2021/06/30

8. キスカ島撤収-「ケ」号作戦

8-1 第一期キスカ島撤収作戦

7.3.4で述べたように、キスカ島から撤退することが決定されたものの、アッツ島が連合国軍に占領された結果、キスカ島は連合国軍の航空機、哨戒艇、潜水艦によって四方から厳重に封鎖された。しかもときどき艦隊が付近を遊弋してキスカ島に艦砲射撃を加えた。連合国軍の艦艇はSGレーダーを装備しており、霧の中でもレーダー射撃を行うことができた。

大本営では、連合国軍の日本への反攻の重点は太平洋南東方面であろうと考えていた。実際に、6月30日には連合国軍は、南洋ソロモン諸島のレンドバ島、ニューギニアのサラモア付近に上陸を行った。アリューシャンでも霧が晴れる時期になれば、連合国軍は当然キスカ島へ上陸してくるものと考えられた。キスカ島はアッツ島に比べれば防御陣地の構築は進んでいた。しかし、弾薬は戦闘時の1週間分、食糧は減量して7月までと考えられた [4, p603]。連合国軍が上陸すれば、アッツ島の二の舞になることは避けられなかった。

日本軍はキスカ島の将兵約5600名を救出する必要に迫られた。聯合艦隊は第五艦隊に対して5月29日にキスカ島からの撤退である「ケ」号作戦を開始するように下令した。その「ケ」号作戦とは、状況によっては監視艇や駆逐艦などを利用するものの、主に潜水艦を使用してキスカ島の守備隊を撤収させるものだった [4, p565]。しかし、それでは全員の撤収には9月末までかかると考えられ、諸状況を考慮すれば、半分撤収できれば良い方と考えられた [3, p468]。

キスカ島の海軍関係者は、ガダルカナル島からの撤退が同じ「ケ」号作戦であったため作戦名からすぐにその意図を察したが、陸軍北海守備隊は6月9日に幌筵からキスカ島に帰島した参謀によって初めてその企図を知った。もちろん撤収計画の連絡・通信に関しては、連合国軍に悟られないように厳しい情報統制が敷かれた。北方部隊潜水部隊は、作戦発令前の5月27日から潜水艦を使って、まず傷病者と軍属のキスカ島からの撤収を開始した。「ケ」号作戦には13隻の潜水艦が参加した。6月9日までに6回の撤収が無事に成功し、1回の救出数は60~80名と効率が悪かったものの、潜水艦を用いた撤収は順調に進むかのように見えた。

実は、この時期のアメリカ艦隊はアッツ島の作戦が一段落したため、基地へ戻って補給を行っていた。しかし6月10日頃になると、アメリカ軍によるキスカ島付近の哨戒網が再構築された。6月10日から12日にかけて、潜水艦「伊一六九」と潜水艦「伊二十一」が濃霧の中で突如砲撃を受けたが被害はなかった。しかし前述したように潜水艦「伊二十四」が6月11日に、そして潜水艦「伊九」が14日にに消息不明となった。アメリカ軍の記録によると、「伊九」は距離6.4 kmでレーダーで発見され、その後潜望鏡を視認されて攻撃を受けて沈没した [24, p37]。17日には潜水艦「伊二」が砲撃を受けて砲弾が命中したものの、命中場所が致命部位から逸れたため退避に成功した [4, p583]。それらの被害を受けて、「ケ」号作戦はいったん中断された。

潜水艦を用いた撤収は、6月18日に4隻の潜水艦を用いて再開された。21日に最初にキスカ島に進入した潜水艦「伊七」は、七夕湾に入る直前に駆逐艦「モナハン」から霧の中でレーダーによる砲撃を受けた。砲弾が艦橋に命中して司令と艦長が戦死し、潜航不能となった。同艦は旭岬に擱座して応急修理を行った。翌日に応急修理を終え濃霧の中を横須賀に向かおうとしたところ、再び駆逐艦と砲戦となったためキスカ島へ戻ろうとしたが、被弾によって浸水が激しく付近の岩礁に擱座するに至った [4, p580]。この戦闘で乗組員80名が戦死した。なお同潜水艦は暗号書を積んでおり、後日第五十一根拠地隊によって爆破された。これにより23日に「ケ」号作戦の一旦中止が指令された。結局6月18日までに潜水艦でキスカ島からの撤収に成功したのは、主に軍属や傷病者の872名だった [4, p574]。

潜水艦「伊七」
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8-2 第二期第一次キスカ島撤収作戦

8.2.1 作戦計画

聯合艦隊司令部は「ケ」号作戦を速やかに終えて、主戦場である南東方面あるいは中部太平洋に全力を傾注したかった。6~7月にかけて太平洋高気圧が強まり始めると、低気圧がベーリング海に入った際に湿った南風がアリューシャン列島付近に吹き、それがまだ冷たい海面に触れて霧が発生しやすくなる。霧が発生すると、日本軍の艦船は少なくとも航空攻撃を避けることができた。そのため、聯合艦隊司令部は6月上旬からその霧を利用した水上艦艇による一挙撤収を研究していたようである。

第一水雷戦隊司令官だった森友一少将は病に倒れ、6月11日に第一水雷戦隊司令官として木村昌福少将が着任した。彼は温厚だが果断な人物であり、海軍軍令部でのデスクワークとは無縁だったが、南洋ソロモン諸島での諸作戦に参加して実戦の経験は豊富だった。彼には、第五艦隊から撤収案として手持ちの駆逐艦全部(11隻)で行う案と特設巡洋艦を使う案の2案が提示された。駆逐艦で撤収する案は迅速に行えるがキスカ島守備隊全員の収容は出来なかった。特設巡洋艦を使えば全員を収容できるが、改造商船なので速度が遅く、敵に発見される可能性が高かった [4, p606]。もし交戦して駆逐艦が5割損傷すれば、撤収は困難になると考えられていた [3, p474]。さまざまな検討が重ねられた結果、特設巡洋艦の代わりに高速を出せる軽巡洋艦を用いることになった。陸軍からはなぜ重巡洋艦を出さないのかという疑問が出されたが、木村司令官の意見は、燃料を多量に消費する上に直衛に駆逐艦が必要な重巡洋艦は、出てもらわない方がかえって良いというものだった [3, p475]。

木村昌福少将
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6月24日に北方部隊はケ号作戦を発令し [4, p606]、28日にはその部隊構成である軍隊区分が示された。この任務には収容隊として軽巡洋艦「木曽」、「阿武隈」、駆逐艦「響」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」、「朝雲」、「薄雲」、警戒隊として駆逐艦「島風」、「五月雨」、「長波」、「若葉」、「初霜」、それに補給隊として油槽船「日本丸」と海防艦「国後」、応急収容隊として特設巡洋艦「粟田丸」が割り当てられた [4, p607]。状況によっては警戒隊と応急収容隊にも守備隊の収容が予定された。その他に潜水艦11隻が偵察や哨戒、気象通報に参加した。

軽巡洋艦「木曽」1942年アリューシャン方面で撮影されたもの。
https://ww2db.com/image.php?image_id=7759

企図を敵に悟られないように通信の際の一般暗号書の使用を禁止し、海軍の特定暗号書の使用が定められた [4, p608]。迅速な収容と万一の海戦に備えて、海軍は撤収する際に兵士は小銃を携行しないように要請した。ガダルカナル島からの撤退でも兵士は小銃を携行しており、これは異例の措置だった [3, p477]。また、アメリカ軍の巡洋艦に偽装するため、軽巡洋艦の3本煙突の一つを白塗りにして2本煙突に見えるようにした [4, p614]。その他に泊地進入の経路、収容時間短縮のための大発の搭載、帰投航路の選択等に苦心が払われた。また、軽巡洋艦「阿武隈」、「木曽」には効果的な対空兵器がないので、陸軍の7 cm野戦高射砲を仮設装備した [4, p614]。

この作戦は、敵に見つからないように霧を利用しながらも、霧が濃いと艦隊の航行に支障を来すという矛盾した側面を抱えていた。そのため、第一水雷戦隊に気象士官橋本恭一少尉が配置された [4, p614]。しかし、彼は九州大学地球物理学科出身で気象学の専門家ではなかった。彼は後にサイパン島で戦死した。軽巡洋艦の「阿武隈」と「木曽」には2号1型電探が装備されていたが、見張りの代わりに使えるだけで、射撃用の距離測定はできなかった [19, p315]。木村司令官の要望で距離測定ができる最新の2号2型電探を装備した新造の駆逐艦「島風」が、7月1日付けで第五艦隊の第一水雷戦隊に編入されたが [4, p614]、電探の動作はなかなか安定しなかったようである。電探の受信機をスーパーヘテロダイン方式にして同型電探の動作が安定したのは、翌年夏からである。一方で、超短波用の逆探が全艦に装備されたが [4, p614]、アメリカ軍が1942年秋から装備していた極超短波を用いた新型SGレーダーには応答しない可能性が高かった [15, p97-98]。なお、レーダー欺瞞用の反射物も搭載された [24, p41]。

駆逐艦「島風」
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霧の中での航行のための唯一の手がかりは、キスカ島から発信されるビーコンだけだった。キスカ湾に入る前には小島があり、それらを霧の中で確実に避けてキスカ湾に到達することができるかどうかはわからなかった。また乗船開始時刻は1500時と決められていたが、キスカ島に散在している陸軍部隊は直前まで警備体制をとる必要があり、また場所によっては乗船場所までたどり着くのに数時間かかる場所もあった。迅速な収容のため場所に応じて撤収開始時刻が決められた。

8.2.2 作戦のための霧予報

この作戦を成功させるためには3日以上先のキスカ島の霧の発生の予報が必要だった。この霧予報の重大な責任を負ったのは、中央気象台附属気象技術官養成所出身で、まだ22歳の第五艦隊気象長竹永一雄海軍少尉だった。気象予報のためにはまず北太平洋高緯度での気象観測データが必要だった。彼は艦隊旗艦「那智」がアッツ島沖海戦で損傷したため第五艦隊司令部が移された「摩耶」が、4月に横須賀に回航された際に、霧予報の調査を命じられていた。彼は過去に船舶によって行われた北太平洋の気象観測の結果や神戸の海洋気象台が発行していた北太平洋天気図を用いて霧の予報手法のための調査を行った [25, p7]。また、幌筵に停泊している船舶にもアリューシャン列島の霧の特徴を尋ねた。

気象データを入手できても、霧の予報を出すには予報手法を新たに開発しなければならなかった。彼が苦心のすえまとめたアリューシャン列島西部の海霧予報のための法則は次のようなものであった [26, p6]。

  1. 北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカ島が霧になる確率は9割以上である。
  2. 霧は低気圧の接近によって発生し、その通過後に晴れる。
  3. 霧が発生する時の風速は5~7 m/sが最も多く、風が弱いときは霧は少ない。
  4. 気温より水温が2℃以上高いと霧が発生しやすい。
  5. キスカの霧の季節は6月下旬から7月上旬までの間で、7月下旬になると霧の発生は減少する。

1.は「プラス2セオリー」と呼ばれた。なお4.は2.の低気圧接近時の南風との整合性を考えると、この時期は「気温より水温が2℃以上低い(気温が水温より2℃以上高い)」とする方が妥当と思われる。ただ霧はどちらの条件でも発生する可能性はある。

8.2.3 作戦の経過

第五艦隊では、キスカ島付近は7月10日夕方から霧が濃くなり、11日は霧または霧雨、12日は霧は少なくなると予想した。この予報に従って、第一水雷戦隊は11日を撤収予定日として7月7日に幌筵を出港した。ところが第一水雷戦隊では11日には高気圧が発達して霧が消えると予想し、途中海域で待機しながら突入を13日に延期した。実際に11日はキスカ島付近の天候は曇りだが視程は10~15 kmあり、夕方にはアメリカ軍の駆逐艦隊がキスカ島を砲撃した。キスカ島では作戦延期の知らせが十分でなく、沖合に見えたアメリカ艦隊に向かって発光信号を送ったり、誘導電波を送ったりなどの混乱が起こった [7, p336]。

第一水雷戦隊では延期した13日の天候を、午後から霧が深くなるが低気圧の動きが遅ければ霧の発生は夜になると予測した。またアメリカ艦隊の警戒を厳重と見なして、突入を14日に延期した。この時期の第一水雷戦隊の天候判断は、第五艦隊司令部や第五十一根拠地隊の判断と異なっており、全般的にきわめて慎重であった [4, p617]。第一水雷戦隊が待機していた海域は終始晴れており、心理的に第一水雷戦隊の突入を難しくしたかもしれない。

13日における第五十一根拠地隊の予報は14日は雨または霧、15日夕刻より天候が回復するというものだった。しかし第一水雷戦隊は、戦隊付近の高気圧がそのままキスカ島付近へ向かうため14日も薄い霧程度で視界は良好と予測し、突入を15日に延期していったん反転した [4, p617]。しかし低気圧が東進してきたため、13日2100時に第一水雷戦隊の予報は「14日の天候は悪化する」に変わり、突入を14日に戻した [4, p618]。ところがキスカ島での撤収作業が高波で困難であることが予想されたため、14日0125時になってやはり15日に突入することに変更した。実際のところ、14日はキスカ島付近の天候は悪かったが、アメリカ艦隊がキスカ島のすぐ東方で行動していた [3, p483]。第一水雷戦隊は15日の突入を目指して、折しも発生した濃霧の中を14日1450時にキスカ島へと針路を向けた [4, p618]。

ところが低気圧は予想より早くキスカ島付近を通過し、15日0300時には曇りだが視程は10 km程度に回復した。さらに0600時の気象状況を待ったが、第一水雷戦隊付近では晴れ間もあり、視程は20~30 kmあった [4, p619]。キスカ島到着予定は1500時であったが、キスカ島での天候はさらに回復することが想定された。既に敵機の哨戒圏内であり、退避して再び待機することは燃料不足のため無理だった。15日0905時に第一水雷戦隊は撤収作戦を断念した [4, p619]。連合艦隊司令部は1521時に第五艦隊に決行の要望電を発信したが、結局撤収は中止となった [19, p318]。

キスカ島の第五十一根拠地隊では、最低限の武器、弾薬、食糧を除いて残りを全て破壊、破棄し、部隊の配置によっては数時間かかる海岸への集合を11日から15日まで毎日繰り返していた。第一次撤収作戦が不成功に終わったことは、キスカ島守備隊に深刻な影響を与えた。戦史叢書「北東方面海軍作戦」は「キスカ島守備部隊の人々には、一水戦の行動を批判するよりも、がっかりしたというのが実感であったろう。」と述べている [4, p626]。

8-3 第二期第二次キスカ島撤収作戦

8.3.1 第一次撤収作戦失敗の後

第五艦隊による撤収作戦の中止に、聯合艦隊司令部は強い不満を抱いた。そして督戦の意味をこめて7月20日に第五艦隊司令部に参謀副長小林謙五少将を派遣した [4, p627]。また、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた第五艦隊司令部も、第一水雷戦隊の慎重な行動を非難した [4, p628]。一方で、第一水雷戦隊では駆逐艦を多数失えば今後の戦局に重大な影響があるため自分たちの慎重な行動を当然と思っており、第五艦隊司令部による非難を心外と捉えていた [4, p630-631]。第五艦隊と第一水雷戦隊では立場、考え方に違いがあった。そのため、次回は第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で第一水雷戦隊に同行して、第五艦隊司令部が現場で突入の判断を行うことになった [4, p631]。なお突入の判断の後、「多摩」はキスカ島へ突入せずに幌筵へ戻ることになっていた。また特設巡洋艦「粟田丸」は撤収艦隊から外された。

8月になれば霧の出現は期待できないと考えられていた。また重油も幌筵には艦隊行動でキスカ島までの往復1回分しか残されていなかった。次の霧はなかなか発生しそうになかった。通常ならば北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が、この年は北緯42度付近にあったため霧が出にくかった [26, p65]。竹永気象長は霧が出にくい原因まで叱責され、ノイローゼ気味となった。木村司令官は心中に再挙の固い決意を持っていたと思われるが、港で釣りをして過ごしてあたかも周囲の状況を意に介していないようだった。

1943年7月23日の天気図。太平洋高気圧が例年より北の三陸沖に偏っている。
原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」

8.3.2 第二次撤収作戦の発動

7月22日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵付近は霧となった。この低気圧が東進してベーリング海に入ると、プラス2セオリーから25日頃に南風によって霧がアリューシャン列島に発生することが期待された。7月26日のキスカ島突入を予定して第二期第二次撤収作戦が開始された。巡洋艦3隻、駆逐艦11隻と補給艦からなる艦隊は、22日夜に幌筵を出港した。第一水雷戦隊では翌23日に26日の天候を曇り時々霧で見通しは良いと予測し、第五艦隊司令部に突入の27日への延期を具申した。しかし第五艦隊司令部はこれを認めず、26日の突入を変えなかった [4, p633]。ところが、この低気圧は予想より速く進み、24日にはキスカ島を通過してしまい、その後キスカ島付近は晴れてしまった。

一方で艦隊は連日の濃霧の中の航行であったため、7月24日に艦隊の隊形が混乱した上に補給隊の油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が隊列からはぐれてしまった。このため「多摩」の第五艦隊司令部は突入日の27日への延期を認めた [4, p633]。この日の1500時に「木曽」は仮装備した陸軍の野戦高射砲の試射を霧の中で行ったところ、たまたまこの音を聞きつけた「日本丸」と合同することが出来た [4, p634]。作戦の途中で「日本丸」から重油の補給ができなければ、艦隊は作戦を継続できないところだった。しかし、補給隊のもう1隻である「国後」はまだ行方不明のままだった。

7月25日には敵潜水艦のレーダーを艦隊のすぐ近くに逆探知したため韜晦行動を行った。これは、アメリカ潜水艦が対空用の超短波SDレーダーを使ったためかもしれない [27, p229]。この韜晦行動により、キスカ島への突入日は28日もしくは29日に変更された [4, p634]。第一水雷戦隊では東北沖にある低気圧が北東進すれば、29日以降にキスカ島付近の天候が悪くなると予想した [4, p635]。

この25日から突入日までの韜晦行動に関して、第五艦隊司令部と第一水雷戦隊では考え方に違いがあった。第一水雷戦隊ではいったん南下して敵潜水艦から離れ、突入日に間に合うように北上すれば良いと考えていた。しかし第五艦隊司令部の指示は、突入の即応体制を取るためその付近で待機(往復運動)するというものだった。第一水雷戦隊は敵潜水艦に接近したままの指示に釈然としなかったが、これに従った [4, p636]。

第一水雷戦隊は7月26日早朝に突入日を29日に決定して、第五十一根拠地隊から了承を得た [4, p636]。艦隊付近は濃霧のため、はぐれた海防艦「国後」以外は単縦陣で航行していた。ところが26日1744時に「国後」が霧の中から艦隊付近に突如現れ、軽巡洋艦「阿武隈」の右舷中部に衝突した。このため隊形が混乱し、駆逐艦「初霜」は駆逐艦「若葉」と「長波」に接触した [4, p636]。「若葉」と「初霜」は最高速度が12ノットに低下したため、「若葉」は自力で幌筵へ回航、「初霜」は「国後」の護衛に回ることとなった [4, p64]。「若葉」に座乗していた第二十一駆逐隊司令は、「島風」に移乗した。

キスカ島付近では20日以降24日を除いて連日晴天が続いており、敵機や敵艦隊の活動が活発だった。キスカ島の第五十一根拠地隊は霧の季節が終わったのではないかと危惧したが、これを逃すと二度と撤収機会の見込みは無く、キスカ島への突入を要望した[4, p640]。ところが7月27日にオホーツク海に低気圧が発生して、幌筵は霧となった。これに基づいて、7月27日0600時に第一水雷戦隊では、プラス2セオリーからキスカ島付近の29日の天候を霧と判断した。しかし、第五艦隊司令部では薄霧で敵機の飛行は可能と判断した [4, p640]。なお後述するように、この日の夜にアメリカ艦隊はキスカ島南方海域においてレーダーで探知した幻の目標に砲撃を加えていた。これはキスカ島からも観測され、艦隊が交戦していると推測された。日本艦隊では該当する艦船がないため、敵同士の味方討ちと判断していた [4, p639]。

7月28日にキスカ島では昨日オホーツク海で発生した低気圧が近づいてきて早朝から霧となった。第一水雷戦隊では29日の天候を「西の風で曇りときどき霧」と判断した。第五艦隊では「南西の風、曇りで淡霧だが敵機の飛行は困難」と予測した。しかし、軽巡洋艦「多摩」の第五艦隊司令部は突入するかどうかで迷った [4, p642]。第一次撤収作戦では第一水雷戦隊の行動を批判した第五艦隊司令部だったが、現場で当事者になってみると机上で考えていたようには行かなかった。迷った司令長官河瀬四郎中将は、座乗していた「多摩」艦長で積極果敢な神重徳大佐に意見を求めたところ、ぐずぐずしていたら突入の時期を失するという意見に押されて突入を決めた [4, p642]。1600時には艦隊はキスカ島へとコースを向けた。なお、幸運なことにこの日1010時から30分間だけ霧が晴れて天測により艦隊の位置を確認するとともに艦隊の隊形を整えることが出来ていた。夜になると霧は一層深くなっていった。

8.3.3 キスカ島での撤収

7月29日は、キスカ島では霧のため視程は1500 m程度と突入には絶好の天候となった。0700時に第五艦隊司令部が乗った軽巡洋艦「多摩」は、予定通り第一水雷戦隊から別れて幌筵に向かった。第一水雷戦隊では撤収部隊の都合を考えて、1430時入港を予定していた。ところが、第五艦隊司令部は入港時刻を4時間繰り上げる符牒を送信したので、1330時入港に予定を変更した [4, p644]。なお、符牒は予め「一符字」で決められており、アメリカ軍はこれだけを受信しても発信艦の方位測定や位置の推定は出来なかった [7, p400]。キスカ島の北側を時計周りに回っていた艦隊は、近くの岩礁などを避ける必要があったが、霧に閉ざされて正確な位置が不明だった。11時半頃に一瞬霧が晴れてキスカ富士を視認でき、これで艦隊の正確な位置を確認できた。キスカ島の東に回り込むとキスカ島から発信されるビーコンにより一挙に突入することが出来た [7, p404] 。

当日、キスカ島では朝から電探が敵機を上空に捕え、9時頃までに2回対空戦闘があった。ところが1000時頃から霧が深くなったためか敵機は戻っていった。同じく午前中にはキスカ島付近を哨戒する敵駆逐艦の音も聴音されていたが、同様に戻って行ったようだった [7, p358]。第一水雷戦隊では、入港直前の1150時にキスカ島から敵艦船の聴音の報告があり、また駆逐艦「島風」も高感度の目標を探知したため、会敵を予期していたところ、1300時に艦影を発見したため「阿武隈」が咄嗟に魚雷攻撃を行った。しかし、艦影に見えたものはキスカ島付近の小島だった [4, p644]。

島内の兵士には29日朝に、予定が早まって艦隊が昼頃に到着することが突然伝えられた。撤収予定地から離れた部隊では、ちょうど食べかけていた朝食をそのまま残してあわてて湾に向かった。第一水雷戦隊は1340時に無事キスカ湾に入った [4, p644]。キスカ島周辺は深い霧に包まれていたが、湾内の視界は良好だった。撤収作業は島内に残っていた大発と艦隊が搭載してきた大発を使って順調に行われた。前述したように、迅速な収容を可能にするために兵士たちには小銃を海に捨てるように命令された(一部の艦では所持を許された)。大発から艦艇に乗り移るのを容易にするために、登りにくい縄ばしごではなく特製の木製はしごが用意されていた。これらの結果、全将兵は1時間以内に船に収容された。収容中もときおり上空に敵機の感度があり、電探隊は最後まで残って敵機の監視を行った。艦隊が無事に出港し始めると電探を爆破して、電探隊は最後の大発に乗って艦隊に収容された [7, p360] 。

1430時頃には撤収を終わり、艦隊は出港した。ところが1627時に「阿武隈」が距離わずか約2 kmでアメリカ軍の浮上潜水艦を発見してこれを回避した。艦隊は発見されたと思われたが、アメリカ艦隊と誤認したのか潜水艦から無線は発信されなかった [4, p646]。これは、アメリカ軍の巡洋艦に似せるために軽巡洋艦の煙突1本を白く塗った効果だったかも知れない。また、北方部隊では7月29日に艦隊が大湊に在泊しているような偽電を発信していた [19, p320]。艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして5186名が無事にキスカ島から撤収され「ケ」号作戦は成功した。この作戦の間幌筵の旗艦「那智」で気象予報を行っていた竹永気象長は、それまでとは打って変わってみんなから感謝された。河瀬第五艦隊司令長官は作戦概報において「惟フニ本作戦ガ濃霧ノタメ敵機ノ活動全ク封殺セラレ敵艦隊ノ哨戒亦不備ナル好機ニ乗ジ得タルハ全ク天佑神助ニ依ルモノニシテ感激ノ外ナシ」と述べている [19, p320]。古賀連合鑑隊司令長官は、31日に慰労電を発信した。8月2日には大元帥である天皇陛下から撤収作戦に関して御嘉賞のお言葉を賜った [3, p492]。

8.3.4 キスカ島沖での幻の海戦

キスカ島からの撤収作戦の成功には、第五艦隊司令長官が「敵艦隊ノ哨戒亦不備」と指摘しているように、アメリカ艦隊の行動が大きく関係していた。7月24日にカタリナ飛行艇のレーダーがアッツ島南西150 kmに7隻の船を感知した [8, p91]。北太平洋軍はこれを日本の増援軍と判断し、迎撃させるためにキスカ島の南西でキスカ島を封鎖していた駆逐艦2隻を含めて、砲撃艦隊にキスカ島南西の該当海域に向かわせた。7月27日の深夜、この艦隊の戦艦「ミシシッピー」、「アイダホ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「ポートランド」がキスカ島の南西150 km海域でレーダーの反応を認めた [10, p93]。艦隊は直ちに、この目標に22 kmまで接近して約30分間にわたって砲火を浴びせた。ただし星弾(照明弾)を用いてもその目標は視認できなかった。夜が明けた28日に偵察機を飛ばしたが、いかなる残骸や漂流物も認められなかった [10, p93]。

艦隊のレーダー担当士官は、後にそのレーダーの反応が異常な大気状態による約180 km離れたアムチトカ島からの電波反射が原因だったかも知れないと示唆している [8, p91]。この戦いはピップスの戦い(The Battle of the Pips)とも呼ばれている。このアメリカ艦隊の幻との戦いによって、日本艦隊がキスカ島からの撤収を行っていた29日頃、アメリカ艦隊はキスカ島付近には駆逐艦「ハル」1隻だけを残して、キスカ島の南東200 kmの地点で消耗した砲弾や燃料の補給をしていた [2, p88]。これによって、この時だけアメリカ軍の封鎖網に隙が生じて、日本艦隊にキスカ島との航路が開けていた。もちろんアメリカ軍では、この一瞬の隙を突いて日本軍が撤収したことに全く気付かなかった。

駆逐艦「ハル」(DD-350)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-320000/80-G-321647.html

なお、駆逐艦「ハル」は1944年12月にハルゼー率いる第38任務部隊がフィリピン沖で台風「コブラ」に遭遇した際に、高波を受けて沈没した(米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(3)参照)。その後、この時の状況を元にピューリッツァー賞を受賞したハーマン・ウォークの世界的ベストセラー小説「ケイン号の叛乱」が作られ、それを映画化したものはアカデミー賞を受けている。

 

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