2021/07/01

10. 日本軍にとっての総決算

 結局アリューシャンでの戦いは、日本軍はアッツ島とキスカ島をいったん占領したものの、約11か月後にアッツ島は全滅、約13か月後にキスカ島からは撤退という形で終わった。この間のアメリカ軍の航空機によるキスカ島への攻撃は、全占領期間420日のうち184日、のべ4000機により540回以上にわたった [7 ページ: 225]。この戦いを通した被害は、沈んだ駆逐艦3隻、潜水艦5隻、損傷した艦艇10隻、沈没・擱座した輸送船9隻、失った兵士3951名、海上で遭難した人員を含めると5100名以上、海没した物資は数万トンに達した [7, p157] [2, p90]。北方軍ではキスカ及びアッツ島に前進できた者は約2500名で、輸送できずに内地に待機中の者は約5700名に上った [4, p457]。数字を単純に比較することは難しいが、実質的に西部アリューシャンにおいてもガダルカナル島の二の舞を避けることが出来なかったと言えるのではなかろうか。

10-1 西部アリューシャン列島の脅威

ミッドウェー作戦の帰趨が明確になった段階で、改めて西部アリューシャンへの敵航空基地前進を防止するためのAL作戦が再発動された。しかし日本軍にとってキスカ島とアッツ島の占領は本当に必要だったのだろか。そこに敵の航空基地が出来るとどういう脅威が想定されたのだろうか?

10.1.1 連合国軍の北方からの本土侵攻

地理的に見ると、アリューシャン列島を経る大圏コースは、北米から日本へ至る最短ルートではある。海軍舞鶴第三特別陸戦隊副官であった柿崎誠一元大尉は、キスカ島とアッツ島の占領を「日本空襲のための基地前進を阻止したことは大きく評価さるべきであろう。」と述べて、1943年2月の海軍軍令部福留第一部長の「もしこれを占領しなかったら、米軍はつとに千島占領を企てたかも知れない。千島の一角を占領されたら東京は敵の空襲圏内に入るだろう」という言を引いている [6, p448]。

しかしながら、仮にキスカ島とアッツ島を日本軍が占領したままでも、連合国軍はセミチ島、アムチトカ島の航空基地から千島を爆撃しながら千島に侵攻することにいかなる支障もなかっただろう。逆に言えば、アッツ島とキスカ島を占領しておれば連合国軍は千島には侵攻しないという考えに根拠はなく、単なる希望に過ぎない。問題は海軍の首脳部の多くがそういう判断を持っていたところにあるのではなかろうか。北方軍でもアッツ島に連合国軍が侵攻する前に「南方の戦訓では日本兵が一兵でもおれば敵は上陸しないことを示した」との判断が回想されている [3, p266]。現実にはガダルカナル島やツラギの状況を見てもこの時点でそういうことは言えなかったのだが、アッツ島とキスカ島の占領や飛行場問題も含めてそういった連合国軍への過小評価が、多くの判断の底流に流れているように見える。

一方で、アメリカにとって北海道から島が連なっている千島列島の占領は、自国領のキスカ島とアッツ島の占領とは困難度や必要性に格段の差があると思われる。大本営が千島への侵攻を心配するならば、千島列島に数多くの航空基地や要塞を作る方が、北海道からの距離を考えるとキスカ島とアッツ島の占領より防衛としてはるかに現実的であろう。そうしておけば、アリューシャン列島を経由した侵攻はアメリカ軍にとってそれほど利点があるようには見えない。

実際にアメリカ軍は北方からの侵攻策を採らなかった。アリューシャンでの戦いの後、西部方面軍司令官デウィット中将は、キスカ島攻略後に西部アリューシャン列島に兵力を置いて北千島の攻略を主張したが、アメリカ統合参謀本部はこの案を却下した [16, p20]。アメリカ軍はキスカ島を占領後1年間ほど様子を見ていたが、1944年夏にアラスカとアリューシャンの陸上兵力を3分の1に削減し、アダック島より西の航空基地も縮小した [10, p103]。

10.1.2 アメリカ軍の北方からの本土爆撃

アッツ島に基地があれば、戦争前から北千島はアメリカ軍の大型爆撃機による爆撃圏内に入っていた。またアリューシャンの戦いの最中においても、大本営には1943年中にもアメリカが新型長距離爆撃機B-34(注:B-34はPV-1の別称であるが、これは双発機で長距離爆撃機ではない。B-32かB-36のことを指しているのかもしれない)による西部アリューシャン列島からの東京爆撃を心配する声があった [3, p170]。これはアメリカ軍が同方面に大航空基地を建設して、日本を爆撃することを恐れたのだろうか?しかし、同方面の厳しい気象と険しい地理を考えるとそこに大航空基地を建設するとは考えにくい。むしろ少数機による爆撃でもドゥーリトル爆撃のように国民の士気に関わる問題とみていたのかもしれない。連合国軍によるアッツ島の占領後に、実際にそこに建設した航空基地から少数機による幌筵への爆撃がたまに行われた。しかし被害はほとんどなかった。

連合国軍は、日本本土の軍需産業や都市に対する戦略爆撃のための大規模航空基地を求めていた。そしてそのためにアリューシャン列島ではなく、中国奥地やマリアナ諸島を選んだ。それは航空活動や補給に向いていないアリューシャン列島付近の地理と気象が大きく関係していると思われる。冷静な分析が行われておれば、日本軍は航空基地の前進を心配して西部アリューシャン列島を占領する必要はなかったと思われる。

10.1.3 アメリカから見た日本軍の西部アリューシャンの占領

一方でアメリカから見ると、日本軍による両島の占領についての実害は無く、放っておいても3年後には一兵も損なうことなく取り戻せただろう。しかしはるか彼方の小島ではあったが、アメリカは自国領土の日本軍による占領を国家の威信と国民の安心の問題として受け取った。アラスカの住民は日本軍の侵攻に不安を感じた。これを全米の国民が注目しており、民主主義国家であるアメリカ合衆国はそれを無視することは出来なかった。つまりアメリカは戦略的な面というよりは政治的な観点により、気候が厳しく資源もない、軍事的にはさほど重要でない孤島に対して本気で奪還に乗り出さざるを得なかった。実際にアッツ島上陸艦隊司令官ロックウェル少将は、アッツ島とキスカ島はアメリカの領土であり、戦略を度外視しても取り戻す必要があったと述べている [2, p91]。

しかし、日本軍はAL作戦を計画した際にそういった気象・地理やアメリカの政治制度や国民性まで考慮していたのだろうか?アメリカ軍の戦力を過小評価していた面もあろうが、もし大本営が上記の点を理解しておれば、そこまでしてAL作戦を実施することに躊躇したかもしれない。

海軍にいたことのある作家の阿川弘之氏は、日本軍の西部アリューシャンの占領について、アメリカ軍がこの方面から日本をうかがいに来るにちがいないという恐怖の幻影と述べている [26, p106]。アリューシャン方面に関する地理や気候に基づいた戦略的検討の欠如が、アメリカの侵攻に対する不安感を増幅させた面があるのではないかと思う。結局、日本軍によるキスカ島とアッツ島の占領は両島へのアメリカの反攻を誘発しただけと言えるのかもしれない。

10-2 連合国軍への対応


10.2.1 予期せぬ空襲

日本軍によるアッツ島、キスカ島占領に対するアメリカ軍の反応は素早かった。まず空から日本軍の補給を断って戦力を漸減するという基本方針があり、大型爆撃機を直ちにフォート・グレン基地に集めて空襲を開始した。これは日本軍にとってAL作戦起草時には想定しなかったことだったが、ダッチハーバー攻撃時に東部アリューシャンのフォート・グレン基地を発見した時点では予想できたことだった。距離や天候の問題もあり、同基地からの空襲は週に1~2回がせいぜいだった。それでも物資の揚陸のために長期間の停泊を強いられる日本軍の輸送船にとっては大きな脅威であり、物資揚陸の制約となった。

10.2.2 アダック島の失陥

アメリカ軍は、フォート・グレン基地からでは遠すぎて補給の遮断に効果が少ないと見るや、わずか1か月後の7月中旬にはアダック島の占領が検討された。そして8月末には上陸し、尋常ではない努力を払ってわずか2週間程度で航空基地を建設した。この時点でキスカ島での航空基地建設は手遅れとなり、アリューシャンでの戦いは実質的に決したのではないだろうか?この点でアメリカ軍の判断と行動は素早く的確だった。仮にその後日本軍がキスカ島に飛行場を建設することが出来たとしても、航空戦力を集中させて制空権を握るのは至難の業であったろう。戦力を集中させる前にあらゆる手段で叩かれて、遅かれ早かれ航空戦力は無力化されたのではなかろうか。

アダック島の湾に集結するアメリカ艦船(1943年8月)
https://ww2db.com/images/battle_aleutians16.jpg

10.2.3 アムチトカ島の失陥

比較的平坦なアムチトカ島に飛行場が作れることは、6月のキスカ島上陸時の付近の調査でわかっていた。同島はキスカ島と130 kmしか離れておらず、そこに航空基地が出来ればキスカ島とアッツ島の死活に関わることは明白だった。その時点での占領はさしたる問題もなく行えただろう。しかし日本軍の行動は悠長だった。10月にアメリカ軍がアムチトカ島を占領したという情報が流れると、日本軍はとたんに慌てた。ところが誤報とわかるとそのまま放置して先送りしてしまう。しかし翌年1月に本当に占領されると、今度は「テ」号作戦という決死隊を組織してまでの奪還作戦を検討した。この振れ幅の大きさは何なのだろうか?飛行場建設の問題もそうであるが、詰まるところ戦略の一貫性のなさを暴露しているだけのように見える。

10.2.4 日本軍の防衛方針の変転

AL作戦策定時の日本軍の防衛方針は、上陸直後に空襲を受けたことによって、恒久占領と第五警備隊の設立、電探、水上戦闘機、特殊潜航艇の配備へと修正された。アメリカ艦隊の艦砲射撃を受けると8月にはキスカ島に第五十一根拠地隊を設立してアッツ島を撤収してキスカ島の防衛を強化した。アダック島が占領されると、10月には北海守備隊を新設してアッツ島を再占領し、キスカ島、アッツ島、セミチ島での飛行場の建設が決定された。アムチトカ島が占領されると、2月には北方軍を設立するとともに飛行場建設を急ぐために輸送を強化したが、アメリカ艦隊の出現で失敗した。キスカ島沖海戦で制海権を失うと、4月には今度はアッツ島に防衛拠点を移して「霧輸送」を企画した。5月に連合国軍がアッツ島へ上陸すると、アッツ島放棄とキスカ島からの撤退を決定した。これを見る限り相手が動くとそれに応じてこちらも動くが、その中身は不徹底あるいはワンテンポ遅れてという印象を受ける。

それに対してアメリカ軍には、航空攻撃によって補給と陸上戦力を攻撃して日本軍の弱体化を図ってから侵攻するという一貫した戦略が確立されていた。当初から「航空攻撃→補給の遮断→日本軍戦力の弱体化→飛行場の西進→補給のさらなる遮断→日本軍戦力のさらなる弱体化」というサイクルが確立されており、その上で最後に上陸して島を奪還するという単純明快な方針があった。奇を衒うのではなく、正攻法を繰り返しながら一歩一歩確実に成果を積み上げていくという何の変哲もない戦法であるが、それだけに容易には覆しようのない手堅さを感じる。

(つづく)

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