2021/06/30

7. 連合国軍のアッツ島上陸

7-1    上陸作戦準備

 7.1.1    連合国軍の準備

連合国軍は西部アリューシャン列島の戦術的価値はほとんどないと考えていた。しかし、日本軍によるアメリカ領土の占領は、政治的な観点からアメリカを動かした。1942年12月に連合国軍は両島の奪還のための陸海軍の統合作戦を計画した。当初の作戦計画は5月1日以降のキスカ島への上陸だったが、2月初めに使える船舶が予定より少ないことがわかり、キスカ島上陸作戦の練り直しが行われた [8, p58]。

3月3日に北太平洋軍司令長官キンケイド少将は、アッツ島の守備隊が500名程度と推定されていることを知り、3月11日にアッツ島とセミヤ島の占領とそこでの飛行場建設を計画した。それは戦艦3隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦3隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、攻撃輸送艦4隻、輸送船1隻、その他のタンカー、掃海艦、水上機母艦を用いる計画だった [8, p59]。3月22日にアメリカ統合参謀本部によってこの作戦は承認された [2, p65]。目的は西部アリューシャン列島への補給線を遮断するために、アッツ島と付近の島に航空作戦用の飛行場を建設し、それらを将来行なわれるキスカ上陸作戦のための基地にすることだった [4, p559]。

アッツ島への上陸予定日は5月8日の夜明け15分前の0240時(日本時間)と決まった [8, p61]。この日は最も霧が深くなる季節に入る前の時期として選択されたが [3, p306]、この年の霧の時期は早く始まった。しかしこれ以上時期を早めることは不可能だった。その後の偵察で、日本軍の兵力は1587名と推定された [2, p65]。上陸作戦用に次の2つの艦隊が編成された [8, p62-72]。

任務部隊キング(指揮官キンケイド少将、護衛部隊)

     南方支援グループ:軽巡洋艦3、駆逐艦5。
     北方支援グループ:重巡洋艦3,駆逐艦4。
     給油グループ:タンカー6隻と駆逐艦母艦2隻。
     航空攻撃隊:航空攻撃隊として大型爆撃機24機、中型爆撃機30機、戦闘機128機。
     哨戒隊:水上偵察機24機、カタリナ飛行艇(PBY-5As) 30機、水上機母艦5隻。
(水上機部隊、アラスカ地区防衛・補給部隊、セミヤ島占領グループを除く)


任務部隊ロジャー(指揮官ロックウェル少将、攻撃部隊)

     支援グループ:戦艦3隻、護衛空母1,駆逐艦7。
     輸送グループ:攻撃輸送艦(APA)4,輸送艦1(「ペリダ」),輸送駆逐艦1(「ケイン」),駆逐艦3,水上機母艦1,掃海艦2(「シカード」、「プルーイット」)。
     掃海グループ:掃海艦2。
実際には任務部隊キングの部隊の一部は任務部隊ロジャーに入れられた。

なお、攻撃輸送艦(APA)とは、多数の兵員用上陸用舟艇(LCP)を船内に収容してその急速揚降装置を備えて、沖合からLCPを発進させて兵員や物資の上陸を可能にする輸送艦である。輸送艦(「ペリダ」)にはLCM1隻、LCV10隻が搭載された。LCMとは機動揚陸艇で中戦車1両(30トン)に相当する物資か武装兵士60名が搭載可能だった。LCVとは車両揚陸艇で、1トンの物資か兵員36名が搭載可能だった。輸送駆逐艦とは旧式の駆逐艦を輸送用に改造したもので、200~300名の兵士を乗せて、高速(25ノット程度)で航行できた。



攻撃輸送艦「ヘイウッド」(APA-6)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-320000/80-G-325420.html

上陸軍の陸上兵力の主力には、上陸部隊司令官アルバート・ブラウン少将率いるアメリカ陸軍第7師団が充てられた。彼らは北アフリカでの砂漠戦を想定して本拠地であるカリフォルニアで訓練を行っていたが、約3か月前に急遽アッツ島奪回作戦に投入されることになった。そのため、2月21日から3月9日まで、目的を秘匿したままカリフォルニアで攻撃輸送船を用いた上陸訓練が行われた [8, p59]。訓練後に彼らは出航したが、サンフランシスコ沖にさしかかった4月25日になって、彼らはアフリカではなくアッツ島上陸作戦のためにアラスカのコールド・ベイへ向かっていることが知らされた [2, p61]。そこで防寒対策の不足がわかったが、それが十分に改善されるほどの時間的余裕がなかった [3, p306]。北アフリカ用の兵力をアリューシャン列島の気候を十分に考慮せずにそのまま投入したことが、後に犠牲を増やす原因の一つとなった。

アッツ島上陸作戦はランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)と命名され、第7師団を主力とするアメリカ軍とカナダ軍が、南部のマッサカル湾に8000名が、北部のホルツ湾に3000名が上陸して、南北から日本軍の勢力を本拠地がある島東端のチチャゴフ湾(熱田湾)方面に押し込めていく作戦だった(それ以外にホルツ湾よりさらに北部のオースチン入江とマッサカル湾北東のサラナ湾で小規模の上陸が行われることになっていた) [8, p72]。

わずか1350名と推定した地上兵力のみの日本軍に対して、連合国軍は1万名以上の兵力と60隻を超える艦艇、200機にも上る航空機を準備した。予備兵力として約1個旅団がアダック島に留め置かれた。しかも、アダック島には3000名分の捕虜収容のためのキャンプも作られた[44, 19]。

上陸前後には爆撃と艦砲射撃を徹底して行う計画だった。その攻撃にはアムチトカ島からの陸上機だけでなく、支援グループに含まれる護衛空母の艦載機を用いた繰り返し攻撃も予定された。水上偵察機による艦砲射撃の照準支援も計画された。それらのピンポイントでの攻撃地点の連絡のために、海軍の火力管制部隊(fire control unit)も上陸部隊の中に入っていた [8, p72]。占領までに必要な日数は3日間と想定された [16, p19]。この時期に連合国軍は南洋のソロモン諸島で攻勢に出ようとしており、また2か月後には地中海でシシリー島上陸作戦も計画されていた。連合国軍は、アッツ島上陸作戦に北太平洋で持てる力のほぼ全てを動員していた。


アッツ島への砲撃準備をする戦艦「ペンシルバニア」(1943年5月11日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=29020

7.1.2    日本軍の準備

連合国軍が上陸する前のアッツ島の日本軍兵力は、山崎保代大佐率いる第二地区隊(アッツ島守備隊)の歩兵1個大隊半、工兵1個小隊の計2638名で、彼らが保持している食糧は7月中旬までだった [18, p427]。これには軍属や報道班員、野戦郵便局員など非戦闘員143名が含まれていた[44, 17]。アッツ島の日本軍の防備の内訳は、司令部と海軍を除くと、第三百三大隊長渡邊十九二少佐率いる熱田湾(チチャゴフ湾)小地区隊(歩兵2個中隊(1小隊欠)、山砲1個中隊(2小隊欠)基幹)、第三百三大隊第一中隊長林俊夫中尉率いる旭湾(マッサカル湾)警備隊(歩兵1個中隊、山砲1個小隊基幹)、北千島要塞歩兵隊長米川浩中佐が率いるによる北海湾(ホルツ湾)小地区隊(歩兵1個中隊、山砲1個小隊基幹)、その他、高射砲隊、地区直轄部隊(設営隊、通信隊、野戦病院、船舶工兵)、予備隊からなっていた [3, p295]。合計で75mm高射砲12門、20mmと13mm対空機銃それぞれ6基、75mm曲射砲(山砲?)4門を装備していた [2, p67]。しかし、本来アッツ島へ増援されるはずだった歩兵4個大隊、重砲2個大隊、高射砲1個大隊などの本体は輸送できず、本土に拘置されたままだった[44, p13]。

アッツ島では、9月にいったん資材を棄却して撤収した上に、11月の再上陸後は飛行場建設を優先させたため、防御施設の建設は大幅に遅れていた。結局、飛行場建設はアッツ島の防衛力を弱めただけだった。熱田湾小地区隊の防備(熱田富士~獅子山~雀ヶ丘~虎山の線)は山岳陣地を除いてほぼ完成したものの、旭湾警備隊(旭高地、荒井峠、将軍山)の完成度は7割だった。火砲類は材料未到着のため掩蓋(敵の砲爆撃を防ぐ覆い)を構築できず、一部を偽装した程度で火砲は露出していた。防空壕などの施設の建設も、岩盤が固い上に建設資材未到着のため構築が遅れていた [3, p299]。

キスカ島の北海守備隊は通信傍受などから連合国軍の動きを察知していた。北海守備隊司令部の「熱田島ノ戦闘時二於ケル戦闘詳報」は次のように記録している。「敵ハ「キスカ」島ニ対スル空爆ヲ執拗ニ反復スルト共ニ「アッツ」周辺ニ対シテハ艦隊ヲ以テ威カ捜索ヲ行フ外飛行機潜水艦等ニ依リ海岸附近ヲ執拗ニ偵察スル等其ノ反攻気勢漸ク濃化シ特ニ通信諜報ハ四月二十六日頃敵艦隊「クルック」基地ヲ出撃セル徴ヲ示シ・・・有力ナル船団行動中ノ疑濃厚トナリシヲ以テ守備隊ハ警戒ヲ至厳ニシツツ鋭意飛行場作業ヲ促進シツツアリタリ」 [3, p266]。敵が上陸する可能性が高いとして第二地区隊(アッツ島守備隊)は5月3日から戦闘配置についた。日本軍は戦闘配置のまま1週間近く待機した。ところが後述するように悪天候のために連合国軍では上陸予定が遅れた。連合国軍が一向に姿を見せなかったため、第二地区隊司令部は連合国軍は別な所へ向かったと判断して9日に戦闘配備を解いた [3, p320]。現地では、万一連合国軍が来てもこの深い霧の中での上陸は困難とみていたと思われる。


7-2    アッツ島への上陸

 上陸艦隊はコールド・ベイの出港を5月4日、上陸予定日を9日としたが、天候不良のため出港を1日延期して、出航を5月5日に上陸予定日を10日に延期した。ところが出航後に悪天候が続いたため、上陸予定日を天候の回復が予想された12日へとさらに延期した [8, p72]。出航後の5月8日に日本艦隊の攻撃を懸念して、任務部隊ロジャーの支援グループと任務部隊キングの南方支援グループをアッツ島西に派遣したが、日本艦隊を発見できなかった。彼らは戻って11日にアッツ島北200 kmで上陸艦隊と合同しようとして、霧の中で駆逐艦「マクドノー」と掃海艦「シカード」が衝突した [2, p66]。この2艦はアダックへと戻った。結局12日も予報と異なり霧が深い日となったが、予定より3日遅れてこの日に上陸作戦は決行された。

7.2.1    ホルツ湾とその周辺への上陸

5月12日のアッツ島は霧に覆われていた。夜中の0010時にアメリカ海軍最大級の潜水艦である「ナーワル」と「ノーチラス」で輸送されたそれぞれ105名と109名の偵察部隊 [4, p560]は、北部のオースチン入江にゴムボートで無事に上陸できたが [8, p73]、それに続く予定だった輸送駆逐艦「ケイン」の偵察部隊165名は、霧と暗闇で上陸する海岸の場所がわからなかった。彼らは夜が明けて浜辺を視認した後に上陸した [8, p74]。オースチン入江での上陸の際には抵抗は全くなかった [8, p76]。彼らは谷沿いに雪を頂いた山脈を越えて西浦の西側に出て、そこにある砲兵陣地牽制して東のホルツ湾北側から来る本隊の安全を図るのが役目だった [3, p326]。しかし十分な防寒設備を持たない彼らは、雪をかぶった険しい地形と寒さと飢えのために行軍は難航し、16日にかろうじて230名あまりが、西浦でホルツ湾の上陸部隊と合同できた [2, p76]。しかし、この作戦はあまり成功したとは言えなかった。

アッツ島東部の地図

主たる上陸地点の一つであるホルツ湾北部では、夜が明けても霧で何もわからない状態だった。その付近の地理に関する情報はなかった。連合国軍はまずSGレーダーを使ってホルツ湾北方海岸にある狭い砂浜を探査した。そして、その場所が実際に上陸に適しているかを調査するために、0427時に斥候隊が上陸した。ところが、その後斥候隊との連絡が取れなかったため(霧の湿気のために通信機が不調だった可能性がある)、輸送司令官は独断で0910時から29隻の上陸用舟艇(LCVP:車両兵員揚陸艇)を用いて本格的な上陸を開始した [2, p69]。しかし、霧で舟艇がしばしば行方不明になり、輸送司令官はいちいちそれらを捜索しなければならなかった [8, p74]。それでも1500時までに北方上陸軍指揮官クリン大佐率いる第17連隊第一大隊1100名が無抵抗での上陸に成功した [8, p76]。


攻撃輸送艦「ヘイウッド」から下ろされる上陸用舟艇。(1943年5月12日)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-50000/80-G-54505.html


日本軍は、この日早朝からアメリカ軍機の銃爆撃を受けた。偵察に出した大発が戻ってきて連合国軍のマッサカル湾(旭湾)上陸に気づいたのは10時~10時半頃だった [3, p324]。まずアッツ島にいる海軍から1300時に「敵旭湾上陸」の第一報が大本営へ発信された [3, p335]。1320時には、ホルツ湾(北海湾)にも上陸中であることが報じられた。アッツ島守備隊にとってこの上陸は全くの奇襲となった。アッツ島守備隊では直ちに、芝台、天狗岳、将軍山、荒井峠、獅子山、雀が丘、虎山の各陣地の防備を固めるとともに [3, p325]、各地に将校斥候を派遣して、連合国軍の上陸を確認した。

ホルツ湾では日本軍の抵抗はなかったが、1015時から戦艦「ペンシルバニア」と「アイダホ」は、霧のためにSGレーダーを用いた援護射撃を約1時間行った [8, p74]。戦艦「ペンシルバニア」のコーン大尉は「SGレーダーは、アリューシャン域で活動する軍艦にとって不可欠である。その艦橋に設置されたSGレーダーの平面画像表示装置(PPI:現在のレーダー表示装置のようなもの)は、極めて貴重だった。」と述べている [8, p73]。

ホルツ湾内の西浦と東浦には砂浜があったが、ホルツ湾付近はそこを除くとほとんど岩礁だらけだった。日本軍はホルツ湾付近では西浦と東浦を敵の上陸地点に想定していたと思われる。連合国軍がもしそこに上陸しておれば日本軍の強力な反撃を受けただろう。しかし、岩礁だらけのホルツ湾北側にある小さな砂浜に連合国軍は上陸した。そこは物資の揚陸や集積に適した広さはなかったため、日本軍は連合国軍のそこからの上陸を全く想定してなかった。しかし、西浦と東浦を避けてホルツ湾の入り口付近に上陸して日本軍を北から圧迫するならば、ホルツ湾付近にはそこしか上陸可能な場所はなかった。それは連合国軍の作戦の周到さを示している。


攻撃輸送艦「ヘイウッド」から上陸用舟艇に乗り移る兵士(1943年5月12日)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-50000/80-G-50770.html


兵士を満載して攻撃輸送艦「ヘイウッド」から進発する直前の上陸用舟艇。上陸用舟艇と搭乗した兵士の様子がよくわかる。
https:/www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/wwii/wwii-pacific/aleutian-islands-campaign/battle-of-attu/80-g-50788.html; 

連合国軍は、1300時頃からホルツ湾奥の西浦に向けて前進を開始し、当日のうちに3.2 km近く進軍して、霧で周囲の状況がよくわからないまま1700時頃に野営した。そこは上陸地点と西浦の中間点付近の高地(芝台高地)の約500m手前だった [3, p329]。この調子だと翌日にはホルツ湾奥東浦の飛行場の確保が期待された [8, p76]。しかしいったん撤収していた日本軍は、連合国軍のホルツ湾上陸に気付いて夜のうちに芝台高地の陣地に兵士を派遣した [3, p329]。

7.2.2    マッサカル湾での上陸

南部のマッサカル湾(旭湾)では、ホルツ湾よりさらに霧が深かった上に古い海図にない浅瀬・暗礁を数多く発見したため上陸は難航した。深い霧による衝突を避けるため、2隻の駆逐艦による湾内での火力支援は中止された [8, p74]。


霧の中をマッサカル湾海岸へ向かう上陸用舟艇。先に行くのは掃海艦「プルーイット」(1943年5月12日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=13682

輸送艦は0315時には予定地点での配置に就いて上陸用舟艇を降ろし始めたが、霧のため行方不明となる舟艇があり、上陸は1030時からとされた。上陸用舟艇を指揮する掃海艦「プルーイット」は、SGレーダーを持つ駆逐艦「デューイ」に案内されて配置に就いたが、海岸は全く見えなかった [8, p75]。「プルーイット」は1020時に上陸第1波の兵員揚陸艇(LCP)12隻を霧の中を海岸へ出発させた。1030時には第2波のLCP13隻を出発させた。ところが、第1波は霧の中で流されてしまい進路を崖に遮られてしまった。進路を修正している間に第1波と第2波は1120時頃にほぼ同時に海岸に到着し、何ら抵抗を受けることなく上陸した [8, p75]。「プルーイット」は、予定を変更して海岸が見える場所にまで近づくことによって、1140時には予定していた上陸部隊の残りも上陸した。上陸用舟艇1隻が暗礁にぶつかってその拍子にランプ(上陸用扉)が開いて沈没し、4名の兵士が溺死した。上陸時の犠牲者はそれだけだった [8, p75]。海岸を守っていた日本軍の小隊は、敵の上陸に不意を突かれて後退した [3, p341]。旭高地に設置された20 mm高射機銃陣地は旭湾の海岸を見渡せる絶好の攻撃位置にあったが、多量の弾薬が残されたまま放置されていた [3, p331]。

なお、「アッツ島玉砕戦」(牛島秀彦著)には、連合国軍のアッツ島上陸の際に、マッサカル湾で日本軍の反撃によって「日米双方の大虐殺の幕は、ここに切って落とされたのである。」と大規模な戦闘があったように書かれてある。しかし、私が参照文献に挙げた日米の文献を調べた中には、そのような戦闘が書かれたものはなかった。上陸時に日本軍の抵抗がなかった件は、私が挙げた参照文献を調べた限りでは一貫している。この違いは利用した文献の違いであろう。「アッツ島玉砕戦」には個々の記述に対する参考文献は示されていないので、どの文献による記述かはわからない。

1630時までに、南方上陸軍指揮官アール大佐率いる第17歩兵連隊の第2大隊と第3大隊、第32連隊第2大隊の一部2000名の部隊は無抵抗での上陸に成功し、1830時に海岸に司令部が設置された [8, p76]。上陸部隊の先頭は1400時頃に約2.5 kmほど険しい渓谷を北に進撃したところで、尾根から日本軍の射撃を受けて停止した。その後再び前進したものの、正面と側面から激しい射撃を受けて荒井峠(Jarmin pass)の600 m手前で停止し、それ以上進めなかった [3, p332]。

上陸用舟艇からアッツ島マッサカル湾に上陸する連合国軍(1943年5月12日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=13683

マッサカル湾では、兵員や物資を搭載したLCPが海岸と輸送船の間を行き来し、狭い海岸は舟艇でひしめき合った。しかも揚陸したトラックやトラクタは泥地のため海岸から身動きが取れず [10, p79]、物資の揚陸とその輸送は主として人力で行われた。


7.2.3    13日の状況(上陸2日目):連合国軍の内陸への進撃

13日も終日濃霧が山を覆っており視界は悪かった。戦艦「ペンシルバニア」は0658時から地上支援のため、ホルツ湾の高射砲陣地に対して霧の中でレーダーを用いた艦砲射撃を行い、護衛空母「ナッソー」からの航空機も爆撃や銃撃を行った。ただし天候の急変による雲中での接触を考慮して、航空機の運用は通常は4機、最大でも8機に制限された [8, p83]。さらにアムチトカ島から大型爆撃機も爆撃を行ったが、これらの航空機は東浦にある2つの陣地から激しい対空砲火を浴びた [8, p76]。それらの陣地に対して0900時に戦艦「アイダホ」が艦砲射撃を行った。さらに上陸部隊が激しい抵抗を受けた西浦に対しても同艦は1037時から艦砲射撃を行った [8, p76-77]。

夜の間に日本軍が派兵した芝台高地では激戦となった。前進した上陸部隊は日本軍の砲火に晒されて身動きがとれなくなった。部隊は艦載機による航空支援や駆逐艦からの支援砲撃を要請し、またホルツ湾の海岸に設置されたばかりの105mm曲射砲が支援砲撃を行った [2, p71]。これらの支援攻撃と最後の白兵戦により芝台高地は夕方にはほとんど占領された [3, p344]。しかし、この日はそれ以上の進撃は出来なかった。この日、戦艦「ペンシルバニア」は潜水艦「伊三十一」に雷撃された。日本側は命中したものと判断したが [3, p343]、アメリカ海軍の資料では雷跡を確認したものの魚雷は回避された [8, p77]。この「伊三十一」は14日以降、消息を絶った [4, p556]。

この日、マッサカル湾ではわずかに視程は改善して、物資輸送に携わる上陸用舟艇は互いがなんとか見えるようになった。この日に掃海が終わったため、攻撃輸送艦はさらに500 mほど岸に近づいて停泊した。これは上陸用舟艇を用いた輸送の効率を高めた [8, p76]。日本軍はマッサカル湾から3~4 km内陸の高地に陣地を構えていた [8, p76]。連合国軍が占領直後に調査した報告によると、日本軍の塹壕はよく隠蔽され、排水され、しばしば地下トンネルで連結されて、食料と弾薬は十分に蓄えられていたとある[45]。連合国軍は内陸の荒井峠に向けて谷を進むと、高地の日本軍陣地から激しい機関銃の掃射を受けたため、部隊は釘付けとなった。日本軍は高地にいくつかの陣地を保持しており、しかも霧がそれらを隠していた [3, p345]。


5月13日にマッサカル湾に上陸する連合国軍兵士
https://ww2db.com/image.php?image_id=6363

戦艦「ネバダ」は、火力管制部隊からの指示に基づいて艦砲射撃を行うことにより、マッサカル湾に面した高地の陣地のいくつかの破壊に成功した。戦史叢書「北東方面陸軍作戦<1>」には、この日「荒井峠ニ対スル艦砲射撃ハ特ニ猛烈ヲ極ム」と記されている [3, p342]。アメリカ軍でも砲撃によってバラバラになった兵器や日本兵の遺体が報告されている [2, p71]。それでも日本軍の機関銃による激しい銃撃によって、上陸部隊はそれ以上北に進めなかった [8, p77]。この時、南方上陸軍指揮官で第17歩兵連隊長だったアール大佐が偵察中に戦死し、南方上陸軍指揮官はツィマーマン大佐に代わった [2, p74]。

この日、マッサカル湾岸は混乱の極みとなっていた。揚陸したトラックやトラクタなどの車両はぬかるみのために海岸では使えず、物資の揚陸作業のために多くの兵士を割かなければならなかった [8, p77]。当面必要のない対空火器の揚陸に大勢が動員され、また兵士は並んで手渡しで補給物資を揚陸しなければならなかった。一方で、寒さに凍えている前線の兵士のための防寒用品より、弾薬輸送が優先された [2, p74]。上陸部隊司令官ブラウン少将は、揚陸作業に必要な兵士を増員しようにも、まず海岸の揚陸作業を終えないと兵士を上陸させることができないというジレンマに陥った。

この日、アッツ島守備隊が視認したアメリカ艦隊についての報告が第五艦隊に届いた。それによると、アメリカ艦隊は北海湾では空母(艦橋なし)1隻、シカゴ型重巡洋艦1隻、オマハ型軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、旭湾では戦艦1隻、巡洋艦と駆逐艦計6隻、輸送船10隻となっている [4, p531]。聯合艦隊は、この日七五二空の陸上攻撃機21機を幌筵へ進出させた [4, p547]。八〇一空の飛行艇にも進出を指令したが、受け入れ態勢の準備のために飛行艇が実際に進出したのは20日だった。なお、七五二空の司令官が陸攻24機と輸送機4機を率いるために幌筵に到着したのは23日だった [4, p547]。これらによる攻撃は後述する。

なお、アリューシャン方面の公式記録は少ない中で、[4]の「戦史叢書 第 29 巻 北東方面海軍作戦」には進出した陸上攻撃機の機種が書かれていない。この時、七五二空は九六式陸上攻撃機から一式陸上攻撃機への機種改編の途中だったので、この時出撃した機種はどちらの可能性もある。しかし後に示すように、九六式陸上攻撃機の編隊が北千島上空を飛ぶ写真が残っている。1943年5月より前に幌筵に陸上攻撃機の編隊が配備された記録はないようである。そのため、日米共にアッツ島のアメリカ艦隊を攻撃した攻撃機を一式陸上攻撃機としている書籍があるが、攻撃したのは九六式陸上攻撃機だったかもしれない。


7.2.4    14日の状況(上陸3日目):西浦への圧迫

14日も霧で視程の悪い状態が続いた [8, p78]。0815時に幌筵から七五二空の陸攻19機が雷装して攻撃に発進したが、密雲と霧のため攻撃を断念して引き返した [3, p354]。連合国軍では、引き続き物資の揚陸が続き、1900時までの物資の揚陸率は、攻撃輸送艦が55%、輸送艦は14%だった [8, p79]。


マッサカル湾で物資を揚陸する兵士(1943年5月14日)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-50000/80-G-50921.html

この日ホルツ湾方面では、連合国軍は芝台高地からさらに先に進出したが、西浦から迫撃砲と機関銃の射撃を受けて先に進めなかった。しかし、芝台高地付近に新たに設置した連合国軍砲兵陣地からの砲撃と「ナッソー」の艦載機による銃爆撃によって、西浦からの日本軍の射撃は止んだ。上陸部隊は西浦に近い地点に砲兵陣地を構えたが、そこからの砲撃によっても、西浦の75 mm砲6門からなる日本軍の3つの砲兵陣地を破壊できなかった [8, p79]。後に連合国軍は、鹵獲した75mm高射砲を、方位盤制御方式ではなかったが時限式砲弾を効果的に使用したと述べている[45]。一方で、日本軍では連合国軍の激しい攻撃により、西浦を保持することは困難と感じ始めていた [3, p352]。

アッツ島の日本軍の八八式七糎(75 mm)野戦高射砲。西浦か東浦に設置されていたものかもしれない。
https://ww2db.com/image.php?image_id=13218

マッサカル湾方面では、荒井峠付近に艦砲射撃を行った。しかし、日本軍陣地は峻険な尾根や深い山の側面に巧みに構築されており、視程が悪い中でそれらを破壊することはきわめて困難だった [3, p354]。連合国軍部隊は、日本軍陣地がある尾根に三方から囲まれた谷底を峠に向かって上らなくてはならなかった。高地の日本軍陣地は霧で隠されているのに、霧が切れた谷底の連合国軍の動きは上から丸見えだった。霧が薄れた午後から連合国軍は、第三百三大隊第一中隊からなる旭湾警備隊が守る荒井峠への攻撃を開始した。旭湾警備隊の装備は、山砲2門、および重機関銃2と軽機関銃6だけだった[44, p22]。連合国軍は、日本軍による迫撃砲、重機関銃などによる射撃の中を、一時は峠の200 m近くにまで迫ったが、日没となったため出発点へと戻った [3, p355]。


アッツ島の山の中を進む連合国軍兵士(1943年5月)
https://ww2db.com/image.php?image_id=4716

7.2.5    15日の状況(上陸4日目):西浦からの撤退と荒井峠放棄の決定

この日も霧は回復せず、幌筵からの航空攻撃は取りやめとなった。ホルツ湾方面では砲兵隊と戦艦「ペンシルバニア」からの援護射撃の後、新たに上陸した連合国軍部隊が1100時から西浦を攻撃した。射撃管制部隊との緊密に連携した支援砲撃によって、巧みに遮蔽された日本軍陣地の破壊に成功した [8, p79]。ホルツ湾での戦いは天王山にさしかかった。戦艦の砲弾が残り少なくなったため、駆逐艦「フェルプス」がホルツ湾内に突入して、観測機からの連絡に従って支援砲撃を行い、日本軍にさらに多大の損害を与えることに成功した [8, p79]。日本軍では「砲射竝ニ銃爆撃ニ依リ・・・西浦地区ハ殆ント全滅セリ」と報告している [3, p362]。これによって丘陵を隔てた東浦も危うくなってきた。西浦と東浦には日本軍の食糧と弾薬が集積してあり、これを移送しようにも舟艇は全て破壊されていた。日本軍は、熱田湾(チチャゴフ湾)へ撤退しても、外部からの補給がないとそこで持久することは困難だろうと予想したものの他に策はなかった [4, p538]。


戦艦「ペンシルバニア」からのホルツ湾岸への艦砲射撃(1943年5月15日)
https:/www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/wwii/wwii-pacific/aleutian-islands-campaign/battle-of-attu/80-g-75468.html; 

南のマッサカル湾方面では、早朝から荒井峠に対する連合国軍の攻撃は熾烈を極めた。艦砲射撃と砲兵陣地からの砲撃によって連合国軍は再び日本軍まで200 m以内に迫った。しかしながら日本軍の反撃によって900 mまで後退した [3, p362]。荒井峠へ向かった上陸部隊からの要請によって、護衛空母「ナッソー」から発進したF4F戦闘機が2回にわたって地上支援を行った。しかし雲下に降りた戦闘機は局地的な強風にあおられて合計4機が墜落した [8, p80] 。日本軍では3機を対空砲火で撃墜したと報じている [3, p364]。しかし、荒井峠の日本軍守備隊は一個小隊が全滅したため戦線の維持が困難となり、背面のホルツ湾での戦況を鑑みるとチチャゴフ湾(熱田湾)方面への撤退を決断せざるを得なくなってきた [4, p538]。

護衛空母「ナッソー」(1943年5月アッツ島にて)
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-106000/NH-106566.html


北太平洋艦隊司令長官のキンケイド少将は、日本艦隊による攻撃を危惧して、なるべく早期にアッツ島攻撃を終えたかった。彼は上陸部隊司令官ブラウン少将に戦いの進捗の報告を求めた。ブラウン少将は南のマッサカル湾と北のホルツ湾に挟まれた険しい尾根(荒井峠)にかけて日本軍が強固な陣地を構築していて戦線にあまり進捗がないことと、押収した書類から日本軍の兵士が当初の想定より多い事がわかったために、今後も迅速な進撃が望めないことを報告した [8, p79]。この報告にキンケイドは不満だった。

マッサカル湾では、物資の揚陸は順調に進んで、15日までに攻撃輸送艦の揚陸は半分以上進むか終わった。しかし、輸送艦の方の揚陸量は予定の30%だった [8, p80]。一方で、ホルツ湾付近の揚陸地点は岩礁のため細い水路しか使えず、舟艇の往復は難航した。また霧が薄れるとチチャゴフ湾の日本軍の本拠地付近から砲撃を受けるため、物資の揚陸はたびたび遅滞した [8, p80]。16日になってもまだ10%しか揚陸を終えていない攻撃輸送艦もあった。

7.2.6    16日の状況(上陸5日目):東浦と荒井峠からの撤退

上陸部隊司令官ブラウン少将は、予備兵力の投入が必要な状況を司令部と共有するために、上陸艦隊司令官ロックウェル少将と北太平洋艦隊司令長官キンケイド少将、西部方面防衛軍司令官デウィット中将との会議を要請した [8, p80]。この会議で、ブラウンは押収した書類から日本軍兵士が当初の予想より多い2000名から2500名いることを明らかにした。ロックウェルも予備兵力の動員に同意した。また、物資の揚陸のために湾内で小回りのきくタグボートや艀などの小舟艇の使用を提案した。またロックウェルは、上陸段階は終了したため、航空戦力については引き続き使用するものの戦艦などの護衛艦隊については撤収を提案した [8, p80]。その後、ブラウンは戦艦「ペンシルバニア」にロックウェルを訪問し、全ての手持ち兵力を投入してしまったので、予備兵力を投入しなければ、アッツ島を確保できないことを再度彼に提案した。ロックウェルは、ブラウンの提案とその予備兵力投入のため攻撃輸送艦2隻をアダックへ回航可能なことをキンケイドへ報告した [8, p80]。

この日アッツ島では霧はあったが、現地日本軍は視界10~15 kmで飛行可能と判断していた。しかし、幌筵から陸攻は飛ばなかった [3, p372]。潜水艦「伊三十五」はホルツ湾沖で軽巡洋艦を雷撃して2発の命中音を感知した。雷撃されたのは戦艦「ペンシルバニア」だったが、魚雷は命中していない [4, p557]。潜水艦「伊三十五」は駆逐艦の攻撃を受けて損傷したが、19日に幌筵へ帰投した。


アッツ島沖で日本軍の潜水艦に対して爆雷攻撃を行うアメリカ海軍の駆逐艦
https:/www.history.navy.mil/content/history/museums/nmusn/explore/photography/wwii/wwii-pacific/aleutian-islands-campaign/battle-of-attu/80-g-75424.html; 

5月15日までは濃霧であったが、16日から霧が薄れて視程が10~15 kmとなった。天候の回復によって位置が露見した日本軍陣地は、艦砲射撃や爆撃で破壊されていった。ホルツ湾方面では、連合国軍は西浦へ突入し、日本軍は備蓄していた食糧と弾薬を遺棄して東浦へ撤退した [3, p372-373]。これは、南のマッサカル湾から北進する連合国軍をくい止めていた荒井峠の日本軍が、背後からの脅威に曝されることを意味した。連合国軍の分析によると、日本軍は不利な状況でも、小集団での浸透戦術で反撃を試みたが、南西太平洋のジャングルでの戦闘ほどには成功しなかったとある[45]。

さらに天候回復のため、荒井峠の日本軍は艦砲射撃でほとんど全滅に瀕した [3, p370]。東浦には備蓄していた食糧・弾薬と建設中の飛行場があったが、山崎第二地区隊長は荒井峠と東浦も放棄して、夜を利用して残存兵力の配備をチチャゴフ湾(熱田湾)周辺(熱田富士~獅子山~雀ヶ丘~虎山の線)に変更することを決断した [3, p370, 374](アッツ島東部地図)。備蓄していた弾薬と食料を失ったアッツ島守備隊は、弾薬・食糧のアッツ島への緊急輸送を北方軍に要請した [3, p370]。しかし、大本営では輸送の目途が立たなかった。

7.2.7    17日の状況(上陸6日目):上陸部隊司令官交代

連合国軍は、この日ホルツ湾を集中的に攻撃した。護衛空母「ナッソー」からの艦載機がホルツ湾の目標を銃爆撃したが、2機が失われた。駆逐艦「アブナー・リード」がホルツ湾での攻撃を支援した。アムチトカ島からのP-38戦闘機2機は低い雲の下から銃爆撃を行った。しかし、同島から爆撃にやってきた3機の大型爆撃機は雲のため投弾できなかった [8, p81]。

この日ロックウェルには、アダック島から予備の1個連隊が出発して、翌朝に到着する予定が伝えられた。戦艦を初めとする任務部隊ロジャーの艦船は、支援と揚陸を終えて北方へと引き上げた [2, p77]。ただし砲艦「チャールストン」、駆逐艦「フェルプス」、水上機母艦「カスコ」は支援のために残された。任務部隊キングの艦船は引き続き残って上陸軍の支援とアッツ島封鎖を継続した [2, p77]。夕方になってロックウェルには、キンケイドの命令で上陸部隊司令官がランドラム少将に代わったことが伝えられ、ブラウンは更迭された [8, p81]。第7師団の装備の不備や日本軍兵士数の過小評価など、ブラウンの責任ではない部分もあったと思われる。しかし、あまりの犠牲の多さと作戦の進捗の遅れから、キンケイドはブラウンの指揮能力を疑問視したものと思われる。

7.2.8    18日の状況(上陸7日目):戦線整理

日本軍は18日に飛行場を建設していた東浦を含めてホルツ湾岸から撤退した。1600時には上陸軍司令官ランドラム少将はホルツ湾の東浦から日本軍を一掃したと報告した [8, p81]。日本軍は18日夜には背後の防衛が空になった荒井峠からも撤退した。これは戦略的なものだったろうが、連合国軍は、日本軍はまだ防衛できるはずの陣地を急いで明け渡す傾向があり、また放棄した装備や資材を破壊することもしなかった、と述べている[45]。18日までの日本軍の死傷者は約400名と報告されている [3, p388]。19日昼前にはホルツ湾から南下した連合国軍の部隊は、南のマッサカル湾から北上した部隊と荒井峠付近で合同した [8, p81]。日本軍は上述の熱田富士と熱田(チチャゴフ)湾周辺の要線で持久策をとった。これで上陸作戦の帰趨が明確になり、連合国軍は上陸部隊をアッツ島占領軍という名称に変更した [8, p81]。ただし戦史叢書「北方方面陸軍作戦<1>」は、荒井峠からの日本軍の撤退と連合国軍の合同の日付を17日夜と記している [3, p390]。

18日にブラウン少将が要請していた予備の連隊3000名がマッサカル湾に到着した [8, p81]。18日と19日は連合国軍も日本軍も一息ついて戦線を整理する形となった。しかしながら、食糧・弾薬を備蓄していた東浦から撤退した日本軍は、以降弾薬と食糧の不足に悩まされることになった。20日頃には最前線の兵士でも弾丸は10発か20発しか持たず、日本軍では一日一食で寒さと飢えのために狂い出す者や自殺する者があったと記されている [3, p380-381]。



アッツ島で補給物資を背負って山を登るアメリカ兵士(1943年5月)
https://commons.wikimedia.org/wiki/Aleutian_Islands_campaign#/media/File:Hauling_supplies_on_Attu.jpg

7-3    アッツ島上陸に対する大本営などの対応


7.3.1    上陸時の大本営の対応

連合国軍がアッツ島へ上陸した12日当日の午前に、大本営海軍部は第一部(作戦)、第三部(情報)、特務班(通信諜報)の関係者を集めて、偶然にも北方に対する今後の警戒方法を研究していた。その席上で第三部(情報)第五課長は、「アリューシャン(の攻略を米国)海軍省(が)公表発表、之ヲ裏付ケテ情報局ガ宣伝ス 今月中或ハ来月中ニ攻略セン 時機迄明瞭ニ云ヘルコトハ注意ヲ要ス(「アッツ」ヲ先ニトル算大ナルベシ)」と発言していた [19, p243]。しかし午後に「アッツ島に連合国軍が上陸」の第一報に接すると、大本営などは全<虚を衝かれた形となった。この時、北方軍の参謀はこう述べている。「米軍の上陸は現地部隊としては真に突如であり、・・・兵力的にも時間的にもいまだ防備の整っていない南岸から上陸されたことは、米軍の情報収集ないし作戦指導の巧妙さに一驚させられる」 [3, p334]。

13日に大本営は陸海軍部の合同会議を開催して作戦指導要項案を作成した。それは、アッツ島を保持し続けることを前提として、海軍機で敵艦船を攻撃し、その間にアッツ島への戦力の増援を行って連合国軍上陸部隊を攻撃するというものだった [3, p346-347]。問題はいつまでにどうやって増援を行うかだった。準備には時間がかかる。陸軍では、応急派兵として歩兵1連隊約4000名の編成を検討したが、兵員を集めて小樽を出港するのが5月20日、幌筵に到着するのは早くても25日が見込まれた [19, p250]。しかもそれから先の輸送の見通しは全く立たなかった。師団主力の動員にはさらに1か月がかかると思われた。さっそくアッツ島の守備隊(第二地区隊)がいつまで持つかが焦点となった [18, p436]。

なお既述したように、14日にアッツ島から報告されたアメリカ艦隊の戦力は、戦艦1隻、特設空母1隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻、潜水艦数隻、ホルツ湾とマッサカル湾で揚陸中の輸送船がそれぞれ4隻 [4, p531]と決して大きなものではなかった。

当時、陸軍の杉山元参謀総長は眞田穣一郎第二課長(作戦)を伴って中国へ出張しており、連合国軍がアッツ島に上陸したことを聞いて14日に帰京した。15日から大本営で陸軍参謀本部と海軍軍令部との公式の合同研究が開始された。これによって概ね3日間の議論で結論が出ることになる。当初の方針としては、アッツ島を少なくとも5月末まで持久させ、その頃を期して強力な水上部隊の支援を伴った船舶輸送によって、アッツ島の兵力増強、近くのセミチ島の占領、ならびに千島への兵力展開を行ない、聯合艦隊はこの輸送作戦に伴って起こる公算が大きい艦隊決戦に備える、というものだった [19, p263]。

そこでまず問題となったのは、アッツ島を持久させて連合国軍を撃退するための兵力の準備時間とその輸送方法だった。16日の検討では、まず兵員だけを考えれば、幌筵から歩兵第ニ十六聯隊を基幹とする6000名を5月27日に、歩兵第ニ十七聯隊を基幹とする7000名を6月3日に船舶量10万トンにて送ることが可能とされた [3, p377]。当面アッツ島を持久させるための弾薬、食糧などは、ちょうどその頃完成した運貨筒と呼ばれる潜水艦で牽引する水中艀のようなものと、潜水艦自身と航空機による落下傘投下による輸送が計画された。それでも弾薬、食糧のアッツ島への到着は28日頃とされた。

輸送に際しては、航続距離からしてアッツ島までの戦闘機による援護は不可能で、もし霧が晴れると輸送船舶を守る手段がなかった。アッツ島の泊地進入の前後1日と揚陸期間の2日間を考慮すると、敵の航空攻撃のため少なくとも船舶の3分の2の沈没が想定された [3, p377]。

そのため「テ」号作戦が検討された。「テ」号作戦とは落下傘降下で700名、潜水艦輸送によって300名、大型発動機艇によってキスカ島から360名、駆逐艦による輸送で800名の合計2010名でアムチトカ島に奇襲上陸するというものだった。この部隊はうまくいけば同島を占領するが、そうでなければ一時的に飛行場を使用不能にするための捨て石にするという作戦だった [19, p268]。これは場合によっては生還を期さないことを覚悟の作戦であり、この時期にそういう発想があったことは特筆しておいて良いと思われる。

また、この作戦の目的を航空基地破壊とするのか敵水上艦隊の誘出とするのかで議論があった [19, p268]。しかしながら「テ」号作戦の「テ」は天佑の「テ」だったことからしても、この作戦の成功には疑問を呈する人も多かった。「テ」号作戦の検討は結論が出ず、継続審議とされた [3, p378]。

結局、16日までに計画されたことは、潜水艦3隻でのキスカ島からの兵力の移送(1隻50名)、本土からの潜水艦による補給物資の輸送(27、28日頃到着)、航空機からの物資の落下傘投下(24日頃実施)となった [3, p379]。

ところが、17日になると現地の状況が変わった。前述したように、16日にアッツ島守備隊は東浦と荒井峠から撤退することを決定した。これは飛行場建設地が連合国軍の手に渡ることを意味し、そうすればここを整備して連合国軍が飛行場を利用することが想定された。海軍も陸軍もそれを前提とした作戦を検討せざるを得なくなった [3, p386]。そうなると、やれそうなことは駆逐艦による殴り込み位しかなかった。「テ」号作戦用の駆逐艦をアッツ島救援に向ける案も検討されたが、むしろその駆逐艦で敵の輸送船か艦艇を攻撃するのが本筋ではないかという議論も出た [19, p272]。結局、17日に合同研究会の場では16日の決定内容の実施が見送られただけで結論は出なかった。

合同研究会後に、海軍は独自にアムチトカ島攻略の研究を行った。それは落下傘部隊に加えて戦艦「扶桑」と「山城」、軽巡洋艦2隻を使って3350名を送り込むというもので、アムチトカ島への上陸は早くても27日頃が想定された [19, p275]。陸軍では独自に検討した結果、「アッツ島保持の見込みは薄く、霧はあまりあてに出来そうにない。また海軍の海上決戦も期待薄なためできそうなものは「テ」号作戦のみだが、その成算は20%」と推測した。その「テ」号作戦も気象の困難性、兵の集結の遅延、戦闘準備の遅滞により5月末まで実施不可能と結論された [19, p278]。

それらに基づいて翌18日に合同研究会で検討した結果、7.3.4で述べるようにアッツ島放棄の結論が出ることとなる。そういう日本側の事情はともかくとして、議論に大きく影響したアッツ島の飛行場建設地の失陥だったが、結果的に連合国軍はそこには目もくれず、マッサカル湾沿岸と近くのセミヤ島(セミチ島)に新たに飛行場を建設した。アメリカ軍は日本軍の整地能力を疑問視しており、どうせほぼゼロから作り直すならばもっと条件の良い場所を選んだためと思われる。

1943年5月時点でのアリューシャン方面での日本軍の指揮命令系統

7.3.2    聯合艦隊司令部の対応

連合国軍のアッツ島上陸を受けて、大本営は空母3~4隻からなる有力な機動部隊がミッドウェー北方海域にあって、上陸作戦を支援するとともに本土空襲を策していると推測した [19, p244]。海軍軍令部は陸海軍部の合同会議を受けて、13日に聯合艦隊に対して「なし得る限り大兵力を北方方面に結集して同方面を確保する方針」を通達した [4, p535]。聯合艦隊は4月に「い」号作戦を終えて、艦船の半分はトラック島付近にあった。聯合艦隊司令部は5月14日に、主要艦艇は5月22日頃までに横須賀に集結し、5月下旬に千島東方海面に進出して、敵艦隊機動部隊を撃破するとともに北方部隊を支援するという作戦命令を出した [3, p359]。

この作戦命令に基づいて艦艇が続々と横須賀に集結した。21日には内地にあった空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「瑞鳳」、第七戦隊、軽巡洋艦「阿賀野」、「大淀」、駆逐艦「濱風」、「嵐」、「雪風」、第十駆逐隊が入港した。22日には戦艦「武蔵」、空母「飛鷹」、第三戦隊、第八戦隊、第六十一駆逐隊、第二十七駆逐隊、駆逐艦「海風」がトラック島から入港した [4, p551]。なおその際に山本五十六大将の遺骨が戦艦「武蔵」で運ばれて、戦死が公表された。

機動部隊の横須賀出撃は一応29日と予定され、同日までの北方全般の敵情によって出撃か否かの最終決定が下されるはずだった [19, p299]。ところが後述するようにアッツ島守備隊が全滅したため、14日に出された作戦命令は29日に解除された [4, p552]。一方で、有力な軍艦のトラック島からの出港は、アメリカ軍による6月末のソロモン諸島レンドバ島上陸作戦への余裕を与えることにもなった。聯合艦隊司令部の対応については、7.5.3で改めて検討する。

7.3.3    第五艦隊と北方軍の対応

12日のアメリカ軍のアッツ島上陸時に、第五艦隊の軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「若葉」は水上機母艦「君川丸」を護衛してアッツ島への輸送に向かっていた。連合国軍上陸の報を受けて、5月12日と13日にこの「君川丸」搭載の水上機を用いた船団攻撃が計画されたが、天候不良のため中止された [4, p536]。第五艦隊司令長官は直ちに使える重巡洋艦「摩耶」と駆逐艦「白雲」を直率して12日に幌筵から出撃し、上記部隊と合同しての攻撃を企画したが濃霧のため合同できず、攻撃を中止して14日に幌筵へ帰着した [4, p537]。

潜水艦「伊三十一」、「伊二十四」、「伊三十五」もアッツ島へ向かって戦闘行動に移った。前述したように潜水艦「伊三十一」は、5月13日に戦艦「ペンシルバニア」を雷撃したが、魚雷は回避された。同日駆逐艦2隻が潜水艦を攻撃して。浮上した潜水艦は砲撃を受けて潜航したが、これは「伊三十一」が攻撃を受けて沈没した最後の状況と考えられている [4, p557]。これも前述したように、潜水艦「伊三十五」は16日にやはり戦艦「ペンシルバニア」を雷撃したが命中せず、損傷して幌筵に帰投した [4, p557]。これら以外にも数隻の潜水艦が西部アリューシャンでの輸送や哨戒に従事したものの、結局、この2隻の潜水艦による攻撃が日本軍の艦艇による唯一の攻撃となった。

北方軍では、14日に小樽に兵力4700名を用意して、それを北方船舶部隊で輸送する手はずに取りかかった [3, p357]。5月21日に小樽から幌筵に向けての出港準備がほぼ整った頃、後述する21日の決定によってアッツ増援部隊の派遣中止が伝達された [3, p412]。

7.3.4    アッツ島放棄の決定

前述したように、5月16日にはアッツ島の要衝の一つであるホルツ湾での日本軍の摩耗と物資の欠乏によって荒井峠も支えきれなくなり、アッツ島守備隊の山崎第二地区隊長は荒井峠と東浦の放棄を決断した。その結果、5月17日の大本営での会議ではアッツ島への増援・反撃が成功する可能性は低いという結論に傾いていった。5月18日に、陸軍参謀本部はアッツ島奪回の可能性は薄いという結論を海軍軍令部に提示した [3, p393]。

戦史叢書「北東方面海軍作戦」では、陸軍参謀本部第二課長が海軍軍令部を訪問してのこの申し入れに対して、軍令部福留第一部長は同意を表明したとなっているが [4, p542]、戦史叢書「北方方面陸軍作戦」では、大本営での会議の場において「軍令部は陸軍に対し態度を明らかにせず、陸軍側の研究結果による「アッツ救援断念」の申し入れによって大本営の方針決定となった」と述べている [3, p395]。海軍はなんとなく公式の場での判断を避けているようにも見える。

これによってアッツ島の奪回中止とキスカ島の撤退が決まった。この理由として、「『アリューシャン』方面ニ於ケル彼我航空及海上勢力ノ懸隔大ナルト同方面ノ気象特ニ霧ノ状況ハ大ナル期待ヲ置キ難キヲ以テ兵力増援ノ為ノ船団輸送ニ成算乏シク又『アッツ』島ノ戦況逐次逼迫シツツアリテ従ヒテ増援兵力ヲ輸送スルモ其ノ時迄同島ノ要地ニ健在シ得ルヤ否ヤニモ疑問ナシトセス」としている [3, p399]。輸送に対する成功が期待できないこと、増援の準備が整うまでアッツ島が持ちそうにないことが理由であることがわかる [4, p542]。この日は連合国軍上陸からわずか7日目だった。

5月20日に大本営は大海指第二四六号別冊の陸海軍中央協定により、西部アリューシャンでの作戦として守備隊による当面の確保とそのための補給の実施、キスカ島の守備隊の撤収作戦(「ケ」号作戦)、千島列島の防衛強化などを決定した [4, p543]。この協定中の作戦要領の「(三)熱田島守備部隊ハ好機潜水艦二依リ収容スルニ努ム」の「好機」と「努ム」は、アッツ島からの撤収の目途が実質的にないことを意味していた。これは異例の大命であり北方軍は暗澹となった。これに先だって、20日に秦参謀次長による説明のための訪問を受けた樋口季一郎北方軍司令官は、次のように回想している。「参謀次長秦中将は、『大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては本企図を中止せられたい』と。私は一個の条件を出した。『キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜まざるに於ては』というにあった。次長は長距離電話にて東京と協議したが海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。」 [3, p411-412]。


北方軍司令官樋口季一郎
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kiichiro_Higuchi.jpg

大命を受けて、北方軍司令部は23日にアッツ島守備隊に対して、次の訣別の電報を送った [3, p421]。「貴部隊ハ孤軍克ク長期ニ亙リ北太平洋方面ノ戦略要点ヲ確保シ優勢ナル敵ヲ該方面ニ牽制シ・・・寡兵克ク勇戦奮闘遺憾ナク皇軍ノ面目ヲ発揮シ陸海作戦ノ全局ニ至大ノ寄与貢献ヲ為セリ・・・予深ク満足切々トシテ感激ニ堪へサルモノアリ  軍ハ海軍ト協同シ・・・人員ノ救出ニ努ムルモ地区隊長以下・・・最後ニ至ラハ潔ク玉砕シ皇国軍人ノ精華ヲ発揮スルノ覚悟アランコトヲ望ム」。なお陸軍からの強い要望により、陸海軍中央協定にアッツ島から報告者を収容するための潜水艦を派遣することが追加された[4, p545]。


7-4    日本軍の全滅まで


7.4.1    20日以降の状況

第五艦隊では5月20日に駆逐艦2隻による奇襲と緊急輸送を計画したが、22日になって中止された。幌筵に進出していた七五二空は、天候が悪いため待機を強いられていた。ようやく天候が回復した5月23日に、野中五郎大尉率いる一式陸上攻撃機19機が出撃したが(752空 飛行機隊戦闘行動調書による)、アメリカ軍の主力艦隊は引き揚げた後だった(野中五郎は後の1945年3月21日に特攻兵器「桜花」を搭載した第721航空隊の陸攻「神雷部隊」を率いて沖縄に突入し、自身も未帰還になった。なお、彼は桜花を用いた作戦に反対だった)。彼らはチチャゴフ湾の駆逐艦と砲艦めがけて雷撃を行い、駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦1隻撃破を報じたが1機が未帰還になった [4, p549]。アメリカ側の資料では4本の魚雷が砲艦「チャールストン」の付近を通過したが命中しなかった。他に駆逐艦「フェルプス」が銃撃を受けた [8, p82]。

翌24日には一式陸上攻撃機17機によってアッツ島上陸部隊の陣地爆撃を目的とした攻撃が行われた。陸上攻撃機は霧の中で目標を探している間に5機のP-38戦闘機に迎撃されたため、爆弾を捨てて応戦した。これによって日本軍は2機が撃墜され1機が不時着し [4, p549]、アメリカ軍は2機を失った [8, p83]。日本軍機による攻撃はこの2回だけだった。25日、26日はアッツ島の天候は良好となったが攻撃は行われなかった。後述する船舶による強行輸送に合わせて、27日と28日に陸攻27機による攻撃が再び予定されたが、霧のため中止された。長距離の航空攻撃は、発進地と目的地の両方の天候が安定して良くないと難しかった。


北千島を飛ぶ九六式陸上攻撃機。地形からして幌筵島南の温禰古丹島(おんねこたんとう)の黒石山付近上空ではないかと推測される。幌筵には1942年5月から3か月間九六式陸上攻撃機を装備した美幌海軍航空隊の分遣隊が配置されたが、この写真がいつ撮影されたかは不明。
https://ww2db.com/image.php?image_id=18563

日本軍は第三百三大隊の一部からなる熱田湾小地区隊を中心に、熱田富士~獅子山~雀ヶ丘~虎山に防衛線を張って守っていたが、21日にマッサカル湾からチチャゴフ湾へ向かう要衝である雀ヶ丘を激戦の上に突破された(アッツ島東部地図)。そのため、22日にはチチャゴフ湾を囲む山々(北鎭山、熱田富士、十勝岳)の西側麓に後退して防備線を張った [3, p413]。21日朝の時点で、アッツ島守備隊は傷病者を含めて2150名が残っていた [3, p408]。一方で連合国軍は工兵隊が海岸からの道路を整備したため、重火器を前線近くまで運べるようになり [2, p97]、雀ヶ丘付近に砲兵陣地を構築した。狭い地区に十分な防御施設もなく押し込められた日本軍は、砲撃や爆撃によって損害が増えていった。

23日になると陣地や残っていた日本軍重火器は破壊された上に、固い岩盤に阻まれて新たな陣地構築も出来ず、第一線の兵士はどんどん減っていった [3, p416]。チチャゴフ湾南東の十勝岳の一角は砲兵の支援により連合国軍に突破され、日本軍はさらに後退を余儀なくされた。このため、連合国軍は谷筋に沿って大沼に至るジムフィッシュ谷(Jimfish Valley)への直接攻撃が可能になった [3, p417]。もしここを確保できれば、連合国軍は大沼を経てチチャゴフ湾へ直接出ることができた。彼らは24日にまず谷を臨む高地の奪取を試みたが、高地に沿って日本軍陣地があるため、日本軍の機関銃の集中射撃を受けて前進できなかった [3, p425]。



アッツ島での戦闘の最中に煙が上がるチチャゴフ湾
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d5/Attu_Chichagof_Harbor_with_smoke_1943.jpg/1024px-Attu_Chichagof_Harbor_with_smoke_1943.jpg

しかし、連合国軍はジムフィッシュ谷に沿って大沼付近へ進むのではなく、北鎭山と熱田富士付近の高地を越えて直接チチャゴフ湾へ北西進しようとして、25日に北鎭山と熱田富士の西側の鞍部である馬の背(Prendergast Ridge)の突破を試みた [2, p79]。一時は撃退されたものの、26日午後には白兵戦によって馬の背を突破した [3, p433]。27日には連合国軍は北鎭山と熱田富士への攻撃を開始し、北鎭山の稜線(Fishfook Ridge)に陣地を構築することに成功した [3, p436]。

北方軍と第五艦隊では27日にアッツ島へ突入する予定の強行輸送を協同で計画し、25日に輸送隊の駆逐艦2隻と護衛隊の軽巡洋艦2隻、駆逐艦8隻を出撃させたが、好天のため視程が良く、航空攻撃を受ける可能性があるため突入日は28日に延期された。ところが27日に低気圧が接近して風速15~20 m/sで波浪4となり、逆に航行が困難になったために輸送隊には28日に帰投が指令された。護衛隊も28日夜に行動を中止して31日に帰投した [4, p556]。皮肉なことに、天候が良すぎても悪すぎてもアッツ島へは突入できなかった。これによって、28日に計画された航空攻撃と強行輸送は両方とも行われなかった。


7.4.2    最後の突撃

28日には連合国軍は砲兵支援の下で攻撃を加え、熱田富士と大沼の手前まで進んだ。日本軍は周囲の高地を奪取された結果チチャゴフ湾周辺の低地に押し込められ、押し返すことは絶望となった [3, p442]。それにもう食糧が尽きていた。29日夕方には連合国軍はチチャゴフ湾を直接見下ろせる高地にまで進出し、チチャゴフ湾岸への突入は時間の問題となった [2, p80]。絶望的な状況の下で、アッツ島の第二地区隊司令部は1435時に次のように打電して、交信は途絶えた [19, p303]。「全線ヲ通ジ残存兵力約一五O名」、「攻撃ノ重点ヲ大沼谷地方面ヨリ後籐平敵集団地点ニ向ケ敵ニ最後ノ鉄槌ヲ下シテ之ヲ撃滅」、「野戦病院に収容中ノ傷病者ハ其ノ場ニ於テ・・・処理セシメ」、「無線電信機ヲ破壊 暗号書ヲ焼却ス」、「最早補給ノ途ナク且狭隘ナル地域ナルヲ以テ長期ノ持久ハ望ミ得サレハ之ヲ抛棄ス」「従来ノ懇情ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健勝ヲ祈念ス」。

5月29日2230時に残存の日本軍兵士は暗闇の中の霧を利用して、チチャゴフ湾背後の高地の敵正面を避けて、大沼方面から谷筋に沿って敵が手薄な雀ヶ丘に向かって突撃を開始した。司令部から連絡された150名という人数は第二地区隊司令部の分を記したものなのかどうかはわからない。戦死した日本軍兵士が残した手記(北海守備隊野戦病院曹長「辰口信夫日記」)には1000名強 [3, p441]、海軍の資料は300余名 [3, p448]、アメリカ軍の資料にも兵力約1000名 [3, p450]、健全な兵士800名と重傷者600名 [2, p80]と書かれたものがある。生存者の言によると、300名余で3個中隊が編成されたとある [3, p448]。

連合国軍は、翌日の総攻撃に備えて兵士を熱田富士、北鎭山のチチャゴフ湾背後の高地付近に集めており [2, p84]、大沼付近からの突然の夜襲は、ジムフィッシュ谷付近にいた連合国軍第32連隊B中隊を混乱させた。初めて日本軍兵士のバンザイ突撃を受けた連合国軍兵士たちは身の毛をよだて、パニックに陥った一部の兵士は叫びながら逃げ出した。突撃した日本軍兵士は連合国軍の2つの戦闘指揮所を突破し、到達した野戦病院では負傷者を銃剣で殺害した [2, p81]。アメリカ側の資料には、日本軍は連合国軍の臥牛山付近の105 mm榴弾砲陣地を占領して補給品と大砲を奪い、マッサカル湾の物資集積所を焼き払って援軍が来るまで山に籠もろうとしたというものもある [3, p451] [2, p80]。しかし、日本軍将兵の多くはこの数日間飲まず食わずで、立っているのがやっとの者もあった。運良く連合国軍の食糧集積所に到達した者は、そこで停止して缶詰食糧を口の中にねじ込んだ [3, p452]。

日本本土では連合国軍が発した緊急通信の傍受により、突撃がマッサカル湾を望む尾根(虎山、獅子山、雀ケ丘)の線まで達したことがわかった [3, p447]。最後の戦闘の山場は29日から30日に日付が変わる頃の雀ヶ丘近くの丘陵での攻防戦と思われる。上陸軍の副司令官だったアーノルド准将は、付近にいた後方部隊である第50戦闘工兵大隊(the 50th Combat Engineer Battalion)の兵士などをかき集めて急いで防衛線を構築した。この付近にいた工兵の多くは武器を持っておらず、慌てて武器を探すとともに、手元にあった唯一の重火器であった37mm対戦車砲で応戦した [2, p84]。これによってかろうじて日本軍の進撃を止めることができた。

ここでの日本軍の攻撃は1回の突撃ではなく、数時間かけて何度も引いて隊を整えては突撃を繰り返した。ここで山崎保代第二地区隊長は戦死したと考えられている [2, p84]。負傷しているのか足を引きずって膝をするようにゆっくり叫びながら突進する日本軍兵士は、徐々に応援に駆けつけた連合国軍砲火の容易な目標となり、日本軍は全滅していった [3, p454]。それでも一部の兵士は臥牛山付近の105 mm砲兵陣地の手前まで迫ったが、そこで組織的な戦闘は終わった [2, p85]。第50戦闘工兵大隊は、雀ヶ丘近くの丘での日本軍兵士の死者数を約350名と述べており、突撃した日本軍兵士の残りの大半はそこでは生き残って、後刻自殺したと考えられている [2, p84]。


第二地区隊長山崎保代大佐(死後中将に進級)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:YasuyoYamasaki.jpg

連合国軍兵士の手記によると、生き残った兵士も最後の感情に興奮して手榴弾で自爆して突撃は終わったとある。しかしマッサカル湾海岸近くにまで達して、丸一日近く抵抗した一団があったと記したものもある [3, p453]。アメリカ軍の記録では、日本軍は死に物狂いではあったがよく練られた作戦で、前線を突破するなどの成功を収めており、決して自殺を目的とする攻撃ではなかったと述べている [8, p82]。

日本本土では当時知る由もなかったと思われるが、アッツ島守備隊は一度の突撃で全滅したわけではなく、何度も引いては繰り返し突撃し、しかも組織的な突撃が終わった後も生き残って、その後自決した兵士がかなりいた可能性がある。これは、その後各地で行われた日本軍の最後のバンザイ突撃の模様とは大きく異なっていると思われる。しかしこの時日本国内では、アッツ島でほぼ全員が最後の突撃によって一斉に散華したと思われたようである。とすると、これはその後の日本軍の玉砕方法に大きな影響を与えたかもしれない。

大本営は5月30日午後5時にアッツ島守備隊の全滅を以下のように発表した[3, p446]。
アッツ島守備隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中の処五月廿九日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く杜絶全員玉砕せるものと認む、傷病者にして攻撃に参加せざる者は之に先だち悉く自決せり、我が守備隊は二千数百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり
敵は特種優秀装備の約二万にして五月廿八日迄に与へたる損害六千を下らず

これはその後戦争中に各地で繰り返される玉砕の最初となった。なお、敵の損害を「六千を下らず」と述べているが、実際の連合国軍の戦闘による死傷者数は、後述するように1692名である。 

7.4.3    日本軍の全滅後

日本軍の突撃が終わった30日午後には、連合国軍はわずかな組織的抵抗を排してチチャゴフ湾を占領し、アッツ島における戦闘は終了した [2, p85]。しかし数日間は掃討戦が続いた。中には9月まで潜伏していた狙撃兵もいた [3, p456]。日本軍は2638名が戦死し、27名が捕虜になった [3, p457]。一方で、連合国軍は上陸した約11000名のうち552名が戦死し、1140名が負傷した [8, p82] 。戦闘以外で約1200名が凍傷や塹壕足で負傷し、932名が病気や事故で戦闘から離脱した [2, p85]。第二次世界大戦の島々を占領する戦闘において、アッツ島での日本軍将兵数に対する連合国軍の死傷率は、結果的に硫黄島に次いで多かった [16, p19]。

陸海軍中央協定の追加によって、アッツ島に派遣されていた第五艦隊参謀江本弘中佐と陸軍の沼田宏之大尉の2名は報告者として、潜水艦で後日収容されることになっていた [4, p550]。その収容任務を帯びた潜水艦「伊二十四」は、荒天と連合国軍の哨戒のため予定地点になかなか侵入できず、やっと侵入できても両名と連絡を取ることが出来なかった。「伊二十四」は収容を断念して帰投中の6月11日に、セミチ島沖でアメリカ軍の哨戒艇に撃沈された。結局、報告者の収容は行えなかった。彼らは1953年7月のアッツ島派遣団によって、チチャゴフ湾東岸の洞窟内で遺体で発見された [3, p457]。

報告者たちが連合国軍の上陸の模様を目撃したかどうかは定かでないが、もし彼らを収容できていたら、アメリカ軍の上陸戦(水陸両用戦)を初めて実際に目撃した高級将校になっていたかもしれない。太平洋域においてアメリカ軍が上陸した全ての地点で日本軍が全滅したわけではないが、アメリカ軍の上陸戦を目撃して内地に戻った高級将校はほとんどいない。現地からの電信による報告では情報量が限られており、アメリカ軍の上陸戦がどのようなものかを具体的に知る機会はなかなかなかった。

連合国軍は占領直後からアッツ島に水上機基地を設けて、飛行艇による哨戒を開始した。そして、日本軍が東浦にほぼ建設し終わっていた滑走路には目もくれず、機械力を駆使してマッサカル湾に面した場所に新たに戦闘機用の滑走路を2つ建設し、そのうちの1つは6月9日に完成した。またセミヤ島(セミチ島)に爆撃機用の2800 m滑走路を建設し、6月21日にはその一部が使えるようになった [8, p83]。幌筵への爆撃も行われた。7月10日にはB-25爆撃機9機が、7月18日にはB-24爆撃機6機が高高度から爆撃を行ったが、爆弾は全て海上に落ちて、日本側に被害はなかった [4, p671]。9月11日にはB-24爆撃機7機とB-25爆撃機12機が北千島を爆撃したが、3機が撃墜され、7機がソ連に抑留された [2, p90]。そのため爆撃活動はいったん停止した。しかし1944年に入ると、北千島を爆撃しただけでなくそこへの艦砲射撃もときどき行われた。


7-5    アッツ島玉砕についての考察


7.5.1    玉砕に至る周辺状況

日本軍の一部で懸念されていたとおり、アメリカ本土に近いキスカ島より、防備の薄いアッツ島が先に狙われた。アッツ島は日本軍の占領方針が途中で変わって一度放棄された上に、再度占領した後は防衛陣地構築より飛行場建設が優先された。さらに物資も連合国軍の封鎖のためなかなか到達しなかった。アッツ島へ輸送しようとしていた増援部隊はアッツ島沖海戦などのため到着できず、その後の補給も潜水艦ではままならなかった。1943年4月に防衛方針がキスカ島からアッツ島重点に変わっても、アメリカ軍による厳重な封鎖によって増援部隊や資材は届かなかった。物資や増援の輸送は、5月以降の霧頼みの計画となっていた。未完成の防御陣地と食糧・弾薬の欠乏による早期の戦線縮小と撤退は、大本営による現地持久力の疑問視につながり、救援・奪回断念の一因となった。連合国軍による輸送遮断作戦は功を奏した形となった。

7.5.2    戦史叢書による考察

アッツ島の玉砕(全滅)は太平洋における戦争で最初のものであり、日本軍に与えた衝撃は大きかった。アッツ島が玉砕した原因として、戦史叢書「北方方面海軍作戦」では次のように述べて検討を尽くしている [4, p553-554]。
  1.      占領期間を通じて占領目的と熱意が各部において不一致だったこと。
  2.      離島防衛を島内の陸上兵力のみに頼るという考え方が不適切だったこと
  3.      飛行場の建設と陸上機の派遣の決定が遅れたこと。
  4.      連合国軍が先手を取って着実に基地を前進させて反攻を強化していったのに対し、日本軍は連合国軍の反撃を甘く見ていた上に、常に相手が動いてから考えるという対応が後手に回ったこと。
  5.      連合国軍のアムチトカ島占領に対する情勢判断が甘く、それに対する対応策が取られていなかったこと。

7.5.3    聯合艦隊の対応に関する考察

聯合艦隊司令部は7.3.2で示したように5月14日に北方部隊を支援する作戦命令を出した。それは次のようなものである [4, p551]。

一 東京湾方面ニ在ッテ出撃準備ヲ整へ特令二依リ出撃シ作戦ス

二 五月末迄ハ敵ノ動静ヲ観察スル
敵艦隊主力引キ上ゲタ算アル場合ハ出撃ヲ取止メラル 又アッツ島ガ失陥シタ場合ハ出撃シナイ算ガ大デアル

三 敵艦隊ガ「アッツ」「キスカ」ノ南方二在ル場合ヲ我方トシテハ敵ヲ捕捉攻撃スル好機卜見ル

四 敵惰偵知ノ方法
・・・北上中ノ潜水艦ヲ以テ掃航セシメ敵情偵察二努メル

五 聯合艦隊ハx日A 点又ハB 点附近ニ進出シ敵機動部隊ニ対シ先制攻撃ノ算大ナリトノ見込ミツキタル場合ニハ敵二向ケ進撃ス

六 機動部隊ガ敵艦隊ヲ求メテ敵基地航空圏内へ進撃スルコトハ困難ニツキ北方部隊ハ・・・敵艦隊ヲ基地航空圏外へ誘出スルヨウニ努メル

なお、x日は6月2日頃を予定していた [4, p552]。

これを見ればわかるように、しばらく様子を見てから出撃する場合には別途指示するというものであり、しかも出撃のためにはいくつか条件が付されていた。結局、主力艦を横須賀に集めて様子を見ていたが、とうとう出撃しなかった。

この理由の一つとして、燃料の重油が逼迫していたことが挙げられている。この時期、本土には重油の備蓄は30万トンしかなく、機動部隊が出動すれば20万トン以上の消費が予想された。それ以外にも月4万トン程度は消費するので、もし出撃すれば、次は9月頃まで主力艦隊は動けないと考えられていた [4, p552]。当時は産油地の順調な占領と施設の適切な処置により、現地の産油量は当初の予想以上に順調に伸びていたものの、それらを日本に運んでくる油槽船が不足していた。さらに戦線の拡大により、重油の使用量が当初の予想を超えていた。

しかし南方で生産した原油を日本へ運ぶ還送は、1943年にはどうにか順調に進むまでになっていた。1943年の還送の予定は200万キロリットル(1キロリットルは約1トン。ただしすべてが重油になるわけではない)だったが、実際には予定以上の230.2万キロリットルが日本に還送された(1942年は167万キロリットル) [23, p105]。上記のデータだけを見ると、仮に海軍が30万トンの備蓄した重油を使ったとしても、それで燃料がなくなって艦艇がしばらく動けないということにはならなかったと思われる。戦史叢書「海軍軍戦備<2>開戦以後」でも、予定以上の還送量によって昭和18年の海軍の油の取得量は82万キロリットルとなっており、「この二年間(昭和17年、18年)はほとんど燃料には大きな顧慮なく作戦を遂行することが可能であった」と述べられている[p247]。動けないというよりは、むしろ後述するように、来たるべき艦隊決戦に備えて重油を少しでもとっておきたいと考えたのかもしれない。

出撃しなかった別な一因として、4月18日に聯合艦隊司令長官だった山本五十六大将と多くの幕僚が戦死しことも挙げられている [4, p520]。4月21日に古賀峯一大将が新長官に親補されたものの、新しい聯合艦隊司令部は西部アリューシャンだけでなく南洋のソロモン諸島、ニューギニアの戦局の切迫した戦局にも対応せねばならなかった [4, p520]。山本長官は在任期間が長かった(約3.5年間)上に多くの幕僚とともに突然戦死したため、引き継ぎも十分でなかった、また、聯合艦隊は南太平洋での「い」号作戦で艦載機の17%を失って再建の途上だった [4, p521]。聯合艦隊の新司令部にはさまざまな課題があったと推測される。

しかし上記2つの要因もさることながら、「艦隊決戦」へのこだわりという要因が最も大きかったのではないかと思われる。よく知られているように、当時の海軍の戦争に関する考えは、艦隊決戦とそのための漸減作戦一本槍だった。古賀峯一聯合艦隊司令長官は、連合国軍のアッツ島上陸前の5月8日にトラック島で行われた作戦及び防備打ち合わせにおいて、「艦隊決戦のためなら離島守備隊もあえて捨て石にする」という固い決意を示している [19, p173]。

聯合艦隊は千島方面および本州東方洋上における作戦を、聯合艦隊全力をもってする決戦として実施するのは「特別ノ場合ニ限リ一般ニハ北東方面部隊ノ作戦トシテ之ヲ実施ス」と定めていた [19, p305]。これらから、聯合艦隊としては主力部隊のアリューシャン方面への出撃を、敵航空機の攻撃圏に入って敵艦隊を撃破してアッツ島を救援しようというものではなく、アメリカ軍機動部隊が都合の良い海域にあって「決戦」としての奇襲が見込める時に限っていた [19, p299]。上記命令文は、あくまで北方部隊を支援するものであって、しかも出撃に関する部分には、敵機動部隊に関するいくつかの条件が付されていることからそれがわかる。

つまり聯合艦隊が出撃しなかった理由としては、かねてから乾坤一擲の艦隊決戦を計画している聯合艦隊にとって、アリューシャン方面でアメリカ軍の機動部隊との艦隊決戦が出来るかどうかだけが重要だった。つまり端的に言えば、アメリカ軍の機動部隊が出てこない限り、当初から主力部隊を出撃させるつもりはなかったのではないかと思われる。ただ、もしアッツ島での戦闘が長引いて増援部隊を送ることになれば、護衛のために多少の艦艇を北方部隊に出したかもしれない。

聯合艦隊としては、中部太平洋の東正面に攻めてきたアメリカ艦隊との艦隊決戦を期待していた。そのための来るべき艦隊決戦に備えて、アリューシャン方面において戦力を少しでも失いたくなかったと思われる。しかしこれは相手に主導権を渡した受け身の戦略となる。かねてからの方針だったとはいえ、海軍が連合国軍への対応を何が何でも中部太平洋における艦隊決戦に絞ったのは、アリューシャン方面だけでなく、戦争全体における戦略の柔軟性を失わせたように見える。もしアッツ島の連合国軍を孤立させて戦いの主導権を握るために、聯合艦隊がアリューシャン方面に出撃していたらどうなっていたかについては、11.2.3で考えてみる。


7.5.4    連合国軍にとってのアッツ島上陸作戦

一方で、連合国軍によるアッツ島上陸作戦は、第二次世界大戦中の敵前上陸としては、ガダルカナル島(とツラギ)と北アフリカ(トーチ作戦)に次いで3回目だった。連合国軍側の教訓としては、物資の揚陸の遅滞、非効率的な遠距離からの艦砲射撃などとともに、霧による歩兵と砲兵との連携不足があった。連合国軍はこれらの教訓を重視して、次のシシリー島上陸作戦などへと活かしていくことになる。しかし、霧の合間の歩兵と航空機との連携の成功は連合国軍側に自信を与えた。連合国軍にとって、各方面との指揮系統のあり方、艦砲射撃支援のやり方、航空機と護衛艦艇の管理と使用法の確立において、アッツ島上陸作戦はその後の全ての上陸作戦のひな形となった [3, p481]。そして、その後の上陸作戦の経験を経てその完成形がノルマンディー上陸作戦となった。

カリフォルニアで訓練を行っていたアメリカ軍第7師団は、行き先を知らされずに輸送船でアラスカに向かった。途中でアッツ島上陸作戦を知らされて耐寒装備の不備を認識したが、その時点では対応が間に合わなかった。兵士たちは5月のアッツ島のよく気候を知らずにほとんど耐寒・防水装備がないままにアッツ島へ送り込まれた。この時期でもアッツ島には雪が残っていた。第7師団の兵士たちに支給されていた防水加工のない革のブーツは深く泥に沈み、1日中その状態が続いた。たちまち足は濡れて凍傷となった。それは彼らの衣服も同じで、雪や霧雨のため1日中乾くことがなかった [10, p80]。

このアリューシャン列島の5月の気候にそぐわない服装や装備のため、戦闘以外に約2100名の兵士が凍傷などの要因で負傷した [21, p23]。機械類も同様で、通信機器は霧と湿気により濡れてしばしば動作しなかった。そのため、霧で部隊同士が見えないだけでなく、しばしば相互の連絡も取れなかった [10, p80]。日本軍と戦う前に、彼らはこれらの厳しい気候とも戦わねばならなかった。これらによる戦闘力の低下もアッツ島の占領に予想外に時間がかかった原因の一つだった。

連合国軍にとってこの上陸作戦でわかったことの一つは、艦砲射撃の威力だった。これは敵の防御陣地を破壊する効果も大きかったが、自軍の将兵の士気を鼓舞し、敵の将兵の士気を阻喪させるという絶大な心理的効果があることがわかった。連合国軍はアッツ島で押収した日本軍兵士の日記を見て、特に戦艦による艦砲射撃の威力に対する恐怖が数多く記されていることを知った [8, p83]。通常の野戦で使われる大砲の口径はせいぜい15 cm程度であるのに対し、この時の戦艦の主砲の口径は36 cmだった。十分な遮蔽を施した陣地も少なかったうえに、艦船は陸上の観測部隊と十分に連絡をとってピンポイントで狙って砲撃してきた。大口径の艦砲射撃とその高い命中精度はおそらく兵士がそれまで経験したことのない想像を絶する威力だったに違いない。

連合国軍は、艦砲射撃や爆撃の支援が行われると少ない死傷者数で進撃できたが、霧によって支援が滞るととたんに死傷者数が増えて進撃が止まった [8, p83]。連合国軍にとっては、結果として作戦の進捗は対地支援に影響を与える霧などの気象状況によって大きく左右されることがわかった。

連合国軍は捕獲した日本軍の備蓄弾薬・食料を分析しているので、参考に示しておく。日本軍の備蓄補給品は、干しイカ、鮭の缶詰、豆、米、干し芋、非常食の缶詰、鴨肉、みかんの缶詰、鮮魚、海藻類などだった。ホルツ湾周辺では、新鮮な野菜、乾物、弾薬、毛布、ライフル、炭、衣服などが大量に捕獲された[45]。連合国軍はこの大量の備蓄弾薬・食料から見て、アッツ島がキスカ島の補給基地になっており、キスカ島へ配送する分も備蓄されていたと推測している。

前に述べたようにアッツ島では備蓄の食料は7月中旬までと報告されているが、西浦と東浦にはキスカ島へ送る食料・弾薬がそれとは別に蓄積されていたのかもしれない。もしこれらの食料・弾薬が東浦や西浦ではなく、チチャゴフ湾付近に備蓄されておれば、その後の戦闘の様相は多少は変わっていたかもしれない。


7.5.5    アッツ島の玉砕に至る理由の総括

日本国内ではアッツ島玉砕を機として一般国民の中からキスカ島の戦局の前途に対する憂慮や大本営の統帥についての批判の声が出るようになった [18, p476]。大本営では前年秋の検討において、翌春の連合国軍の西部アリューシャン列島への侵攻を予想していた。4-3で示したようにその準備をすることになっていながら、その計画が3月のアッツ島付近への北太平洋艦隊の出現によって頓挫してしまうと、大本営は春までに終わる予定だった準備を「霧輸送」が終わる8月まで単に先送りしてしまった。6.4.1で述べたように、アッツ島に対する連合国軍の侵攻について、大本営は敵が上陸してから初めて対応を考えたという中途半端さがあったことは否めない。

アメリカではアリューシャン方面で作戦を行うことを4月1日から国民に向けて放送していた。7.3.1で述べたように海軍がこれを把握していただけでなく、5月7日の陸軍省課長会議でも報道部長がこの放送の件を発言しており [3, p267]、陸軍も近々上陸作戦が行われることを把握していた。

戦史叢書「大本営陸軍部<6>」は、「アリューシャン方面に敵が来攻した場合の陸海軍中央協定を事前に指示していたならば、もっとすみやかに対応策がとり得たであろうと思われる。この点、大本営は敵の来たらざるを恃む心理があったのではあるまいか。」と述べている [18, p476]。大本営が、連合国軍が侵攻してきた場合の何らかの対応策を4月初めに考えておけば、予め物資の補給方法、兵士の動員や船舶の手当、反撃の手はずなどをもっと速やかに整えることが出来ていたかもしれない。そうすれば、アッツ島守備隊の18日の東浦と荒井峠からの撤退を遅らせることができ、日本本土から何らかの増援作戦が行えた可能性がある。

最終的にはどうやってもアッツ島守備隊の全滅は免れることはできなかったかもしれないが、大本営が4月初めに連合国軍の上陸作戦への対応を検討しなかったことは、根拠のない当座しのぎの先送りに見える。大本営には優秀な人々が集まっており、当然連合国軍の上陸を心配した人もいただろう。言い出せなかった、あるいは議論にならなかった雰囲気があったのかもしれない。もし戦史叢書の疑念の通り「敵の来たらざるを恃む心理があった」とすれば、脳科学的に言えば「そうなって欲しくないことは考えない。自分が不都合なことに関しては思考停止に陥る」という人間の持つ心理をそのまま反映していたことになる。これに類することを「正常性バイアス」と呼ぶ場合があり、これは現代社会でも通じることである。

 

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *