手段(例えば輸送機やその操縦員)も、多くの場合にここが管理することになる。さて日本軍は東南アジアや南太平洋へ戦線を拡大して行くにつれて、シンガポールやトラック島に支援施設を構築した。1942年に大湊、舞鶴、鎮海の航空廠支廠を昇格させ、第四十一、第三十一、第五十一航空廠とした。そして、占領地にも順次101空廠シンガポール、102空廠スラバヤ、103空廠マニラ、104空廠パラオ、105空廠サイパン、106空廠ルオット、108空廠ラバウルを設置した[36, p293]。

しかし、それは十分に体系的な組織としてではなく、とりあえず設置した観が強い。実態としてはそれから構築が始まったのだろうが、戦史叢書では、「不足がちの補用品などが、所要時機に所要部隊に届かず、他方面の倉庫に眠ってしまうこともあった。広域を担任する大特設航空廠の制度を採り、 戦況などにより担当区域内の補給品を現地において移動供給できることとしていたが、既述のとおり、在庫品や 輸送力不足などもあって、その機能を十分に発揮するに 至らなかった。 」とある[36, p342]。

その上、アメリカ軍は1944年2月にトラック島の補給基地を叩いて、前線への補充が滞っていた飛行機を数百機の単位で破壊することに成功した。これがラバウルからの航空戦力の撤退のきっかけとなった。補給施設の整備不足・防備不足が最前線での航空戦力の発揮を弱めた可能性がある。

無線電話技術の後れ

私は航空戦に敗退した原因として、もう一つ無線電話技術があると考えている。もし空中でコミュニケーションがとれれば、バトル・オブ・ブリテンでイギリスが無線で味方機を敵機へ誘導してドイツ機の撃退に成功したように、その有用さは計り知れない。太平洋戦争の末期を除いて、日本の航空機での無線電話の利用(特に単座機)について、あまり体系的な資料を知らない。

真珠湾攻撃の際の攻撃隊内の指示は、無線ではなく指揮官機からの信号弾だった。1発だと奇襲、2発だと強襲と決められていた。指揮官機は奇襲と判断して信号弾1発を打ったが、念のためにもう1発打ったため、一部の攻撃隊は強襲と勘違いして、混乱が起こったのは有名な話である。それでも多数の航空機からなる攻撃が成功したのは、真珠湾攻撃に特化した特殊な作戦のための特殊な部隊として訓練されていたためである。その能力は属人的・属所的であり、航空機を用いた攻撃システムとしての汎用性はなかった。

真珠湾攻撃に匹敵する大規模航空攻撃を試みた1942年4月の「い号」作戦では、その欠点が露呈し、他の機が針路や目標を妨害したりして連携がうまくいかなかった。例えば 4月7日のX攻撃(ガダルカナル島)では、戦闘機157機と急降下爆撃機67機が出撃したが、戦果としては、沈没したのは駆逐艦1、油槽船1、掃海艇1でその他に複数の損傷艦があっただけだった(戦果はwikipediaによる)。日本軍の航空攻撃が沿岸監視員によって事前に漏れていた原因もあろうが、大規模な攻撃の割には戦果が上がったとは言いがたい。

1944年のフィリピン防衛の戦記(例えば新藤常右衛門著、「あヽ疾風戦闘隊」)を読んでも、近くの航空基地が攻撃を受けて苦戦しているため、航空基地上空の警戒機に応援へ行けと地上の掲示板で指示しているのに、警戒機はそれに気づかずにゆうゆうと着陸してくるなど、欧米とは別次元の戦いを行っているようである。航空作戦には、少なくとも無線は必須であろう。

また、空母同士の海戦においても、到着までは戦闘機が攻撃機を援護できても、いったん攻撃隊が散開して攻撃が始まると、無線機を積んでいない日本の戦闘機隊はどこで何が起こっているのかわからなかったと思われる。アメリカ軍は戦闘機がいない帰りの雷撃機や爆撃機を意図的に狙った。日本の攻撃隊は帰りには戦闘機に援護を頼む術がなく、かなりの雷撃機や爆撃機が帰途時に撃墜されたようである。それが反復攻撃力を削いだ。

私が知っている範囲で言えば、単座機では一部は無線電信機を使っていた航空機部隊もあった。しかし、無線電信機を使おうとするとモールス信号をマスターしなければならない。当時の搭乗員の様子を見ると、養成課程の違いによってモールス信号の教育を受けていない搭乗員もかなりいたようである。そのため、無線電話の実用化は重要だった。

しかし、用兵側もあまりコミュニケーションを重視しなかったためか、航空機用の無線電話技術の開発・改善が遅れた。そして無線電話が使えなかった大きな技術的要因はノイズにあり、それがアースの取り方で改善するのは1944年夏頃からだったようである。つまり無線電話が機上で使えるようになるのは、それ以降と言うことになる。もちろん混信を防ぐためにその運用方法も確立する必要があった。

英米独は1939年の大戦当初から航空機で無線電話を使っており(地上からの対地攻撃の指示、陸上・艦上からの対空防御の指示など)、それが効果的な地上攻撃や防空システムに大きく役立っていた。この技術差による不利はいかんともしがたかった。

操縦員・搭乗員の養成

航空機の量と対となるもう一つの問題は操縦員の養成である。日本軍はわずかしか養成できない名人を重要視し。数が必要という考えが乏しかった。そのため、日本軍は多数の搭乗員の養成が欧米に比べて後手に回った。

高度な技術を要求される搭乗員(特に操縦員)の養成は時間がかかる上に、どこかの段階で操縦教員による一対一の指導が必要となる。そのため、操縦員の大量養成には大量の操縦教員が必要となる。日華事変を戦っていたこともあって、太平洋戦争のための搭乗員の養成が、最も重要な時期に十分に行えなかった。搭乗員の募集は出来ても、常に教員不足に悩まされた(それを補おうとすると最前線が手薄にあるという二律背反に悩まされた)。

搭乗員の養成には膨大な手間と時間がかかっており、また貴重なノウハウを蓄積している。その損失は戦力の喪失と直結している。しかし、撃墜された、あるいは墜落した搭乗員の救出(例えば飛行艇や潜水艦を配備)は、一部の決戦時などを除いてあまり積極的ではなかったようである。トラック島からラバウルへ移動途中の三式戦飛燕が、洋上でエンジン不調を起こした際に、操縦員は悲観してそのまま海に突っ込んだ例が複数ある(碇義朗、戦闘機「飛燕」技術開発の戦い、1996、p140)。その点アメリカ軍では、航空機へのサバイバルキットの搭載と搭乗員の救出を徹底していた。

また、無線電話が使えなかったことは、搭乗員の育成にも大きな影響を与えたのではないか?無線電話が使えれば、ある程度操縦技術さえマスターすれば、後は常時教員が一緒に搭乗してなくても空中から、あるいは地上から助言を無線電話で行える。もしこれが出来ていれば、飛行訓練が終わって戻ってきて伝えるよりも、訓練時の上達の効率をはるかに上げることができたのではないかと思う。あるいは、訓練時の事故も減ったかもしれない。

内地での航空機の生産はどうだったのか?

航空機を効率よく大量生産するためには、まず原材料の確保、生産設備の準備、労働力の確保、生産方法の改善、電力などの動力の確保が必要となる。日本の場合、アルミニウムやエンジン特殊鋼、パッキン用のゴムなどの原材料は、原料を輸入しなければならなかったり、精錬の電力に限りがあったりして、全体を増やすことは難しく、結局ゼロサムゲームの材料の取り合いに終始した観がある。設計者や生産技術者に量産の経験があまりなく、試作時から量産方法についての検討も十分でなかった。

治具や工具の製造能力があまりなかったため、航空機生産の立ち上がりや増強に支障を来した。アメリカから輸入できなくなった治具をドイツから取り寄せようとしたが、独ソ戦の開戦によって、移送ができなくなったものもあった。零戦をアメリカ製の機械で作っていた話は有名である。また、国の工業水準が元来低く、部品の標準化や規絡化が進んでいなかったのも生産効率を下げた。

労働力は、1943年になると国民徴用制度が拡大され、女学生なども作業に当たったようである。しかし、航空機の生産には、1937年頃から始まった女性工員の雇用の方が貢献したようである。日本人は確かに名人芸による現場合わせのような作業が得意だが、それでは大量生産は無理である。どこかで変えなければならない。この認識は戦前からあったようで、熟練工が汎用機械でさまざまな工程をこなすのではなく、単一機械による単一作業への転換が少しずつ行われていた(前田裕子、戦時期航空機工業における生産技術形成、経営史学、第33巻第2号、2009)。しかし、生産システムを変えるには時間がかかる。しかも規模の増大も同時である。どんな簡単な作業でも、最初は不慣れな作業となろう。しかも相手はエンジンも含めて精密機械である。

製造作業が定型化されていったためかはわからないが、熟練工も容赦なく徴兵された。ラバウルで三式戦飛燕の不具合に悩まされていた航空隊は、陸兵の中に飛燕の製造に関わった兵士を見つけて整備のために現地で引き抜いたという話もある。一方で、個々の作業過程の定型化によって、熟練工減少による製造への影響は小さかったとする説もある(古峰文三、日本の戦時航空機生産、歴史群像170号、2021)。

確かに航空機の大量生産化を一部の熟練工でこなすのは不可能であり、大量の一般工員による作業が必要となる。しかし、一般工員による大量生産の急速なシステム化を行ったから、それで生産がうまくいくとは限らない。1980年代のオートメーションが進んだアメリカの車産業でさえ、月・金に作られた車を買うなという話があった。つまり週明けと週末は作業が雑になるからというわけである。

戦時中に一部の航空機製造会社では、政府が工員を多数増員したものの、技術者や基幹工員が不足して増員した工員に技術教育を施す時間がなかったため、逆に作業のない工員が遊んでいたという話もある[36, p416]。急速なシステム化は、熟練工の不足もあって、大量に増えた工員を十分に教育するための時間が十分でなかったと見るのが自然だろう。ここでも準備が間に合わなかったといえる。

海軍の航空機の生産は1944年11月の月産約1243機が最高である[36, p414]。しかし、品質はどうだったのだろうか?1944年頃には航空機の破損が多く、滑走路の横に壊れた航空機が高く積み上げられていたという話もある。戦史叢書にも「飛行機に粗製乱造の傾向があり、新採用の飛行機に不具合のところが多く」と述べられている[36, p427]。航空機の製造品質を判断できる資料はないようであるが、とにかく戦争後半には航空機の稼働率の低下が甚だしかった。生産の質が悪いのか、整備が悪いのか、操縦者の技量が低下したのか、あるいは空襲で破壊されたのかわからないが、せっかく製造しても戦闘以前に壊れた航空機の数は少なくなかったようである。

日本海軍と米国の航空機年間生産機数
日本の資料は「戦史叢書 海軍航空概史」による。米国の資料はwikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_aircraft_production_during_World_War_II)による。日本陸軍の製造数は、このグラフに含まれていないが、「戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給」によると海軍とおおむね同じ。なお、1940年と1941年の米国の航空機製造数(軍用機)は、それぞれ約3600機、18500機となっており、その後猛烈に製造数が伸びたことがわかる。

感想

太平洋戦争中に、ノックス米海軍長官が、「日本は近代戦を理解しないか、また近代戦を戦う資格がないかのいずれかである」と述べたことは有名だが、この近代戦の意味の中に航空戦が含まれていることは明白である。これはこれまで述べてきたように、日本が第一次世界大戦で過酷な航空戦を経験しなかったことにあると考えている。そして航空戦の本質を理解しないまま太平洋戦争に突入した。

これは逆に言えば、第一次世界大戦を十分に研究して、次の戦争での航空戦がどのようなものになるのかという推測が出来ておれば、1941年の時点で日本軍の航空戦力では戦えないことがわかったのではないか?つまり英米と戦争をするという判断は出来なかったのではないか?

政府と大本営は真珠湾攻撃の成功によって、アメリカの反撃が始まるのは新しく戦艦が揃う昭和18年後半以降と見なしていた(戦史叢書第049巻 南東方面海軍作戦<1>, p350)。自分たちは航空戦力によってアメリカの戦艦群を沈めておきながら、打ち漏らした航空戦力によっては、当面自分たちは大きな被害を受けることはないだろうという、打撃と被害に対する大本営の非対称的な考えが垣間見える。しかも、この判断はミッドウェー海戦後も続いた。この戦艦を過大評価(航空戦力を過小評価)した判断が、その後の戦局のさまざまな誤判断の根源となっている。

艦隊決戦という一面的な発想で戦艦さえ沈めてしまえばなんとかなるという考えと、それが真珠湾奇襲で成功したことが、アリューシャンでの戦いで見てきたように、日本の航空戦力の整備をさらに遅らせることとなったのだろう。

「持続可能な」航空戦力の重要性に気づいたのは1942年後半のガダルカナル島での飛行場の攻防戦以降なのだろう。1942年前半の航空機製造数はそれ以前の平時とあまり変わらない。その後、あわてて泥縄式に航空戦力増産の準備を開始したが、それが軌道に乗り始めるはずの1944年後半頃には原料不足や空襲で、計画よりはるかに少ない数となった。

量より質に重点を置いた日本の航空戦力は、卵の薄い殻のようなもので、外側はある程度堅いが、それがいったん破られると柔らかい黄身にまでの侵攻を止める術はなかった。1943年2月にラバウルから航空戦力が撤退すると、実質的にアメリカ軍の航空戦力に対抗することはできなくなり、それから4か月でサイパン島へ、8か月足らずでフィリピンのセブ島へのアメリカ軍の上陸を許し、南方からの資源の移送は困難になった。

戦争のグランドデザイン

戦争の経過だけ見れば、とどのつまりは冒頭に述べたように戦争への準備不足ということである。アメリカは欧州での状況を見て、1939年ころから戦争の準備を始めて、兵器の開発や膨大な生産設備の整備を開始していた(それが武器貸与法による大量の武器の供与にも寄与している)。そによって航空機生産は1942年頃から軌道に乗っていた。

日本は1940年に日独伊三国同盟を結んだ後、それに合わせて航空機製造の大幅拡張を始めてもおかしくなかったが、そうはならなかった(というより国力上出来なかった。しかし、1942年以降を見ると、本気でやれば出来なくはなかったと思われる。)。1940年頃の日本の航空機製造の(1943年頃からのと比べての)穏やかな増加状況を見ると、航空戦力に関してはアメリカと戦争するつもりはなかった、あるいは第一次世界大戦以前のように戦争になっても手持ちの軍備で片がつく、と考えていたとしか思えない。

もともと1937年の帝国国防要領などを見ても、もしアメリカが向こうから攻めてきたなら、決戦で艦隊を叩いて即講和というのが戦争計画だったのではないか?石油や鉄や機械を依存しているアメリカに対して、こちらから戦争を挑むという戦争・戦備計画は、アメリカが石油の全面禁輸を行うまではなかったと思われる。それは艦隊決戦思想に偏った作戦(想定はあくまで迎撃である)や南方からの石油の還送(輸送)のための海上護衛戦を全く想定していない体制、そして遠く離れた南太平洋での戦闘を想定していない軍備ということにも現れている。つまり計画も想定もしていない戦争を、泥縄的に考えて始めたように見える。

そのためか、帝国海軍は常にアメリカ海軍主力艦とのバランスのみを考えており、1920年以降対日戦のために発展してきたようなものであるアメリカ海兵隊に対して、日本軍が注意を払っていた形跡がほとんどない。結局太平洋での島嶼の防衛は、各地でアメリカ海兵隊(とそれが開発した上陸戦用の特殊装備)に悉く撃破されることになる(ただし、アリューシャンで戦ったのは、それを参考にしたアメリカ陸軍である)。

日本軍が深く考えずに行った南部仏印進駐に対応して、日本は1941年8月に予想外のアメリカによる石油の全面禁輸に直面した。それによって南方からの石油の自給自足をあわてて図ろうとして、想定も準備もしていない戦争をこちらから仕掛けて破綻した、というのが私の太平洋戦争に対する勝手な総括である。

長年想定してきた状況と異なる国際情勢になったのだから、それを見通せなかったことを謙虚に反省するとともに、それまでの戦争計画にない情勢になったのであれば、いったんは冷静に引き下がるというのがどうみても常識的な判断だったと思われる。

おわりに

結果がわかっている後世の視点から過去の歴史を批判や論評することはたやすい。しかし、ここでは敢えてそれを行っている部分がある。それは、そこで行われたことが決して過去の遺物とは限らないと思っているからである。

現代の生活は高度に文明化しているが、それは多くの人々の努力で多少の技術の進歩があったことによるものであり、人間そのものが変わったためではないと思っている。そうであれば、人間の底流に流れているものは大昔から大きくは変わっておらず、過去で起こったことは形を変えて今後も起こり得る。歴史を知ることは人間を知ることだと思っている。その参考になればと思って自戒を込めて記した部分がある。

私は歴史の研究者ではなく、これは研究成果でもないので、この著述をインターネットのブログ上に発表している。私としてはこの著述が今後のさらなる議論の苗床(seed-bed)になること、つまりこれを批判しながらでもここから次の議論が始まることを願っている。

専門家ではない私の軍事に関する知識は浅く、私の理解不足や思い違いも多いのではと思っている。もしそれにお気づきの方がおられれば、指摘していただければ修正を行っていきたいと考えている。もしそうやって正確さが増していけば、この著述の資料としての意義が高まるかもしれない。この著述がアリューシャンの戦いの再考のきっかけになれば幸いと思っている。

11. いくつかの考察

網羅的なものではないが、私が考えついた部分について考察してみたいと思う。これまで述べてきたことの繰り返しの部分もあるし、他で既に指摘されていたりするものと重複しているかもしれないことをお断りしておく。

11-1 地理と気候について

アリューシャン列島の霧や悪天候などの気象・気候は、さまざまな作戦を著しく困難なものにした。天候のためにほとんどの作戦は予定通りには進まなかった。霧や雲のために飛び立った航空機は再三引き返し、上陸作戦はたびたび延期され、上陸後も部隊に対する支援が天候のために阻まれることも多かった。また攻撃だけではなく、航空機による偵察や戦果確認においても、悪天候のためしばしば十分な情報が得られず、その後の作戦に多大な影響を与えた。

11.1.1 気象が航空戦に与えた影響

近代戦に不可欠である航空機は悪天候には脆弱である。航空機は視程が悪いと離着陸できず、雲があると攻撃目標を捉えられず、雲中では飛行できないことが多い。離着陸に関しては強風でも同様である。さらに雲の状態(過冷却雲)によって機体に着氷が起こって飛行が困難になることもある。しかもアリューシャンでのように天候が急変すると、好天で出撃しても目標の上に雲が広がっていて攻撃できなかったり、帰りに基地が霧に覆われて不時着や墜落したりすることも少なくなかった。アリューシャンでの戦いを通して連合国軍(第11航空軍(the Eleventh Air Force)、海軍第4航空軍(Fleet Air Wing 4)、王立カナダ空軍(the Royal Canadian Air Force))が失った航空機225機のうち、41機が戦闘によるもので残りの184機は事故によるものだった [10, p97]。これは、この地域の気象が航空機の運用に適していないことを如実に示している。

アッツ島に不時着したPV-1「ベンチュラ」(1944年5月)。滑走路にはマーストンマットが敷かれている。
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11.1.2 霧が艦船攻撃に与えた影響

アリューシャン方面の霧の多発は、航空機による船舶攻撃を阻害した面がある。しかし、霧については果たして日本軍に有利に働いたかどうかの判断は難しい。霧は確かに航空機を用いた索敵と攻撃を行いにくくして、日本軍のキスカ島からの撤収は、確かに霧に助けられた面があった。しかし、日本のレーダー技術の後れは、日本軍艦船の霧の中での行動を不利にした。例えば、キスカ島へ補給や撤収に赴いた多くの潜水艦が、霧の中でアメリカ軍の艦船のレーダー射撃の標的となった。アッツ島、キスカ島への補給は最後は霧頼みのような形になったが、レーダーを装備したアメリカ軍の艦船による包囲網に対しては、霧はむしろレーダーによる索敵能力が低い日本軍にとっては不利に作用しただろう。キスカ島からの撤収も、もしアメリカ海軍が自ら引き起こした幻の海戦がなく、キスカ島周辺にレーダーを配備した連合国軍の艦船が遊弋しておれば、もっと困難なものとなったに違いない。

11.1.3 気象や地理が陸上戦闘に与えた影響

アリューシャン方面は、第二次世界大戦において主要な戦力を投入して戦われた戦域の中では、気候が最も厳しかった。低温、強風の下で雪や凍雨は頻発し、霧に覆われることが多く、木々はなく険しい地形が露出し、高地はほとんど通年で積雪しており、低地は深い泥地・湿地が多かった。これらは陸上での戦闘を他の戦域とは全く異なるものにした。

アッツ島への上陸作戦については、一部のアラスカ軍部隊などを除いて連合国軍はアリューシャン列島の気候の兵士への影響を軽視していた。作戦の機密性が優先されて、装備の面の検討が十分に行えていなかった。主力の第7師団では不適切な装備のために凍傷や塹壕足が続出し、その被害は戦闘を上回った。ぬかるみや険しい地形は、車両の運用を困難なものにした。また、霧や雲による艦砲射撃の妨害や航空戦力による地上支援の不足は、不十分な防御陣地しかなかった日本軍に利して、地上戦を激烈なものにした。しかし霧が晴れると、防御陣地は爆撃や艦砲射撃で破壊されていった。

 日本軍では、1年近く暮らしていたせいもあって耐寒・防水装備という点ではほぼ完全だった。しかし、アッツ島では連合国軍の補給遮断による食糧不足と弾薬不足が持久戦をあきらめる一因となった。また防御陣地構築のための時間や資材を飛行場建設に充てたため、多くの防御陣地は不完全なままだった。アッツ島の日本軍の最後の突撃は連合国軍に追い詰められたためであるが、隠れるところのない地形上の不利と弾薬・食糧の不足のため持久戦に持ち込めず、そうせざるを得なくなった面もあると思われる。アッツ島守備隊は1週間程度で荒井峠と西浦・東浦の保持を断念したが、この早期の崩壊はそもそものアッツ島占領の意図とそのための防衛戦略が杜撰であったことを示している。

11.1.4 気象予測の作戦への利用

天候は西から変わることが多い。日本はアリューシャン列島より西に位置している。また日本軍は北方や西方に位置しているソビエト連邦の気象観測所からの気象暗号電報を解読していた [26, p53]。気象予測という観点では西方の日本軍が有利であり、アメリカ軍は日本軍がその利点を活かした戦術をとっていると思っていた [10, p19]。しかし日本軍による西部アリューシャン列島への輸送が天候のためにたびたび失敗していることから、気象予測が作戦に活用されていたとは言いがたい。キスカ島撤収の「ケ」号作戦において、霧が継続することを予測して撤収を実施できたのは、最後の最後になって霧に特化した例外的かつ集中的な研究を行ったからだと思われる。

気象予測を作戦に利用しようとすると、少なくとも日頃から気象観測結果を利用した分析を蓄積して、当該方面の気象的特徴を把握する必要がある。気象予測を十分に活用できなかったのは、当時の気象部隊が用いていた気象学のレベルの問題と、それを利用する運用側の意識の問題があったと思われる。

当時最新のベルゲン学派(ノルウェー学派)気象学による前線解析は、風向風速の変化や天候の急変を引き起こす前線を利用していた(ベルゲン学派以前の天気図に前線はなく、天候の急変を予測できない)。これを使えば、それまでの広い地域を対象とした漠然とした予報を、狭い地域の時刻を指定した気象予報に絞ることが出来る可能性があった。

そのため、ベルゲン学派気象学の発祥の地の緯度に近いアリューシャンでそれを活用していれば気象の予測精度がもう少し向上していた可能性がある。そうすれば、キスカ島より東に位置するアメリカ軍基地での天候回復の遅れ(航空機が飛べない間)を利用した輸送などのきめの細かい作戦が行えたかもしれない。

日本の中央気象台(気象庁の前身)がベルゲン学派気象学を利用し始めたのは戦後であるが、第五艦隊気象長竹永少尉は、実はベルゲン学派の気象学を研究していた。ノルウェー出身のスベール・ペターセンというベルゲン学派気象学の新進気鋭の研究者が1940年に書いた「Weather analysis and forecasting(気象解析と予報)」という教科書を読んで前線解析を会得していた。

彼は1943年2月に第五艦隊に赴任すると、それを用いた天気図を描いたが、敵性天気図と叱責されてしまう。ところが、彼が乗った軽巡洋艦「多摩」は千島で時化に遭い、その時の天候の急変は竹永少尉が描いた天気図通りとなった。これを契機に彼はペターセンの教科書の解説書を作って海軍内に配布した [26, p14-25]。

これを用いた体系的な研究がもっとなされていれば、気象予測をアリューシャンでの戦いに用いることが出来たかもしれない。ただし、この解析が当てはまるのは中高緯度なので、熱帯や亜熱帯の中部太平洋では利用できなかった。

アメリカ気象局では1930年代後半からベルゲン学派気象学を導入していた [29, p252]。なお、ペターセンは、アメリカのマサチューセッツ工科大学の気象学科で教鞭を執っていたが、ドイツのノルウェー侵攻以降イギリス気象局へ移り、ノルマンディ上陸作戦での気象予報を担当した一人で、この上陸作戦を荒天を避けて1日延期させて、翌日の晴れ間を予測して作戦を成功に導いたことでも知られている [29, p259]。


11-2 アッツ島方面への聯合艦隊の出撃

11.2.1 大型爆撃機に対する懸念

聯合艦隊がアッツ島方面へ出撃しようとすると、軍備的に2つの懸念があった。その一つは長大な航続距離を持つアメリカ軍の大型爆撃機である。幌筵から北上すれば、このレーダーを持った大型機の哨戒圏・攻撃圏内に入ることは避けられなかった。ただ、基地が霧に覆われてしまっては離着陸できないため、大型爆撃機による哨戒や攻撃がどの程度行えるかは、その時の霧の状況次第だった。

洋上を高速で自由に動き回る艦隊に対する大型機による爆撃・雷撃の効果は、どの程度検討されていたのだろか。それまでの戦訓を見ると、高速で戦闘行動中の軍艦に対する大型爆撃機の攻撃能力は小型機によるものと比べてかなり劣っているように見える。アッツ島付近はアムチトカ島からの小型機の活動範囲内だった。しかし、キスカ島で空襲を受けた機種の記録は、陸軍の戦闘機と中・大型爆撃機と海軍の飛行艇だけで、航行中の艦船が最も恐れるべき単発の急降下爆撃機や雷撃機がアリューシャン方面に配備されていた記録はない [4, p459-467]。 

11.2.2 レーダーに対する懸念

もう一つの懸念はレーダーの性能である。これは日本海軍とアメリカ軍で大きな開きがあった。この時期の日本海軍は、対空監視レーダーは一部の艦船に搭載されていたものの、対水上レーダーは見張り用で距離は測定できず、有効なレーダー射撃はできなかった。1942年に現れたアメリカ軍の対水上用SGレーダーは、極超短波(マイクロ波)を用いて約35 km先から正確な距離の探知が可能だった [15, p110]。

電波探知器(逆探)についても、この時期に日本海軍にはSGレーダーの極超短波を安定して逆探知できる装置がなかった。当時の日本海軍の艦艇の多くには超短波の逆探は装備されており、もしアメリカ軍が超短波を用いているSC対空レーダーを用いれば逆探知できた可能性はあった。しかし日本海軍は当時あまり逆探を信頼していなかったという話もある [15, p114]。装置の安定性や運用の問題があったのかもしれない。

この時期にはアメリカ軍の大型航空機の多くには既にレーダーが搭載されていた。一方日本軍の航空機の哨戒や目標の捕捉は目視に頼るしかなかった。霧の多いアリューシャン方面での作戦ではレーダーと逆探の利用は不可欠である。アリューシャン方面で艦船が作戦を行えば、レーダーや逆探の性能が劣る日本艦隊は気づかないうちにアメリカ軍のレーダーに捕捉されて、霧の合間に航空攻撃を受ける、あるいはアメリカの艦船から夜間や霧の中でレーダーを使った攻撃を受ける可能性は少なくなかったと思われる。

11.2.3 アッツ島方面への聯合艦隊出撃の判断

重油の問題については既に述べたので、ここではそれを除外して考える。聯合艦隊は4月の「い」号作戦で機動部隊の航空戦力の2割近く(17%)を消耗したものの [4, p521]、当時は大型空母4隻(翔鶴、瑞鶴、隼鷹、雲鷹)、小型空母2隻(瑞鳳、龍鳳)、護衛空母3隻(大鷹、雲鷹、冲鷹)があり、まだかなりの航空戦力を保持していた。1942年のアッツ島とキスカ島上陸時には、聯合艦隊は6月下旬にかけて空母3隻(後に空母「瑞鶴」を入れて4隻)を含む大艦隊でキスカ島沖でアメリカ機動部隊の待ち伏せ作戦を企図した。ところがそれから11か月経ったアッツ島への連合国軍の侵攻に対しては聯合艦隊は出撃しなかった。

当時日本軍は、中部太平洋ではマーシャル諸島、ギルバート諸島までまだ勢力圏を保持していた。別な見方をすると、そういう状況の下で聯合艦隊の根拠地横須賀から3200 kmのアッツ島にアメリカ海軍が護衛した連合国軍が上陸してきた。同島はアメリカ海軍の根拠地ハワイからは4300 kmあった。これをアメリカ海軍が勢力圏を越えて西に突出してきたとみることは出来ないだろうか?

根拠地から戦場のまでの距離は作戦や行動の柔軟性と大きく関係する。駆逐艦「雷」の乗組員であった橋本衛氏は、アッツ島沖海戦の際に日本に近いこんな海域に敵の水上艦艇が現れることはあるまいと考えていたと述べている [20, p300]。日本の幌筵から2日程度で到達するアリューシャンは、それまで戦っていたニューギニアやソロモン海域から見ると圧倒的に日本に近かった。もし日本海軍が主導権を握って戦おうとすれば、連合国軍のアッツ島上陸は一つの機会になり得たのではないか?しかしながら、日本海軍にはアリューシャン方面に主力が出撃して、何らかの形でこの連合国軍の突出を咎めるという発想はなかった(なお、機動部隊の艦隊決戦には備えていた)。

また最終的に西部アリューシャン列島を保持するならば、何度も見てきたようにアメリカ軍の航空基地があるアムチトカ島を少なくとも占領する必要があった。兵を捨て駒にして占領する決死の「テ」号作戦も検討された。しかし、この時点に至っては聯合艦隊としてはそこまでしてアムチトカ島を占領する覚悟がなかったといえるかもしれない。

当時の考え方を見ると、聯合艦隊は艦隊決戦に備えて、むしろアメリカ艦隊に機動部隊がいなかったからこそ出撃しなかったようである。もし出撃して、「い」号作戦での損失に加えて航空戦力をさらに多少なりとも消耗すれば、想定している中部太平洋での艦隊決戦に支障を来すという危惧があった思われる。

戸部らによる著書「失敗の本質」は「海軍における主要目標は米国海軍機動部隊撃滅であり」と述べている [30, p89]。また、防衛研究所の斎藤達志氏は「(日本海軍は)アメリカ艦隊が攻撃してくるのを迎え撃つという邀撃作戦を主に考えていたため、戦闘が生起するかどうかはアメリカ側の意思によったのである。」と述べている [31, p104]。この聯合艦隊の受け身の姿勢は、アリューシャンでの戦いでも戦略的・戦術的な柔軟性を失わせたようにも見える。

1943年1月時点での日本とアメリカの航空戦力比は1:1.1であり [32, p213]、この時点でも航空戦力の格差がそれほど大きかったわけではない。またアッツ島上陸部隊を守るアメリカ艦隊の主な戦力は、旧式戦艦「ネバダ」、「ペンシルベニア」、「アイダホ」の3隻、護衛空母「ナッソー」1隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦3隻を基幹とする北太平洋艦隊だけだった。

他のアメリカ海軍の主要な戦力が北太平洋域での聯合艦隊の出現に備えていた兆候はない。1943年5月のアメリカ海軍の主な艦船の動向は、新型戦艦「ワシントン」はハワイ沖で訓練中、戦艦「インディアナ」、「マサチューセッツ」、「ノースカロライナ」、空母「サラトガ」と英空母「ヴィクトリアス」は南洋ソロモン諸島で作戦中、空母「エンタ-プライズ」はハワイでオーバーホール中、新型戦艦「サウスダコタ」、「アイダホ」は大西洋で作戦中だった。新型空母は数隻完成していたが、乗員の訓練や搭載機の整備・訓練中で実戦に出られる状態ではなかった。

聯合艦隊の主力、あるいは旧式戦艦と護衛空母を主体とする艦隊だけでもアリューシャン方面へ出撃していれば、アメリカ軍の北太平洋艦隊に匹敵する戦力はあったはずである。11.2.2で述べたように技術力の差があるため容易に勝てるとは考えられないが、少なくともアメリカ海軍は慌てたかもしれない。アッツ島上陸部隊を危険にさらすことは、アメリカ国民の民意を考えるとできなかったであろう。日本艦隊は主導権を持って、駆けつけたアメリカ海軍と戦えたのではないか。ひょっとするとアッツ島と幌筵の中間付近で、両軍の艦船と攻撃機が入り交じった決戦になっていたかもしれない。それは場所や規模は違えど、日本海軍が思い描いていたに近い決戦になったのではないか。

聯合艦隊の中部太平洋での艦隊決戦への固執という受け身の姿勢によって、準備が整った1943年秋からのアメリカ軍の中部太平洋での自在の活動に、聯合艦隊は逆に振り回されてしまったように見える。そこではアメリカ海軍は日本海軍が思い描いていたような艦隊決戦を許してくれなかった。11.5.1で述べるが、アメリカ海軍の大量の空母を含む巨大な建艦計画を日本軍は知っていたのであり、もしそのアメリカ艦隊が勢揃いする前に聯合艦隊に何か打つ手があるとすれば、結果はともかくとして連合国軍のアッツ島上陸はその一つの機会になり得たのではないかと思う。


11-3 日本軍の航空戦力に対する考え方

11.3.1 なぜキスカ島に飛行場を作らなかったのか?

まず日本海軍の水上機(浮舟付きの航空機)への依存について触れておきたい。日本軍は水上偵察機や水上観測機を、偵察や着弾観測だけでなく地上攻撃にも重用していた。中国戦線では大規模作戦では空母が参加することがあったが、敵の海上輸送阻止(海岸封鎖)や沿岸での陸上戦闘支援には、低空での性能が優れている上に水上機母艦で速やかに移動して自在な場所で攻撃できる水上機が活躍した [13, p82]。

例えば九五式水上偵察機は、複葉だが低空性能が良く、固定銃と旋回機銃を持ち、60キロ爆弾2個を搭載して5時間程度飛べるという日中戦争当時としては優れた性能を持っていた。時には敵機と空戦を交えることもあったようだが、この水上機の活躍はもちろん前提として制空権があったからこそである。海軍が当初キスカ島に水上機基地を置いて陸上機用の飛行場を作ろうとしなかったのは、中国戦線での経験などからアメリカ軍に対しても水上機で対応できると思ったためではないかと思われる。

そして、キスカ島で輸送船や地上施設が爆撃によって被害を受けると、その迎撃のために二式水上戦闘機を配備した。これは上記の発想の延長線上ではあったが、高射砲の配備と相まって撃墜はできなくても爆撃機の針路を変えたり照準を妨害したりすることはある程度出来たのではないかと思われる。当然、上空を飛ぶ味方機に地上軍の士気も上がった。しかし、アダック島から陸上戦闘機が護衛に付いてくるようになると、水上戦闘機としての性能の限界と配備機数が少ないという問題があり防空効果を上げることは困難になっていった。

海軍軍令部と聯合艦隊は、AL作戦の起草時から西部アリューシャン列島防衛を陸上戦力と水上機によるものだけしか想定していなかった。これは航空戦力による補給線への攻撃を過小評価していたためと思われる。部隊は防空壕があればある程度守れるが、補給のための輸送船は航空攻撃を受ければそれから逃れる術がない。水上機では陸上機に対抗することは難しく、陸上航空基地を作って航空攻撃を防がなければ、いずれ補給が絶たれることは自明なことであった。

AL作戦の計画時に、日本軍が優勢であったため防衛や補給の細かな詰めを行なわず、上陸後に大型機による爆撃を受けても、事前の計画の微修正で対応したように見える。しかし、西部アリューシャン列島の占領はミッドウェー海戦後のまさに日米の軍事均衡が変わりつつあった時に行われたので、上陸後の防衛方針の見直しの際に、制空権確保のための航空対峙戦を想定した抜本的な検討しが必要だった。

アッツ島とキスカ島の占領は、ミッドウェー海戦の失敗により哨戒の意義は失われ、恒久的に占領して敵航空基地の進出を防ぐことのみが目的となった。そして上陸後の調査で、付近のセミチ島やアムチトカ島にも飛行場適地があることがわかった。それなのに航空基地として使われそうな両島を放置してしまう。そこに占領目的に対する認識の甘さと一貫性のなさを感じる。

西部アリューシャン列島を確保しようとすれば、大本営での10月の検討で結論されたように、複数の島に飛行場を一刻でも早く建設するのが定石であったろう。その建設のためには、そのための人員と大量の資材の輸送を必要とする。それは占領直後であれば可能だっただろうが、アダック島に航空基地を作られた時点で実質的に困難になった。

海軍軍令部は、キスカ島上空でのアメリカ軍機の活動を見てから、それから防衛のための陸上航空基地の必要性を徐々に認識したのではないかと思う。また同時並行して行われていたガダルカナル島の飛行場を巡る攻防もそれを後押ししたと思われる。しかし、陸上航空基地の重要性に気づいた時には既に手遅れだったというのが実情ではなかろうか。

それは陸軍も同様であった思われる。陸軍北海守備隊参謀の藤井一美少佐は戦後にアリューシャンの戦いを振り返ってこう述べている。「野戦における飛行場設定の速度は、戦局の帰趨を支配する重大な素因であることを体験した。」 [3, p298]。藤井少佐の考え方は当時の陸軍高級将校の平均的な考え方だっただろう。

10-1で見てきたように、アリューシャン方面からの日本本土への侵攻は困難という分析が行われておれば、当初の作戦通り冬季の前に撤退する選択肢もあっただろう。11月と12月は悪天候で、アメリカ軍機の活動は極めて制限された。キスカ島への空襲回数は、9月は96回、10月は229回に対して、11月は2回、12月は33回、1月は23回であり、2月以降はアムチトカ島に基地が出来たこともあって100回以上に増えている [7, p471]。11月か12月初めの時期であれば、悪天候を利用して比較的容易に撤退できたと思われる。

11.3.2 日本軍の航空戦への理解と開戦

アリューシャンの戦いにおいて陸上航空機同士の航空戦は発生しなかったが、飛行場の建設が遅れた理由として当時の海軍の航空戦に対する理解を検討してみる。日中戦争では日本軍基地が奇襲的に爆撃を受けることはあったが、基地上空の制空権を失うとどうなるかということを思い知らされるような事態は発生しなかった。しかしキスカ島に上陸した時点で、東1300 km先には大型爆撃機を擁するアメリカ軍の航空基地があることがわかっていた。ということは、敵の航空攻撃を防いで制空権を確保するためには、航空基地を置くしか方法はなかった。

キスカ島の制空権を確保して占領を続けるためには、占領と同時に飛行場を迅速に建設して航空戦力を集中させ十分な補給体制を整えて、アメリカ軍の航空戦力を先に圧倒してキスカ島付近の制空権を確保し続けるのが理想だろう。それが出来なくとも、空襲の際に敵より強力な迎撃力を整備して敵航空戦力に被害を強要するとともに、爆撃機を配備して敵基地の戦力を削いでさらなる進出を阻止する必要があった。

キスカ島占領時に飛行場の建設を見送ったことは、その制空権確保競争のスタート地点に立つことさえしなかったことを意味している。そして航空基地となり得るアダック島とアムチトカ島の一方的な占領を無為のうちに許した。これはキスカ島占領時の軍上層部の航空戦力に関する基本的な理解に何かしらの問題があったことを示している。日本軍における航空戦力の考え方の問題は、他で数多く議論されているのでここでは分析しないが、これはアリューシャンでの戦いだけでなく、戦争全般とその帰趨に大きな影響を与えた。

余談であるが、キスカ島の防衛を担った陸軍北海支隊の中隊長であった林友三中尉の「キスカ防衛陸軍作戦私史」に幌筵から船でキスカ島へ向かう途中で次の下りがある。「ベーリング海を船でキスカ島に東進中に敵航空機の接近の報がもたらされると輸送船長以下長田丸乗組員の様相が一変した。対空警戒に目を血走らせ、神経がぴりぴりしているのだ。今まで、ただの一度も空襲を受けたことのない私には、過敏すぎると思われるほどの反応に、なかばあきれるほどであった。」 [33, p453]。これは当時の陸軍将校の平均的な考え方だったのではないだろうか。幸いに空襲を受けなかったために無事にキスカ島へ着くことができたが、当人はキスカ島上陸後に空襲の威力をいやというほど体感することになった。

陸軍航空は、それまで段階的に航空戦力の増強を図ってきていたものの、それらは質・量共に対ソ戦を想定していた。戦史叢書78巻「陸軍航空の軍備と運用<2>」を読むとそれがよくわかる。帝国陸軍が具体的に対米英戦争の開戦準備に動き出すのは、1941年9月6日の帝国国策遂行要領以降からである。

大陸を想定戦場として計画・整備されてきた陸軍航空は、当然のことながら中部太平洋ではほとんど活躍できなかった。アリューシャン方面のアメリカ軍の航空機は、飛行艇を除けば爆撃機も戦闘機もアメリカ陸軍の航空隊である。しかし、日本陸軍の航空隊は(たとえ滑走路があっても)アッツ島やキスカ島へ進出するのは実質不可能だった。航空機の性能も航空部隊の組織や訓練や補給能力を含む航空部隊を運用する能力が、はるかかなたの離島で運用できるようには作られていなかった。

海軍航空の動きは、陸軍よりは少し早かった。海軍では、三国同盟締結などによって対英米戦争の可能性が高いと判断し、1940年7月27日に南方資源入手を計画するなどの「時局処理要綱」を決定した。これを受けて、1940年11月15日についに「出師準備第一着作業」を発動した。そして、国際情勢のさらなる悪化に伴い、1941年春から、対米英戦争の作戦計画の具体的立案に着手した(戦史叢書95巻「海軍航空概史」p155)。そして1941年8月15日に「出師準備第二着作業」を発動し9月1日には全面戦時編成を実施した。

アメリカは第二次世界大戦が始まった1939年頃から対ドイツを含めて着々と戦争準備を整え始めていたのに対して、日本軍の諸準備状況を見る限り、日本海軍は少なくとも1940年末、日本陸軍は1941年夏まで本気で英米と戦争するつもりはなかったといえるのではないかと思われる。

この点が重要なので、少し話を脱線して大戦直前の日本軍の動きをおさらいしてみると、日本軍では1940年頃から、南方資源確保の準備のための南部仏印への進駐を漠然と考えながらアメリカとの平和外交交渉も続けるという矛盾した綱渡りを演じていた。1941年5月22日の大本営政府連絡会議で、今後の方針として北進・南進・外交交渉をすべて焦点に入れるという玉虫色の方針を決定してしまう。

ところが1941年6月にドイツがソビエト連邦へ進撃を開始した。これを受けて陸軍は独自に、大本営政府連絡会議の方針とは反しない、北進論を採ったかのような関東軍特別演習の準備を開始する。これに政府はバランスをとるかのように1941年7月2日の御前会議で北進論を併記しながらも、南進論によって「南方進出ノ態勢ヲ強化ス」と決定してしまう(進出するとは言っていない)。そして、そのためにはたとえ対英米との戦争も辞せずと決定してしまう。

しかし、これで実質的に英米との戦争を決定したとは思えない。これは北進論に流されないように南進論に重きを置くために、一種の精神的な覚悟を述べただけと推測している。これによって物理的な戦争準備は新たには何も進んでいないことからもそう思える。また、実際に南部仏印進駐を行ったことによる欧米の反応に、政府や軍部が驚いたことからもそうわかる。

しかし、大本営は「南方進出ノ態勢ヲ強化ス」に従って7月24日に南部仏印進駐を命令した。

日本政府は特に重要な天然資源もない南部仏印への進駐をどう考えていたのだろうか。万一米英蘭と戦争になった場合に、南方作戦(マレーシア、インドネシアの資源とシンガポールの確保)の必要性が漠然と意識されてはいたようだが、少なくとも南部仏印進駐は英蘭資源の確保のための南方作戦実行の決意の上に行われたものでなかった[37, p346]。つまり南部仏印進駐は南進論には含まれていなかった(当然戦争するつもりもなかった)と思われる。

政府は一つ間違えばソビエト連邦との戦争になる陸軍の関東軍特別演習を抑えるために、戦争の可能性が低いと考えた南進論を進めたとも言われている(NHKスペシャル選日本人はなぜ戦争へと向かったのか4 開戦・リーダーたちの迷走)。またフランスを降伏させたドイツが南部仏印に触手を伸ばす前に、軍部がそこを押さえておきたかったという可能性もある。いずれにしても国運をかけるような事情はなかった。

北部仏印進駐の場合は、善し悪しは別としてまだハノイを中心とする援蒋ルートの遮断という目的が対外的にもわかった。しかし、南部仏印は援蒋ルートとは遠く、そこへの進駐は外部から見ると南方の英蘭の資源獲得のためについに日本が動き出したと見るのが自然である。

日本軍の南部仏印進駐を受けて、8月1日に米国は有名な対日全面禁輸を発動した。ところが日本では、南部仏印進駐に対する反応として、米国による石油を含む全面禁輸を全く予想しておらず、軍中央部にとってはこれは一大衝撃となった(例えば[37]や南部仏印進駐に関わった陸軍省軍務課石井秋穂中佐の手記など)。海軍の永野修身軍令部総長も、石油の禁輸によってこのままでは軍艦が動かなくなるという強迫観念に迫られた上に、今だとまだ米国との戦力が均衡しているとして開戦へと態度を変えていく(NHK、新・ドキュメント、太平洋戦争1941)。戦争準備という面では既に大きな差がついていたのに・・・。

この想定外の米国の対日全面禁輸によって、よく知られているように、1941年9月6日に御前会議において(実質的な開戦を含む)帝国国策遂行要領を決定した(その後も和平の交渉は続けられた。開戦の最終決定は12月1日の御前会議)。

つまり、北進論を抑えるという国内事情によって南部仏印進駐を不用意に行ったために、想定外の石油の全面禁輸を喰らい(少なくともその名目を与えた)、代わりの石油を手に入れるために慌てて準備も十分でなかった戦争を開始したように見える。そのため、開戦時には最前線の軍備だけは整えたものの、後方の戦争基盤の整備はすべて泥縄であり、1943年以降あらゆる軍備の整備・補給が破綻していく。航空機、艦船は小戦力の小出し状態となり、優勢なアメリカ軍に各個撃破されていった。

日本人は一般に決定の先延ばしが好きである。何やかんや言いながら状況を引き延ばして決定的な決断をしないのは、日本人の意思決定のお家芸とも言って良いのではないか?それは今も昔も変わらないように思える。この時期、日本の最高意思決定機関である大本営政府連絡会議のメンバーを見ても、それほど決断力に富んだ人がいるようには見えない。それなのに、1941年9月に開戦という大きな決断を突然にしてしまったのはなぜなのか?

南部仏印進駐の前にもさまざまな経緯があることを承知しているが、こうやって改めて見ていくと、この想定外の全面禁輸により、何もせずとも毎日1万トン近い備蓄燃料が減っていくという恐ろしい事態となった。期限を切られて石油が日々減っていくという事態に否応なく早急な決断を迫られた。最終的にはこの南部仏印進駐によって米国が行った石油の対日全面禁輸が、日本が対英米戦争へ踏み出す「決定的な」役割を果たしたのではないかと思っている(それでも中国から撤兵するという米国の条件を呑む選択肢はあった)。

南部仏印へ進駐せずに米国による対日全面禁輸がなければ、例によってずるずると状況を眺めている間にドイツの対ソ攻勢の失敗(ドイツ軍は12月8日にモスクワ侵攻作戦を中止している:「独ソ戦における長期予報(4)」)という世界情勢の変化により、少なくとも対英米戦争に突入することはなかった ―― つまり南部仏印進駐をしなければ、開戦を決断する理由が日本首脳部にはなかった ―― のではないかと思っている。

近年、日本の著名な歴史学者、政治学者たちが集まって開戦前後の分析を行った本を読んだが、南部仏印進駐を戦争に至る多くの出来事の一つとして淡々と扱っていた(それとも南部仏印進駐は、専門家には太平洋戦争の原因として当たり前なのかもしれない)。そのために、アリューシャンの戦いからは話が遠いが、ここで南部仏印進駐についての私の考え方に少し触れてみた。私は歴史の専門家ではないし、歴史上の出来事には様々なことが複雑に関連していることが多い。そのため、南部仏印進駐のことは的を射てはいないかもしれないが、全く外れてもいないのではないかと思っている。


11-4 アメリカ軍の航空戦力に対する考え方

11.4.1 陸軍における航空戦力の考え方の発展

アメリカ軍がフォート・グレン基地から大型爆撃機によるキスカ島への空襲を直ちに開始できたように、アメリカ軍が大型爆撃機を含む多数の航空機を、開戦前の平時から莫大な予算を投じて揃えていたのは驚くべき事だと思っている。どうしてそれが可能だったのか少し見てみたい。

どの国でもそうであるが、第一次世界大戦後に航空戦力をどう位置づけるかで議論が行われた。アメリカでも例外ではなく、航空戦力を地上軍支援と位置づけるか、独立的に運用して遠隔地の爆撃を可能にするかで激烈な議論があった。その議論の特徴は、軍内で行われたのではなく、政府として軍や大統領などがさまざまな委員会を組織して、(国民の反応も見ながら)勧告を出させたことである。しかし、1920年代末には両陣営をそれぞれ支持する勧告が出て、両者の妥協が図られた時期もあった。

画期的だったのは、1931年に陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーと海軍作戦部長ヘンリー・プラット間で結ばれた非公式の合意だったと思われる。これは「陸軍航空隊(USA Air Corps)は陸軍の沿岸砲の射程を超えた沿岸防衛の責任を負う」というものだった [34]。これが陸軍の航空戦力は戦術的に地上戦を支援するという概念を超えて、後のアメリカ陸軍航空隊の基本理念「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」[35, p15]につながったと思われる。この基本理念が長距離大型爆撃機の開発を後押しした。ただし、後にマッカーサーの態度は航空戦力による地上支援に変わっている。

1930年代前半に航空隊戦術学校(Air Corps Tactical School)において、ハロルド・ジョージ少佐の指示の下で、彼を含む教官たち9人の「爆撃機マフィア」が「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」ための教義の開発と航空隊全体への普及に影響力を持つようになった [34]。沿岸に近づく手段を与えないためには、はるかかなたの敵基地をいち早く撃破する必要があり、それが敵の作戦基盤や生産基盤の破壊という発想へとつながっていった。それがB-10爆撃機の開発となり、その成功がXB-15(後のB-17)の開発へと発展していった。

しかし1935年になると、陸軍と海軍は「共同行動声明」によって陸軍航空隊の役割を移動する地上軍の支援だけに公式に限定してしまう。さらに1938年に米陸海軍合同委員会は、将来の紛争において長距離爆撃機の使用を予見することはできないという判断を下し、発注されていたB-17大型爆撃機の製造は全てキャンセルされた [34]。これらの政争により航空戦力の戦略的独立運用派は衰退し、伝説的な啓蒙家である航空隊長官ベンジャミン・フーロワ少将とウィリアム・ミッチェル少将(死後)は軍人としてのキャリアを絶たれた。海軍作戦部長プラットは退役し、後の航空軍司令ヘンリー・アーノルドは一時的に力を落とすこととなった。

この流れが変わったのはヨーロッパの雲行きによってだった。ルーズベルト大統領は、1939年1月12日に新たな戦争の脅威に対して最低3000機の航空機の増加を要求した。B-17の発注は1939年夏に再開され、発展型のB-17Eは1940年7月に512機が発注された [34]。ただし、いったんストップした生産ラインを再開させるには時間がかかる。この発注の爆撃機が完成して納入が始まったのは、1年4か月後の1941年11月からとなった。

また、1939年12月にはB-17より航続距離の長い4発の大型機B-24爆撃機が初飛行し、その後この大型爆撃機は約18500機も製造されることとなる。また超大型爆撃機B-29スーパーフォートレスの開発も同じ頃承認された [34]。B-29が戦場に出てくるのは1944年になってからのことなので、アメリカはきちんと先を見通していたことがわかる。

ドイツの侵攻によりフランスの崩壊が迫ると、1940年5月16日にルーズベルト大統領は、議会に対して年間50000機(陸軍航空隊へは36500機)の航空機の製造を求める演説を行った [34]。航空機だけでなく、1939年4月に策定された防空計画は新たに12000人のパイロットを含む50000人の航空要員養成が計画された。これは1941年3月14日にはさらに30,000人のパイロットの追加と100,000人の技術要員の追加が承認された [34]。ちなみに日本軍の操縦員数を示しておくと、あくまでその時点での一例であるが次の通り。1941年10月1日時点での海軍の総操縦員数は6154名、当年練習航空隊卒業者数が2740名 [36, p211]、日本陸軍の1939年の搭乗員養成計画では1941年までに将校と下士官と合わせて総操縦員数4646名となっている [37, p207]。

これらによって大量に養成・製造された大型爆撃機を含むアメリカの航空戦力は、1942年から1943年にかけて実戦に出てくることになる。このようにルーズベルト大統領はヨーロッパに目を向けていたものの、開戦に対する国民への説得をどうするかについては別にして、戦争についてはやる気満々だった。まさにこういう戦争準備が完成しつつある中で、日本はアメリカに開戦を強要した。日本軍が真珠湾を攻撃した際に、イギリス首相チャーチルがそれを聞いて、「これで戦争に勝った」と言ったというのもうなずける。なお、大戦中の航空戦力の成果を受けて戦後アメリカでは空軍が独立し、航空戦力の議論に決着がつくこととなった。


11.4.2 長距離大型爆撃機による制空権の確保

地上や海上での作戦を遂行するには制空権の確保が必須である。そして、その制空権を握るためには、敵航空機を空中で打ち落とすのは効率が悪いし条件が揃っていないと難しい。最善なのは爆撃で敵航空機を地上にいる間に破壊するか、あるいは航空機が飛び立てないように作戦基盤(できれば生産基盤)を破壊することである。

アメリカ軍はさまざまな議論を通して、制空権を握るにはまず長距離大型爆撃機が重要であることを理解していたと思う。アメリカでは、前節で述べたように各国で航空戦力の使い方がまだ定まっていない1935年という早い時期に、「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」という構想の下で重武装・重防備で航続距離の長い大型爆撃機B-17の導入を決定した [35, p15]。これは制空権確保の考えを突き詰めていった先の構想であり、もちろん大型爆撃機の整備だけで済むわけではないが、まずは制空権確保のための基盤となる構想であると思う。

そして、日本軍によるアメリカ領のアッツ島とキスカ島の占領に対する反撃は、アメリカ陸軍航空隊の「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」という理念にぴったりはまったものだった。言い方を変えれば、日本軍はアメリカ陸軍航空隊の大型爆撃機に理念通りの活躍の場を与えた。

この大型爆撃機は、太平洋全域において日本軍の作戦基盤に大きな脅威を与えた。日本軍は開戦後に、艦隊決戦に重要なトラック島を大型爆撃機から守るために、南半球のラバウルに進出した[38, p74]。そうしてみるとラバウルを空襲する大型爆撃機に悩まされ、今度はポートモレスビーに侵攻しようとしたし、フィジー・サモアの線で米豪を遮断しようとしてガダルカナル島を占領した。そこで日本軍は航空対峙戦に巻き込まれて消耗していった。

大型爆撃機は広範囲にわたって日本軍の航空作戦基盤を弱体化させ、また日本軍の艦船、地上軍の活動に大きな制約を課した。さらに大型爆撃機は偵察・哨戒機としても使われ、その長大な航続距離と堅牢な機体は太平洋広域に散らばった日本軍戦力についての情報収集に活躍しただけでなく、その強力な武装は両軍の勢力圏の境で多くの日本軍哨戒機を撃ち落としてアメリカ軍の動向を掴みづらくした。そうやって見ると、大型爆撃機がいかに大きな役割を果たしたかがわかる。

話は脱線するが、アメリカの航空戦略の正しさは欧州戦線でも遺憾なく証明されていると思う。大型爆撃機B-17やB-24による昼間爆撃は(イギリスの夜間爆撃もそうだが)、1943年末までドイツ空軍の苛烈な迎撃に晒されたが、その重防備はかろうじてその継続を可能にした。

同年末から戦闘機が全航程で爆撃機に随伴するようになると、ドイツ空軍はその迎撃の際に大打撃を蒙って稼働機が一気に減少した [39, p67-68]。さらに1944年に入ると軍事的生産基盤である精密加工工場や石油精製工場が爆撃で破壊された効果が徐々に出てきた。戦略爆撃による破壊の速度が、ドイツの軍事的生産基盤の回復速度を上回った。ドイツでは航空機を製造することも飛ばすこともだんだん困難になっていった。

ノルマンディ上陸作戦以降は、そうやって制空権を常時失ったドイツ軍は、機甲部隊を初めとする多くの地上軍や物資集積地を連合国軍の爆撃機や戦闘爆撃機で破壊されていき、上陸部隊の迅速な東進を許した。ヨーロッパでもアメリカ(とイギリス)の大型爆撃機が、その後の戦争の行方を大きく左右したことがわかる。

11.4.3 アメリカのレーダー開発

レーダーは第二次世界大戦の直前に発明され、戦争とともに発達した。レーダーによって、特に空と海において夜間や霧にかかわらず、状況の把握を可能にした。航空戦においても、レーダーによって、いつ、どこから、どの程度の規模の航空機が攻撃してくるかを、航空機の速度よりはるかに早く把握することがある程度可能になった。第二次世界大戦当時、飛んで来る航空機の進撃を止めるのは航空機にしか出来ない。レーダーを用いた迎撃は航空機の持つ攻撃性を緩和するのに不可欠の技術となった。

アメリカは戦前には必ずしもレーダー先進国ではなかったが、イギリスからマグネトロンなどの基礎技術の提供を受けて、1940年からMIT(マサチューセッツ工科大学)の輻射研究所(Radiation Laboratory)で4000名を投入してレーダーの開発研究を強力に推進した。その結果は極超短波(マイクロ波)を使った信頼性・安定性の高いレーダーやその表示器(PPI)の実用化につながった。また、その成果はVT信管など様々な電波兵器にも応用された。アメリカ軍のレーダーは、ダッチハーバー攻撃をはじめアリューシャンの戦いでも霧の中での索敵、艦船攻撃、上陸作戦などにおいて優れた無線通信技術とともに縦横に活躍している。なお、4.1.3で述べたように、日本でもキスカ島においてレーダーを用いた防空システムが作られていた。

11.4.4 アメリカ軍の高級指揮官

戦争の性格は最後は人で決まる。特に指揮官の判断は戦いを大きく左右する。第2章で述べたようにアラスカ防衛軍の司令官サイモン・バックナー・ジュニア少将は、元パイロットで航空戦力の扱いを熟知していた。また型にはまらない豪放磊落な人物だった。官僚主義を嫌う代わりに、常識から多少外れていても自分の信念を貫いて実行してしまう人物だった。彼はアラスカ防衛に航空戦力の整備を最優先させたが、彼はそれを一人で立案・実施したわけではない。彼の下には彼の先見の明を慕って飛行場建設を押し進める優れた幕僚たちがいた。なお、バックナーは後に第10軍の司令官として沖縄戦に参加して、そこで日本軍の砲弾に倒れることになる。

また第11航空軍爆撃隊の隊長クラスにもウィリアム・イーレクソン大佐のように、アリューシャンでの戦いに情熱を傾けて、キスカ島の攻撃方法や爆撃方法に工夫を凝らした人材がいた。彼もバックナーを慕っていた。イーレクソンは1942年6月12日の最初のキスカ島爆撃にB-17爆撃機に自ら乗って参加しただけでなく、出撃の際には自作の歌を歌って部下を励ましたという [2, p40]。彼は山を目印にした雲上からの推測爆撃など自ら斬新な航空攻撃方法を編み出して、アリューシャンの戦いで多くの勲章に輝いた。

また海軍でもアッツ島沖海戦で述べたように、北太平洋軍のマクモリス提督は冷静かつ不屈の闘将だった。アリューシャンでの戦いは辺境での地味なものだったが、彼らはこの戦いを自分の定めとして、そこに情熱を注いでいたように見える。彼らはアリューシャンでの戦いにおいて大胆な戦略・戦術を全精力を傾注して考案し、それを自ら実行する人々だった。


11-5 時間に対する考え方

11.5.1 戦力推移に関する日本海軍の判断

アメリカ海軍はヨーロッパとアジアの状況を受けて、1938年の第二次ヴィンソン案でアイオワ級戦艦3隻を含む26万5千トンの建造を決定し、ドイツの侵攻が明確になった1940年6月の第三次ヴィンソン案でさらに16万7千トンを追加した上で、翌月に両洋艦隊法(Naval Expansion Act)によって、さらに空母18隻、戦艦7隻、巡洋艦33隻、駆逐艦115隻、潜水艦43隻の合計132万5千トンの建造を決定していた。

これらの建造は、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦によって、さらに空母8隻、巡洋艦24隻、駆逐艦102隻、潜水艦54隻が追加された [40, p347]。また11.4.1でも述べたように、1939年には5800機だった航空機の生産は、1941年には1万9千機となり、1944年には9万6千機となることになる [41, p160]。航空機の生産が軌道に乗るようになるためには数年かかるため、これは1939年頃から始まった生産ラインの大規模な拡充の成果と思われる。

航空機の新しい機種の開発には数年かかる。また開発が終わっても製造までには、製造ラインの整備、生産工場や治具などのインフラストラクチャーの整備や工員の雇用・訓練、艤装関連装備の製作などの準備にかなりの時間がかかる。アメリカはドイツによる第二次世界大戦の勃発を受けて戦争準備に着手し、2年近くたってその途方もない兵器廠としての能力を発揮しはじめた。

そしてちょうどその頃に日本軍は真珠湾攻撃によってアメリカを戦争に引きずり込んだことになる。第二次世界大戦で使われた戦闘機は、P-47を除いて全て1941年12月の真珠湾攻撃より前に初飛行していたし、超大型爆撃機B-29、B-32、B-36は真珠湾攻撃前に既に開発が開始されていた [34]。11.4.1で述べたように、日本軍の真珠湾攻撃の頃にはアメリカはまさに戦争準備が整いつつあった。

アメリカの両洋艦隊法などの情報は、1941年5月には野村吉三郎駐米大使からの情報で日本に知らされていた。ところがこの情報は、戦史叢書「大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯」によると、「数年にして決定的な非勢となる運命にあるなら、むしろ早期の開戦をのぞましいとする選択にも根拠を与えるもの」として取り扱われた。実際に1941年9月5日に陸海軍総長による天皇への内奏の際に、永野軍令部総長は「若し徒らに時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるも最早如何ともなすこと能はざるなり」と天皇に説明している [42, p48]。

また開戦後1年近く経った1942年11月7日の大本営政府連絡会議でも、その世界情勢判断において「当分の間、彼我の戦勢は枢軸側に有利に進展すべきも、昭和18年後期以降に於ては時日の経過と共に彼我の物的国力の懸隔は大なるに至るべし」と述べられている [42, p93]。つまり、大本営は1943年後半には両軍の差が圧倒的に開くことを早くから認識していた。それにも関わらず、アリューシャンでの戦いでは大本営は漫然と時間を消耗したように見える。

11.5.2 アメリカ軍にとっての時間

一方で、軍備が潤沢になりつつあったアメリカ軍の方がむしろ時間を大切に考えていたように見える。最終的に勝つことには何の疑問もなかったろう。しかし時間が経つほど日本軍の防備が堅くなることは自明であったので、国民の支持を得られる最小限の被害で勝利するためには、軍にとって速やかな侵攻は重要だった。日本軍の「1943年秋までアメリカ軍は攻勢に出られない」という思い込みとは裏腹に、よく知られているように南太平洋では日本軍が1942年5月に占領したソロモン諸島ツラギを8月に奪回する準備を進め、7月初めに日本軍のガダルカナル島飛行場の建設を発見すると、わずか1か月という驚異的な準備期間でツラギ奪回作戦にガダルカナル島上陸を含めた。

西部アリューシャン方面においても、日本軍の6月のキスカ島とアッツ島占領を受けて、直ちに空爆を開始して日本軍の強化を防ぎつつ、8月初めにはキスカ島に艦砲射撃を行った。8月末にはアダック島上陸、翌1943年1月のアムチトカ島上陸と矢継ぎ早に手を打って航空基地を整備し、空爆を強化した。その上で5月にアッツ島を奪還し、8月にはキスカ島に上陸した。キスカ島の飛行場は5月には完全完成しており、アッツ島上陸が1か月遅れていれば、キスカ島に航空機が進出していた可能性が高い。そうすれば連合国軍はそちらの対応も迫られただろう。連合国軍の進撃スピードは同方面の日本軍に全く余裕を与えなかったことがわかる。一方で、圧倒的な海・空軍力が整った1943年11月から中部太平洋での本格的な進撃を開始した。その時には、日本軍には海・空ともにアメリカ軍に匹敵する戦力はなかった。

(おわりに)

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10. 日本軍にとっての総決算

 結局アリューシャンでの戦いは、日本軍はアッツ島とキスカ島をいったん占領したものの、約11か月後にアッツ島は全滅、約13か月後にキスカ島からは撤退という形で終わった。この間のアメリカ軍の航空機によるキスカ島への攻撃は、全占領期間420日のうち184日、のべ4000機により540回以上にわたった [7 ページ: 225]。この戦いを通した被害は、沈んだ駆逐艦3隻、潜水艦5隻、損傷した艦艇10隻、沈没・擱座した輸送船9隻、失った兵士3951名、海上で遭難した人員を含めると5100名以上、海没した物資は数万トンに達した [7, p157] [2, p90]。北方軍ではキスカ及びアッツ島に前進できた者は約2500名で、輸送できずに内地に待機中の部隊は、歩兵4個大隊、重砲2個大隊、高射砲1個大隊など約5700名に上った [4, p457]。数字を単純に比較することは難しいが、実質的に西部アリューシャンにおいてもガダルカナル島の二の舞を避けることが出来なかったと言えるのではなかろうか。

10-1 西部アリューシャン列島の脅威

ミッドウェー作戦の帰趨が明確になった段階で、改めて西部アリューシャンへの敵航空基地前進を防止するためのAL作戦が再発動された。しかし日本軍にとってキスカ島とアッツ島の占領は本当に必要だったのだろか。そこに敵の航空基地が出来るとどういう脅威が想定されたのだろうか?

10.1.1 連合国軍の北方からの本土侵攻

地理的に見ると、アリューシャン列島を経る大圏コースは、北米から日本へ至る最短ルートではある。海軍舞鶴第三特別陸戦隊副官であった柿崎誠一元大尉は、キスカ島とアッツ島の占領を「日本空襲のための基地前進を阻止したことは大きく評価さるべきであろう。」と述べて、1943年2月の海軍軍令部福留第一部長の「もしこれを占領しなかったら、米軍はつとに千島占領を企てたかも知れない。千島の一角を占領されたら東京は敵の空襲圏内に入るだろう」という言を引いている [6, p448]。

しかしながら日本軍が航空基地を建設しなければ、日本軍がキスカ島とアッツ島を占領したままでも、連合国軍は両島の補給を断った上で、セミチ島、アムチトカ島の航空基地から千島を爆撃しながら千島に侵攻することにいかなる支障もなかっただろう。逆に言えば、アッツ島とキスカ島を占領しておれば連合国軍は千島には侵攻しないという考えに根拠はなく、単なる希望に過ぎない。問題は海軍の首脳部の多くがそういう判断を持っていたところにあるのではなかろうか。北方軍でもアッツ島に連合国軍が侵攻する前に「南方の戦訓では日本兵が一兵でもおれば敵は上陸しないことを示した」との判断が回想されている [3, p266]。現実にはガダルカナル島やツラギの状況を見てもこの時点でそういうことは言えなかったのだが、アッツ島とキスカ島の占領や飛行場問題も含めてそういった連合国軍と航空機が持つ威力への過小評価が、多くの判断の底流に流れているように見える。

一方で、アメリカにとって北海道から島が連なっている千島列島の占領は、自国領のキスカ島とアッツ島の占領とは困難度や必要性に格段の差があると思われる。大本営が千島への侵攻を心配するならば、キスカ島とアッツ島を占領するよりは、千島列島に数多くの航空基地や要塞を作る方が北海道からの距離を考えると防衛としてはるかに現実的であろう(日本軍は昭和18年から防備を固め始めている)。そうしておけば、アリューシャン列島を経由した日本への侵攻はアメリカ軍にとってそれほど利点があるようには見えない。

実際にもアメリカ軍は北方からの侵攻策を採らなかった。アリューシャンでの戦いの後、西部方面軍司令官デウィット中将は、キスカ島攻略後に西部アリューシャン列島に兵力を置いて北千島の攻略を主張したが、アメリカ統合参謀本部はこの案を却下した [16, p20]。アメリカ軍はキスカ島を占領後1年間ほど様子を見ていたが、1944年夏にアラスカとアリューシャンの陸上兵力を3分の1に削減し、アダック島より西の航空基地も縮小した [10, p103]。

10.1.2 アメリカ軍の北方からの本土爆撃

アッツ島に基地があれば、戦争前から北千島はアメリカ軍の大型爆撃機B-17による爆撃圏内に入っていた。またアリューシャンの戦いの最中においても、大本営には1943年中にもアメリカが開発中の新型長距離爆撃機B-34(注:B-34はPV-1の別称であるが、これは双発機で長距離爆撃機ではない。B-32かB-36のことを指しているのかもしれない)による西部アリューシャン列島からの東京爆撃を心配する声があった [3, p170]。これはアメリカ軍が同方面に大航空基地を建設して、日本を爆撃することを恐れたのだろうか?しかし、同方面の厳しい気象と険しい地理を考えるとそこに大航空基地を建設するとは考えにくい。むしろ少数機による爆撃でもドゥーリトル爆撃のように国民の士気に関わる問題とみていたのかもしれない。連合国軍によるアッツ島の占領後に、実際にアッツ島とセミヤ島に建設した航空基地から少数機による幌筵への爆撃がたまに行われた。しかし被害はほとんどなかった。

連合国軍は、日本本土の軍需産業や都市に対する戦略爆撃のための大規模航空基地を求めていた。そしてそのためにはアリューシャン列島ではなく、中国奥地やマリアナ諸島を選んだ。それは、航空機活動や補給に向いていないアリューシャン列島付近の地理と気象が大きく関係していると思われる。冷静な分析が行われておれば、日本軍はアメリカ軍の航空基地前進を心配して西部アリューシャン列島を占領する必要はなかったと思われる。

10.1.3 アメリカから見た日本軍の西部アリューシャンの占領

一方でアメリカ側から見ると、日本軍による両島の占領についての実害は無く、放っておいても3年後には一兵も損なうことなく取り戻せただろう。しかしはるか彼方の小島ではあったが、アメリカは自国領土の日本軍による占領を国家の威信と国民の安心の問題として受け取った。アラスカの住民は日本軍の侵攻に不安を感じた。これを全米の国民が注目しており、民主主義国家であるアメリカ合衆国はそれを無視することは出来なかった。つまりアメリカは戦略的な面というよりは政治的な観点により、気候が厳しく資源もない、軍事的にはさほど重要でない孤島に対して本気で奪還に乗り出さざるを得なかった。実際にアッツ島上陸艦隊司令官ロックウェル少将は、アッツ島とキスカ島はアメリカの領土であり、戦略を度外視しても取り戻す必要があったと述べている [2, p91]。

しかし、日本軍はAL作戦を計画した際にそういった気象・地理やアメリカの政治制度や国民性まで考慮していたのだろうか?アメリカ軍の戦力を過小評価していた面もあろうが、もし大本営が上記の点を理解しておれば、そこまでしてAL作戦を実施することに躊躇したかもしれない。

海軍にいたことのある作家の阿川弘之氏は、日本軍の西部アリューシャンの占領について、アメリカ軍がこの方面から日本をうかがいに来るにちがいないという恐怖の幻影と述べている [26, p106]。アリューシャン方面に関する地理や気候に基づいた戦略的検討の欠如が、アメリカの侵攻に対する不安感を増幅させた面があるのではないかと思う。結局、日本軍によるキスカ島とアッツ島の占領は、逆に両島へのアメリカの反攻を誘発しただけと言えるのかもしれない。

10-2 連合国軍への対応


10.2.1 予期せぬ空襲

日本軍によるアッツ島、キスカ島占領に対するアメリカ軍の反応は素早かった。まず空から日本軍の補給を断って戦力を漸減するという基本方針があり、大型爆撃機を直ちにフォート・グレン基地に集めて空襲を開始した。これは日本軍にとってAL作戦起草時には想定しなかったことだったが、ダッチハーバー攻撃時に東部アリューシャンのフォート・グレン基地を発見した時点では予想できたことだった。しかし距離や天候の問題もあり、同基地からの空襲は週に1~2回がせいぜいだった。それでも物資の揚陸のために長期間の停泊を強いられる日本軍の輸送船にとっては大きな脅威であり、物資揚陸の制約となった。

10.2.2 アダック島の失陥

アメリカ軍は、フォート・グレン基地からでは遠すぎて補給の遮断に効果が少ないと見るや、わずか1か月後の7月中旬にはアダック島の占領が検討された。そして8月末には上陸し、尋常ではない努力を払ってわずか2週間程度で航空基地を建設した。この時点でキスカ島での航空基地建設は手遅れとなり、アリューシャンでの戦いは実質的に決したのではないだろうか?この点でアメリカ軍の判断と行動は素早く的確だった。仮にその後日本軍がキスカ島に飛行場を建設することが出来たとしても、航空戦力を集中させて制空権を握るのは至難の業であったろう。戦力を集中させる前にあらゆる手段で叩かれて、遅かれ早かれ航空戦力は無力化されたのではなかろうか。

アダック島の湾に集結するアメリカ艦船(1943年8月)
https://ww2db.com/images/battle_aleutians16.jpg

10.2.3 アムチトカ島の失陥

比較的平坦なアムチトカ島に飛行場が作れることは、6月のキスカ島上陸時の付近の調査でわかっていた。同島はキスカ島と130 kmしか離れておらず、そこに航空基地が出来ればキスカ島とアッツ島の死活に関わることは明白だった。この時点でのアムチトカ島の占領はさしたる問題もなく行えただろう。しかし、アムチトカ島についての問題意識を持っていながらも、日本軍の行動は悠長だった。10月にアメリカ軍がアムチトカ島を占領したという情報が流れると、日本軍はとたんに慌てた。ところが誤報とわかるとそのまま放置して先送りしてしまう。しかし翌年1月に本当に占領されると、今度は「テ」号作戦という決死隊を組織してまでの奪還作戦を検討した。この振れ幅の大きさは何なのだろうか?飛行場建設の問題もそうであるが、理詰めの客観的な判断が十分でなく、その結果、戦略の一貫性のなさを暴露しているだけのように見える。

10.2.4 日本軍の防衛方針の変転

AL作戦策定時の日本軍の防衛態勢は、上陸直後に空襲を受けたことによって、恒久占領と第五警備隊の設立、電探、水上戦闘機、特殊潜航艇の配備へと修正された。アメリカ艦隊の艦砲射撃を受けると8月にはキスカ島に第五十一根拠地隊を設立してアッツ島を撤収してキスカ島の防衛を強化した。アダック島が占領されると、10月には北海守備隊を新設してアッツ島を再占領し、キスカ島、アッツ島、セミチ島での飛行場の建設が決定された(セミチ島占領は途中で中止された)。アムチトカ島が占領されると、2月には北方軍を設立するとともに飛行場建設を急ぐために輸送を強化したが、アメリカ艦隊の出現で輸送の強化は失敗した。アッツ島沖海戦で制海権を失うと、4月には今度は防衛拠点をキスカ島からアッツ島へ移して、そのための「霧輸送」を企画した。5月に連合国軍がアッツ島へ上陸すると、アッツ島放棄とキスカ島からの撤退を決定した。これを見る限り相手が動くとそれに応じてこちらも動くが、その中身は不徹底あるいはワンテンポ遅れてという印象を受ける。

それに対してアメリカ軍には、航空攻撃によって補給と陸上戦力を攻撃して日本軍の弱体化を図ってから侵攻するという一貫した戦略が確立されていた。当初から「航空攻撃→補給の遮断→日本軍戦力の弱体化→飛行場の西進→補給のさらなる遮断→日本軍戦力のさらなる弱体化」というサイクルが確立されており、その上で最後に上陸して島を奪還するという単純明快な方針があった。奇を衒うのではなく、正攻法を繰り返しながら一歩一歩確実に成果を積み上げていくという何の変哲もない戦法であるが、それだけに容易には覆しようのない手堅さを感じる。

(つづく)

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2021/06/30

9. 連合国軍のキスカ島上陸

9-1 アメリカ海軍によるキスカ島砲撃

アッツ島占領後、アメリカ海軍の行動は積極的となり、キスカ島の封鎖と攻撃を強めた。霧の中の索敵を強化するために、新型のASD-1レーダーを搭載した哨戒機PV-1「ベンチュラ」も配備された。6月8日からは駆逐艦隊が継続して封鎖を行い、6月30日にはアラスカ防衛軍の司令部がアダック島に進出した [4, p670]。それとともに重巡洋艦3隻と軽巡洋艦1隻からなる艦隊が7月7日にキスカ島に艦砲射撃を行った、引き続いて駆逐艦隊が7月9日、12日、14日、15日、20日、26日、31日に艦砲射撃を行った。7月23日には戦艦「ミシシッピー」と「ニューメキシコ」、軽巡洋艦「ポートランド」、駆逐艦4隻からなる艦隊と重巡洋艦「ルイビル」「サンフランシスコ」「ウィチタ」、軽巡洋艦「サンタ・フェ」、駆逐艦5隻からなる艦隊の2つの艦隊が、互いにカバーし合いながらやはりキスカ島への艦砲射撃を行った [8, p90]。


飛行するPV-1「ベンチュラ」
https://ww2db.com/image.php?image_id=11063

9-2 日本軍撤収の兆候

連合国軍は第11航空軍を6月の292機から8月には359機に強化し、キスカ島の爆撃を6月から8月まで1454回と徹底した [10, p89]。しかし8月に入っても、連合国軍は日本軍のキスカ島からの撤収に全く気づかなかった。キスカ島を爆撃したパイロットは、7月28日以降地上からの対空砲火が減ったもののまだ続いていることを報告しており、これは一部の部隊は潜水艦で撤退したかもしれないが、まだ部隊は高地に残っているのではないかという疑念を抱かせた [8, p96]。しかしキスカ島への艦砲射撃に対して反撃はなく、キスカ島からの無線通信は沈黙していた。ただ、通信は突然行われなくなると怪しまれるので、日本軍はまだキスカ島にいる間から通信量を徐々に減らしており、無線通信の沈黙は連合国軍にとって決定的な情報とはならなかった。7月28日から8月5日まで行われた写真偵察の結果は、爆撃痕は放置され、自動車類は同じ位置にあり、舟艇の数は普段より減っていることを示していた [10, p90]。事前に状況確認の偵察隊を送るという提案がなされたが、キンケイドはそれを却下した。実はアメリカ陸軍航空隊ルデル大尉は、8月初めにP-40戦闘機で命令を無視してキスカ島に着陸し、1時間ほど歩いて写真を撮ってから戻っていた [2, p88]。しかしキンケイドは仮にキスカ島が無人でも上陸作戦の訓練とリハーサルになるとして、そのまま上陸作戦を強行した [2, p88]。

キスカ島に投下した爆弾と爆撃痕跡(アメリカ軍爆撃機からの航空写真、19438月)
https://ww2db.com/image.php?image_id=13680

9-3 連合国軍の上陸準備

連合国軍はキスカ島守備隊の規模を7000~8000名と見積もっていた [10, p88]。上陸作戦のために、兵士34426名を用意した。そのうち5300名はカナダ軍の部隊だった [8, p93]。艦船は戦艦3隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦19隻、攻撃輸送船5隻、攻撃貨物船1隻、輸送船10隻、貨物船3隻、輸送駆逐艦1隻、LST(戦車揚陸艦)14隻、LCI(大型歩兵揚陸艇)9隻、LCT(戦車揚陸艇)5隻、掃海艇2隻、高速掃海艦3隻、タグボート2隻、港湾用タグボート1隻、調査船1隻を準備した。支援用航空部隊は、大型爆撃機24機、中型爆撃機44機、急降下爆撃機28機、戦闘機60機、哨戒機12機だった [8, p97-98]。

上陸日は8月16日0130時(日本時間)と決められた。アダック島に集められた上陸部隊には、兵士にはゴム製の防水長靴が配布され、その上でアッツ島での失敗を繰り返さないように、キスカ島と似た環境であるアダック島でぬかるみでの行動などの訓練に励んだ [10, p88]。またアッツ島での教訓に基づいて、アメリカ人とカナダ人1400名からなる初の合同山岳コマンド―旅団である第1特殊部隊(The First Special Service Force)も投入された [8, p93]。

上陸部隊は兵士の訓練の進捗と大隊の再編の必要性から、上陸日を24日に延期するように要請したが、太平洋艦隊本部はそれを認めなかった [8, p93]。上陸は日本軍司令部のあるキスカ湾の反対側の北西海岸の南北2か所、そのうち南部は16日0130時、北部は17日に行い、北部では高地を確保するために16日の未明にいくつかの特殊部隊も上陸することに決まった。また、陽動として5隻の輸送船が島の南東側から上陸するかのように島の南東沖にも配置され、示威運動をした後に北西側の上陸艦隊に合同することになっていた [8, p94]。アメリカ艦隊はキスカ島に対して8月3日に爆撃と艦砲射撃を行った。また8月3日から16日まで駆逐艦による艦砲射撃が10回行われた [9, p92]。


連合国軍が上陸した際のキスカ島の地図(1943年8月)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/KiskaLandingsMap.gif

9-4 キスカ島への上陸

8月16日0121時に上陸作戦は霧の中でキスカ島西側の南部で開始され、0700時までに3000名が無抵抗で上陸して約4 km先まで進撃した。1100時までには合計で6500名が上陸した [8, p94]。上陸部隊は日本軍とは遭遇しなかったが、それはアッツ島同様に「日本軍は海岸奥の高地に陣地を構築している」という事前の情報と合致していた [8, p94]。掃海が終わった17日には予定通り西側の北部でも上陸が行われ、特殊部隊とともに0300頃には3100名が上陸に成功した [8, p94]。南部ではさらにカナダ軍を主力とする7000名が上陸した。昼頃には高地の占領に成功し、日本軍が撤収した痕跡を発見した [8, p94]。上陸部隊は日本軍が厳重に防衛していると思われていた南東側ゲートルート入り江(七夕湾)の陸軍防衛地区に達したが無人だった。一方で上陸部隊が発見した日本軍部隊の食べかけの朝食は、発見直前に日本兵が蒸発したような不思議な印象を与えた。


LST(戦車揚陸艦)からキスカ島へ上陸する連合国軍
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連合国軍は日本軍を探して偵察を続けたが、霧に遮られて状況の把握は困難だった。18日になっても日本軍の状況はわからなかった。日本軍は地雷を設置していた。これは高角砲の薬莢に魚雷の黄色火薬を詰め、蓄電池でスイッチが入るものだった [7, p371]。同島を精強な日本軍守備隊が守っていると信じていた彼らは、この地雷の爆発音とともに濃い霧の中で各地で同士討ちを行った。同士討ちとこの地雷によって、連合国軍には22名の死者と174名の負傷者が出た [2, p89]。さら18日夜には駆逐艦「アブナー・リード」が蝕雷して70名が死亡し、47名が負傷した [2, p89]。駆逐艦はタグボートに引かれてアダックに回航された [8, p95]。

8月23日0650時に北太平洋軍はキスカ島の上陸作戦の完了を宣言した。日本軍の占領前にアメリカ軍の気象観測所で飼われていた軍用犬「エクスプロージョン」も無事に発見された [2, p89]。キスカ島の占領は、日本軍から見ると、約35000名もの連合国軍兵士や大量の兵器を主戦場である南太平洋から割いて、大量の弾薬と燃料を消費させる役割を果たした。アメリカのタイムズ紙は「陸海合同のへま(JANFU)軍(Joint Army Navy Foul-Up)」となじったが [2, p89]、北太平洋軍司令長官キンケイド少将は上陸作戦の演習になったことを強弁した。

アッツ島とキスカ島に上陸した連合国軍兵士は、日本軍が残した現地の気候に対応した装備、自然の起伏や地形を利用した陣地や地下壕の建設、前進基地との的確な通信施設に感心した。しかし、キスカ島から霧のように消えてしまった日本軍は、連合国軍にとってみれば不利な状況における日本軍の行動パターンに対する誤った期待を持たせたようである。第二次世界大戦におけるその後のパターンを見ればわかるように、不利な状況に陥った日本軍が取った行動は、キスカ島のパターンではなくアッツ島のパターンだった。

キスカ島に上陸したアメリカ海軍の通訳は、誰かが持ってきた日本語で書かれた看板を訳すように求められた。その看板には日本語で「ペスト患者収容所」と書かれていた。アメリカ軍は慌てて血清を送るように軍本部に依頼し、付近の兵士を隔離した。実際にはキスカ島にペスト患者収容所はなく、この看板は日本軍の軍医が後に上陸してくるであろう連合国軍をだますために作って置いてきたものだった [28, p79]。この時の海軍通訳はドナルド・キーンという若者であり、戦後に日本においても有名な日本文学の研究者となった。

(つづく)

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8. キスカ島撤収-「ケ」号作戦

8-1 第一期キスカ島撤収作戦

7.3.4で述べたように、キスカ島から撤退することが決定されたものの、アッツ島が連合国軍に占領された結果、キスカ島は連合国軍の航空機、哨戒艇、潜水艦によって四方から厳重に封鎖された。しかもときどき艦隊が付近を遊弋してキスカ島に艦砲射撃を加えた。連合国軍の艦艇はSGレーダーを装備しており、霧の中でもレーダー射撃を行うことができた。

大本営では、連合国軍の日本への反攻の重点は太平洋南東方面であろうと考えていた。実際に、6月30日には連合国軍は、南洋ソロモン諸島のレンドバ島、ニューギニアのサラモア付近に上陸を行った。アリューシャンでも霧が晴れる時期になれば、連合国軍は当然キスカ島へ上陸してくるものと考えられた。キスカ島はアッツ島に比べれば防御陣地の構築は進んでいた。しかし、弾薬は戦闘時の1週間分、食糧は減量して7月までと考えられた [4, p603]。連合国軍が上陸すれば、アッツ島の二の舞になることは避けられなかった。

日本軍はキスカ島の将兵約5600名を救出する必要に迫られた。聯合艦隊は第五艦隊に対して5月29日にキスカ島からの撤退である「ケ」号作戦を開始するように命令した。その「ケ」号作戦とは、状況によっては監視艇や駆逐艦などを利用するものの、主に潜水艦を使用してキスカ島の守備隊を撤収させるものだった [4, p565]。しかし、その方法では全員の撤収には9月末までかかると考えられ、連合国軍の封鎖情況をを考慮すれば、兵士の半分が撤収できれば良い方と考えられた [3, p468]。

キスカ島の海軍関係者は、ガダルカナル島からの撤退が同じ「ケ」号作戦であったため作戦名からすぐにその意図を察したが、陸軍北海守備隊は6月9日に幌筵からキスカ島に帰島した参謀によって初めてその企図を知った。もちろん撤収計画の連絡・通信に関しては、連合国軍に悟られないように厳しい情報統制が敷かれた。北方部隊潜水部隊は、作戦発令前の5月27日から潜水艦を使って、まず傷病者と軍属のキスカ島からの撤収を開始した。「ケ」号作戦には13隻の潜水艦が参加した。6月9日までに6回の撤収が無事に成功し、1回の救出数は60~80名と効率が悪かったものの、潜水艦を用いた撤収は順調に進むかのように見えた。

実は、この時期のアメリカ艦隊はアッツ島の作戦が一段落したため、基地へ戻って補給を行っていた。しかし6月10日頃になると、アメリカ軍によるキスカ島付近の哨戒網が再構築された。6月10日から12日にかけて、潜水艦「伊一六九」と潜水艦「伊二十一」が濃霧の中で突如砲撃を受けたが被害はなかった。しかし前述したように潜水艦「伊二十四」が6月11日に、そして潜水艦「伊九」が14日にに消息不明となった。アメリカ軍の記録によると、「伊九」は距離6.4 kmでレーダーで発見され、その後潜望鏡を視認されて攻撃を受けて沈没した [24, p37]。17日には潜水艦「伊二」が砲撃を受けて砲弾が命中したものの、命中場所が致命部位から逸れたため退避に成功した [4, p583]。それらの被害を受けて、「ケ」号作戦はいったん中断された。

潜水艦を用いた撤収は、6月18日に4隻の潜水艦を用いて再開された。21日に最初にキスカ島に進入した潜水艦「伊七」は、1555時に七夕湾に入る2 km手前で駆逐艦「モナガン」から霧の中でレーダーによる砲撃を受けた。砲弾が「伊七」の艦橋に命中して司令と艦長が戦死し、潜航不能となった。同潜水艦は旭岬に擱座し翌日に第五十一根拠地隊の応援を得て、ガス溶接などにより破孔の応急修理を行った[7, p311]。同艦は22日の2000時に応急修理を終えて濃霧の中を海上航行で横須賀に向かおうとしたところ、再び駆逐艦と砲戦となった。そのため同潜水艦はキスカ島へ戻ろうとしたが、被弾によって浸水が激しく、2300時に付近の岩礁に擱座するに至った [4, p580]。命中弾は40発という回想があり[7, 312]、この戦闘で乗組員80名が戦死した。なお同潜水艦は暗号書を積んでおり、後日第五十一根拠地隊によって数回にわたって爆破された。これにより23日に「ケ」号作戦の一旦中止が指令された。結局6月18日までに潜水艦でキスカ島からの撤収に成功したのは、主に軍属や傷病者の872名だった [4, p574]。

潜水艦「伊七」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Japanese_submarine_I-7_in_1937.jpg


8-2 第二期第一次キスカ島撤収作戦

8.2.1 作戦計画

聯合艦隊司令部は「ケ」号作戦を速やかに終えて、主戦場である南東方面あるいは中部太平洋に全勢力を傾注したかった。6~7月にかけて太平洋高気圧が強まり始めると、低気圧がベーリング海に入った際に湿った南風がアリューシャン列島付近に吹く。すると、それがまだ冷たい海面に触れて霧が発生しやすくなる。霧が発生すると、日本軍の艦船は航空攻撃を避けることができた。そのため、聯合艦隊司令部は6月上旬から霧を利用した水上艦艇による一挙撤収を研究していたようである。第五艦隊では、その水上艦艇による一挙撤収を第一水雷戦隊に命じた。

第一水雷戦隊司令官だった森友一少将は病に倒れ、6月11日に第一水雷戦隊司令官として木村昌福少将が着任した。彼は温厚だが果断な人物であり、海軍軍令部でのデスクワークとは無縁だったが、南洋ソロモン諸島での諸作戦に参加して実戦の経験は豊富だった。彼には、第五艦隊から撤収案として手持ちの駆逐艦全部(11隻)で行う案と特設巡洋艦を使う案の2案が提示された。駆逐艦で撤収する案は迅速に行えるがキスカ島守備隊全員の収容は出来なかった。特設巡洋艦を使えば全員を収容できるが、改造商船なので速度が遅く、敵に発見される可能性が高かった [4, p606]。もし交戦して駆逐艦が5割損傷すれば、その後の撤収は困難になると考えられていた [3, p474]。さまざまな検討が重ねられた結果、特設巡洋艦の代わりに高速を出せる軽巡洋艦を用いることになった。陸軍からはなぜ重巡洋艦を出さないのかという疑問が出されたが、木村司令官の意見は、燃料を多量に消費する上に直衛に駆逐艦が必要な重巡洋艦は、出てもらわない方がかえって良いというものだった [3, p475]。

木村昌福少将
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kimura_Masatomi.jpg?uselang=ja

6月24日に第五艦隊を主とする北方部隊はケ号作戦を発令し [4, p606]、28日にはその部隊構成が示された。この任務には収容隊と警戒隊と補給隊が組織された。そして、収容隊として軽巡洋艦「木曽」、「阿武隈」、駆逐艦「響」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」、「朝雲」、「薄雲」が、警戒隊として駆逐艦「島風」、「五月雨」、「長波」、「若葉」、「初霜」が、それに補給隊として油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が割り当てられた。なお、予備の収容隊に特設巡洋艦「粟田丸」が組み入れられた [4, p607]。状況によっては警戒隊と予備の収容隊にも守備隊の収容が予定された。その他に哨戒艇と潜水艦7隻が気象通報に参加した。しかし気象通報を行った艦は、発信した電波から位置を特定されてすべて撃沈された[7, p389]。これから、連合国軍による封鎖の厳しさがわかる。

軽巡洋艦「木曽」1942年アリューシャン方面で撮影されたもの。
https://ww2db.com/image.php?image_id=7759

撤退の意図を敵に悟られないように通信の際の一般暗号書の使用は禁止され、海軍の特定暗号書の使用が定められた [4, p608]。迅速な収容と万一の海戦に備えて、海軍は撤収する際に兵士は小銃を携行しないように要請した。ガダルカナル島からの撤退でも兵士は小銃を携行しており、これは異例の措置だった [3, p477]。また、アメリカ軍の巡洋艦に偽装するため、軽巡洋艦の3本煙突の一つを白塗りにして2本煙突に見えるようにした [4, p614]。

さらに艦隊のキスカ島での収容時間をできるだけ短くする必要があった。そのためには陸から船へ兵士を運ぶ大発を2往復に止める必要があった。1隻120名の搭載として、22隻の大発が必要だった。大発10隻はキスカ島にあるので、残りの12隻は収容艦隊が船を改造して搭載した。その他に泊地進入の経路、帰投航路の選択等に苦心が払われた。また、軽巡洋艦「阿武隈」と「木曽」には効果的な対空兵器がないので、陸軍の7 cm野戦高射砲を仮設装備した [4, p614]。

この作戦は、敵に見つからないように霧を利用しながらも、霧が濃いと艦隊の航行に支障を来すという矛盾した側面を抱えていた。そのため、第一水雷戦隊に気象士官橋本恭一少尉が配置された [4, p614]。しかし、彼は九州大学地球物理学科出身で気象学の専門家ではなかった。彼は後にサイパン島で戦死した。軽巡洋艦の「阿武隈」と「木曽」には2号1型電探が装備されていたが、見張りの代わりに使えるだけで、射撃用の距離測定はできなかった [19, p315]。木村司令官の要望で距離測定ができる最新の2号2型電探を装備した新造の駆逐艦「島風」が、7月1日付けで第五艦隊の第一水雷戦隊に編入されたが [4, p614]、電探の動作はなかなか安定しなかったようである。電探の受信機をスーパーヘテロダイン方式にして同型電探の動作が安定したのは、1944年夏からである。一方で、超短波用の逆探が全艦に装備されたが [4, p614]、アメリカ軍が1942年秋から装備していた極超短波を用いた新型SGレーダーには応答しない可能性が高かった [15, p97-98]。なお、レーダー欺瞞用の反射物も搭載された [24, p41]。

駆逐艦「島風」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimakaze.jpg

霧の中での航行のための唯一の手がかりは、キスカ島から発信されるビーコン電波だけだった。キスカ湾に入る前には小島があり、それらを霧の中で確実に避けてキスカ湾に到達することができるかどうかはわからなかった。また乗船開始時刻は1500時と決められたが、キスカ島に散在している陸軍部隊は直前まで警備体制をとる必要があり、また場所によっては乗船場所までたどり着くのに数時間かかる場所もあった。迅速な収容のため場所に応じて出発時刻が決められた。

8.2.2 作戦のための霧予報

この作戦を成功させるためには3日以上前のキスカ島の霧の発生の予報が必要だった。この霧予報の重大な責任を負ったのは、中央気象台附属気象技術官養成所出身で、まだ22歳の第五艦隊気象長竹永一雄海軍少尉だった。彼は4月に霧予報の調査を命じられていた。気象予報のためにはまず北太平洋高緯度での気象観測データが必要だった。彼は過去に船舶によって行われた北太平洋の気象観測の結果や神戸の海洋気象台が発行していた北太平洋天気図を用いて霧の予報手法のための調査を行った [25, p7]。また、幌筵に停泊している船舶にもアリューシャン列島の霧の特徴を尋ねた。

気象データを入手できても、霧の予報を出すには予報手法を新たに開発しなければならなかった。彼が苦心のすえまとめたアリューシャン列島西部の海霧予報のための法則は次のようなものであった [26, p6]。

  1. 北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカ島が霧になる確率は9割以上である。
  2. 霧は低気圧の接近によって発生し、その通過後に晴れる。
  3. 霧が発生する時の風速は5~7 m/sが最も多く、風が弱いときは霧は少ない。
  4. 気温より水温が2℃以上高いと霧が発生しやすい。
  5. キスカの霧の季節は6月下旬から7月上旬までの間で、7月下旬になると霧の発生は減少する。

1.は「プラス2セオリー」と呼ばれた。なお4.は2.の低気圧接近時の南風との整合性を考えると、夏の時期は「気温より水温が2℃以上低い(気温が水温より2℃以上高い)」とする方が妥当と思われる。ただ霧はどちらの条件でも発生する可能性がある。

8.2.3 作戦の経過

第五艦隊では、キスカ島付近は7月10日夕方から霧が濃くなり、11日は霧または霧雨、12日は霧は少なくなると予想した。この予報に従って、第一水雷戦隊は11日を撤収予定日として7月7日に幌筵を出港した。ところが第一水雷戦隊では11日には高気圧が発達して霧が消えると予想し、途中海域で待機しながら突入を13日に延期した。実際に11日はキスカ島付近の天候は曇りだが視程は10~15 kmあり、夕方にはアメリカ軍の駆逐艦隊がキスカ島を砲撃した。キスカ島では作戦延期の知らせが十分でなく、沖合に見えたアメリカ艦隊に向かって発光信号を送ったり、誘導電波を送ったりするなどの混乱が起こった [7, p336]。

第一水雷戦隊では撤収を予定した13日の天候を、午後から霧が深くなるが、低気圧の動きが遅いので霧の発生は夜になると予測した。またアメリカ艦隊の警戒が厳重であると考えて、撤収を14日に延期した。この時期の第一水雷戦隊の天候判断は、第五艦隊司令部や第五十一根拠地隊の判断と異なっており、全般的にきわめて慎重であった [4, p617]。第一水雷戦隊が待機していた海域は終始晴れており、心理的に第一水雷戦隊の突入を難しくしたかもしれない。天候だけ見ると、この日のキスカ島は終日霧だった[4, p617]。

13日における第五十一根拠地隊の予報は14日は雨または霧、15日夕刻より天候が回復するというものだった。しかし第一水雷戦隊は、戦隊付近の高気圧がそのままキスカ島付近へ向かうため14日も薄い霧程度で視界は良好と予測し、航空攻撃を避けるためキスカ島への突入を15日に延期していったん反転した [4, p617]。しかし低気圧が東進してきたため、13日2100時に第一水雷戦隊の予報は「14日の天候は悪化する」に変わり、突入を14日に戻した [4, p618]。ところが14日0125時になって、キスカ島での撤収作業が高波で困難であることが予想されたため、やはり15日に突入することに変更した。実際のところ、14日はキスカ島付近の天候は悪かったが、アメリカ艦隊がキスカ島のすぐ東方で行動していた [3, p483]。第一水雷戦隊は15日の突入を目指して、折しも発生した濃霧の中を14日1450時にキスカ島へと針路を向けた [4, p618]。

ところが低気圧は予想より早くキスカ島付近を通過し、15日0300時には曇りだが視程は10 km程度に回復した。さらに0600時の気象状況を待ったが、第一水雷戦隊付近では晴れ間もあり、視程は20~30 kmもあった [4, p619]。キスカ島到着予定は1500時であったが、キスカ島での天候はさらに回復することが想定された。既に敵機の哨戒圏内であり、退避して再び待機することは燃料不足のため無理だった。15日0905時に第一水雷戦隊は撤収作戦を断念した旨を発信した [4, p619]。連合艦隊司令部は1521時に第五艦隊に決行の要望電を発信したが、結局第一水雷戦隊は帰投のため幌筵へと向かった [19, p318]。

第二期第一次キスカ島撤収作戦での第一水雷戦隊の判断と行動。縦軸は第一水雷戦隊の行動日、横軸は第一水雷戦隊でのキスカ島の予報内容。オレンジは撤収予定日。北上はキスカ島へ向かう。南下は退避または帰投。(戦史叢書「北東方面海軍作戦」を元に作成)。クリックで拡大。

このように第一水雷戦隊での気象予報は二転三転し、そのたびに艦隊は北転と南転を繰り返した。一方で、キスカ島の第五十一根拠地隊では、最低限の武器・弾薬や食糧を除いて残りを全て破壊または破棄し、部隊の配置によっては数時間はかかる海岸への集合と現地への復帰を11日から15日まで毎日繰り返していた。第二期として意気込んだ撤収作戦が不成功に終わったことは、現地部隊にアッツ島の二の舞を予感させるという深刻な影響を与えた。戦史叢書「北東方面海軍作戦」は「キスカ島守備部隊の人々には、一水戦の行動を批判するよりも、がっかりしたというのが実感であったろう。」と述べている [4, p626]。


8-3 第二期第二次キスカ島撤収作戦

8.3.1 第一次撤収作戦失敗の後

天候によるものではあったが、第一水雷戦隊の帰投に聯合艦隊司令部は強い不満を抱いた。そして督戦の意味をこめて7月20日に参謀副長小林謙五少将を第五艦隊司令部に派遣した [4, p627]。また、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた第五艦隊司令部も、第一水雷戦隊の慎重な行動を非難した [4, p628]。一方で、第一水雷戦隊では駆逐艦を多数失えば今後の戦局に重大な影響があると考えて自分たちの慎重な行動を当然と思っており、第五艦隊司令部による非難を心外と捉えていた [4, p630-631]。第五艦隊と第一水雷戦隊では立場と考え方に違いがあった。そのため、次回は第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」に乗艦して第一水雷戦隊と同行して、第五艦隊司令部が現場で突入の判断を行うことになった [4, p631]。なお突入の判断の後、「多摩」はキスカ島へ突入せずに幌筵へ戻ることになっていた。また特設巡洋艦「粟田丸」は撤収艦隊から外された。

8月になれば霧の出現は期待できないと考えられていた。また重油も幌筵には艦隊行動でキスカ島までの往復1回分しか残されていなかった。次の霧はなかなか発生しそうになかった。通常ならば北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が、この年は北緯42度付近にあったため霧が出にくかった [26, p65]。竹永気象長は霧が出にくい原因まで叱責され、ノイローゼ気味となった。木村司令官は心中に再挙の固い決意を持っていたと思われるが、港で釣りをして過ごしてあたかも周囲の状況を意に介していないようだった。

1943年7月23日の天気図。太平洋高気圧が例年より北の三陸沖に偏っている。
原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」

8.3.2 第二次撤収作戦の発動

7月22日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵付近は霧となった。この低気圧が東進してベーリング海に入ると、プラス2セオリーから25日頃に南風によって霧がアリューシャン列島に発生することが期待された。7月26日のキスカ島突入を予定して第二期第二次撤収作戦が開始された。巡洋艦3隻、駆逐艦11隻と補給艦からなる艦隊は、22日夜に幌筵を出港した。第一水雷戦隊では翌23日に26日の天候を曇り時々霧で見通しは良いと予測し、第五艦隊司令部に突入の27日への延期を具申した。しかし第五艦隊司令部はこれを認めず、26日の突入を変えなかった [4, p633]。ところが、この低気圧は予想より速く進み、24日にはキスカ島を通過してしまい、その後キスカ島付近は晴れてしまった。

一方で艦隊は連日の濃霧の中の航行であったため、7月24日に艦隊の隊形が混乱した上に補給隊の油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が隊列からはぐれてしまった。このため「多摩」の第五艦隊司令部は突入日の27日への延期を認めた [4, p633]。この日の1500時に「木曽」は仮装備した陸軍の野戦高射砲の試射を霧の中で行ったところ、たまたまこの音を聞きつけた「日本丸」と合同することが出来た [4, p634]。作戦の途中で「日本丸」から重油の補給ができなければ、艦隊は作戦を継続できないところだった。しかし、補給隊のもう1隻である「国後」はまだ行方不明のままだった。

7月25日には敵潜水艦のレーダーを艦隊のすぐ近くに逆探知したため韜晦行動を行った。これは、アメリカ潜水艦が対空用の超短波SDレーダーを使ったためかもしれない [27, p229]。この韜晦行動により、キスカ島への突入日は28日もしくは29日に変更された [4, p634]。第一水雷戦隊では東北沖にある低気圧が北東進すれば、29日以降にキスカ島付近の天候が悪くなると予想した [4, p635]。

この25日から突入日までの韜晦行動に関して、第五艦隊司令部と第一水雷戦隊では考え方に違いがあった。第一水雷戦隊ではいったん南下して敵潜水艦から離れ、突入日に間に合うように北上すれば良いと考えていた。しかし第五艦隊司令部の指示は、突入の即応体制を取るためその付近で待機(往復運動)するというものだった。第一水雷戦隊は敵潜水艦に接近したままの指示に釈然としなかったが、これに従った [4, p636]。

第一水雷戦隊は7月26日早朝に突入日を29日に決定して、第五十一根拠地隊から了承を得た [4, p636]。艦隊付近は濃霧のため、はぐれた海防艦「国後」以外は単縦陣で航行していた。ところが26日1744時に「国後」が霧の中から艦隊付近に突如現れ、軽巡洋艦「阿武隈」の右舷中部に衝突した。このため隊形が混乱し、駆逐艦「初霜」は駆逐艦「若葉」と「長波」に接触した [4, p636]。「若葉」と「初霜」は最高速度が12ノットに低下したため、「若葉」は自力で幌筵へ回航、「初霜」は「国後」の護衛に回ることとなった [4, p64]。「若葉」に座乗していた第二十一駆逐隊司令は、「島風」に移乗した。

キスカ島付近では20日以降24日を除いて連日晴天が続いており、敵機や敵艦隊の活動が活発だった。キスカ島の第五十一根拠地隊は霧の季節が終わったのではないかと危惧したが、これを逃すと二度と撤収機会の見込みは無く、キスカ島への突入を要望した[4, p640]。ところが7月27日にオホーツク海に低気圧が発生して、幌筵は霧となった。これに基づいて、7月27日0600時に第一水雷戦隊では、プラス2セオリーからキスカ島付近の29日の天候を霧と判断した。しかし、第五艦隊司令部では薄霧で敵機の飛行は可能と判断した [4, p640]。なお後述するように、この日の夜にアメリカ艦隊はキスカ島南方海域においてレーダーで探知した幻の目標に砲撃を加えていた。これはキスカ島からも観測され、艦隊が交戦していると推測された。日本艦隊では該当する艦船がないため、敵同士の味方討ちと判断していた [4, p639]。

7月28日にキスカ島では昨日オホーツク海で発生した低気圧が近づいてきて早朝から霧となった。第一水雷戦隊では29日の天候を「西の風で曇りときどき霧」と判断した。第五艦隊では「南西の風、曇りで淡霧だが敵機の飛行は困難」と予測した。しかし、軽巡洋艦「多摩」の第五艦隊司令部は突入するかどうかで迷った [4, p642]。第一次撤収作戦では第一水雷戦隊の行動を批判した第五艦隊司令部だったが、現場で当事者になってみると机上で考えていたようには行かなかった。迷った司令長官河瀬四郎中将は、座乗していた「多摩」艦長で積極果敢な神重徳大佐に意見を求めたところ、ぐずぐずしていたら突入の時期を失するという意見に押されて突入を決めた [4, p642]。1600時には艦隊はキスカ島へとコースを向けた。なお、幸運なことにこの日1010時から30分間だけ霧が晴れて天測により艦隊の位置を確認するとともに艦隊の隊形を整えることが出来ていた。夜になると霧は一層深くなっていった。


第二期第二
次キスカ島撤収作戦での第一水雷戦隊(第五艦隊司令部「多摩」を含む)の判断と行動。縦軸は第一水雷戦隊の行動日、横軸はキスカ島の予報内容。オレンジは撤収予定日。(戦史叢書「北東方面海軍作戦」を元に作成。クリックで拡大


8.3.3 キスカ島での撤収

7月29日は、キスカ島では霧のため視程は1500 m程度と突入には絶好の天候となった。0700時に第五艦隊司令部が乗った軽巡洋艦「多摩」は、予定通り第一水雷戦隊から別れて幌筵に向かった。第一水雷戦隊では撤収部隊の都合を考えて、1430時入港を予定していた。ところが、第五艦隊司令部は入港時刻を4時間繰り上げる符牒を送信したので、1330時入港に予定を変更した [4, p644]。なお、符牒は予め「一符字」で決められており、アメリカ軍はこれだけを受信しても発信艦の方位測定や位置の推定は出来なかった [7, p400]。キスカ島の北側を時計周りに回っていた艦隊は、近くの岩礁などを避ける必要があったが、霧に閉ざされて正確な位置が不明だった。11時半頃に一瞬霧が晴れてキスカ富士を視認でき、これで艦隊の正確な位置を確認できた。キスカ島の東に回り込むとキスカ島から発信されるビーコンにより一挙に突入することが出来た [7, p404] 。

当日、キスカ島では朝から電探が敵機を上空に捕え、9時頃までに2回対空戦闘があった。ところが1000時頃から霧が深くなったためか敵機は戻っていった。同じく午前中にはキスカ島付近を哨戒する敵駆逐艦の音も聴音されていたが、同様に戻って行ったようだった [7, p358]。第一水雷戦隊では、入港直前の1150時にキスカ島から敵艦船の聴音の報告があり、また駆逐艦「島風」も高感度の目標を探知したため、会敵を予期していたところ、1300時に艦影を発見したため「阿武隈」が咄嗟に魚雷攻撃を行った。しかし、艦影に見えたものはキスカ島付近の小島だった [4, p644]。

島内の兵士には29日朝に、予定が早まって艦隊が昼頃に到着することが突然伝えられた。撤収予定地から離れた部隊では、ちょうど食べかけていた朝食をそのまま残してあわてて湾に向かった。第一水雷戦隊は1340時に無事キスカ湾に入った [4, p644]。キスカ島周辺は深い霧に包まれていたが、湾内の視界は良好だった。撤収作業は島内に残っていた大発と艦隊が搭載してきた大発を使って順調に行われた。前述したように、迅速な収容を可能にするために兵士たちには小銃を海に捨てるように命令された(一部の艦では所持を許された)。大発から艦艇に乗り移るのを容易にするために、登りにくい縄ばしごではなく丸太を縄でつないだ特製のはしごが用意されていた。これらの結果、全将兵は1時間以内に船に収容された。収容中もときおり上空に敵機の感度があり、電探隊は最後まで残って敵機の監視を行った。艦隊が無事に出港し始めると電探を爆破して、電探隊は最後の大発に乗って艦隊に収容された [7, p360] 。

1430時頃には撤収を終わり、艦隊は出港した。ところが1627時に「阿武隈」が距離わずか約2 kmでアメリカ軍の浮上潜水艦を発見してこれを回避した。艦隊は発見されたと思われたが、アメリカ艦隊と誤認したのか潜水艦から無線は発信されなかった [4, p646]。これは、アメリカ軍の巡洋艦に似せるために軽巡洋艦の煙突1本を白く塗った効果だったかも知れない。また、北方部隊では7月29日に艦隊が大湊に在泊しているような偽電を発信していた [19, p320]。艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして5186名が無事にキスカ島から撤収され「ケ」号作戦は成功した。この作戦の間幌筵の旗艦「那智」で気象予報を行っていた竹永気象長は、それまでとは打って変わってみんなから感謝された。河瀬第五艦隊司令長官は作戦概報において「惟フニ本作戦ガ濃霧ノタメ敵機ノ活動全ク封殺セラレ敵艦隊ノ哨戒亦不備ナル好機ニ乗ジ得タルハ全ク天佑神助ニ依ルモノニシテ感激ノ外ナシ」と述べている [19, p320]。古賀聯合艦隊司令長官は、31日に慰労電を発信した。8月2日には大元帥である天皇陛下から撤収作戦に関して御嘉賞のお言葉を賜った [3, p492]。

8.3.4 キスカ島沖での幻の海戦

キスカ島からの撤収作戦の成功には、第五艦隊司令長官が「敵艦隊ノ哨戒亦不備」と指摘しているように、アメリカ艦隊の行動が大きく関係していた。7月23日にカタリナ飛行艇のレーダーがアッツ島南西150 kmに7隻の船を感知した [8, p91]。北太平洋軍はこれを日本の増援軍と判断し、迎撃させるためにキスカ島の南西でキスカ島を封鎖していた駆逐艦2隻を含めて、砲撃艦隊にキスカ島南西の該当海域に向かわせた。7月27日の夜、この艦隊の戦艦「ミシシッピー」がキスカ島の南西150 km海域でレーダーの反応を認めた [2, p86]。この艦隊の戦艦「ミシシッピ」、「ニューメキシコ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「ポートランド」、「ルイビル」は直ちに、この目標に22 kmまで接近して約30分間にわたって砲火を浴びせた。ただし星弾(照明弾)を用いてもその目標は視認できなかった。夜が明けた28日に偵察機を飛ばしたが、いかなる残骸や漂流物も認められなかった [10, p93]。

艦隊のレーダー担当士官は、後にそのレーダーの反応が異常な大気状態による約180 km離れたアムチトカ島からの電波反射が原因だったかも知れないと示唆している [8, p91]。この戦いはピップスの戦い(The Battle of the Pips)とも呼ばれている。このアメリカ艦隊の幻との戦いによって、日本艦隊がキスカ島からの撤収を行っていた29日頃、アメリカ艦隊はキスカ島付近には駆逐艦「ハル」1隻だけを残して、キスカ島の南東200 kmの地点で消耗した砲弾や燃料の補給をしていた [2, p88]。この燃料補給によって、この時だけアメリカ軍の封鎖網に隙が生じて、日本艦隊にキスカ島との航路が開けていた。もちろんアメリカ軍では、この一瞬の隙を突いて日本軍が撤収したことに全く気付かなかった。

駆逐艦「ハル」(DD-350)
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なお、駆逐艦「ハル」は1944年12月にハルゼー率いる第38任務部隊がフィリピン沖で台風「コブラ」に遭遇した際に、高波を受けて沈没した(米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(3)参照)。その後、この時の状況を元にピューリッツァー賞を受賞したハーマン・ウォークの世界的ベストセラー小説「ケイン号の叛乱」が作られ、それを映画化したものはアカデミー賞を受けている。

 

7. 連合国軍のアッツ島上陸

7-1    上陸作戦準備

 7.1.1    連合国軍の準備

連合国軍は西部アリューシャン列島の戦術的価値はほとんどないと考えていた。しかし、日本軍によるアメリカ領土の占領は、政治的な観点からアメリカを動かした。1942年12月に連合国軍は両島の奪還のための陸海軍の統合作戦を計画した。当初の作戦計画は5月1日以降のキスカ島への上陸だったが、2月初めに使える船舶が予定より少ないことがわかり、キスカ島上陸作戦の練り直しが行われた [8, p58]。

3月3日に北太平洋軍司令長官キンケイド少将は、アッツ島の守備隊が500名程度と推定されていることを知り、3月11日にアッツ島とセミヤ島の占領とそこでの飛行場建設を計画した。それは戦艦3隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦3隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、攻撃輸送艦4隻、輸送船1隻、その他のタンカー、掃海艦、水上機母艦を用いる計画だった [8, p59]。3月22日にアメリカ統合参謀本部によってこの作戦は承認された [2, p65]。目的は西部アリューシャン列島への補給線を遮断するために、アッツ島と付近の島に航空作戦用の飛行場を建設し、それらを将来行なわれるキスカ上陸作戦のための基地にすることだった [4, p559]。

アッツ島への上陸予定日は5月8日の夜明け15分前の0240時(日本時間)と決まった [8, p61]。この日は最も霧が深くなる季節に入る前の時期として選択されたが [3, p306]、この年の霧の時期は早く始まった。しかしこれ以上時期を早めることは不可能だった。その後の偵察で、日本軍の兵力は1587名と推定された [2, p65]。上陸作戦用に次の2つの艦隊が編成された [8, p62-72]。

任務部隊キング(指揮官キンケイド少将、護衛部隊)

     南方支援グループ:軽巡洋艦3、駆逐艦5。
     北方支援グループ:重巡洋艦3,駆逐艦4。
     給油グループ:タンカー6隻と駆逐艦母艦2隻。
     航空攻撃隊:航空攻撃隊として大型爆撃機24機、中型爆撃機30機、戦闘機128機。
     哨戒隊:水上偵察機24機、カタリナ飛行艇(PBY-5As) 30機、水上機母艦5隻。
(水上機部隊、アラスカ地区防衛・補給部隊、セミヤ島占領グループを除く)


任務部隊ロジャー(指揮官ロックウェル少将、攻撃部隊)

     支援グループ:戦艦3隻、護衛空母1,駆逐艦7。
     輸送グループ:攻撃輸送艦(APA)4,輸送艦1(「ペリダ」),輸送駆逐艦1(「ケイン」),駆逐艦3,水上機母艦1,掃海艦2(「シカード」、「プルーイット」)。
     掃海グループ:掃海艦2。
実際には任務部隊キングの部隊の一部は任務部隊ロジャーに入れられた。

なお、攻撃輸送艦(APA)とは、多数の兵員用上陸用舟艇(LCP)を船内に収容してその急速揚降装置を備えて、沖合からLCPを発進させて兵員や物資の上陸を可能にする輸送艦である。輸送艦(「ペリダ」)にはLCM1隻、LCV10隻が搭載された。LCMとは機動揚陸艇で中戦車1両(30トン)に相当する物資か武装兵士60名が搭載可能だった。LCVとは車両揚陸艇で、1トンの物資か兵員36名が搭載可能だった。輸送駆逐艦とは旧式の駆逐艦を輸送用に改造したもので、200~300名の兵士を乗せて、高速(25ノット程度)で航行できた。



攻撃輸送艦「ヘイウッド」(APA-6)
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上陸軍の陸上兵力の主力には、上陸部隊司令官アルバート・ブラウン少将率いるアメリカ陸軍第7師団が充てられた。彼らは北アフリカでの砂漠戦を想定して本拠地であるカリフォルニアで訓練を行っていたが、約3か月前に急遽アッツ島奪回作戦に投入されることになった。そのため、2月21日から3月9日まで、目的を秘匿したままカリフォルニアで攻撃輸送船を用いた上陸訓練が行われた [8, p59]。訓練後に彼らは出航したが、サンフランシスコ沖にさしかかった4月25日になって、彼らはアフリカではなくアッツ島上陸作戦のためにアラスカのコールド・ベイへ向かっていることが知らされた [2, p61]。そこで防寒対策の不足がわかったが、それが十分に改善されるほどの時間的余裕がなかった [3, p306]。北アフリカ用の兵力をアリューシャン列島の気候を十分に考慮せずにそのまま投入したことが、後に犠牲を増やす原因の一つとなった。

アッツ島上陸作戦はランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)と命名され、第7師団を主力とするアメリカ軍とカナダ軍が、南部のマッサカル湾に8000名が、北部のホルツ湾に3000名が上陸して、南北から日本軍の勢力を本拠地がある島東端のチチャゴフ湾(熱田湾)方面に押し込めていく作戦だった(それ以外にホルツ湾よりさらに北部のオースチン入江とマッサカル湾北東のサラナ湾で小規模の上陸が行われることになっていた) [8, p72]。

わずか1350名と推定した地上兵力のみの日本軍に対して、連合国軍は1万名以上の兵力と60隻を超える艦艇、200機にも上る航空機を準備した。予備兵力として約1個旅団がアダック島に留め置かれた。しかも、アダック島には3000名分の捕虜収容のためのキャンプも作られた[44, 19]。

上陸前後には爆撃と艦砲射撃を徹底して行う計画だった。その攻撃にはアムチトカ島からの陸上機だけでなく、支援グループに含まれる護衛空母の艦載機を用いた繰り返し攻撃も予定された。水上偵察機による艦砲射撃の照準支援も計画された。それらのピンポイントでの攻撃地点の連絡のために、海軍の火力管制部隊(fire control unit)も上陸部隊の中に入っていた [8, p72]。占領までに必要な日数は3日間と想定された [16, p19]。この時期に連合国軍は南洋のソロモン諸島で攻勢に出ようとしており、また2か月後には地中海でシシリー島上陸作戦も計画されていた。連合国軍は、アッツ島上陸作戦に北太平洋で持てる力のほぼ全てを動員していた。


アッツ島への砲撃準備をする戦艦「ペンシルバニア」(1943年5月11日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=29020

7.1.2    日本軍の準備

連合国軍が上陸する前のアッツ島の日本軍兵力は、山崎保代大佐率いる第二地区隊(アッツ島守備隊)の歩兵1個大隊半、工兵1個小隊の計2638名で、彼らが保持している食糧は7月中旬までだった [18, p427]。これには軍属や報道班員、野戦郵便局員など非戦闘員143名が含まれていた[44, 17]。アッツ島の日本軍の防備の内訳は、司令部と海軍を除くと、第三百三大隊長渡邊十九二少佐率いる熱田湾(チチャゴフ湾)小地区隊(歩兵2個中隊(1小隊欠)、山砲1個中隊(2小隊欠)基幹)、第三百三大隊第一中隊長林俊夫中尉率いる旭湾(マッサカル湾)警備隊(歩兵1個中隊、山砲1個小隊基幹)、北千島要塞歩兵隊長米川浩中佐が率いるによる北海湾(ホルツ湾)小地区隊(歩兵1個中隊、山砲1個小隊基幹)、その他、高射砲隊、地区直轄部隊(設営隊、通信隊、野戦病院、船舶工兵)、予備隊からなっていた [3, p295]。合計で75mm高射砲12門、20mmと13mm対空機銃それぞれ6基、75mm曲射砲(山砲?)4門を装備していた [2, p67]。しかし、本来アッツ島へ増援されるはずだった歩兵4個大隊、重砲2個大隊、高射砲1個大隊などの本体は輸送できず、本土に拘置されたままだった[44, p13]。

アッツ島では、9月にいったん資材を棄却して撤収した上に、11月の再上陸後は飛行場建設を優先させたため、防御施設の建設は大幅に遅れていた。結局、飛行場建設はアッツ島の防衛力を弱めただけだった。熱田湾小地区隊の防備(熱田富士~獅子山~雀ヶ丘~虎山の線)は山岳陣地を除いてほぼ完成したものの、旭湾警備隊(旭高地、荒井峠、将軍山)の完成度は7割だった。火砲類は材料未到着のため掩蓋(敵の砲爆撃を防ぐ覆い)を構築できず、一部を偽装した程度で火砲は露出していた。防空壕などの施設の建設も、岩盤が固い上に建設資材未到着のため構築が遅れていた [3, p299]。

キスカ島の北海守備隊は通信傍受などから連合国軍の動きを察知していた。北海守備隊司令部の「熱田島ノ戦闘時二於ケル戦闘詳報」は次のように記録している。「敵ハ「キスカ」島ニ対スル空爆ヲ執拗ニ反復スルト共ニ「アッツ」周辺ニ対シテハ艦隊ヲ以テ威カ捜索ヲ行フ外飛行機潜水艦等ニ依リ海岸附近ヲ執拗ニ偵察スル等其ノ反攻気勢漸ク濃化シ特ニ通信諜報ハ四月二十六日頃敵艦隊「クルック」基地ヲ出撃セル徴ヲ示シ・・・有力ナル船団行動中ノ疑濃厚トナリシヲ以テ守備隊ハ警戒ヲ至厳ニシツツ鋭意飛行場作業ヲ促進シツツアリタリ」 [3, p266]。敵が上陸する可能性が高いとして第二地区隊(アッツ島守備隊)は5月3日から戦闘配置についた。日本軍は戦闘配置のまま1週間近く待機した。ところが後述するように悪天候のために連合国軍では上陸予定が遅れた。連合国軍が一向に姿を見せなかったため、第二地区隊司令部は連合国軍は別な所へ向かったと判断して9日に戦闘配備を解いた [3, p320]。現地では、万一連合国軍が来てもこの深い霧の中での上陸は困難とみていたと思われる。


7-2    アッツ島への上陸

 上陸艦隊はコールド・ベイの出港を5月4日、上陸予定日を9日としたが、天候不良のため出港を1日延期して、出航を5月5日に上陸予定日を10日に延期した。ところが出航後に悪天候が続いたため、上陸予定日を天候の回復が予想された12日へとさらに延期した [8, p72]。出航後の5月8日に日本艦隊の攻撃を懸念して、任務部隊ロジャーの支援グループと任務部隊キングの南方支援グループをアッツ島西に派遣したが、日本艦隊を発見できなかった。彼らは戻って11日にアッツ島北200 kmで上陸艦隊と合同しようとして、霧の中で駆逐艦「マクドノー」と掃海艦「シカード」が衝突した [2, p66]。この2艦はアダックへと戻った。結局12日も予報と異なり霧が深い日となったが、予定より3日遅れてこの日に上陸作戦は決行された。

7.2.1    ホルツ湾とその周辺への上陸

5月12日のアッツ島は霧に覆われていた。夜中の0010時にアメリカ海軍最大級の潜水艦である「ナーワル」と「ノーチラス」で輸送されたそれぞれ105名と109名の偵察部隊 [4, p560]は、北部のオースチン入江にゴムボートで無事に上陸できたが [8, p73]、それに続く予定だった輸送駆逐艦「ケイン」の偵察部隊165名は、霧と暗闇で上陸する海岸の場所がわからなかった。彼らは夜が明けて浜辺を視認した後に上陸した [8, p74]。オースチン入江での上陸の際には抵抗は全くなかった [8, p76]。彼らは谷沿いに雪を頂いた山脈を越えて西浦の西側に出て、そこにある砲兵陣地牽制して東のホルツ湾北側から来る本隊の安全を図るのが役目だった [3, p326]。しかし十分な防寒設備を持たない彼らは、雪をかぶった険しい地形と寒さと飢えのために行軍は難航し、16日にかろうじて230名あまりが、西浦でホルツ湾の上陸部隊と合同できた [2, p76]。しかし、この作戦はあまり成功したとは言えなかった。

アッツ島東部の地図

主たる上陸地点の一つであるホルツ湾北部では、夜が明けても霧で何もわからない状態だった。その付近の地理に関する情報はなかった。連合国軍はまずSGレーダーを使ってホルツ湾北方海岸にある狭い砂浜を探査した。そして、その場所が実際に上陸に適しているかを調査するために、0427時に斥候隊が上陸した。ところが、その後斥候隊との連絡が取れなかったため(霧の湿気のために通信機が不調だった可能性がある)、輸送司令官は独断で0910時から29隻の上陸用舟艇(LCVP:車両兵員揚陸艇)を用いて本格的な上陸を開始した [2, p69]。しかし、霧で舟艇がしばしば行方不明になり、輸送司令官はいちいちそれらを捜索しなければならなかった [8, p74]。それでも1500時までに北方上陸軍指揮官クリン大佐率いる第17連隊第一大隊1100名が無抵抗での上陸に成功した [8, p76]。


攻撃輸送艦「ヘイウッド」から下ろされる上陸用舟艇。(1943年5月12日)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-50000/80-G-54505.html


日本軍は、この日早朝からアメリカ軍機の銃爆撃を受けた。偵察に出した大発が戻ってきて連合国軍のマッサカル湾(旭湾)上陸に気づいたのは10時~10時半頃だった [3, p324]。まずアッツ島にいる海軍から1300時に「敵旭湾上陸」の第一報が大本営へ発信された [3, p335]。1320時には、ホルツ湾(北海湾)にも上陸中であることが報じられた。アッツ島守備隊にとってこの上陸は全くの奇襲となった。アッツ島守備隊では直ちに、芝台、天狗岳、将軍山、荒井峠、獅子山、雀が丘、虎山の各陣地の防備を固めるとともに [3, p325]、各地に将校斥候を派遣して、連合国軍の上陸を確認した。

ホルツ湾では日本軍の抵抗はなかったが、1015時から戦艦「ペンシルバニア」と「アイダホ」は、霧のためにSGレーダーを用いた援護射撃を約1時間行った [8, p74]。戦艦「ペンシルバニア」のコーン大尉は「SGレーダーは、アリューシャン域で活動する軍艦にとって不可欠である。その艦橋に設置されたSGレーダーの平面画像表示装置(PPI:現在のレーダー表示装置のようなもの)は、極めて貴重だった。」と述べている [8, p73]。

ホルツ湾内の西浦と東浦には砂浜があったが、ホルツ湾付近はそこを除くとほとんど岩礁だらけだった。日本軍はホルツ湾付近では西浦と東浦を敵の上陸地点に想定していたと思われる。連合国軍がもしそこに上陸しておれば日本軍の強力な反撃を受けただろう。しかし、岩礁だらけのホルツ湾北側にある小さな砂浜に連合国軍は上陸した。そこは物資の揚陸や集積に適した広さはなかったため、日本軍は連合国軍のそこからの上陸を全く想定してなかった。しかし、西浦と東浦を避けてホルツ湾の入り口付近に上陸して日本軍を北から圧迫するならば、ホルツ湾付近にはそこしか上陸可能な場所はなかった。それは連合国軍の作戦の周到さを示している。


攻撃輸送艦「ヘイウッド」から上陸用舟艇に乗り移る兵士(1943年5月12日)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-50000/80-G-50770.html


兵士を満載して攻撃輸送艦「ヘイウッド」から進発する直前の上陸用舟艇。上陸用舟艇と搭乗した兵士の様子がよくわかる。
https:/www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/wwii/wwii-pacific/aleutian-islands-campaign/battle-of-attu/80-g-50788.html; 

連合国軍は、1300時頃からホルツ湾奥の西浦に向けて前進を開始し、当日のうちに3.2 km近く進軍して、霧で周囲の状況がよくわからないまま1700時頃に野営した。そこは上陸地点と西浦の中間点付近の高地(芝台高地)の約500m手前だった [3, p329]。この調子だと翌日にはホルツ湾奥東浦の飛行場の確保が期待された [8, p76]。しかしいったん撤収していた日本軍は、連合国軍のホルツ湾上陸に気付いて夜のうちに芝台高地の陣地に兵士を派遣した [3, p329]。

7.2.2    マッサカル湾での上陸

南部のマッサカル湾(旭湾)では、ホルツ湾よりさらに霧が深かった上に古い海図にない浅瀬・暗礁を数多く発見したため上陸は難航した。深い霧による衝突を避けるため、2隻の駆逐艦による湾内での火力支援は中止された [8, p74]。


霧の中をマッサカル湾海岸へ向かう上陸用舟艇。先に行くのは掃海艦「プルーイット」(1943年5月12日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=13682

輸送艦は0315時には予定地点での配置に就いて上陸用舟艇を降ろし始めたが、霧のため行方不明となる舟艇があり、上陸は1030時からとされた。上陸用舟艇を指揮する掃海艦「プルーイット」は、SGレーダーを持つ駆逐艦「デューイ」に案内されて配置に就いたが、海岸は全く見えなかった [8, p75]。「プルーイット」は1020時に上陸第1波の兵員揚陸艇(LCP)12隻を霧の中を海岸へ出発させた。1030時には第2波のLCP13隻を出発させた。ところが、第1波は霧の中で流されてしまい進路を崖に遮られてしまった。進路を修正している間に第1波と第2波は1120時頃にほぼ同時に海岸に到着し、何ら抵抗を受けることなく上陸した [8, p75]。「プルーイット」は、予定を変更して海岸が見える場所にまで近づくことによって、1140時には予定していた上陸部隊の残りも上陸した。上陸用舟艇1隻が暗礁にぶつかってその拍子にランプ(上陸用扉)が開いて沈没し、4名の兵士が溺死した。上陸時の犠牲者はそれだけだった [8, p75]。海岸を守っていた日本軍の小隊は、敵の上陸に不意を突かれて後退した [3, p341]。旭高地に設置された20 mm高射機銃陣地は旭湾の海岸を見渡せる絶好の攻撃位置にあったが、多量の弾薬が残されたまま放置されていた [3, p331]。

なお、「アッツ島玉砕戦」(牛島秀彦著)には、連合国軍のアッツ島上陸の際に、マッサカル湾で日本軍の反撃によって「日米双方の大虐殺の幕は、ここに切って落とされたのである。」と大規模な戦闘があったように書かれてある。しかし、私が参照文献に挙げた日米の文献を調べた中には、そのような戦闘が書かれたものはなかった。上陸時に日本軍の抵抗がなかった件は、私が挙げた参照文献を調べた限りでは一貫している。この違いは利用した文献の違いであろう。「アッツ島玉砕戦」には個々の記述に対する参考文献は示されていないので、どの文献による記述かはわからない。

1630時までに、南方上陸軍指揮官アール大佐率いる第17歩兵連隊の第2大隊と第3大隊、第32連隊第2大隊の一部2000名の部隊は無抵抗での上陸に成功し、1830時に海岸に司令部が設置された [8, p76]。上陸部隊の先頭は1400時頃に約2.5 kmほど険しい渓谷を北に進撃したところで、尾根から日本軍の射撃を受けて停止した。その後再び前進したものの、正面と側面から激しい射撃を受けて荒井峠(Jarmin pass)の600 m手前で停止し、それ以上進めなかった [3, p332]。

上陸用舟艇からアッツ島マッサカル湾に上陸する連合国軍(1943年5月12日)
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マッサカル湾では、兵員や物資を搭載したLCPが海岸と輸送船の間を行き来し、狭い海岸は舟艇でひしめき合った。しかも揚陸したトラックやトラクタは泥地のため海岸から身動きが取れず [10, p79]、物資の揚陸とその輸送は主として人力で行われた。


7.2.3    13日の状況(上陸2日目):連合国軍の内陸への進撃

13日も終日濃霧が山を覆っており視界は悪かった。戦艦「ペンシルバニア」は0658時から地上支援のため、ホルツ湾の高射砲陣地に対して霧の中でレーダーを用いた艦砲射撃を行い、護衛空母「ナッソー」からの航空機も爆撃や銃撃を行った。ただし天候の急変による雲中での接触を考慮して、航空機の運用は通常は4機、最大でも8機に制限された [8, p83]。さらにアムチトカ島から大型爆撃機も爆撃を行ったが、これらの航空機は東浦にある2つの陣地から激しい対空砲火を浴びた [8, p76]。それらの陣地に対して0900時に戦艦「アイダホ」が艦砲射撃を行った。さらに上陸部隊が激しい抵抗を受けた西浦に対しても同艦は1037時から艦砲射撃を行った [8, p76-77]。

夜の間に日本軍が派兵した芝台高地では激戦となった。前進した上陸部隊は日本軍の砲火に晒されて身動きがとれなくなった。部隊は艦載機による航空支援や駆逐艦からの支援砲撃を要請し、またホルツ湾の海岸に設置されたばかりの105mm曲射砲が支援砲撃を行った [2, p71]。これらの支援攻撃と最後の白兵戦により芝台高地は夕方にはほとんど占領された [3, p344]。しかし、この日はそれ以上の進撃は出来なかった。この日、戦艦「ペンシルバニア」は潜水艦「伊三十一」に雷撃された。日本側は命中したものと判断したが [3, p343]、アメリカ海軍の資料では雷跡を確認したものの魚雷は回避された [8, p77]。この「伊三十一」は14日以降、消息を絶った [4, p556]。

この日、マッサカル湾ではわずかに視程は改善して、物資輸送に携わる上陸用舟艇は互いがなんとか見えるようになった。この日に掃海が終わったため、攻撃輸送艦はさらに500 mほど岸に近づいて停泊した。これは上陸用舟艇を用いた輸送の効率を高めた [8, p76]。日本軍はマッサカル湾から3~4 km内陸の高地に陣地を構えていた [8, p76]。連合国軍が占領直後に調査した報告によると、日本軍の塹壕はよく隠蔽され、排水され、しばしば地下トンネルで連結されて、食料と弾薬は十分に蓄えられていたとある[45]。連合国軍は内陸の荒井峠に向けて谷を進むと、高地の日本軍陣地から激しい機関銃の掃射を受けたため、部隊は釘付けとなった。日本軍は高地にいくつかの陣地を保持しており、しかも霧がそれらを隠していた [3, p345]。


5月13日にマッサカル湾に上陸する連合国軍兵士
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戦艦「ネバダ」は、火力管制部隊からの指示に基づいて艦砲射撃を行うことにより、マッサカル湾に面した高地の陣地のいくつかの破壊に成功した。戦史叢書「北東方面陸軍作戦<1>」には、この日「荒井峠ニ対スル艦砲射撃ハ特ニ猛烈ヲ極ム」と記されている [3, p342]。アメリカ軍でも砲撃によってバラバラになった兵器や日本兵の遺体が報告されている [2, p71]。それでも日本軍の機関銃による激しい銃撃によって、上陸部隊はそれ以上北に進めなかった [8, p77]。この時、南方上陸軍指揮官で第17歩兵連隊長だったアール大佐が偵察中に戦死し、南方上陸軍指揮官はツィマーマン大佐に代わった [2, p74]。

この日、マッサカル湾岸は混乱の極みとなっていた。揚陸したトラックやトラクタなどの車両はぬかるみのために海岸では使えず、物資の揚陸作業のために多くの兵士を割かなければならなかった [8, p77]。当面必要のない対空火器の揚陸に大勢が動員され、また兵士は並んで手渡しで補給物資を揚陸しなければならなかった。一方で、寒さに凍えている前線の兵士のための防寒用品より、弾薬輸送が優先された [2, p74]。上陸部隊司令官ブラウン少将は、揚陸作業に必要な兵士を増員しようにも、まず海岸の揚陸作業を終えないと兵士を上陸させることができないというジレンマに陥った。

この日、アッツ島守備隊が視認したアメリカ艦隊についての報告が第五艦隊に届いた。それによると、アメリカ艦隊は北海湾では空母(艦橋なし)1隻、シカゴ型重巡洋艦1隻、オマハ型軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、旭湾では戦艦1隻、巡洋艦と駆逐艦計6隻、輸送船10隻となっている [4, p531]。聯合艦隊は、この日七五二空の陸上攻撃機21機を幌筵へ進出させた [4, p547]。八〇一空の飛行艇にも進出を指令したが、受け入れ態勢の準備のために飛行艇が実際に進出したのは20日だった。なお、七五二空の司令官が陸攻24機と輸送機4機を率いるために幌筵に到着したのは23日だった [4, p547]。これらによる攻撃は後述する。

なお、アリューシャン方面の公式記録は少ない中で、[4]の「戦史叢書 第 29 巻 北東方面海軍作戦」には進出した陸上攻撃機の機種が書かれていない。この時、七五二空は九六式陸上攻撃機から一式陸上攻撃機への機種改編の途中だったので、この時出撃した機種はどちらの可能性もある。しかし後に示すように、九六式陸上攻撃機の編隊が北千島上空を飛ぶ写真が残っている。1943年5月より前に幌筵に陸上攻撃機の編隊が配備された記録はないようである。そのため、日米共にアッツ島のアメリカ艦隊を攻撃した攻撃機を一式陸上攻撃機としている書籍があるが、攻撃したのは九六式陸上攻撃機だったかもしれない。


7.2.4    14日の状況(上陸3日目):西浦への圧迫

14日も霧で視程の悪い状態が続いた [8, p78]。0815時に幌筵から七五二空の陸攻19機が雷装して攻撃に発進したが、密雲と霧のため攻撃を断念して引き返した [3, p354]。連合国軍では、引き続き物資の揚陸が続き、1900時までの物資の揚陸率は、攻撃輸送艦が55%、輸送艦は14%だった [8, p79]。


マッサカル湾で物資を揚陸する兵士(1943年5月14日)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-50000/80-G-50921.html

この日ホルツ湾方面では、連合国軍は芝台高地からさらに先に進出したが、西浦から迫撃砲と機関銃の射撃を受けて先に進めなかった。しかし、芝台高地付近に新たに設置した連合国軍砲兵陣地からの砲撃と「ナッソー」の艦載機による銃爆撃によって、西浦からの日本軍の射撃は止んだ。上陸部隊は西浦に近い地点に砲兵陣地を構えたが、そこからの砲撃によっても、西浦の75 mm砲6門からなる日本軍の3つの砲兵陣地を破壊できなかった [8, p79]。後に連合国軍は、鹵獲した75mm高射砲を、方位盤制御方式ではなかったが時限式砲弾を効果的に使用したと述べている[45]。一方で、日本軍では連合国軍の激しい攻撃により、西浦を保持することは困難と感じ始めていた [3, p352]。

アッツ島の日本軍の八八式七糎(75 mm)野戦高射砲。西浦か東浦に設置されていたものかもしれない。
https://ww2db.com/image.php?image_id=13218

マッサカル湾方面では、荒井峠付近に艦砲射撃を行った。しかし、日本軍陣地は峻険な尾根や深い山の側面に巧みに構築されており、視程が悪い中でそれらを破壊することはきわめて困難だった [3, p354]。連合国軍部隊は、日本軍陣地がある尾根に三方から囲まれた谷底を峠に向かって上らなくてはならなかった。高地の日本軍陣地は霧で隠されているのに、霧が切れた谷底の連合国軍の動きは上から丸見えだった。霧が薄れた午後から連合国軍は、第三百三大隊第一中隊からなる旭湾警備隊が守る荒井峠への攻撃を開始した。旭湾警備隊の装備は、山砲2門、および重機関銃2と軽機関銃6だけだった[44, p22]。連合国軍は、日本軍による迫撃砲、重機関銃などによる射撃の中を、一時は峠の200 m近くにまで迫ったが、日没となったため出発点へと戻った [3, p355]。


アッツ島の山の中を進む連合国軍兵士(1943年5月)
https://ww2db.com/image.php?image_id=4716

7.2.5    15日の状況(上陸4日目):西浦からの撤退と荒井峠放棄の決定

この日も霧は回復せず、幌筵からの航空攻撃は取りやめとなった。ホルツ湾方面では砲兵隊と戦艦「ペンシルバニア」からの援護射撃の後、新たに上陸した連合国軍部隊が1100時から西浦を攻撃した。射撃管制部隊との緊密に連携した支援砲撃によって、巧みに遮蔽された日本軍陣地の破壊に成功した [8, p79]。ホルツ湾での戦いは天王山にさしかかった。戦艦の砲弾が残り少なくなったため、駆逐艦「フェルプス」がホルツ湾内に突入して、観測機からの連絡に従って支援砲撃を行い、日本軍にさらに多大の損害を与えることに成功した [8, p79]。日本軍では「砲射竝ニ銃爆撃ニ依リ・・・西浦地区ハ殆ント全滅セリ」と報告している [3, p362]。これによって丘陵を隔てた東浦も危うくなってきた。西浦と東浦には日本軍の食糧と弾薬が集積してあり、これを移送しようにも舟艇は全て破壊されていた。日本軍は、熱田湾(チチャゴフ湾)へ撤退しても、外部からの補給がないとそこで持久することは困難だろうと予想したものの他に策はなかった [4, p538]。


戦艦「ペンシルバニア」からのホルツ湾岸への艦砲射撃(1943年5月15日)
https:/www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/wwii/wwii-pacific/aleutian-islands-campaign/battle-of-attu/80-g-75468.html; 

南のマッサカル湾方面では、早朝から荒井峠に対する連合国軍の攻撃は熾烈を極めた。艦砲射撃と砲兵陣地からの砲撃によって連合国軍は再び日本軍まで200 m以内に迫った。しかしながら日本軍の反撃によって900 mまで後退した [3, p362]。荒井峠へ向かった上陸部隊からの要請によって、護衛空母「ナッソー」から発進したF4F戦闘機が2回にわたって地上支援を行った。しかし雲下に降りた戦闘機は局地的な強風にあおられて合計4機が墜落した [8, p80] 。日本軍では3機を対空砲火で撃墜したと報じている [3, p364]。しかし、荒井峠の日本軍守備隊は一個小隊が全滅したため戦線の維持が困難となり、背面のホルツ湾での戦況を鑑みるとチチャゴフ湾(熱田湾)方面への撤退を決断せざるを得なくなってきた [4, p538]。

護衛空母「ナッソー」(1943年5月アッツ島にて)
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-106000/NH-106566.html


北太平洋艦隊司令長官のキンケイド少将は、日本艦隊による攻撃を危惧して、なるべく早期にアッツ島攻撃を終えたかった。彼は上陸部隊司令官ブラウン少将に戦いの進捗の報告を求めた。ブラウン少将は南のマッサカル湾と北のホルツ湾に挟まれた険しい尾根(荒井峠)にかけて日本軍が強固な陣地を構築していて戦線にあまり進捗がないことと、押収した書類から日本軍の兵士が当初の想定より多い事がわかったために、今後も迅速な進撃が望めないことを報告した [8, p79]。この報告にキンケイドは不満だった。

マッサカル湾では、物資の揚陸は順調に進んで、15日までに攻撃輸送艦の揚陸は半分以上進むか終わった。しかし、輸送艦の方の揚陸量は予定の30%だった [8, p80]。一方で、ホルツ湾付近の揚陸地点は岩礁のため細い水路しか使えず、舟艇の往復は難航した。また霧が薄れるとチチャゴフ湾の日本軍の本拠地付近から砲撃を受けるため、物資の揚陸はたびたび遅滞した [8, p80]。16日になってもまだ10%しか揚陸を終えていない攻撃輸送艦もあった。

7.2.6    16日の状況(上陸5日目):東浦と荒井峠からの撤退

上陸部隊司令官ブラウン少将は、予備兵力の投入が必要な状況を司令部と共有するために、上陸艦隊司令官ロックウェル少将と北太平洋艦隊司令長官キンケイド少将、西部方面防衛軍司令官デウィット中将との会議を要請した [8, p80]。この会議で、ブラウンは押収した書類から日本軍兵士が当初の予想より多い2000名から2500名いることを明らかにした。ロックウェルも予備兵力の動員に同意した。また、物資の揚陸のために湾内で小回りのきくタグボートや艀などの小舟艇の使用を提案した。またロックウェルは、上陸段階は終了したため、航空戦力については引き続き使用するものの戦艦などの護衛艦隊については撤収を提案した [8, p80]。その後、ブラウンは戦艦「ペンシルバニア」にロックウェルを訪問し、全ての手持ち兵力を投入してしまったので、予備兵力を投入しなければ、アッツ島を確保できないことを再度彼に提案した。ロックウェルは、ブラウンの提案とその予備兵力投入のため攻撃輸送艦2隻をアダックへ回航可能なことをキンケイドへ報告した [8, p80]。

この日アッツ島では霧はあったが、現地日本軍は視界10~15 kmで飛行可能と判断していた。しかし、幌筵から陸攻は飛ばなかった [3, p372]。潜水艦「伊三十五」はホルツ湾沖で軽巡洋艦を雷撃して2発の命中音を感知した。雷撃されたのは戦艦「ペンシルバニア」だったが、魚雷は命中していない [4, p557]。潜水艦「伊三十五」は駆逐艦の攻撃を受けて損傷したが、19日に幌筵へ帰投した。


アッツ島沖で日本軍の潜水艦に対して爆雷攻撃を行うアメリカ海軍の駆逐艦
https:/www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/wwii/wwii-pacific/aleutian-islands-campaign/battle-of-attu/80-g-75424.html; 

5月15日までは濃霧であったが、16日から霧が薄れて視程が10~15 kmとなった。天候の回復によって位置が露見した日本軍陣地は、艦砲射撃や爆撃で破壊されていった。ホルツ湾方面では、連合国軍は西浦へ突入し、日本軍は備蓄していた食糧と弾薬を遺棄して東浦へ撤退した [3, p372-373]。これは、南のマッサカル湾から北進する連合国軍をくい止めていた荒井峠の日本軍が、背後からの脅威に曝されることを意味した。連合国軍の分析によると、日本軍は不利な状況でも、小集団での浸透戦術で反撃を試みたが、南西太平洋のジャングルでの戦闘ほどには成功しなかったとある[45]。

さらに天候回復のため、荒井峠の日本軍は艦砲射撃でほとんど全滅に瀕した [3, p370]。東浦には備蓄していた食糧・弾薬と建設中の飛行場があったが、山崎第二地区隊長は荒井峠と東浦も放棄して、夜を利用して残存兵力の配備をチチャゴフ湾(熱田湾)周辺(熱田富士~獅子山~雀ヶ丘~虎山の線)に変更することを決断した [3, p370, 374](アッツ島東部地図)。備蓄していた弾薬と食料を失ったアッツ島守備隊は、弾薬・食糧のアッツ島への緊急輸送を北方軍に要請した [3, p370]。しかし、大本営では輸送の目途が立たなかった。

7.2.7    17日の状況(上陸6日目):上陸部隊司令官交代

連合国軍は、この日ホルツ湾を集中的に攻撃した。護衛空母「ナッソー」からの艦載機がホルツ湾の目標を銃爆撃したが、2機が失われた。駆逐艦「アブナー・リード」がホルツ湾での攻撃を支援した。アムチトカ島からのP-38戦闘機2機は低い雲の下から銃爆撃を行った。しかし、同島から爆撃にやってきた3機の大型爆撃機は雲のため投弾できなかった [8, p81]。

この日ロックウェルには、アダック島から予備の1個連隊が出発して、翌朝に到着する予定が伝えられた。戦艦を初めとする任務部隊ロジャーの艦船は、支援と揚陸を終えて北方へと引き上げた [2, p77]。ただし砲艦「チャールストン」、駆逐艦「フェルプス」、水上機母艦「カスコ」は支援のために残された。任務部隊キングの艦船は引き続き残って上陸軍の支援とアッツ島封鎖を継続した [2, p77]。夕方になってロックウェルには、キンケイドの命令で上陸部隊司令官がランドラム少将に代わったことが伝えられ、ブラウンは更迭された [8, p81]。第7師団の装備の不備や日本軍兵士数の過小評価など、ブラウンの責任ではない部分もあったと思われる。しかし、あまりの犠牲の多さと作戦の進捗の遅れから、キンケイドはブラウンの指揮能力を疑問視したものと思われる。

7.2.8    18日の状況(上陸7日目):戦線整理

日本軍は18日に飛行場を建設していた東浦を含めてホルツ湾岸から撤退した。1600時には上陸軍司令官ランドラム少将はホルツ湾の東浦から日本軍を一掃したと報告した [8, p81]。日本軍は18日夜には背後の防衛が空になった荒井峠からも撤退した。これは戦略的なものだったろうが、連合国軍は、日本軍はまだ防衛できるはずの陣地を急いで明け渡す傾向があり、また放棄した装備や資材を破壊することもしなかった、と述べている[45]。18日までの日本軍の死傷者は約400名と報告されている [3, p388]。19日昼前にはホルツ湾から南下した連合国軍の部隊は、南のマッサカル湾から北上した部隊と荒井峠付近で合同した [8, p81]。日本軍は上述の熱田富士と熱田(チチャゴフ)湾周辺の要線で持久策をとった。これで上陸作戦の帰趨が明確になり、連合国軍は上陸部隊をアッツ島占領軍という名称に変更した [8, p81]。ただし戦史叢書「北方方面陸軍作戦<1>」は、荒井峠からの日本軍の撤退と連合国軍の合同の日付を17日夜と記している [3, p390]。

18日にブラウン少将が要請していた予備の連隊3000名がマッサカル湾に到着した [8, p81]。18日と19日は連合国軍も日本軍も一息ついて戦線を整理する形となった。しかしながら、食糧・弾薬を備蓄していた東浦から撤退した日本軍は、以降弾薬と食糧の不足に悩まされることになった。20日頃には最前線の兵士でも弾丸は10発か20発しか持たず、日本軍では一日一食で寒さと飢えのために狂い出す者や自殺する者があったと記されている [3, p380-381]。



アッツ島で補給物資を背負って山を登るアメリカ兵士(1943年5月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/Aleutian_Islands_campaign#/media/File:Hauling_supplies_on_Attu.jpg

7-3    アッツ島上陸に対する大本営などの対応


7.3.1    上陸時の大本営の対応

連合国軍がアッツ島へ上陸した12日当日の午前に、大本営海軍部は第一部(作戦)、第三部(情報)、特務班(通信諜報)の関係者を集めて、偶然にも北方に対する今後の警戒方法を研究していた。その席上で第三部(情報)第五課長は、「アリューシャン(の攻略を米国)海軍省(が)公表発表、之ヲ裏付ケテ情報局ガ宣伝ス 今月中或ハ来月中ニ攻略セン 時機迄明瞭ニ云ヘルコトハ注意ヲ要ス(「アッツ」ヲ先ニトル算大ナルベシ)」と発言していた [19, p243]。しかし午後に「アッツ島に連合国軍が上陸」の第一報に接すると、大本営などは全<虚を衝かれた形となった。この時、北方軍の参謀はこう述べている。「米軍の上陸は現地部隊としては真に突如であり、・・・兵力的にも時間的にもいまだ防備の整っていない南岸から上陸されたことは、米軍の情報収集ないし作戦指導の巧妙さに一驚させられる」 [3, p334]。

13日に大本営は陸海軍部の合同会議を開催して作戦指導要項案を作成した。それは、アッツ島を保持し続けることを前提として、海軍機で敵艦船を攻撃し、その間にアッツ島への戦力の増援を行って連合国軍上陸部隊を攻撃するというものだった [3, p346-347]。問題はいつまでにどうやって増援を行うかだった。準備には時間がかかる。陸軍では、応急派兵として歩兵1連隊約4000名の編成を検討したが、兵員を集めて小樽を出港するのが5月20日、幌筵に到着するのは早くても25日が見込まれた [19, p250]。しかもそれから先の輸送の見通しは全く立たなかった。師団主力の動員にはさらに1か月がかかると思われた。さっそくアッツ島の守備隊(第二地区隊)がいつまで持つかが焦点となった [18, p436]。

なお既述したように、14日にアッツ島から報告されたアメリカ艦隊の戦力は、戦艦1隻、特設空母1隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻、潜水艦数隻、ホルツ湾とマッサカル湾で揚陸中の輸送船がそれぞれ4隻 [4, p531]と決して大きなものではなかった。

当時、陸軍の杉山元参謀総長は眞田穣一郎第二課長(作戦)を伴って中国へ出張しており、連合国軍がアッツ島に上陸したことを聞いて14日に帰京した。15日から大本営で陸軍参謀本部と海軍軍令部との公式の合同研究が開始された。これによって概ね3日間の議論で結論が出ることになる。当初の方針としては、アッツ島を少なくとも5月末まで持久させ、その頃を期して強力な水上部隊の支援を伴った船舶輸送によって、アッツ島の兵力増強、近くのセミチ島の占領、ならびに千島への兵力展開を行ない、聯合艦隊はこの輸送作戦に伴って起こる公算が大きい艦隊決戦に備える、というものだった [19, p263]。

そこでまず問題となったのは、アッツ島を持久させて連合国軍を撃退するための兵力の準備時間とその輸送方法だった。16日の検討では、まず兵員だけを考えれば、幌筵から歩兵第ニ十六聯隊を基幹とする6000名を5月27日に、歩兵第ニ十七聯隊を基幹とする7000名を6月3日に船舶量10万トンにて送ることが可能とされた [3, p377]。当面アッツ島を持久させるための弾薬、食糧などは、ちょうどその頃完成した運貨筒と呼ばれる潜水艦で牽引する水中艀のようなものと、潜水艦自身と航空機による落下傘投下による輸送が計画された。それでも弾薬、食糧のアッツ島への到着は28日頃とされた。

輸送に際しては、航続距離からしてアッツ島までの戦闘機による援護は不可能で、もし霧が晴れると輸送船舶を守る手段がなかった。アッツ島の泊地進入の前後1日と揚陸期間の2日間を考慮すると、敵の航空攻撃のため少なくとも船舶の3分の2の沈没が想定された [3, p377]。

そのため「テ」号作戦が検討された。「テ」号作戦とは落下傘降下で700名、潜水艦輸送によって300名、大型発動機艇によってキスカ島から360名、駆逐艦による輸送で800名の合計2010名でアムチトカ島に奇襲上陸するというものだった。この部隊はうまくいけば同島を占領するが、そうでなければ一時的に飛行場を使用不能にするための捨て石にするという作戦だった [19, p268]。これは場合によっては生還を期さないことを覚悟の作戦であり、この時期にそういう発想があったことは特筆しておいて良いと思われる。

また、この作戦の目的を航空基地破壊とするのか敵水上艦隊の誘出とするのかで議論があった [19, p268]。しかしながら「テ」号作戦の「テ」は天佑の「テ」だったことからしても、この作戦の成功には疑問を呈する人も多かった。「テ」号作戦の検討は結論が出ず、継続審議とされた [3, p378]。

結局、16日までに計画されたことは、潜水艦3隻でのキスカ島からの兵力の移送(1隻50名)、本土からの潜水艦による補給物資の輸送(27、28日頃到着)、航空機からの物資の落下傘投下(24日頃実施)となった [3, p379]。

ところが、17日になると現地の状況が変わった。前述したように、16日にアッツ島守備隊は東浦と荒井峠から撤退することを決定した。これは飛行場建設地が連合国軍の手に渡ることを意味し、そうすればここを整備して連合国軍が飛行場を利用することが想定された。海軍も陸軍もそれを前提とした作戦を検討せざるを得なくなった [3, p386]。そうなると、やれそうなことは駆逐艦による殴り込み位しかなかった。「テ」号作戦用の駆逐艦をアッツ島救援に向ける案も検討されたが、むしろその駆逐艦で敵の輸送船か艦艇を攻撃するのが本筋ではないかという議論も出た [19, p272]。結局、17日に合同研究会の場では16日の決定内容の実施が見送られただけで結論は出なかった。

合同研究会後に、海軍は独自にアムチトカ島攻略の研究を行った。それは落下傘部隊に加えて戦艦「扶桑」と「山城」、軽巡洋艦2隻を使って3350名を送り込むというもので、アムチトカ島への上陸は早くても27日頃が想定された [19, p275]。陸軍では独自に検討した結果、「アッツ島保持の見込みは薄く、霧はあまりあてに出来そうにない。また海軍の海上決戦も期待薄なためできそうなものは「テ」号作戦のみだが、その成算は20%」と推測した。その「テ」号作戦も気象の困難性、兵の集結の遅延、戦闘準備の遅滞により5月末まで実施不可能と結論された [19, p278]。

それらに基づいて翌18日に合同研究会で検討した結果、7.3.4で述べるようにアッツ島放棄の結論が出ることとなる。そういう日本側の事情はともかくとして、議論に大きく影響したアッツ島の飛行場建設地の失陥だったが、結果的に連合国軍はそこには目もくれず、マッサカル湾沿岸と近くのセミヤ島(セミチ島)に新たに飛行場を建設した。アメリカ軍は日本軍の整地能力を疑問視しており、どうせほぼゼロから作り直すならばもっと条件の良い場所を選んだためと思われる。

1943年5月時点でのアリューシャン方面での日本軍の指揮命令系統

7.3.2    聯合艦隊司令部の対応

連合国軍のアッツ島上陸を受けて、大本営は空母3~4隻からなる有力な機動部隊がミッドウェー北方海域にあって、上陸作戦を支援するとともに本土空襲を策していると推測した [19, p244]。海軍軍令部は陸海軍部の合同会議を受けて、13日に聯合艦隊に対して「なし得る限り大兵力を北方方面に結集して同方面を確保する方針」を通達した [4, p535]。聯合艦隊は4月に「い」号作戦を終えて、艦船の半分はトラック島付近にあった。聯合艦隊司令部は5月14日に、主要艦艇は5月22日頃までに横須賀に集結し、5月下旬に千島東方海面に進出して、敵艦隊機動部隊を撃破するとともに北方部隊を支援するという作戦命令を出した [3, p359]。

この作戦命令に基づいて艦艇が続々と横須賀に集結した。21日には内地にあった空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「瑞鳳」、第七戦隊、軽巡洋艦「阿賀野」、「大淀」、駆逐艦「濱風」、「嵐」、「雪風」、第十駆逐隊が入港した。22日には戦艦「武蔵」、空母「飛鷹」、第三戦隊、第八戦隊、第六十一駆逐隊、第二十七駆逐隊、駆逐艦「海風」がトラック島から入港した [4, p551]。なおその際に山本五十六大将の遺骨が戦艦「武蔵」で運ばれて、戦死が公表された。

機動部隊の横須賀出撃は一応29日と予定され、同日までの北方全般の敵情によって出撃か否かの最終決定が下されるはずだった [19, p299]。ところが後述するようにアッツ島守備隊が全滅したため、14日に出された作戦命令は29日に解除された [4, p552]。一方で、有力な軍艦のトラック島からの出港は、アメリカ軍による6月末のソロモン諸島レンドバ島上陸作戦への余裕を与えることにもなった。聯合艦隊司令部の対応については、7.5.3で改めて検討する。

7.3.3    第五艦隊と北方軍の対応

12日のアメリカ軍のアッツ島上陸時に、第五艦隊の軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「若葉」は水上機母艦「君川丸」を護衛してアッツ島への輸送に向かっていた。連合国軍上陸の報を受けて、5月12日と13日にこの「君川丸」搭載の水上機を用いた船団攻撃が計画されたが、天候不良のため中止された [4, p536]。第五艦隊司令長官は直ちに使える重巡洋艦「摩耶」と駆逐艦「白雲」を直率して12日に幌筵から出撃し、上記部隊と合同しての攻撃を企画したが濃霧のため合同できず、攻撃を中止して14日に幌筵へ帰着した [4, p537]。

潜水艦「伊三十一」、「伊二十四」、「伊三十五」もアッツ島へ向かって戦闘行動に移った。前述したように潜水艦「伊三十一」は、5月13日に戦艦「ペンシルバニア」を雷撃したが、魚雷は回避された。同日駆逐艦2隻が潜水艦を攻撃して。浮上した潜水艦は砲撃を受けて潜航したが、これは「伊三十一」が攻撃を受けて沈没した最後の状況と考えられている [4, p557]。これも前述したように、潜水艦「伊三十五」は16日にやはり戦艦「ペンシルバニア」を雷撃したが命中せず、損傷して幌筵に帰投した [4, p557]。これら以外にも数隻の潜水艦が西部アリューシャンでの輸送や哨戒に従事したものの、結局、この2隻の潜水艦による攻撃が日本軍の艦艇による唯一の攻撃となった。

北方軍では、14日に小樽に兵力4700名を用意して、それを北方船舶部隊で輸送する手はずに取りかかった [3, p357]。5月21日に小樽から幌筵に向けての出港準備がほぼ整った頃、後述する21日の決定によってアッツ増援部隊の派遣中止が伝達された [3, p412]。

7.3.4    アッツ島放棄の決定

前述したように、5月16日にはアッツ島の要衝の一つであるホルツ湾での日本軍の摩耗と物資の欠乏によって荒井峠も支えきれなくなり、アッツ島守備隊の山崎第二地区隊長は荒井峠と東浦の放棄を決断した。その結果、5月17日の大本営での会議ではアッツ島への増援・反撃が成功する可能性は低いという結論に傾いていった。5月18日に、陸軍参謀本部はアッツ島奪回の可能性は薄いという結論を海軍軍令部に提示した [3, p393]。

戦史叢書「北東方面海軍作戦」では、陸軍参謀本部第二課長が海軍軍令部を訪問してのこの申し入れに対して、軍令部福留第一部長は同意を表明したとなっているが [4, p542]、戦史叢書「北方方面陸軍作戦」では、大本営での会議の場において「軍令部は陸軍に対し態度を明らかにせず、陸軍側の研究結果による「アッツ救援断念」の申し入れによって大本営の方針決定となった」と述べている [3, p395]。海軍はなんとなく公式の場での判断を避けているようにも見える。

これによってアッツ島の奪回中止とキスカ島の撤退が決まった。この理由として、「『アリューシャン』方面ニ於ケル彼我航空及海上勢力ノ懸隔大ナルト同方面ノ気象特ニ霧ノ状況ハ大ナル期待ヲ置キ難キヲ以テ兵力増援ノ為ノ船団輸送ニ成算乏シク又『アッツ』島ノ戦況逐次逼迫シツツアリテ従ヒテ増援兵力ヲ輸送スルモ其ノ時迄同島ノ要地ニ健在シ得ルヤ否ヤニモ疑問ナシトセス」としている [3, p399]。輸送に対する成功が期待できないこと、増援の準備が整うまでアッツ島が持ちそうにないことが理由であることがわかる [4, p542]。この日は連合国軍上陸からわずか7日目だった。

5月20日に大本営は大海指第二四六号別冊の陸海軍中央協定により、西部アリューシャンでの作戦として守備隊による当面の確保とそのための補給の実施、キスカ島の守備隊の撤収作戦(「ケ」号作戦)、千島列島の防衛強化などを決定した [4, p543]。この協定中の作戦要領の「(三)熱田島守備部隊ハ好機潜水艦二依リ収容スルニ努ム」の「好機」と「努ム」は、アッツ島からの撤収の目途が実質的にないことを意味していた。これは異例の大命であり北方軍は暗澹となった。これに先だって、20日に秦参謀次長による説明のための訪問を受けた樋口季一郎北方軍司令官は、次のように回想している。「参謀次長秦中将は、『大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては本企図を中止せられたい』と。私は一個の条件を出した。『キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜まざるに於ては』というにあった。次長は長距離電話にて東京と協議したが海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。」 [3, p411-412]。


北方軍司令官樋口季一郎
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大命を受けて、北方軍司令部は23日にアッツ島守備隊に対して、次の訣別の電報を送った [3, p421]。「貴部隊ハ孤軍克ク長期ニ亙リ北太平洋方面ノ戦略要点ヲ確保シ優勢ナル敵ヲ該方面ニ牽制シ・・・寡兵克ク勇戦奮闘遺憾ナク皇軍ノ面目ヲ発揮シ陸海作戦ノ全局ニ至大ノ寄与貢献ヲ為セリ・・・予深ク満足切々トシテ感激ニ堪へサルモノアリ  軍ハ海軍ト協同シ・・・人員ノ救出ニ努ムルモ地区隊長以下・・・最後ニ至ラハ潔ク玉砕シ皇国軍人ノ精華ヲ発揮スルノ覚悟アランコトヲ望ム」。なお陸軍からの強い要望により、陸海軍中央協定にアッツ島から報告者を収容するための潜水艦を派遣することが追加された[4, p545]。


7-4    日本軍の全滅まで


7.4.1    20日以降の状況

第五艦隊では5月20日に駆逐艦2隻による奇襲と緊急輸送を計画したが、22日になって中止された。幌筵に進出していた七五二空は、天候が悪いため待機を強いられていた。ようやく天候が回復した5月23日に、野中五郎大尉率いる一式陸上攻撃機19機が出撃したが(752空 飛行機隊戦闘行動調書による)、アメリカ軍の主力艦隊は引き揚げた後だった(野中五郎は後の1945年3月21日に特攻兵器「桜花」を搭載した第721航空隊の陸攻「神雷部隊」を率いて沖縄に突入し、自身も未帰還になった。なお、彼は桜花を用いた作戦に反対だった)。彼らはチチャゴフ湾の駆逐艦と砲艦めがけて雷撃を行い、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦1隻撃破を報じたが1機が未帰還になった [4, p549]。アメリカ側の資料では4本の魚雷が砲艦「チャールストン」の付近を通過したが命中しなかった。他に駆逐艦「フェルプス」が銃撃を受けた [8, p82]。

翌24日には一式陸上攻撃機17機によってアッツ島上陸部隊の陣地爆撃を目的とした攻撃が行われた。陸上攻撃機は霧の中で目標を探している間に5機のP-38戦闘機に迎撃されたため、爆弾を捨てて応戦した。これによって日本軍は2機が撃墜され1機が不時着し [4, p549]、アメリカ軍は2機を失った [8, p83]。日本軍機による攻撃はこの2回だけだった。25日、26日はアッツ島の天候は良好となったが攻撃は行われなかった。後述する船舶による強行輸送に合わせて、27日と28日に陸攻27機による攻撃が再び予定されたが、霧のため中止された。長距離の航空攻撃は、発進地と目的地の両方の天候が安定して良くないと難しかった。


北千島を飛ぶ九六式陸上攻撃機。地形からして幌筵島南の温禰古丹島(おんねこたんとう)の黒石山付近上空ではないかと推測される。幌筵には1942年5月から3か月間九六式陸上攻撃機を装備した美幌海軍航空隊の分遣隊が配置されたが、この写真がいつ撮影されたかは不明。
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日本軍は第三百三大隊の一部からなる熱田湾小地区隊を中心に、熱田富士~獅子山~雀ヶ丘~虎山に防衛線を張って守っていたが、21日にマッサカル湾からチチャゴフ湾へ向かう要衝である雀ヶ丘を激戦の上に突破された(アッツ島東部地図)。そのため、22日にはチチャゴフ湾を囲む山々(北鎭山、熱田富士、十勝岳)の西側麓に後退して防備線を張った [3, p413]。21日朝の時点で、アッツ島守備隊は傷病者を含めて2150名が残っていた [3, p408]。一方で連合国軍は工兵隊が海岸からの道路を整備したため、重火器を前線近くまで運べるようになり [2, p97]、雀ヶ丘付近に砲兵陣地を構築した。狭い地区に十分な防御施設もなく押し込められた日本軍は、砲撃や爆撃によって損害が増えていった。

23日になると陣地や残っていた日本軍重火器は破壊された上に、固い岩盤に阻まれて新たな陣地構築も出来ず、第一線の兵士はどんどん減っていった [3, p416]。チチャゴフ湾南東の十勝岳の一角は砲兵の支援により連合国軍に突破され、日本軍はさらに後退を余儀なくされた。このため、連合国軍は谷筋に沿って大沼に至るジムフィッシュ谷(Jimfish Valley)への直接攻撃が可能になった [3, p417]。もしここを確保できれば、連合国軍は大沼を経てチチャゴフ湾へ直接出ることができた。彼らは24日にまず谷を臨む高地の奪取を試みたが、高地に沿って日本軍陣地があるため、日本軍の機関銃の集中射撃を受けて前進できなかった [3, p425]。



アッツ島での戦闘の最中に煙が上がるチチャゴフ湾
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しかし、連合国軍はジムフィッシュ谷に沿って大沼付近へ進むのではなく、北鎭山と熱田富士付近の高地を越えて直接チチャゴフ湾へ北西進しようとして、25日に北鎭山と熱田富士の西側の鞍部である馬の背(Prendergast Ridge)の突破を試みた [2, p79]。一時は撃退されたものの、26日午後には白兵戦によって馬の背を突破した [3, p433]。27日には連合国軍は北鎭山と熱田富士への攻撃を開始し、北鎭山の稜線(Fishfook Ridge)に陣地を構築することに成功した [3, p436]。

北方軍と第五艦隊では27日にアッツ島へ突入する予定の強行輸送を協同で計画し、25日に輸送隊の駆逐艦2隻と護衛隊の軽巡洋艦2隻、駆逐艦8隻を出撃させたが、好天のため視程が良く、航空攻撃を受ける可能性があるため突入日は28日に延期された。ところが27日に低気圧が接近して風速15~20 m/sで波浪4となり、逆に航行が困難になったために輸送隊には28日に帰投が指令された。護衛隊も28日夜に行動を中止して31日に帰投した [4, p556]。皮肉なことに、天候が良すぎても悪すぎてもアッツ島へは突入できなかった。これによって、28日に計画された航空攻撃と強行輸送は両方とも行われなかった。


7.4.2    最後の突撃

28日には連合国軍は砲兵支援の下で攻撃を加え、熱田富士と大沼の手前まで進んだ。日本軍は周囲の高地を奪取された結果チチャゴフ湾周辺の低地に押し込められ、押し返すことは絶望となった [3, p442]。それにもう食糧が尽きていた。29日夕方には連合国軍はチチャゴフ湾を直接見下ろせる高地にまで進出し、チチャゴフ湾岸への突入は時間の問題となった [2, p80]。絶望的な状況の下で、アッツ島の第二地区隊司令部は1435時に次のように打電して、交信は途絶えた [19, p303]。「全線ヲ通ジ残存兵力約一五O名」、「攻撃ノ重点ヲ大沼谷地方面ヨリ後籐平敵集団地点ニ向ケ敵ニ最後ノ鉄槌ヲ下シテ之ヲ撃滅」、「野戦病院に収容中ノ傷病者ハ其ノ場ニ於テ・・・処理セシメ」、「無線電信機ヲ破壊 暗号書ヲ焼却ス」、「最早補給ノ途ナク且狭隘ナル地域ナルヲ以テ長期ノ持久ハ望ミ得サレハ之ヲ抛棄ス」「従来ノ懇情ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健勝ヲ祈念ス」。

5月29日2230時に残存の日本軍兵士は暗闇の中の霧を利用して、チチャゴフ湾背後の高地の敵正面を避けて、大沼方面から谷筋に沿って敵が手薄な雀ヶ丘に向かって突撃を開始した。司令部から連絡された150名という人数は第二地区隊司令部の分を記したものなのかどうかはわからない。戦死した日本軍兵士が残した手記(北海守備隊野戦病院曹長「辰口信夫日記」)には1000名強 [3, p441]、海軍の資料は300余名 [3, p448]、アメリカ軍の資料にも兵力約1000名 [3, p450]、健全な兵士800名と重傷者600名 [2, p80]と書かれたものがある。生存者の言によると、300名余で3個中隊が編成されたとある [3, p448]。

連合国軍は、翌日の総攻撃に備えて兵士を熱田富士、北鎭山のチチャゴフ湾背後の高地付近に集めており [2, p84]、大沼付近からの突然の夜襲は、ジムフィッシュ谷付近にいた連合国軍第32連隊B中隊を混乱させた。初めて日本軍兵士のバンザイ突撃を受けた連合国軍兵士たちは身の毛をよだて、パニックに陥った一部の兵士は叫びながら逃げ出した。突撃した日本軍兵士は連合国軍の2つの戦闘指揮所を突破し、到達した野戦病院では負傷者を銃剣で殺害した [2, p81]。アメリカ側の資料には、日本軍は連合国軍の臥牛山付近の105 mm榴弾砲陣地を占領して補給品と大砲を奪い、マッサカル湾の物資集積所を焼き払って援軍が来るまで山に籠もろうとしたというものもある [3, p451] [2, p80]。しかし、日本軍将兵の多くはこの数日間飲まず食わずで、立っているのがやっとの者もあった。運良く連合国軍の食糧集積所に到達した者は、そこで停止して缶詰食糧を口の中にねじ込んだ [3, p452]。

日本本土では連合国軍が発した緊急通信の傍受により、突撃がマッサカル湾を望む尾根(虎山、獅子山、雀ケ丘)の線まで達したことがわかった [3, p447]。最後の戦闘の山場は29日から30日に日付が変わる頃の雀ヶ丘近くの丘陵での攻防戦と思われる。上陸軍の副司令官だったアーノルド准将は、付近にいた後方部隊である第50戦闘工兵大隊(the 50th Combat Engineer Battalion)の兵士などをかき集めて急いで防衛線を構築した。この付近にいた工兵の多くは武器を持っておらず、慌てて武器を探すとともに、手元にあった唯一の重火器であった37mm対戦車砲で応戦した [2, p84]。これによってかろうじて日本軍の進撃を止めることができた。

ここでの日本軍の攻撃は1回の突撃ではなく、数時間かけて何度も引いて隊を整えては突撃を繰り返した。ここで山崎保代第二地区隊長は戦死したと考えられている [2, p84]。負傷しているのか足を引きずって膝をするようにゆっくり叫びながら突進する日本軍兵士は、徐々に応援に駆けつけた連合国軍砲火の容易な目標となり、日本軍は全滅していった [3, p454]。それでも一部の兵士は臥牛山付近の105 mm砲兵陣地の手前まで迫ったが、そこで組織的な戦闘は終わった [2, p85]。第50戦闘工兵大隊は、雀ヶ丘近くの丘での日本軍兵士の死者数を約350名と述べており、突撃した日本軍兵士の残りの大半はそこでは生き残って、後刻自殺したと考えられている [2, p84]。


第二地区隊長山崎保代大佐(死後中将に進級)
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連合国軍兵士の手記によると、生き残った兵士も最後の感情に興奮して手榴弾で自爆して突撃は終わったとある。しかしマッサカル湾海岸近くにまで達して、丸一日近く抵抗した一団があったと記したものもある [3, p453]。アメリカ軍の記録では、日本軍は死に物狂いではあったがよく練られた作戦で、前線を突破するなどの成功を収めており、決して自殺を目的とする攻撃ではなかったと述べている [8, p82]。

日本本土では当時知る由もなかったと思われるが、アッツ島守備隊は一度の突撃で全滅したわけではなく、何度も引いては繰り返し突撃し、しかも組織的な突撃が終わった後も生き残って、その後自決した兵士がかなりいた可能性がある。これは、その後各地で行われた日本軍の最後のバンザイ突撃の模様とは大きく異なっていると思われる。しかしこの時日本国内では、アッツ島でほぼ全員が最後の突撃によって一斉に散華したと思われたようである。とすると、これはその後の日本軍の玉砕方法に大きな影響を与えたかもしれない。

大本営は5月30日午後5時にアッツ島守備隊の全滅を以下のように発表した[3, p446]。
アッツ島守備隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処五月廿九日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む、傷病者にして攻撃に参加せざる者は之に先だち悉く自決せり、我が守備隊は二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり
敵は特種優秀装備の約二万にして五月廿八日迄に与へたる損害六千を下らず

これはその後戦争中に各地で繰り返される玉砕の最初となった。なお、敵の損害を「六千を下らず」と述べているが、実際の連合国軍の戦闘による死傷者数は、後述するように1692名である。 

7.4.3    日本軍の全滅後

日本軍の突撃が終わった30日午後には、連合国軍はわずかな組織的抵抗を排してチチャゴフ湾を占領し、アッツ島における戦闘は終了した [2, p85]。しかし数日間は掃討戦が続いた。中には9月まで潜伏していた狙撃兵もいた [3, p456]。日本軍は2638名が戦死し、27名が捕虜になった [3, p457]。一方で、連合国軍は上陸した約11000名のうち552名が戦死し、1140名が負傷した [8, p82] 。戦闘以外で約1200名が凍傷や塹壕足で負傷し、932名が病気や事故で戦闘から離脱した [2, p85]。第二次世界大戦の島々を占領する戦闘において、アッツ島での日本軍将兵数に対する連合国軍の死傷率は、結果的に硫黄島に次いで多かった [16, p19]。

陸海軍中央協定の追加によって、アッツ島に派遣されていた第五艦隊参謀江本弘中佐と陸軍の沼田宏之大尉の2名は報告者として、潜水艦で後日収容されることになっていた [4, p550]。その収容任務を帯びた潜水艦「伊二十四」は、荒天と連合国軍の哨戒のため予定地点になかなか侵入できず、やっと侵入できても両名と連絡を取ることが出来なかった。「伊二十四」は収容を断念して帰投中の6月11日に、セミチ島沖でアメリカ軍の哨戒艇に撃沈された。結局、報告者の収容は行えなかった。彼らは1953年7月のアッツ島派遣団によって、チチャゴフ湾東岸の洞窟内で遺体で発見された [3, p457]。

報告者たちが連合国軍の上陸の模様を目撃したかどうかは定かでないが、もし彼らを収容できていたら、アメリカ軍の上陸戦(水陸両用戦)を初めて実際に目撃した高級将校になっていたかもしれない。太平洋域においてアメリカ軍が上陸した全ての地点で日本軍が全滅したわけではないが、アメリカ軍の上陸戦を目撃して内地に戻った高級将校はほとんどいない。現地からの電信による報告では情報量が限られており、アメリカ軍の上陸戦がどのようなものかを具体的に知る機会はなかなかなかった。

連合国軍は占領直後からアッツ島に水上機基地を設けて、飛行艇による哨戒を開始した。そして、日本軍が東浦にほぼ建設し終わっていた滑走路には目もくれず、機械力を駆使してマッサカル湾に面した場所に新たに戦闘機用の滑走路を2つ建設し、そのうちの1つは6月9日に完成した。またセミヤ島(セミチ島)に爆撃機用の2800 m滑走路を建設し、6月21日にはその一部が使えるようになった [8, p83]。幌筵への爆撃も行われた。7月10日にはB-25爆撃機9機が、7月18日にはB-24爆撃機6機が高高度から爆撃を行ったが、爆弾は全て海上に落ちて、日本側に被害はなかった [4, p671]。9月11日にはB-24爆撃機7機とB-25爆撃機12機が北千島を爆撃したが、3機が撃墜され、7機がソ連に抑留された [2, p90]。そのため爆撃活動はいったん停止した。しかし1944年に入ると、北千島を爆撃しただけでなくそこへの艦砲射撃もときどき行われた。


7-5    アッツ島玉砕についての考察


7.5.1    玉砕に至る周辺状況

日本軍の一部で懸念されていたとおり、アメリカ本土に近いキスカ島より、防備の薄いアッツ島が先に狙われた。アッツ島は日本軍の占領方針が途中で変わって一度放棄された上に、再度占領した後は防衛陣地構築より飛行場建設が優先された。さらに物資も連合国軍の封鎖のためなかなか到達しなかった。アッツ島へ輸送しようとしていた増援部隊はアッツ島沖海戦などのため到着できず、その後の補給も潜水艦ではままならなかった。1943年4月に防衛方針がキスカ島からアッツ島重点に変わっても、アメリカ軍による厳重な封鎖によって増援部隊や資材は届かなかった。物資や増援の輸送は、5月以降の霧頼みの計画となっていた。未完成の防御陣地と食糧・弾薬の欠乏による早期の戦線縮小と撤退は、大本営による現地持久力の疑問視につながり、救援・奪回断念の一因となった。連合国軍による輸送遮断作戦は功を奏した形となった。

7.5.2    戦史叢書による考察

アッツ島の玉砕(全滅)は太平洋における戦争で最初のものであり、日本軍に与えた衝撃は大きかった。アッツ島が玉砕した原因として、戦史叢書「北方方面海軍作戦」では次のように述べて検討を尽くしている [4, p553-554]。
  1.      占領期間を通じて占領目的と熱意が各部において不一致だったこと。
  2.      離島防衛を島内の陸上兵力のみに頼るという考え方が不適切だったこと
  3.      飛行場の建設と陸上機の派遣の決定が遅れたこと。
  4.      連合国軍が先手を取って着実に基地を前進させて反攻を強化していったのに対し、日本軍は連合国軍の反撃を甘く見ていた上に、常に相手が動いてから考えるという対応が後手に回ったこと。
  5.      連合国軍のアムチトカ島占領に対する情勢判断が甘く、それに対する対応策が取られていなかったこと。

7.5.3    聯合艦隊の対応に関する考察

聯合艦隊司令部は7.3.2で示したように5月14日に北方部隊を支援する作戦命令を出した。それは次のようなものである [4, p551]。

一 東京湾方面ニ在ッテ出撃準備ヲ整へ特令二依リ出撃シ作戦ス

二 五月末迄ハ敵ノ動静ヲ観察スル
敵艦隊主力引キ上ゲタ算アル場合ハ出撃ヲ取止メラル 又アッツ島ガ失陥シタ場合ハ出撃シナイ算ガ大デアル

三 敵艦隊ガ「アッツ」「キスカ」ノ南方二在ル場合ヲ我方トシテハ敵ヲ捕捉攻撃スル好機卜見ル

四 敵惰偵知ノ方法
・・・北上中ノ潜水艦ヲ以テ掃航セシメ敵情偵察二努メル

五 聯合艦隊ハx日A 点又ハB 点附近ニ進出シ敵機動部隊ニ対シ先制攻撃ノ算大ナリトノ見込ミツキタル場合ニハ敵二向ケ進撃ス

六 機動部隊ガ敵艦隊ヲ求メテ敵基地航空圏内へ進撃スルコトハ困難ニツキ北方部隊ハ・・・敵艦隊ヲ基地航空圏外へ誘出スルヨウニ努メル

なお、x日は6月2日頃を予定していた [4, p552]。

これを見ればわかるように、しばらく様子を見てから出撃する場合には別途指示するというものであり、しかも出撃のためにはいくつか条件が付されていた。結局、主力艦を横須賀に集めて様子を見ていたが、とうとう出撃しなかった。

この理由の一つとして、燃料の重油が逼迫していたことが挙げられている。この時期、本土には重油の備蓄は30万トンしかなく、機動部隊が出動すれば20万トン以上の消費が予想された。それ以外にも月4万トン程度は消費するので、もし出撃すれば、次は9月頃まで主力艦隊は動けないと考えられていた [4, p552]。当時は産油地の順調な占領と施設の適切な処置により、現地の産油量は当初の予想以上に順調に伸びていたものの、それらを日本に運んでくる油槽船が不足していた。さらに戦線の拡大により、重油の使用量が当初の予想を超えていた。

しかし南方で生産した原油を日本へ運ぶ還送は、1943年にはどうにか順調に進むまでになっていた。1943年の還送の予定は200万キロリットル(1キロリットルは約1トン。ただしすべてが重油になるわけではない)だったが、実際には予定以上の230.2万キロリットルが日本に還送された(1942年は167万キロリットル) [23, p105]。上記のデータだけを見ると、仮に海軍が30万トンの備蓄した重油を使ったとしても、それで燃料がなくなって艦艇がしばらく動けないということにはならなかったと思われる。戦史叢書「海軍軍戦備<2>開戦以後」でも、予定以上の還送量によって昭和18年の海軍の油の取得量は82万キロリットルとなっており、「この二年間(昭和17年、18年)はほとんど燃料には大きな顧慮なく作戦を遂行することが可能であった」と述べられている[p247]。動けないというよりは、むしろ後述するように、来たるべき艦隊決戦に備えて重油を少しでもとっておきたいと考えたのかもしれない。

出撃しなかった別な一因として、4月18日に聯合艦隊司令長官だった山本五十六大将と多くの幕僚が戦死しことも挙げられている [4, p520]。4月21日に古賀峯一大将が新長官に親補されたものの、新しい聯合艦隊司令部は西部アリューシャンだけでなく南洋のソロモン諸島、ニューギニアの戦局の切迫した戦局にも対応せねばならなかった [4, p520]。山本長官は在任期間が長かった(約3.5年間)上に多くの幕僚とともに突然戦死したため、引き継ぎも十分でなかった、また、聯合艦隊は南太平洋での「い」号作戦で艦載機の17%を失って再建の途上だった [4, p521]。聯合艦隊の新司令部にはさまざまな課題があったと推測される。

しかし上記2つの要因もさることながら、「艦隊決戦」へのこだわりという要因が最も大きかったのではないかと思われる。よく知られているように、当時の海軍の戦争に関する考えは、艦隊決戦とそのための漸減作戦一本槍だった。古賀峯一聯合艦隊司令長官は、連合国軍のアッツ島上陸前の5月8日にトラック島で行われた作戦及び防備打ち合わせにおいて、「艦隊決戦のためなら離島守備隊もあえて捨て石にする」という固い決意を示している [19, p173]。

聯合艦隊は千島方面および本州東方洋上における作戦を、聯合艦隊全力をもってする決戦として実施するのは「特別ノ場合ニ限リ一般ニハ北東方面部隊ノ作戦トシテ之ヲ実施ス」と定めていた [19, p305]。これらから、聯合艦隊としては主力部隊のアリューシャン方面への出撃を、敵航空機の攻撃圏に入って敵艦隊を撃破してアッツ島を救援しようというものではなく、アメリカ軍機動部隊が都合の良い海域にあって「決戦」としての奇襲が見込める時に限っていた [19, p299]。上記命令文は、あくまで北方部隊を支援するものであって、しかも出撃に関する部分には、敵機動部隊に関するいくつかの条件が付されていることからそれがわかる。

つまり聯合艦隊が出撃しなかった理由としては、かねてから乾坤一擲の艦隊決戦を計画している聯合艦隊にとって、アリューシャン方面でアメリカ軍の機動部隊との艦隊決戦が出来るかどうかだけが重要だった。つまり端的に言えば、アメリカ軍の機動部隊が出てこない限り、当初から主力部隊を出撃させるつもりはなかったのではないかと思われる。ただ、もしアッツ島での戦闘が長引いて増援部隊を送ることになれば、護衛のために多少の艦艇を北方部隊に出したかもしれない。

聯合艦隊としては、中部太平洋の東正面に攻めてきたアメリカ艦隊との艦隊決戦を期待していた。そのための来るべき艦隊決戦に備えて、アリューシャン方面において戦力を少しでも失いたくなかったと思われる。しかしこれは相手に主導権を渡した受け身の戦略となる。かねてからの方針だったとはいえ、海軍が連合国軍への対応を何が何でも中部太平洋における艦隊決戦に絞ったのは、アリューシャン方面だけでなく、戦争全体における戦略の柔軟性を失わせたように見える。もしアッツ島の連合国軍を孤立させて戦いの主導権を握るために、聯合艦隊がアリューシャン方面に出撃していたらどうなっていたかについては、11.2.3で考えてみる。


7.5.4    連合国軍にとってのアッツ島上陸作戦

一方で、連合国軍によるアッツ島上陸作戦は、第二次世界大戦中の敵前上陸としては、ガダルカナル島(とツラギ)と北アフリカ(トーチ作戦)に次いで3回目だった。連合国軍側の教訓としては、物資の揚陸の遅滞、非効率的な遠距離からの艦砲射撃などとともに、霧による歩兵と砲兵との連携不足があった。連合国軍はこれらの教訓を重視して、次のシシリー島上陸作戦などへと活かしていくことになる。しかし、霧の合間の歩兵と航空機との連携の成功は連合国軍側に自信を与えた。連合国軍にとって、各方面との指揮系統のあり方、艦砲射撃支援のやり方、航空機と護衛艦艇の管理と使用法の確立において、アッツ島上陸作戦はその後の全ての上陸作戦のひな形となった [3, p481]。そして、その後の上陸作戦の経験を経てその完成形がノルマンディー上陸作戦となった。

カリフォルニアで訓練を行っていたアメリカ軍第7師団は、行き先を知らされずに輸送船でアラスカに向かった。途中でアッツ島上陸作戦を知らされて耐寒装備の不備を認識したが、その時点では対応が間に合わなかった。兵士たちは5月のアッツ島のよく気候を知らずにほとんど耐寒・防水装備がないままにアッツ島へ送り込まれた。この時期でもアッツ島には雪が残っていた。第7師団の兵士たちに支給されていた防水加工のない革のブーツは深く泥に沈み、1日中その状態が続いた。たちまち足は濡れて凍傷となった。それは彼らの衣服も同じで、雪や霧雨のため1日中乾くことがなかった [10, p80]。

このアリューシャン列島の5月の気候にそぐわない服装や装備のため、戦闘以外に約2100名の兵士が凍傷などの要因で負傷した [21, p23]。機械類も同様で、通信機器は霧と湿気により濡れてしばしば動作しなかった。そのため、霧で部隊同士が見えないだけでなく、しばしば相互の連絡も取れなかった [10, p80]。日本軍と戦う前に、彼らはこれらの厳しい気候とも戦わねばならなかった。これらによる戦闘力の低下もアッツ島の占領に予想外に時間がかかった原因の一つだった。

連合国軍にとってこの上陸作戦でわかったことの一つは、艦砲射撃の威力だった。これは敵の防御陣地を破壊する効果も大きかったが、自軍の将兵の士気を鼓舞し、敵の将兵の士気を阻喪させるという絶大な心理的効果があることがわかった。連合国軍はアッツ島で押収した日本軍兵士の日記を見て、特に戦艦による艦砲射撃の威力に対する恐怖が数多く記されていることを知った [8, p83]。通常の野戦で使われる大砲の口径はせいぜい15 cm程度であるのに対し、この時の戦艦の主砲の口径は36 cmだった。十分な遮蔽を施した陣地も少なかったうえに、艦船は陸上の観測部隊と十分に連絡をとってピンポイントで狙って砲撃してきた。大口径の艦砲射撃とその高い命中精度はおそらく兵士がそれまで経験したことのない想像を絶する威力だったに違いない。

連合国軍は、艦砲射撃や爆撃の支援が行われると少ない死傷者数で進撃できたが、霧によって支援が滞るととたんに死傷者数が増えて進撃が止まった [8, p83]。連合国軍にとっては、結果として作戦の進捗は対地支援に影響を与える霧などの気象状況によって大きく左右されることがわかった。

連合国軍は捕獲した日本軍の備蓄弾薬・食料を分析しているので、参考に示しておく。日本軍の備蓄補給品は、干しイカ、鮭の缶詰、豆、米、干し芋、非常食の缶詰、鴨肉、みかんの缶詰、鮮魚、海藻類などだった。ホルツ湾周辺では、新鮮な野菜、乾物、弾薬、毛布、ライフル、炭、衣服などが大量に捕獲された[45]。連合国軍はこの大量の備蓄弾薬・食料から見て、アッツ島がキスカ島の補給基地になっており、キスカ島へ配送する分も備蓄されていたと推測している。

前に述べたようにアッツ島では備蓄の食料は7月中旬までと報告されているが、西浦と東浦にはキスカ島へ送る食料・弾薬がそれとは別に蓄積されていたのかもしれない。もしこれらの食料・弾薬が東浦や西浦ではなく、チチャゴフ湾付近に備蓄されておれば、その後の戦闘の様相は多少は変わっていたかもしれない。


7.5.5    アッツ島の玉砕に至る理由の総括

日本国内ではアッツ島玉砕を機として一般国民の中からキスカ島の戦局の前途に対する憂慮や大本営の統帥についての批判の声が出るようになった [18, p476]。大本営では前年秋の検討において、翌春の連合国軍の西部アリューシャン列島への侵攻を予想していた。4-3で示したようにその準備をすることになっていながら、その計画が3月のアッツ島付近への北太平洋艦隊の出現によって頓挫してしまうと、大本営は春までに終わる予定だった準備を「霧輸送」が終わる8月まで単に先送りしてしまった。6.4.1で述べたように、アッツ島に対する連合国軍の侵攻について、大本営は敵が上陸してから初めて対応を考えたという中途半端さがあったことは否めない。

アメリカではアリューシャン方面で作戦を行うことを4月1日から国民に向けて放送していた。7.3.1で述べたように海軍がこれを把握していただけでなく、5月7日の陸軍省課長会議でも報道部長がこの放送の件を発言しており [3, p267]、陸軍も近々上陸作戦が行われることを把握していた。

戦史叢書「大本営陸軍部<6>」は、「アリューシャン方面に敵が来攻した場合の陸海軍中央協定を事前に指示していたならば、もっとすみやかに対応策がとり得たであろうと思われる。この点、大本営は敵の来たらざるを恃む心理があったのではあるまいか。」と述べている [18, p476]。大本営が、連合国軍が侵攻してきた場合の何らかの対応策を4月初めに考えておけば、予め物資の補給方法、兵士の動員や船舶の手当、反撃の手はずなどをもっと速やかに整えることが出来ていたかもしれない。そうすれば、アッツ島守備隊の18日の東浦と荒井峠からの撤退を遅らせることができ、日本本土から何らかの増援作戦が行えた可能性がある。

最終的にはどうやってもアッツ島守備隊の全滅は免れることはできなかったかもしれないが、大本営が4月初めに連合国軍の上陸作戦への対応を検討しなかったことは、根拠のない当座しのぎの先送りに見える。大本営には優秀な人々が集まっており、当然連合国軍の上陸を心配した人もいただろう。言い出せなかった、あるいは議論にならなかった雰囲気があったのかもしれない。もし戦史叢書の疑念の通り「敵の来たらざるを恃む心理があった」とすれば、脳科学的に言えば「そうなって欲しくないことは考えない。自分が不都合なことに関しては思考停止に陥る」という人間の持つ心理をそのまま反映していたことになる。これに類することを「正常性バイアス」と呼ぶ場合があり、これは現代社会でも通じることである。

 

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