2021/06/30

9. 連合国軍のキスカ島上陸

9-1 アメリカ海軍によるキスカ島砲撃

アッツ島占領後、アメリカ海軍の行動は積極的となり、キスカ島の封鎖と攻撃を強めた。霧の中の索敵を強化するために、新型のASD-1レーダーを搭載した哨戒機PV-1「ベンチュラ」も配備された。6月8日からは駆逐艦隊が継続して封鎖を行い、6月30日にはアラスカ防衛軍の司令部がアダック島に進出した [4, p670]。それとともに重巡洋艦3隻と軽巡洋艦1隻からなる艦隊が7月7日にキスカ島に艦砲射撃を行った、引き続いて駆逐艦隊が7月9日、12日、14日、15日、20日、26日、31日に艦砲射撃を行った。7月23日には戦艦「ミシシッピー」と「ニューメキシコ」、軽巡洋艦「ポートランド」、駆逐艦4隻からなる艦隊と重巡洋艦「ルイビル」「サンフランシスコ」「ウィチタ」、軽巡洋艦「サンタ・フェ」、駆逐艦5隻からなる艦隊の2つの艦隊が、互いにカバーし合いながらやはりキスカ島への艦砲射撃を行った [8, p90]。


飛行するPV-1「ベンチュラ」
https://ww2db.com/image.php?image_id=11063

9-2 日本軍撤収の兆候

連合国軍は第11航空軍を6月の292機から8月には359機に強化し、キスカ島の爆撃を6月から8月まで1454回と徹底した [10, p89]。しかし8月に入っても、連合国軍は日本軍のキスカ島からの撤収に全く気づかなかった。キスカ島を爆撃したパイロットは、7月28日以降地上からの対空砲火が減ったもののまだ続いていることを報告しており、これは一部の部隊は潜水艦で撤退したかもしれないが、まだ部隊は高地に残っているのではないかという疑念を抱かせた [8, p96]。しかしキスカ島への艦砲射撃に対して反撃はなく、キスカ島からの無線通信は沈黙していた。ただ、通信は突然行われなくなると怪しまれるので、日本軍はまだキスカ島にいる間から通信量を徐々に減らしており、無線通信の沈黙は連合国軍にとって決定的な情報とはならなかった。7月28日から8月5日まで行われた写真偵察の結果は、爆撃痕は放置され、自動車類は同じ位置にあり、舟艇の数は普段より減っていることを示していた [10, p90]。事前に状況確認の偵察隊を送るという提案がなされたが、キンケイドはそれを却下した。実はアメリカ陸軍航空隊ルデル大尉は、8月初めにP-40戦闘機で命令を無視してキスカ島に着陸し、1時間ほど歩いて写真を撮ってから戻っていた [2, p88]。しかしキンケイドは仮にキスカ島が無人でも上陸作戦の訓練とリハーサルになるとして、そのまま上陸作戦を強行した [2, p88]。

キスカ島に投下した爆弾と爆撃痕跡(アメリカ軍爆撃機からの航空写真、19438月)
https://ww2db.com/image.php?image_id=13680

9-3 連合国軍の上陸準備

連合国軍はキスカ島守備隊の規模を7000~8000名と見積もっていた [10, p88]。上陸作戦のために、兵士34426名を用意した。そのうち5300名はカナダ軍の部隊だった [8, p93]。艦船は戦艦3隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦19隻、攻撃輸送船5隻、攻撃貨物船1隻、輸送船10隻、貨物船3隻、輸送駆逐艦1隻、LST(戦車揚陸艦)14隻、LCI(大型歩兵揚陸艇)9隻、LCT(戦車揚陸艇)5隻、掃海艇2隻、高速掃海艦3隻、タグボート2隻、港湾用タグボート1隻、調査船1隻を準備した。支援用航空部隊は、大型爆撃機24機、中型爆撃機44機、急降下爆撃機28機、戦闘機60機、哨戒機12機だった [8, p97-98]。

上陸日は8月16日0130時(日本時間)と決められた。アダック島に集められた上陸部隊には、兵士にはゴム製の防水長靴が配布され、その上でアッツ島での失敗を繰り返さないように、キスカ島と似た環境であるアダック島でぬかるみでの行動などの訓練に励んだ [10, p88]。またアッツ島での教訓に基づいて、アメリカ人とカナダ人1400名からなる初の合同山岳コマンド―旅団である第1特殊部隊(The First Special Service Force)も投入された [8, p93]。

上陸部隊は兵士の訓練の進捗と大隊の再編の必要性から、上陸日を24日に延期するように要請したが、太平洋艦隊本部はそれを認めなかった [8, p93]。上陸は日本軍司令部のあるキスカ湾の反対側の北西海岸の南北2か所、そのうち南部は16日0130時、北部は17日に行い、北部では高地を確保するために16日の未明にいくつかの特殊部隊も上陸することに決まった。また、陽動として5隻の輸送船が島の南東側から上陸するかのように島の南東沖にも配置され、示威運動をした後に北西側の上陸艦隊に合同することになっていた [8, p94]。アメリカ艦隊はキスカ島に対して8月3日に爆撃と艦砲射撃を行った。また8月3日から16日まで駆逐艦による艦砲射撃が10回行われた [9, p92]。


連合国軍が上陸した際のキスカ島の地図(1943年8月)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/61/KiskaLandingsMap.gif

9-4 キスカ島への上陸

8月16日0121時に上陸作戦は霧の中でキスカ島西側の南部で開始され、0700時までに3000名が無抵抗で上陸して約4 km先まで進撃した。1100時までには合計で6500名が上陸した [8, p94]。上陸部隊は日本軍とは遭遇しなかったが、それはアッツ島同様に「日本軍は海岸奥の高地に陣地を構築している」という事前の情報と合致していた [8, p94]。掃海が終わった17日には予定通り西側の北部でも上陸が行われ、特殊部隊とともに0300頃には3100名が上陸に成功した [8, p94]。南部ではさらにカナダ軍を主力とする7000名が上陸した。昼頃には高地の占領に成功し、日本軍が撤収した痕跡を発見した [8, p94]。上陸部隊は日本軍が厳重に防衛していると思われていた南東側ゲートルート入り江(七夕湾)の陸軍防衛地区に達したが無人だった。一方で上陸部隊が発見した日本軍部隊の食べかけの朝食は、発見直前に日本兵が蒸発したような不思議な印象を与えた。


LST(戦車揚陸艦)からキスカ島へ上陸する連合国軍
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/KiskaLSTUnloading.gif

連合国軍は日本軍を探して偵察を続けたが、霧に遮られて状況の把握は困難だった。18日になっても日本軍の状況はわからなかった。日本軍は地雷を設置していた。これは高角砲の薬莢に魚雷の黄色火薬を詰め、蓄電池でスイッチが入るものだった [7, p371]。同島を精強な日本軍守備隊が守っていると信じていた彼らは、この地雷の爆発音とともに濃い霧の中で各地で同士討ちを行った。同士討ちとこの地雷によって、連合国軍には22名の死者と174名の負傷者が出た [2, p89]。さら18日夜には駆逐艦「アブナー・リード」が蝕雷して70名が死亡し、47名が負傷した [2, p89]。駆逐艦はタグボートに引かれてアダックに回航された [8, p95]。

8月23日0650時に北太平洋軍はキスカ島の上陸作戦の完了を宣言した。日本軍の占領前にアメリカ軍の気象観測所で飼われていた軍用犬「エクスプロージョン」も無事に発見された [2, p89]。キスカ島の占領は、日本軍から見ると、約35000名もの連合国軍兵士や大量の兵器を主戦場である南太平洋から割いて、大量の弾薬と燃料を消費させる役割を果たした。アメリカのタイムズ紙は「陸海合同のへま(JANFU)軍(Joint Army Navy Foul-Up)」となじったが [2, p89]、北太平洋軍司令長官キンケイド少将は上陸作戦の演習になったことを強弁した。

アッツ島とキスカ島に上陸した連合国軍兵士は、日本軍が残した現地の気候に対応した装備、自然の起伏や地形を利用した陣地や地下壕の建設、前進基地との的確な通信施設に感心した。しかし、キスカ島から霧のように消えてしまった日本軍は、連合国軍にとってみれば不利な状況における日本軍の行動パターンに対する誤った期待を持たせたようである。第二次世界大戦におけるその後のパターンを見ればわかるように、不利な状況に陥った日本軍が取った行動は、キスカ島のパターンではなくアッツ島のパターンだった。

キスカ島に上陸したアメリカ海軍の通訳は、誰かが持ってきた日本語で書かれた看板を訳すように求められた。その看板には日本語で「ペスト患者収容所」と書かれていた。アメリカ軍は慌てて血清を送るように軍本部に依頼し、付近の兵士を隔離した。実際にはキスカ島にペスト患者収容所はなく、この看板は日本軍の軍医が後に上陸してくるであろう連合国軍をだますために作って置いてきたものだった [28, p79]。この時の海軍通訳はドナルド・キーンという若者であり、戦後に日本においても有名な日本文学の研究者となった。

(つづく)

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