2021/07/01

11. いくつかの考察

網羅的なものではないが、私が考えついた部分について考察してみたいと思う。これまで述べてきたことの繰り返しの部分もあるし、他で既に指摘されていたりするものと重複しているかもしれないことをお断りしておく。

11-1 地理と気候について

アリューシャン列島の霧や悪天候などの気象・気候は、さまざまな作戦を著しく困難なものにした。天候のためにほとんどの作戦は予定通りには進まなかった。霧や雲のために飛び立った航空機は再三引き返し、上陸作戦はたびたび延期され、上陸後も部隊に対する支援が天候のために阻まれることも多かった。また攻撃だけではなく、航空機による偵察や戦果確認においても、悪天候のためしばしば十分な情報が得られず、その後の作戦に多大な影響を与えた。

11.1.1 気象が航空戦に与えた影響

近代戦に不可欠である航空機は悪天候には脆弱である。航空機は視程が悪いと離着陸できず、雲があると攻撃目標を捉えられず、雲中では飛行できないことが多い。離着陸に関しては強風でも同様である。さらに雲の状態(過冷却雲)によって機体に着氷が起こって飛行が困難になることもある。しかもアリューシャンでのように天候が急変すると、好天で出撃しても目標の上に雲が広がっていて攻撃できなかったり、帰りに基地が霧に覆われて不時着や墜落したりすることも少なくなかった。アリューシャンでの戦いを通して連合国軍(第11航空軍(the Eleventh Air Force)、海軍第4航空軍(Fleet Air Wing 4)、王立カナダ空軍(the Royal Canadian Air Force))が失った航空機225機のうち、41機が戦闘によるもので残りの184機は事故によるものだった [10, p97]。これは、この地域の気象が航空機の運用に適していないことを如実に示している。

アッツ島に不時着したPV-1「ベンチュラ」(1944年5月)。滑走路にはマーストンマットが敷かれている。
https://ww2db.com/image.php?image_id=24764

11.1.2 霧が艦船攻撃に与えた影響

アリューシャン方面の霧の多発は、航空機による船舶攻撃を阻害した面がある。しかし、霧については果たして日本軍に有利に働いたかどうかの判断は難しい。霧は確かに航空機を用いた索敵と攻撃を行いにくくして、日本軍のキスカ島からの撤収は、確かに霧に助けられた面があった。しかし、日本のレーダー技術の後れは、日本軍艦船の霧の中での行動を不利にした。例えば、キスカ島へ補給や撤収に赴いた多くの潜水艦が、霧の中でアメリカ軍の艦船のレーダー射撃の標的となった。アッツ島、キスカ島への補給は最後は霧頼みのような形になったが、レーダーを装備したアメリカ軍の艦船による包囲網に対しては、霧はむしろレーダーによる索敵能力が低い日本軍にとっては不利に作用しただろう。キスカ島からの撤収も、もしアメリカ海軍が自ら引き起こした幻の海戦がなく、キスカ島周辺にレーダーを配備した連合国軍の艦船が遊弋しておれば、もっと困難なものとなったに違いない。

11.1.3 気象や地理が陸上戦闘に与えた影響

アリューシャン方面は、第二次世界大戦において主要な戦力を投入して戦われた戦域の中では、気候が最も厳しかった。低温、強風の下で雪や凍雨は頻発し、霧に覆われることが多く、木々はなく険しい地形が露出し、高地はほとんど通年で積雪しており、低地は深い泥地・湿地が多かった。これらは陸上での戦闘を他の戦域とは全く異なるものにした。

アッツ島への上陸作戦については、一部のアラスカ軍部隊などを除いて連合国軍はアリューシャン列島の気候の兵士への影響を軽視していた。作戦の機密性が優先されて、装備の面の検討が十分に行えていなかった。主力の第7師団では不適切な装備のために凍傷や塹壕足が続出し、その被害は戦闘を上回った。ぬかるみや険しい地形は、車両の運用を困難なものにした。また、霧や雲による艦砲射撃の妨害や航空戦力による地上支援の不足は、不十分な防御陣地しかなかった日本軍に利して、地上戦を激烈なものにした。しかし霧が晴れると、防御陣地は爆撃や艦砲射撃で破壊されていった。

 日本軍では、1年近く暮らしていたせいもあって耐寒・防水装備という点ではほぼ完全だった。しかし、アッツ島では連合国軍の補給遮断による食糧不足と弾薬不足が持久戦をあきらめる一因となった。また防御陣地構築のための時間や資材を飛行場建設に充てたため、多くの防御陣地は不完全なままだった。アッツ島の日本軍の最後の突撃は連合国軍に追い詰められたためであるが、隠れるところのない地形上の不利と弾薬・食糧の不足のため持久戦に持ち込めず、そうせざるを得なくなった面もあると思われる。アッツ島守備隊は1週間程度で荒井峠と西浦・東浦の保持を断念したが、この早期の崩壊はそもそものアッツ島占領の意図とそのための防衛戦略が杜撰であったことを示している。

11.1.4 気象予測の作戦への利用

天候は西から変わることが多い。日本はアリューシャン列島より西に位置している。また日本軍は北方や西方に位置しているソビエト連邦の気象観測所からの気象暗号電報を解読していた [26, p53]。気象予測という観点では西方の日本軍が有利であり、アメリカ軍は日本軍がその利点を活かした戦術をとっていると思っていた [10, p19]。しかし日本軍による西部アリューシャン列島への輸送が天候のためにたびたび失敗していることから、気象予測が作戦に活用されていたとは言いがたい。キスカ島撤収の「ケ」号作戦において、霧が継続することを予測して撤収を実施できたのは、最後の最後になって霧に特化した例外的かつ集中的な研究を行ったからだと思われる。

気象予測を作戦に利用しようとすると、少なくとも日頃から気象観測結果を利用した分析を蓄積して、当該方面の気象的特徴を把握する必要がある。気象予測を十分に活用できなかったのは、当時の気象部隊が用いていた気象学のレベルの問題と、それを利用する運用側の意識の問題があったと思われる。

当時最新のベルゲン学派(ノルウェー学派)気象学による前線解析は、風向風速の変化や天候の急変を引き起こす前線を利用していた(ベルゲン学派以前の天気図に前線はなく、天候の急変を予測できない)。これを使えば、それまでの広い地域を対象とした漠然とした予報を、狭い地域の時刻を指定した気象予報に絞ることが出来る可能性があった。

そのため、ベルゲン学派気象学の発祥の地の緯度に近いアリューシャンでそれを活用していれば気象の予測精度がもう少し向上していた可能性がある。そうすれば、キスカ島より東に位置するアメリカ軍基地での天候回復の遅れ(航空機が飛べない間)を利用した輸送などのきめの細かい作戦が行えたかもしれない。

日本の中央気象台(気象庁の前身)がベルゲン学派気象学を利用し始めたのは戦後であるが、第五艦隊気象長竹永少尉は、実はベルゲン学派の気象学を研究していた。ノルウェー出身のスベール・ペターセンというベルゲン学派気象学の新進気鋭の研究者が1940年に書いた「Weather analysis and forecasting(気象解析と予報)」という教科書を読んで前線解析を会得していた。

彼は1943年2月に第五艦隊に赴任すると、それを用いた天気図を描いたが、敵性天気図と叱責されてしまう。ところが、彼が乗った軽巡洋艦「多摩」は千島で時化に遭い、その時の天候の急変は竹永少尉が描いた天気図通りとなった。これを契機に彼はペターセンの教科書の解説書を作って海軍内に配布した [26, p14-25]。

これを用いた体系的な研究がもっとなされていれば、気象予測をアリューシャンでの戦いに用いることが出来たかもしれない。ただし、この解析が当てはまるのは中高緯度なので、熱帯や亜熱帯の中部太平洋では利用できなかった。

アメリカ気象局では1930年代後半からベルゲン学派気象学を導入していた [29, p252]。なお、ペターセンは、アメリカのマサチューセッツ工科大学の気象学科で教鞭を執っていたが、ドイツのノルウェー侵攻以降イギリス気象局へ移り、ノルマンディ上陸作戦での気象予報を担当した一人で、この上陸作戦を荒天を避けて1日延期させて、翌日の晴れ間を予測して作戦を成功に導いたことでも知られている [29, p259]。


11-2 アッツ島方面への聯合艦隊の出撃

11.2.1 大型爆撃機に対する懸念

聯合艦隊がアッツ島方面へ出撃しようとすると、軍備的に2つの懸念があった。その一つは長大な航続距離を持つアメリカ軍の大型爆撃機である。幌筵から北上すれば、このレーダーを持った大型機の哨戒圏・攻撃圏内に入ることは避けられなかった。ただ、基地が霧に覆われてしまっては離着陸できないため、大型爆撃機による哨戒や攻撃がどの程度行えるかは、その時の霧の状況次第だった。

洋上を高速で自由に動き回る艦隊に対する大型機による爆撃・雷撃の効果は、どの程度検討されていたのだろか。それまでの戦訓を見ると、高速で戦闘行動中の軍艦に対する大型爆撃機の攻撃能力は小型機によるものと比べてかなり劣っているように見える。アッツ島付近はアムチトカ島からの小型機の活動範囲内だった。しかし、キスカ島で空襲を受けた機種の記録は、陸軍の戦闘機と中・大型爆撃機と海軍の飛行艇だけで、航行中の艦船が最も恐れるべき単発の急降下爆撃機や雷撃機がアリューシャン方面に配備されていた記録はない [4, p459-467]。 

11.2.2 レーダーに対する懸念

もう一つの懸念はレーダーの性能である。これは日本海軍とアメリカ軍で大きな開きがあった。この時期の日本海軍は、対空監視レーダーは一部の艦船に搭載されていたものの、対水上レーダーは見張り用で距離は測定できず、有効なレーダー射撃はできなかった。1942年に現れたアメリカ軍の対水上用SGレーダーは、極超短波(マイクロ波)を用いて約35 km先から正確な距離の探知が可能だった [15, p110]。

電波探知器(逆探)についても、この時期に日本海軍にはSGレーダーの極超短波を安定して逆探知できる装置がなかった。当時の日本海軍の艦艇の多くには超短波の逆探は装備されており、もしアメリカ軍が超短波を用いているSC対空レーダーを用いれば逆探知できた可能性はあった。しかし日本海軍は当時あまり逆探を信頼していなかったという話もある [15, p114]。装置の安定性や運用の問題があったのかもしれない。

この時期にはアメリカ軍の大型航空機の多くには既にレーダーが搭載されていた。一方日本軍の航空機の哨戒や目標の捕捉は目視に頼るしかなかった。霧の多いアリューシャン方面での作戦ではレーダーと逆探の利用は不可欠である。アリューシャン方面で艦船が作戦を行えば、レーダーや逆探の性能が劣る日本艦隊は気づかないうちにアメリカ軍のレーダーに捕捉されて、霧の合間に航空攻撃を受ける、あるいはアメリカの艦船から夜間や霧の中でレーダーを使った攻撃を受ける可能性は少なくなかったと思われる。

11.2.3 アッツ島方面への聯合艦隊出撃の判断

重油の問題については既に述べたので、ここではそれを除外して考える。聯合艦隊は4月の「い」号作戦で機動部隊の航空戦力の2割近く(17%)を消耗したものの [4, p521]、当時は大型空母4隻(翔鶴、瑞鶴、隼鷹、雲鷹)、小型空母2隻(瑞鳳、龍鳳)、護衛空母3隻(大鷹、雲鷹、冲鷹)があり、まだかなりの航空戦力を保持していた。1942年のアッツ島とキスカ島上陸時には、聯合艦隊は6月下旬にかけて空母3隻(後に空母「瑞鶴」を入れて4隻)を含む大艦隊でキスカ島沖でアメリカ機動部隊の待ち伏せ作戦を企図した。ところがそれから11か月経ったアッツ島への連合国軍の侵攻に対しては聯合艦隊は出撃しなかった。

当時日本軍は、中部太平洋ではマーシャル諸島、ギルバート諸島までまだ勢力圏を保持していた。別な見方をすると、そういう状況の下で聯合艦隊の根拠地横須賀から3200 kmのアッツ島にアメリカ海軍が護衛した連合国軍が上陸してきた。同島はアメリカ海軍の根拠地ハワイからは4300 kmあった。これをアメリカ海軍が勢力圏を越えて西に突出してきたとみることは出来ないだろうか?

根拠地から戦場のまでの距離は作戦や行動の柔軟性と大きく関係する。駆逐艦「雷」の乗組員であった橋本衛氏は、アッツ島沖海戦の際に日本に近いこんな海域に敵の水上艦艇が現れることはあるまいと考えていたと述べている [20, p300]。日本の幌筵から2日程度で到達するアリューシャンは、それまで戦っていたニューギニアやソロモン海域から見ると圧倒的に日本に近かった。もし日本海軍が主導権を握って戦おうとすれば、連合国軍のアッツ島上陸は一つの機会になり得たのではないか?しかしながら、日本海軍にはアリューシャン方面に主力が出撃して、何らかの形でこの連合国軍の突出を咎めるという発想はなかった(なお、機動部隊の艦隊決戦には備えていた)。

また最終的に西部アリューシャン列島を保持するならば、何度も見てきたようにアメリカ軍の航空基地があるアムチトカ島を少なくとも占領する必要があった。兵を捨て駒にして占領する決死の「テ」号作戦も検討された。しかし、この時点に至っては聯合艦隊としてはそこまでしてアムチトカ島を占領する覚悟がなかったといえるかもしれない。

当時の考え方を見ると、聯合艦隊は艦隊決戦に備えて、むしろアメリカ艦隊に機動部隊がいなかったからこそ出撃しなかったようである。もし出撃して、「い」号作戦での損失に加えて航空戦力をさらに多少なりとも消耗すれば、想定している中部太平洋での艦隊決戦に支障を来すという危惧があった思われる。

戸部らによる著書「失敗の本質」は「海軍における主要目標は米国海軍機動部隊撃滅であり」と述べている [30, p89]。また、防衛研究所の斎藤達志氏は「(日本海軍は)アメリカ艦隊が攻撃してくるのを迎え撃つという邀撃作戦を主に考えていたため、戦闘が生起するかどうかはアメリカ側の意思によったのである。」と述べている [31, p104]。この聯合艦隊の受け身の姿勢は、アリューシャンでの戦いでも戦略的・戦術的な柔軟性を失わせたようにも見える。

1943年1月時点での日本とアメリカの航空戦力比は1:1.1であり [32, p213]、この時点でも航空戦力の格差がそれほど大きかったわけではない。またアッツ島上陸部隊を守るアメリカ艦隊の主な戦力は、旧式戦艦「ネバダ」、「ペンシルベニア」、「アイダホ」の3隻、護衛空母「ナッソー」1隻、重巡洋艦3隻、軽巡洋艦3隻を基幹とする北太平洋艦隊だけだった。

他のアメリカ海軍の主要な戦力が北太平洋域での聯合艦隊の出現に備えていた兆候はない。1943年5月のアメリカ海軍の主な艦船の動向は、新型戦艦「ワシントン」はハワイ沖で訓練中、戦艦「インディアナ」、「マサチューセッツ」、「ノースカロライナ」、空母「サラトガ」と英空母「ヴィクトリアス」は南洋ソロモン諸島で作戦中、空母「エンタ-プライズ」はハワイでオーバーホール中、新型戦艦「サウスダコタ」、「アイダホ」は大西洋で作戦中だった。新型空母は数隻完成していたが、乗員の訓練や搭載機の整備・訓練中で実戦に出られる状態ではなかった。

聯合艦隊の主力、あるいは旧式戦艦と護衛空母を主体とする艦隊だけでもアリューシャン方面へ出撃していれば、アメリカ軍の北太平洋艦隊に匹敵する戦力はあったはずである。11.2.2で述べたように技術力の差があるため容易に勝てるとは考えられないが、少なくともアメリカ海軍は慌てたかもしれない。アッツ島上陸部隊を危険にさらすことは、アメリカ国民の民意を考えるとできなかったであろう。日本艦隊は主導権を持って、駆けつけたアメリカ海軍と戦えたのではないか。ひょっとするとアッツ島と幌筵の中間付近で、両軍の艦船と攻撃機が入り交じった決戦になっていたかもしれない。それは場所や規模は違えど、日本海軍が思い描いていたに近い決戦になったのではないか。

聯合艦隊の中部太平洋での艦隊決戦への固執という受け身の姿勢によって、準備が整った1943年秋からのアメリカ軍の中部太平洋での自在の活動に、聯合艦隊は逆に振り回されてしまったように見える。そこではアメリカ海軍は日本海軍が思い描いていたような艦隊決戦を許してくれなかった。11.5.1で述べるが、アメリカ海軍の大量の空母を含む巨大な建艦計画を日本軍は知っていたのであり、もしそのアメリカ艦隊が勢揃いする前に聯合艦隊に何か打つ手があるとすれば、結果はともかくとして連合国軍のアッツ島上陸はその一つの機会になり得たのではないかと思う。


11-3 日本軍の航空戦力に対する考え方

11.3.1 なぜキスカ島に飛行場を作らなかったのか?

まず日本海軍の水上機(浮舟付きの航空機)への依存について触れておきたい。日本軍は水上偵察機や水上観測機を、偵察や着弾観測だけでなく地上攻撃にも重用していた。中国戦線では大規模作戦では空母が参加することがあったが、敵の海上輸送阻止(海岸封鎖)や沿岸での陸上戦闘支援には、低空での性能が優れている上に水上機母艦で速やかに移動して自在な場所で攻撃できる水上機が活躍した [13, p82]。

例えば九五式水上偵察機は、複葉だが低空性能が良く、固定銃と旋回機銃を持ち、60キロ爆弾2個を搭載して5時間程度飛べるという日中戦争当時としては優れた性能を持っていた。時には敵機と空戦を交えることもあったようだが、この水上機の活躍はもちろん前提として制空権があったからこそである。海軍が当初キスカ島に水上機基地を置いて陸上機用の飛行場を作ろうとしなかったのは、中国戦線での経験などからアメリカ軍に対しても水上機で対応できると思ったためではないかと思われる。

そして、キスカ島で輸送船や地上施設が爆撃によって被害を受けると、その迎撃のために二式水上戦闘機を配備した。これは上記の発想の延長線上ではあったが、高射砲の配備と相まって撃墜はできなくても爆撃機の針路を変えたり照準を妨害したりすることはある程度出来たのではないかと思われる。当然、上空を飛ぶ味方機に地上軍の士気も上がった。しかし、アダック島から陸上戦闘機が護衛に付いてくるようになると、水上戦闘機としての性能の限界と配備機数が少ないという問題があり防空効果を上げることは困難になっていった。

海軍軍令部と聯合艦隊は、AL作戦の起草時から西部アリューシャン列島防衛を陸上戦力と水上機によるものだけしか想定していなかった。これは航空戦力による補給線への攻撃を過小評価していたためと思われる。部隊は防空壕があればある程度守れるが、補給のための輸送船は航空攻撃を受ければそれから逃れる術がない。水上機では陸上機に対抗することは難しく、陸上航空基地を作って航空攻撃を防がなければ、いずれ補給が絶たれることは自明なことであった。

AL作戦の計画時に、日本軍が優勢であったため防衛や補給の細かな詰めを行なわず、上陸後に大型機による爆撃を受けても、事前の計画の微修正で対応したように見える。しかし、西部アリューシャン列島の占領はミッドウェー海戦後のまさに日米の軍事均衡が変わりつつあった時に行われたので、上陸後の防衛方針の見直しの際に、制空権確保のための航空対峙戦を想定した抜本的な検討しが必要だった。

アッツ島とキスカ島の占領は、ミッドウェー海戦の失敗により哨戒の意義は失われ、恒久的に占領して敵航空基地の進出を防ぐことのみが目的となった。そして上陸後の調査で、付近のセミチ島やアムチトカ島にも飛行場適地があることがわかった。それなのに航空基地として使われそうな両島を放置してしまう。そこに占領目的に対する認識の甘さと一貫性のなさを感じる。

西部アリューシャン列島を確保しようとすれば、大本営での10月の検討で結論されたように、複数の島に飛行場を一刻でも早く建設するのが定石であったろう。その建設のためには、そのための人員と大量の資材の輸送を必要とする。それは占領直後であれば可能だっただろうが、アダック島に航空基地を作られた時点で実質的に困難になった。

海軍軍令部は、キスカ島上空でのアメリカ軍機の活動を見てから、それから防衛のための陸上航空基地の必要性を徐々に認識したのではないかと思う。また同時並行して行われていたガダルカナル島の飛行場を巡る攻防もそれを後押ししたと思われる。しかし、陸上航空基地の重要性に気づいた時には既に手遅れだったというのが実情ではなかろうか。

それは陸軍も同様であった思われる。陸軍北海守備隊参謀の藤井一美少佐は戦後にアリューシャンの戦いを振り返ってこう述べている。「野戦における飛行場設定の速度は、戦局の帰趨を支配する重大な素因であることを体験した。」 [3, p298]。藤井少佐の考え方は当時の陸軍高級将校の平均的な考え方だっただろう。

10-1で見てきたように、アリューシャン方面からの日本本土への侵攻は困難という分析が行われておれば、当初の作戦通り冬季の前に撤退する選択肢もあっただろう。11月と12月は悪天候で、アメリカ軍機の活動は極めて制限された。キスカ島への空襲回数は、9月は96回、10月は229回に対して、11月は2回、12月は33回、1月は23回であり、2月以降はアムチトカ島に基地が出来たこともあって100回以上に増えている [7, p471]。11月か12月初めの時期であれば、悪天候を利用して比較的容易に撤退できたと思われる。

11.3.2 日本軍の航空戦への理解と開戦

アリューシャンの戦いにおいて陸上航空機同士の航空戦は発生しなかったが、飛行場の建設が遅れた理由として当時の海軍の航空戦に対する理解を検討してみる。日中戦争では日本軍基地が奇襲的に爆撃を受けることはあったが、基地上空の制空権を失うとどうなるかということを思い知らされるような事態は発生しなかった。しかしキスカ島に上陸した時点で、東1300 km先には大型爆撃機を擁するアメリカ軍の航空基地があることがわかっていた。ということは、敵の航空攻撃を防いで制空権を確保するためには、航空基地を置くしか方法はなかった。

キスカ島の制空権を確保して占領を続けるためには、占領と同時に飛行場を迅速に建設して航空戦力を集中させ十分な補給体制を整えて、アメリカ軍の航空戦力を先に圧倒してキスカ島付近の制空権を確保し続けるのが理想だろう。それが出来なくとも、空襲の際に敵より強力な迎撃力を整備して敵航空戦力に被害を強要するとともに、爆撃機を配備して敵基地の戦力を削いでさらなる進出を阻止する必要があった。

キスカ島占領時に飛行場の建設を見送ったことは、その制空権確保競争のスタート地点に立つことさえしなかったことを意味している。そして航空基地となり得るアダック島とアムチトカ島の一方的な占領を無為のうちに許した。これはキスカ島占領時の軍上層部の航空戦力に関する基本的な理解に何かしらの問題があったことを示している。日本軍における航空戦力の考え方の問題は、他で数多く議論されているのでここでは分析しないが、これはアリューシャンでの戦いだけでなく、戦争全般とその帰趨に大きな影響を与えた。

余談であるが、キスカ島の防衛を担った陸軍北海支隊の中隊長であった林友三中尉の「キスカ防衛陸軍作戦私史」に幌筵から船でキスカ島へ向かう途中で次の下りがある。「ベーリング海を船でキスカ島に東進中に敵航空機の接近の報がもたらされると輸送船長以下長田丸乗組員の様相が一変した。対空警戒に目を血走らせ、神経がぴりぴりしているのだ。今まで、ただの一度も空襲を受けたことのない私には、過敏すぎると思われるほどの反応に、なかばあきれるほどであった。」 [33, p453]。これは当時の陸軍将校の平均的な考え方だったのではないだろうか。幸いに空襲を受けなかったために無事にキスカ島へ着くことができたが、当人はキスカ島上陸後に空襲の威力をいやというほど体感することになった。

陸軍航空は、それまで段階的に航空戦力の増強を図ってきていたものの、それらは質・量共に対ソ戦を想定していた。戦史叢書78巻「陸軍航空の軍備と運用<2>」を読むとそれがよくわかる。帝国陸軍が具体的に対米英戦争の開戦準備に動き出すのは、1941年9月6日の帝国国策遂行要領以降からである。

大陸を想定戦場として計画・整備されてきた陸軍航空は、当然のことながら中部太平洋ではほとんど活躍できなかった。アリューシャン方面のアメリカ軍の航空機は、飛行艇を除けば爆撃機も戦闘機もアメリカ陸軍の航空隊である。しかし、日本陸軍の航空隊は(たとえ滑走路があっても)アッツ島やキスカ島へ進出するのは実質不可能だった。航空機の性能も航空部隊の組織や訓練や補給能力を含む航空部隊を運用する能力が、はるかかなたの離島で運用できるようには作られていなかった。

海軍航空の動きは、陸軍よりは少し早かった。海軍では、三国同盟締結などによって対英米戦争の可能性が高いと判断し、1940年7月27日に南方資源入手を計画するなどの「時局処理要綱」を決定した。これを受けて、1940年11月15日についに「出師準備第一着作業」を発動した。そして、国際情勢のさらなる悪化に伴い、1941年春から、対米英戦争の作戦計画の具体的立案に着手した(戦史叢書95巻「海軍航空概史」p155)。そして1941年8月15日に「出師準備第二着作業」を発動し9月1日には全面戦時編成を実施した。

アメリカは第二次世界大戦が始まった1939年頃から対ドイツを含めて着々と戦争準備を整え始めていたのに対して、日本軍の諸準備状況を見る限り、日本海軍は少なくとも1940年末、日本陸軍は1941年夏まで本気で英米と戦争するつもりはなかったといえるのではないかと思われる。

この点が重要なので、少し話を脱線して大戦直前の日本軍の動きをおさらいしてみると、日本軍では1940年頃から、南方資源確保の準備のための南部仏印への進駐を漠然と考えながらアメリカとの平和外交交渉も続けるという矛盾した綱渡りを演じていた。1941年5月22日の大本営政府連絡会議で、今後の方針として北進・南進・外交交渉をすべて焦点に入れるという玉虫色の方針を決定してしまう。

ところが1941年6月にドイツがソビエト連邦へ進撃を開始した。これを受けて陸軍は独自に、大本営政府連絡会議の方針とは反しない、北進論を採ったかのような関東軍特別演習の準備を開始する。これに政府はバランスをとるかのように1941年7月2日の御前会議で北進論を併記しながらも、南進論によって「南方進出ノ態勢ヲ強化ス」と決定してしまう(進出するとは言っていない)。そして、そのためにはたとえ対英米との戦争も辞せずと決定してしまう。

しかし、これで実質的に英米との戦争を決定したとは思えない。これは北進論に流されないように南進論に重きを置くために、一種の精神的な覚悟を述べただけと推測している。これによって物理的な戦争準備は新たには何も進んでいないことからもそう思える。また、実際に南部仏印進駐を行ったことによる欧米の反応に、政府や軍部が驚いたことからもそうわかる。

しかし、大本営は「南方進出ノ態勢ヲ強化ス」に従って7月24日に南部仏印進駐を命令した。

日本政府は特に重要な天然資源もない南部仏印への進駐をどう考えていたのだろうか。万一米英蘭と戦争になった場合に、南方作戦(マレーシア、インドネシアの資源とシンガポールの確保)の必要性が漠然と意識されてはいたようだが、少なくとも南部仏印進駐は英蘭資源の確保のための南方作戦実行の決意の上に行われたものでなかった[37, p346]。つまり南部仏印進駐は南進論には含まれていなかった(当然戦争するつもりもなかった)と思われる。

政府は一つ間違えばソビエト連邦との戦争になる陸軍の関東軍特別演習を抑えるために、戦争の可能性が低いと考えた南進論を進めたとも言われている(NHKスペシャル選日本人はなぜ戦争へと向かったのか4 開戦・リーダーたちの迷走)。またフランスを降伏させたドイツが南部仏印に触手を伸ばす前に、軍部がそこを押さえておきたかったという可能性もある。いずれにしても国運をかけるような事情はなかった。

北部仏印進駐の場合は、善し悪しは別としてまだハノイを中心とする援蒋ルートの遮断という目的が対外的にもわかった。しかし、南部仏印は援蒋ルートとは遠く、そこへの進駐は外部から見ると南方の英蘭の資源獲得のためについに日本が動き出したと見るのが自然である。

日本軍の南部仏印進駐を受けて、8月1日に米国は有名な対日全面禁輸を発動した。ところが日本では、南部仏印進駐に対する反応として、米国による石油を含む全面禁輸を全く予想しておらず、軍中央部にとってはこれは一大衝撃となった(例えば[37]や南部仏印進駐に関わった陸軍省軍務課石井秋穂中佐の手記など)。海軍の永野修身軍令部総長も、石油の禁輸によってこのままでは軍艦が動かなくなるという強迫観念に迫られた上に、今だとまだ米国との戦力が均衡しているとして開戦へと態度を変えていく(NHK、新・ドキュメント、太平洋戦争1941)。戦争準備という面では既に大きな差がついていたのに・・・。

この想定外の米国の対日全面禁輸によって、よく知られているように、1941年9月6日に御前会議において(実質的な開戦を含む)帝国国策遂行要領を決定した(その後も和平の交渉は続けられた。開戦の最終決定は12月1日の御前会議)。

つまり、北進論を抑えるという国内事情によって南部仏印進駐を不用意に行ったために、想定外の石油の全面禁輸を喰らい(少なくともその名目を与えた)、代わりの石油を手に入れるために慌てて準備も十分でなかった戦争を開始したように見える。そのため、開戦時には最前線の軍備だけは整えたものの、後方の戦争基盤の整備はすべて泥縄であり、1943年以降あらゆる軍備の整備・補給が破綻していく。航空機、艦船は小戦力の小出し状態となり、優勢なアメリカ軍に各個撃破されていった。

日本人は一般に決定の先延ばしが好きである。何やかんや言いながら状況を引き延ばして決定的な決断をしないのは、日本人の意思決定のお家芸とも言って良いのではないか?それは今も昔も変わらないように思える。この時期、日本の最高意思決定機関である大本営政府連絡会議のメンバーを見ても、それほど決断力に富んだ人がいるようには見えない。それなのに、1941年9月に開戦という大きな決断を突然にしてしまったのはなぜなのか?

南部仏印進駐の前にもさまざまな経緯があることを承知しているが、こうやって改めて見ていくと、この想定外の全面禁輸により、何もせずとも毎日1万トン近い備蓄燃料が減っていくという恐ろしい事態となった。期限を切られて石油が日々減っていくという事態に否応なく早急な決断を迫られた。最終的にはこの南部仏印進駐によって米国が行った石油の対日全面禁輸が、日本が対英米戦争へ踏み出す「決定的な」役割を果たしたのではないかと思っている(それでも中国から撤兵するという米国の条件を呑む選択肢はあった)。

南部仏印へ進駐せずに米国による対日全面禁輸がなければ、例によってずるずると状況を眺めている間にドイツの対ソ攻勢の失敗(ドイツ軍は12月8日にモスクワ侵攻作戦を中止している:「独ソ戦における長期予報(4)」)という世界情勢の変化により、少なくとも対英米戦争に突入することはなかった ―― つまり南部仏印進駐をしなければ、開戦を決断する理由が日本首脳部にはなかった ―― のではないかと思っている。

近年、日本の著名な歴史学者、政治学者たちが集まって開戦前後の分析を行った本を読んだが、南部仏印進駐を戦争に至る多くの出来事の一つとして淡々と扱っていた(それとも南部仏印進駐は、専門家には太平洋戦争の原因として当たり前なのかもしれない)。そのために、アリューシャンの戦いからは話が遠いが、ここで南部仏印進駐についての私の考え方に少し触れてみた。私は歴史の専門家ではないし、歴史上の出来事には様々なことが複雑に関連していることが多い。そのため、南部仏印進駐のことは的を射てはいないかもしれないが、全く外れてもいないのではないかと思っている。


11-4 アメリカ軍の航空戦力に対する考え方

11.4.1 陸軍における航空戦力の考え方の発展

アメリカ軍がフォート・グレン基地から大型爆撃機によるキスカ島への空襲を直ちに開始できたように、アメリカ軍が大型爆撃機を含む多数の航空機を、開戦前の平時から莫大な予算を投じて揃えていたのは驚くべき事だと思っている。どうしてそれが可能だったのか少し見てみたい。

どの国でもそうであるが、第一次世界大戦後に航空戦力をどう位置づけるかで議論が行われた。アメリカでも例外ではなく、航空戦力を地上軍支援と位置づけるか、独立的に運用して遠隔地の爆撃を可能にするかで激烈な議論があった。その議論の特徴は、軍内で行われたのではなく、政府として軍や大統領などがさまざまな委員会を組織して、(国民の反応も見ながら)勧告を出させたことである。しかし、1920年代末には両陣営をそれぞれ支持する勧告が出て、両者の妥協が図られた時期もあった。

画期的だったのは、1931年に陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーと海軍作戦部長ヘンリー・プラット間で結ばれた非公式の合意だったと思われる。これは「陸軍航空隊(USA Air Corps)は陸軍の沿岸砲の射程を超えた沿岸防衛の責任を負う」というものだった [34]。これが陸軍の航空戦力は戦術的に地上戦を支援するという概念を超えて、後のアメリカ陸軍航空隊の基本理念「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」[35, p15]につながったと思われる。この基本理念が長距離大型爆撃機の開発を後押しした。ただし、後にマッカーサーの態度は航空戦力による地上支援に変わっている。

1930年代前半に航空隊戦術学校(Air Corps Tactical School)において、ハロルド・ジョージ少佐の指示の下で、彼を含む教官たち9人の「爆撃機マフィア」が「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」ための教義の開発と航空隊全体への普及に影響力を持つようになった [34]。沿岸に近づく手段を与えないためには、はるかかなたの敵基地をいち早く撃破する必要があり、それが敵の作戦基盤や生産基盤の破壊という発想へとつながっていった。それがB-10爆撃機の開発となり、その成功がXB-15(後のB-17)の開発へと発展していった。

しかし1935年になると、陸軍と海軍は「共同行動声明」によって陸軍航空隊の役割を移動する地上軍の支援だけに公式に限定してしまう。さらに1938年に米陸海軍合同委員会は、将来の紛争において長距離爆撃機の使用を予見することはできないという判断を下し、発注されていたB-17大型爆撃機の製造は全てキャンセルされた [34]。これらの政争により航空戦力の戦略的独立運用派は衰退し、伝説的な啓蒙家である航空隊長官ベンジャミン・フーロワ少将とウィリアム・ミッチェル少将(死後)は軍人としてのキャリアを絶たれた。海軍作戦部長プラットは退役し、後の航空軍司令ヘンリー・アーノルドは一時的に力を落とすこととなった。

この流れが変わったのはヨーロッパの雲行きによってだった。ルーズベルト大統領は、1939年1月12日に新たな戦争の脅威に対して最低3000機の航空機の増加を要求した。B-17の発注は1939年夏に再開され、発展型のB-17Eは1940年7月に512機が発注された [34]。ただし、いったんストップした生産ラインを再開させるには時間がかかる。この発注の爆撃機が完成して納入が始まったのは、1年4か月後の1941年11月からとなった。

また、1939年12月にはB-17より航続距離の長い4発の大型機B-24爆撃機が初飛行し、その後この大型爆撃機は約18500機も製造されることとなる。また超大型爆撃機B-29スーパーフォートレスの開発も同じ頃承認された [34]。B-29が戦場に出てくるのは1944年になってからのことなので、アメリカはきちんと先を見通していたことがわかる。

ドイツの侵攻によりフランスの崩壊が迫ると、1940年5月16日にルーズベルト大統領は、議会に対して年間50000機(陸軍航空隊へは36500機)の航空機の製造を求める演説を行った [34]。航空機だけでなく、1939年4月に策定された防空計画は新たに12000人のパイロットを含む50000人の航空要員養成が計画された。これは1941年3月14日にはさらに30,000人のパイロットの追加と100,000人の技術要員の追加が承認された [34]。ちなみに日本軍の操縦員数を示しておくと、あくまでその時点での一例であるが次の通り。1941年10月1日時点での海軍の総操縦員数は6154名、当年練習航空隊卒業者数が2740名 [36, p211]、日本陸軍の1939年の搭乗員養成計画では1941年までに将校と下士官と合わせて総操縦員数4646名となっている [37, p207]。

これらによって大量に養成・製造された大型爆撃機を含むアメリカの航空戦力は、1942年から1943年にかけて実戦に出てくることになる。このようにルーズベルト大統領はヨーロッパに目を向けていたものの、開戦に対する国民への説得をどうするかについては別にして、戦争についてはやる気満々だった。まさにこういう戦争準備が完成しつつある中で、日本はアメリカに開戦を強要した。日本軍が真珠湾を攻撃した際に、イギリス首相チャーチルがそれを聞いて、「これで戦争に勝った」と言ったというのもうなずける。なお、大戦中の航空戦力の成果を受けて戦後アメリカでは空軍が独立し、航空戦力の議論に決着がつくこととなった。


11.4.2 長距離大型爆撃機による制空権の確保

地上や海上での作戦を遂行するには制空権の確保が必須である。そして、その制空権を握るためには、敵航空機を空中で打ち落とすのは効率が悪いし条件が揃っていないと難しい。最善なのは爆撃で敵航空機を地上にいる間に破壊するか、あるいは航空機が飛び立てないように作戦基盤(できれば生産基盤)を破壊することである。

アメリカ軍はさまざまな議論を通して、制空権を握るにはまず長距離大型爆撃機が重要であることを理解していたと思う。アメリカでは、前節で述べたように各国で航空戦力の使い方がまだ定まっていない1935年という早い時期に、「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」という構想の下で重武装・重防備で航続距離の長い大型爆撃機B-17の導入を決定した [35, p15]。これは制空権確保の考えを突き詰めていった先の構想であり、もちろん大型爆撃機の整備だけで済むわけではないが、まずは制空権確保のための基盤となる構想であると思う。

そして、日本軍によるアメリカ領のアッツ島とキスカ島の占領に対する反撃は、アメリカ陸軍航空隊の「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」という理念にぴったりはまったものだった。言い方を変えれば、日本軍はアメリカ陸軍航空隊の大型爆撃機に理念通りの活躍の場を与えた。

この大型爆撃機は、太平洋全域において日本軍の作戦基盤に大きな脅威を与えた。日本軍は開戦後に、艦隊決戦に重要なトラック島を大型爆撃機から守るために、南半球のラバウルに進出した[38, p74]。そうしてみるとラバウルを空襲する大型爆撃機に悩まされ、今度はポートモレスビーに侵攻しようとしたし、フィジー・サモアの線で米豪を遮断しようとしてガダルカナル島を占領した。そこで日本軍は航空対峙戦に巻き込まれて消耗していった。

大型爆撃機は広範囲にわたって日本軍の航空作戦基盤を弱体化させ、また日本軍の艦船、地上軍の活動に大きな制約を課した。さらに大型爆撃機は偵察・哨戒機としても使われ、その長大な航続距離と堅牢な機体は太平洋広域に散らばった日本軍戦力についての情報収集に活躍しただけでなく、その強力な武装は両軍の勢力圏の境で多くの日本軍哨戒機を撃ち落としてアメリカ軍の動向を掴みづらくした。そうやって見ると、大型爆撃機がいかに大きな役割を果たしたかがわかる。

話は脱線するが、アメリカの航空戦略の正しさは欧州戦線でも遺憾なく証明されていると思う。大型爆撃機B-17やB-24による昼間爆撃は(イギリスの夜間爆撃もそうだが)、1943年末までドイツ空軍の苛烈な迎撃に晒されたが、その重防備はかろうじてその継続を可能にした。

同年末から戦闘機が全航程で爆撃機に随伴するようになると、ドイツ空軍はその迎撃の際に大打撃を蒙って稼働機が一気に減少した [39, p67-68]。さらに1944年に入ると軍事的生産基盤である精密加工工場や石油精製工場が爆撃で破壊された効果が徐々に出てきた。戦略爆撃による破壊の速度が、ドイツの軍事的生産基盤の回復速度を上回った。ドイツでは航空機を製造することも飛ばすこともだんだん困難になっていった。

ノルマンディ上陸作戦以降は、そうやって制空権を常時失ったドイツ軍は、機甲部隊を初めとする多くの地上軍や物資集積地を連合国軍の爆撃機や戦闘爆撃機で破壊されていき、上陸部隊の迅速な東進を許した。ヨーロッパでもアメリカ(とイギリス)の大型爆撃機が、その後の戦争の行方を大きく左右したことがわかる。

11.4.3 アメリカのレーダー開発

レーダーは第二次世界大戦の直前に発明され、戦争とともに発達した。レーダーによって、特に空と海において夜間や霧にかかわらず、状況の把握を可能にした。航空戦においても、レーダーによって、いつ、どこから、どの程度の規模の航空機が攻撃してくるかを、航空機の速度よりはるかに早く把握することがある程度可能になった。第二次世界大戦当時、飛んで来る航空機の進撃を止めるのは航空機にしか出来ない。レーダーを用いた迎撃は航空機の持つ攻撃性を緩和するのに不可欠の技術となった。

アメリカは戦前には必ずしもレーダー先進国ではなかったが、イギリスからマグネトロンなどの基礎技術の提供を受けて、1940年からMIT(マサチューセッツ工科大学)の輻射研究所(Radiation Laboratory)で4000名を投入してレーダーの開発研究を強力に推進した。その結果は極超短波(マイクロ波)を使った信頼性・安定性の高いレーダーやその表示器(PPI)の実用化につながった。また、その成果はVT信管など様々な電波兵器にも応用された。アメリカ軍のレーダーは、ダッチハーバー攻撃をはじめアリューシャンの戦いでも霧の中での索敵、艦船攻撃、上陸作戦などにおいて優れた無線通信技術とともに縦横に活躍している。なお、4.1.3で述べたように、日本でもキスカ島においてレーダーを用いた防空システムが作られていた。

11.4.4 アメリカ軍の高級指揮官

戦争の性格は最後は人で決まる。特に指揮官の判断は戦いを大きく左右する。第2章で述べたようにアラスカ防衛軍の司令官サイモン・バックナー・ジュニア少将は、元パイロットで航空戦力の扱いを熟知していた。また型にはまらない豪放磊落な人物だった。官僚主義を嫌う代わりに、常識から多少外れていても自分の信念を貫いて実行してしまう人物だった。彼はアラスカ防衛に航空戦力の整備を最優先させたが、彼はそれを一人で立案・実施したわけではない。彼の下には彼の先見の明を慕って飛行場建設を押し進める優れた幕僚たちがいた。なお、バックナーは後に第10軍の司令官として沖縄戦に参加して、そこで日本軍の砲弾に倒れることになる。

また第11航空軍爆撃隊の隊長クラスにもウィリアム・イーレクソン大佐のように、アリューシャンでの戦いに情熱を傾けて、キスカ島の攻撃方法や爆撃方法に工夫を凝らした人材がいた。彼もバックナーを慕っていた。イーレクソンは1942年6月12日の最初のキスカ島爆撃にB-17爆撃機に自ら乗って参加しただけでなく、出撃の際には自作の歌を歌って部下を励ましたという [2, p40]。彼は山を目印にした雲上からの推測爆撃など自ら斬新な航空攻撃方法を編み出して、アリューシャンの戦いで多くの勲章に輝いた。

また海軍でもアッツ島沖海戦で述べたように、北太平洋軍のマクモリス提督は冷静かつ不屈の闘将だった。アリューシャンでの戦いは辺境での地味なものだったが、彼らはこの戦いを自分の定めとして、そこに情熱を注いでいたように見える。彼らはアリューシャンでの戦いにおいて大胆な戦略・戦術を全精力を傾注して考案し、それを自ら実行する人々だった。


11-5 時間に対する考え方

11.5.1 戦力推移に関する日本海軍の判断

アメリカ海軍はヨーロッパとアジアの状況を受けて、1938年の第二次ヴィンソン案でアイオワ級戦艦3隻を含む26万5千トンの建造を決定し、ドイツの侵攻が明確になった1940年6月の第三次ヴィンソン案でさらに16万7千トンを追加した上で、翌月に両洋艦隊法(Naval Expansion Act)によって、さらに空母18隻、戦艦7隻、巡洋艦33隻、駆逐艦115隻、潜水艦43隻の合計132万5千トンの建造を決定していた。

これらの建造は、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦によって、さらに空母8隻、巡洋艦24隻、駆逐艦102隻、潜水艦54隻が追加された [40, p347]。また11.4.1でも述べたように、1939年には5800機だった航空機の生産は、1941年には1万9千機となり、1944年には9万6千機となることになる [41, p160]。航空機の生産が軌道に乗るようになるためには数年かかるため、これは1939年頃から始まった生産ラインの大規模な拡充の成果と思われる。

航空機の新しい機種の開発には数年かかる。また開発が終わっても製造までには、製造ラインの整備、生産工場や治具などのインフラストラクチャーの整備や工員の雇用・訓練、艤装関連装備の製作などの準備にかなりの時間がかかる。アメリカはドイツによる第二次世界大戦の勃発を受けて戦争準備に着手し、2年近くたってその途方もない兵器廠としての能力を発揮しはじめた。

そしてちょうどその頃に日本軍は真珠湾攻撃によってアメリカを戦争に引きずり込んだことになる。第二次世界大戦で使われた戦闘機は、P-47を除いて全て1941年12月の真珠湾攻撃より前に初飛行していたし、超大型爆撃機B-29、B-32、B-36は真珠湾攻撃前に既に開発が開始されていた [34]。11.4.1で述べたように、日本軍の真珠湾攻撃の頃にはアメリカはまさに戦争準備が整いつつあった。

アメリカの両洋艦隊法などの情報は、1941年5月には野村吉三郎駐米大使からの情報で日本に知らされていた。ところがこの情報は、戦史叢書「大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯」によると、「数年にして決定的な非勢となる運命にあるなら、むしろ早期の開戦をのぞましいとする選択にも根拠を与えるもの」として取り扱われた。実際に1941年9月5日に陸海軍総長による天皇への内奏の際に、永野軍令部総長は「若し徒らに時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるも最早如何ともなすこと能はざるなり」と天皇に説明している [42, p48]。

また開戦後1年近く経った1942年11月7日の大本営政府連絡会議でも、その世界情勢判断において「当分の間、彼我の戦勢は枢軸側に有利に進展すべきも、昭和18年後期以降に於ては時日の経過と共に彼我の物的国力の懸隔は大なるに至るべし」と述べられている [42, p93]。つまり、大本営は1943年後半には両軍の差が圧倒的に開くことを早くから認識していた。それにも関わらず、アリューシャンでの戦いでは大本営は漫然と時間を消耗したように見える。

11.5.2 アメリカ軍にとっての時間

一方で、軍備が潤沢になりつつあったアメリカ軍の方がむしろ時間を大切に考えていたように見える。最終的に勝つことには何の疑問もなかったろう。しかし時間が経つほど日本軍の防備が堅くなることは自明であったので、国民の支持を得られる最小限の被害で勝利するためには、軍にとって速やかな侵攻は重要だった。日本軍の「1943年秋までアメリカ軍は攻勢に出られない」という思い込みとは裏腹に、よく知られているように南太平洋では日本軍が1942年5月に占領したソロモン諸島ツラギを8月に奪回する準備を進め、7月初めに日本軍のガダルカナル島飛行場の建設を発見すると、わずか1か月という驚異的な準備期間でツラギ奪回作戦にガダルカナル島上陸を含めた。

西部アリューシャン方面においても、日本軍の6月のキスカ島とアッツ島占領を受けて、直ちに空爆を開始して日本軍の強化を防ぎつつ、8月初めにはキスカ島に艦砲射撃を行った。8月末にはアダック島上陸、翌1943年1月のアムチトカ島上陸と矢継ぎ早に手を打って航空基地を整備し、空爆を強化した。その上で5月にアッツ島を奪還し、8月にはキスカ島に上陸した。キスカ島の飛行場は5月には完全完成しており、アッツ島上陸が1か月遅れていれば、キスカ島に航空機が進出していた可能性が高い。そうすれば連合国軍はそちらの対応も迫られただろう。連合国軍の進撃スピードは同方面の日本軍に全く余裕を与えなかったことがわかる。一方で、圧倒的な海・空軍力が整った1943年11月から中部太平洋での本格的な進撃を開始した。その時には、日本軍には海・空ともにアメリカ軍に匹敵する戦力はなかった。

(おわりに)

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