3-1 北方での日本海軍の指揮命令系統
アリューシャン方面全般での日本海軍の命令系統を確認しておく。大命が発せられると細部は軍令部総長より指示され、これに基づき聯合艦隊司令長官は日本の東方を担当する第五艦隊司令長官に命令、第五艦隊司令長官は個別の部隊や艦隊の司令に命令、という指揮系統によって実施される [6, p431-432]。ただし聯合艦隊司令部の意向は軍令部にかなり影響を与えたようである。なおここでアリューシャン作戦(AL作戦)とは、ダッチハーバー攻撃からアッツ島とキスカ島の占領までを指すこととする。
3-2 北太平洋の哨戒
3-2-1 聯合艦隊
アリューシャン域での日本軍の活動を担ったのは日本海軍である。日本海軍の主力艦隊は、聯合艦隊だった。聯合艦隊とは日本海軍の複数の艦隊を統括する組織だった。本来は戦時のみの組織で、常設ではなかった。しかし、ワシントン海軍軍縮条約の締結を受けて、縮小された艦隊の技術を上げるため、1922年に聯合艦隊は常設化された。最初は第1艦隊と第2艦隊だけだったが、その後徐々に艦隊が増設された。日中戦争のために、支那方面艦隊が聯合艦隊とは別に独立して設立された。第二次世界大戦中は、支那方面艦隊以外の艦隊は概ね聯合艦隊に編入された。
3-2-2 第五艦隊
1941年の独ソ開戦によってソビエト連邦は連合国側の一員となり、日ソ中立条約はあったものの北方での日本の国際情勢は大きく変化した。開戦後にアリューシャン方面での戦いを行った第五艦隊は、ソビエト連邦を仮想敵とした陸軍の「関東軍特種演習(関特演)」に協力する艦隊として、1941年7月に舞鶴を根拠地として編成された。第五艦隊の司令長官は細萱戊子郎中将であり、艦隊は軽巡洋艦「多摩」を旗艦として、軽巡洋艦「木曾」、水雷艇「鷺」、「鳩」の4隻からなった [4, p40]。しかし、その後日ソ開戦の可能性はなくなったため、第五艦隊は日本本土東方海面の警戒と小笠原諸島の防備と海上交通保護を行うことになった [4, p42]。
連合国との開戦の頃から第五艦隊は強化されて、特設水上機母艦「君川丸」、特設巡洋艦「粟田丸」、「浅香丸」、若干の掃海隊と駆潜艇が配属された [4, p62]。特設巡洋艦とは大型貨物船を徴用したもので、巡洋艦という名前は付いているが、実態としては貨物船に多少の応急の武装を施しただけのものだった。北太平洋は北千島から南鳥島まで広大な間口を広げており、しかも島の少ないこの広大な海域の哨戒は容易ではなく、アメリカ軍の機動部隊はそのどこからでも東日本を奇襲攻撃することが可能だった。第五艦隊は1942年2月から漁船などを利用した哨戒部隊を編成して北西太平洋の哨戒を行っていたが [4, p205]、アメリカ海軍の機動部隊がもしこの方面から来襲すると、その発見は非常に困難であることが予想された。
第五艦隊ではこの北太平洋の哨戒の困難性を少しでも緩和するため、1942年1月末頃から日本軍が西部アリューシャン列島を占領して哨戒線を前進させることを提唱するようになった [4, p206]。また、1942年3月のアメリカ海軍の機動部隊による南鳥島空襲は、日本軍全体の北太平洋海域の関心を高めた [4, p206]。しかし、海軍軍令部が聯合艦隊司令部にアッツ島とキスカ島を占領するアリューシャン作戦(AL作戦)を要望するに至った経緯は明らかでない [4, p206]。経緯に関して関係者による戦後の回想は一致していないが、海軍軍令部はミッドウェー作戦を検討するに当たり、第五艦隊の考え方を受けてAL作戦の必要性を付随的に認めたようである。
3-3 アリューシャン作戦(AL作戦)の目的
作戦は当然目的を伴う。AL作戦では作戦の目的の立て方がその後の両島の保持・防衛に大きな影響となって表れたため、その目的を詳しく見てみる。3.3.1 当初の目的
関係者の回想を総合すると、海軍軍令部ではアッツ島とキスカ島を占領するAL作戦の目的の候補として、(1)本土攻撃を企図する米航空機の基地としての利用の阻止、(2)米機動部隊の本土来襲に対する哨戒線の前進、(3)米ソ連絡の遮断、を考えていた [4, p207]。これらの目的は絞られることはなく、冬季が来るまでの占領予定だった。一方で聯合艦隊司令部では、「米国が大型機をアリューシャン西部に進め、わが本土を空襲する企図を先手を打って押さえるとともに、敵の北方進攻路を未然に防ぐのが目的」と考えていた [4, p207]。3.3.2 ドゥーリトル爆撃のAL作戦への影響
しかしながら、1942年4月18日のアメリカ軍のドゥーリトル爆撃隊による東方海上からの日本空襲が、AL作戦に大きな影響を与えた。当時、 B-25双発爆撃機からなるドゥーリトル爆撃隊が、どこからやってきたのかは全く不明だった。その推定出発基地として、アメリカ領のアリューシャン列島も候補の一つになった。日本では当時の常識として、空母から双発爆撃機を発進させたとは考えられなかった。このアメリカの旺盛な冒険心が日本に混乱をもたらした。3.3.3 発令された作戦内容
1942年5月5日に作戦は発令された。AL作戦に関する大海令、大海指、陸海軍中央協定は以下のようになっている [4, p209-211]。陸海軍中央協定での作戦の目的はわかりづらいが、敵機動部隊への哨戒だけでなく、陸上航空基地の進出を防ぐという趣旨も含まれていることになっている。なお、書かれているように陸海軍中央協定では占領は冬季までとなっていた。---------------------------------------------------------------------------------
大海令第十八号 昭和十七年五月五日
一 聯合艦隊司令長官ハ陸軍卜協カシ「AF」及「AO」西部要地ヲ攻略スベシ
二 細項二関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム
(注、AFはミッドウェー、AOはアリューシャンを指す)
大海指第九十四号 昭和十七年五月五日
大海令第十八号ニ依ル作戦ハ別冊「AF」作戦ニ関スル陸海軍中央協定竝ニ「AO」作戦ニ関スル陸海軍中央協定に準拠スベシ
「アリューシャン」群島作戦ニ関スル陸海軍中央協定
一 作戦ノ目的
「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵ノ機動竝ニ航空進攻作戦ヲ困離ナラシムルニアリ
ニ 作戦方針
陸海軍協同シテ「キスカ」「アッツ」ヲ攻略スルト共ニ「アダック」ノ軍事施設ヲ破壊ス
三 作戦要領
(一)陸海軍協同シ先ヅ「アダック」ヲ攻略シ要地ノ軍事施設ヲ破壊撤収シ 次デ陸軍部隊ハ「アッツ」ヲ 海軍部隊ハ「キスカ」ヲ攻略シ 冬季迄之ヲ確保ス
(二)海軍ハ有カナル部隊ヲ以テ攻略部隊ヲ支援スルト共ニ上陸前母艦航空部隊ヲ以テ「ダッチハーバー」方面ヲ空襲シ主トシテ所在航空兵力ヲ撃破ス
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3-4 AL作戦に対する日米の準備
3.4.1 アメリカ軍
アメリカではワシントンの海軍作戦部の通信部(OP-20-G) が日本軍の暗号解読を行っていた。日本海軍のD暗号(JN-25B)は4月1日に改訂されるはずだったが遅れていた(結局改訂されたのは5月27日)。イギリスがドイツのエニグマ暗号をまるごと解読していたのとは対照的に、アメリカは日本海軍の暗号を通信解析によって解読しようとしていた(沈んだ日本の潜水艦から引き揚げた暗号書の利用もしていた)。アメリカ海軍のアーネスト・キング海軍作戦部長は、AL作戦による日本軍を迎え撃つために5月17日に北太平洋軍(North Pacific Force)を設立し、その司令長官にロバート・テオバルド少将を据えてアラスカ防衛のためのすべての陸軍、海軍とカナダ軍の指揮権を与えた。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将は5月21日にテア任務部隊(Task Force Tare)を編成した。艦隊名は日本軍に秘匿するために司令官であるテオバルド少将の名前を模して命名された [8, p3]。アラスカ方面の海軍戦力は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦11隻、潜水艦6隻、水上機母艦2隻、その他4隻、沿岸警備艇10隻と哨戒艇14隻から成った。また、戦闘機94機、双発爆撃機42機、PBYカタリナ飛行艇23機などが配備された [8, p3]。
陸軍のアラスカ防衛軍は1942年6月1日には約45000名まで拡充された [2, p18]。ダッチハーバー、コジアク、シツカ砲台(アラスカ湾南西)には、陸軍によって合わせて6000名が派兵された [2, p18]。同じ時期に、アンカレッジとコジアクに対空レーダー(SCR-270とSCR-271)が設置された。
SCR-270レーダー
https://en.wikipedia.org/wiki/SCR-270
前述したように、アメリカ陸軍航空隊は1942年5月にアラスカから西に突き出した長い弧状のアリューシャン半島の先のコールド・ベイ(ダッチハーバーの北東300 km)とダッチハーバーのあるウナラスカ島の西隣のウムナク島のフォート・グレン(ダッチハーバーの南西約120 km)に秘密裏に航空基地を完成させた [9]。日本軍によるアラスカ方面への攻撃の可能性が出てきたため、フォート・グレン航空基地は、工兵隊が急いで8万個のはめ込み式の鉄板を敷き詰めて滑走路を作った [9]。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fort_Glenn_Army_Airfield_1942.jpg
アラスカ方面に配備された航空機は、戦闘機94機、4発爆撃機7機、双発爆撃機42機であり、その中には初めて配備された双発双胴のP-38戦闘機や、レーダー装備のLB-30(B-24爆撃機のイギリス供与型)とB-17爆撃機それぞれ2機も含まれていた [2, p19]。ニミッツは、AL作戦を日本軍に消耗を強いる好機と捉えていた [2, p25]。アメリカ統合参謀本部は、アラスカ防衛軍を北太平洋軍の配下に置いたが、きまじめな北太平洋軍司令官テオバルドと豪放なアラスカ防衛軍司令官バックナーの二人はそりが合わず、その後の摩擦のもととなった。これは北太平洋軍司令官が1943年1月にテオバルド少将からキンケイド少将に代わるまで続いた。
3.4.2 日本軍
日本海軍は、ダッチハーバーに飛行艇24機、陸軍機10~20機、海兵隊700名の兵力が存在していると推定した [4, p242]。日本軍はダッチハーバーをアメリカ軍のアリューシャン方面の防備の拠点とみていたため、AL作戦時にここを叩いておく必要があった。この方面には、ここ以外にはアダック島とキスカ島に基地を建設中と判断していたが、ダッチハーバー以外に強力な地上兵力はないと考えていた。実際にはアダック島に軍事施設はなかったが、日本軍はAL作戦によってアダック島の施設を破壊すれば、アッツ島とキスカ島の攻略は容易であろうと考えていた [4, p241]。3-5 AL作戦の開始
3.5.1 日本軍の攻撃計画
アリューシャン作戦(AL作戦)でのダッチハーバー攻撃は、ミッドウェー作戦と連携して、ミッドウェー島攻撃より1日前に開始されることになっていた。AL作戦を担う北方部隊の構成は以下のとおりである [7, p16]。なお、北方部隊とは軍隊区分による呼称である。軍隊区分とは作戦に適合するように部隊を一時的に組織した場合の呼称であり、北方部隊とはここでは概ね第五艦隊を核とした部隊を意味する。- 主隊(司令長官細萱戊子郎中将直率)重巡洋艦「那智」、駆逐艦「若葉」、「初春」
- 第二機動部隊(司令官 角田覚治少将)空母「隼鷹」、「龍驤」、重巡洋艦「高雄」、「摩耶」、駆逐艦「曙」、「潮」、「漣」、給油艦「定洋丸」
- アッツ攻略部隊(司令官 大野武二大佐)軽巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「初霜」、「子ノ日」、特設砲艦「まがね丸」、輸送船「衣笠丸」
- キスカ攻略部隊(司令官 大森仙太郎少将)軽巡洋艦「木曽」、「多摩」、駆逐艦「電」、「雷」、「響」、「暁」、「帆風」、特設巡洋艦「浅香丸」、駆潜艇3隻(25、26、27号艇)、輸送船「白山丸」、「球磨川丸」。特設巡洋艦「粟田丸」、その他「快鳳丸」、「俊鶻丸(しゅんこつまる)」
- 水上機部隊(司令官 宇宿主一大佐)水上機母艦「君川丸」、駆逐艦「汐風」(アッツ攻略部隊支援)
- 潜水艦部隊(司令官 山崎重暉少将)潜水艦「伊九」、「伊十五」、「伊十七」、「伊十九」、「伊二十五」、「伊二十六」
- 基地航空部隊(司令官 伊東祐満中佐)東港空支隊(飛行艇6)、水上機母艦「神津丸」など
戦史叢書第43巻「ミッドウェー海戦」の各部隊の進撃行動図をもとに作成
3.5.2 アメリカ軍の迎撃計画
暗号解読により日本軍によるダッチハーバー攻撃を知ったアメリカ太平洋軍は、1942年5月27日(米国時間)に、北太平洋軍司令長官テオバルド少将率いる北太平洋艦隊を真珠湾からコジアクに向かわせた。彼は太平洋軍から空襲だけという日本軍の意図を知らされていたものの(情報源は秘匿された)、他の多くの提督と同様にテオバルドは暗号解読を信用していなかったため、日本軍がダッチハーバーに上陸することを危惧した。作戦に直接脅威になっている基地ならばともかく、はるか遠くの根拠地を1回だけ空襲しても、航空戦力はすぐに補充が可能なので一時的な効果しかない。わざわざ空襲に来るのであるから航空戦力を無力化した間に上陸するのではないかとテオバルドが考えたのも無理はなかった。彼はダッチハーバー西方のマクシン湾に上陸阻止のために駆逐艦9隻を配置した [2, p24]。そして自らは上陸時の反撃のために北太平洋軍の艦隊を率いてダッチハーバーから1000 km近く離れたコジアクの南東に待機した。なお潜水艦6隻は担当海域へと散って行った。
6月1日以降、アラスカのノームからシアトル沿岸にかけての海岸全域で24時間の厳戒態勢がとられ [8, p4]、全ての哨戒機と哨戒艇20隻が北太平洋とベーリング海で交代で哨戒に当たった [10, p27]。日本軍への反撃のために、コールド・ベイ基地にはP-40戦闘機12機とB-26双発爆撃機6機が、フォート・グレン基地にはP-40戦闘機6機とB-26爆撃機6機がそれぞれ配備された [2, p26]。
6月3日に、日本軍の空母2隻がキスカ島の南640 kmにいることが報じられ、第11航空軍の航空機全てがコールド・ベイ基地とフォート・グレン基地に集められた [8, p4]。奇襲という日本軍の期待とは裏腹に、アメリカ軍は暗号解読によって日本の攻撃を事前に察知し、ミッドウェー方面と同様にダッチハーバー方面においても相応の攻撃態勢を整えていた。
3.5.3 6月4日の攻撃
AL作戦においてダッチハーバー空襲を計画している第二機動部隊は、荒天と霧に悩まされたが、そのおかげでアメリカ軍に追跡されずに予定どおり進撃した。同部隊は6月3日2300時ころダッチハーバーの南西約330 km地点において、空母「龍驤」から零式艦上戦闘機(零戦)3機と九七式艦上攻撃機(艦攻)14機による第一次攻撃隊を発進させた。彼らは翌6月4日0040時ダッチハーバーに接近した [4, p245-246]。ほぼ同時刻にダッチハーバーに停泊していた水上機母艦「ギリス」のレーダーが接近する日本機を捉えた [8, p4]。直ちに警報が出され、コールド・ベイ基地のP-40戦闘機が迎撃のために緊急発進した。無線の不調によりフォート・グレン基地にはこの警報は届かなかった [2, p29]。
0100頃ダッチハーバーに到着した零戦は、離水しようとしていたPBYカタリナ飛行艇2機と重油クンクを銃撃した。PBYカタリナ飛行艇1機は離水の途中で撃墜されたが、もう1機はかろうじて雲の中に逃げおおせた [2, p29]。同じ頃、艦攻4機がダッチハーバー基地上空に侵入し、投下した爆弾は兵舎や倉庫に命中して25名が死亡しほぼ同数が負傷した [8, p4]。別な艦攻3機が投下した爆弾は基地からはそれたが、塹壕にいた兵士を殺傷し、艦攻1機の爆弾は無線室をかすめて無線中継施設を破壊した。残りの艦攻の爆弾は、望楼やトラックなどに命中し、数名の水兵を死傷者させた [2, p32]。
約30分間の攻撃の後に、第一次攻撃隊は帰途に就いた。そのうちの4機がダッチハーバー西方でアメリカ軍のP-40戦闘機と交戦したが、全機無事に帰着した [4, p246]。コールド・ベイ基地からの迎撃機は、日本機が去った10分後にダッチハーバー上空に到着したため、戦闘に間に合わなかった [2, p32]。一方で空母「隼鷹」からは第一次攻撃隊として零戦13機と九九式艦上爆撃機(艦爆)15機が発進した。零戦2機だけは「龍驤」隊に合同して軍事施設を銃撃したものの、艦爆を含む他の機は低層の雲による天侯不良のため引き返した [4, p246]。この「隼鷹」隊の多くが天候不良で引き返したため、第二機動部隊司令部ではダッチハーバーに対して十分な打撃をあげることができなかったと判断した。
「龍驤」隊は、途中でダッチハーバー西方のマクシン湾に駆逐艦5隻を発見して通報した。そのため第二機動部隊司令官は残りの使用可能機全力をもって駆逐艦群に対する第二次攻撃を実施することにした [4, p246]。「龍驤」 の零戦9機、艦攻17機、空母「隼鷹」の零戦6機、艦爆15機、重巡洋艦「高雄」と「摩耶」から九五式水偵それぞれ2機が0600時頃発進した。しかし広がっていた低層雲によって攻撃隊は目標を見つけられず、水偵を除いて全機引き返した [4, p246]。低空での攻撃が得意な水偵2機が雲下に降りて目標を攻撃しようとした。そのうち1機がアメリカ軍のP-40戦闘機と交戦して自爆し、もう1機は被弾して艦隊の近くに不時着水した [4, p246]。引き返した攻撃隊は、たまたまダッチハーバー西方のフォート・グレン基地付近上空を通過したため、P-40戦闘機2機の迎撃を受けた [10, p29]。第一次、第二次攻撃の両方ともダッチハーバー西方でP-40戦闘機の迎撃を受けたため、日本軍はこの付近のどこかにアメリカ軍の陸上航空基地があると判断した [4, p246]。
一方で、アメリカ軍も第二機動部隊に攻撃をかけた。0500時頃にPBYカタリナ飛行艇1機が第二機動部隊に接近しようとしたが、上空護衛の戦闘機に撃墜された。助かった乗員は重巡洋艦「高雄」に救助され捕虜となった。第二機動部隊への接近に成功した別なPBYカタリナ飛行艇は撃墜されたものの、その前に艦隊の位置を打電した。しかしながら、この位置情報はダッチハーバーで受信されなかった [2, p33]。この乗員はアメリカ海軍の沿岸警備艇に救助された。
第二機動部隊は、翌日6月5日はアダック島を空襲する予定になっており、いったんアダック島へ向かった。しかし第二機動部隊司令部は、アダック島付近の天候が悪そうなことと、ダッチハーバーの戦果が不十分で付近の航空基地を攻撃する必要があると判断した。第二機動部隊は途中で作戦を変更し、反転して再びダッチハーバーへと向かった [4, p247]。第二機動部隊の参謀は、今度はアメリカ軍の反撃を覚悟したが、艦隊付近は天候が悪いため雲上から爆撃では精度が悪いだろうと考えていた [4, p247]。
3.5.4 6月5日の攻撃
6月5日の朝は雨でダッチハーバー上空は曇に覆われていたが、天候は回復傾向にあった。0500時頃、哨戒を行っていたPBYカタリナ飛行艇が第二機動部隊を発見して位置を報告した。その後、この飛行艇は魚雷攻撃を行おうとしたが、片方のエンジンが被弾したため断念した [2, p33]。この報告によりフォート・グレン基地から6機の雷装したB-26爆撃機が攻撃に向かった。しかし、B-26爆撃機を艦隊までレーダー誘導しようとしたPBYカタリナ飛行艇は艦隊上空の零戦に撃墜された上に、攻撃隊は霧と雲に邪魔されて艦隊を発見出来なかった。コールド・ベイ基地からも6機の雷装したB-26爆撃機が攻撃に向かった。この攻撃隊は第二機動部隊を発見し、数機は空母「龍驤」を雷撃したが魚雷は回避された。雷撃の困難さを悟った攻撃隊指揮官機は戦法を変えて、魚雷を空中からミサイルのように投下したが、魚雷は荒波で激しく上下する「龍驤」の甲板上を通り過ぎて200 m先の海上に落ちた [2, p33]。
空母「龍驤」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%A9%A4_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_aircraft_carrier_Ry%C5%ABj%C5%8D_underway_on_6_September_1934.jpg
午後にはレーダーを装備した2機のB-17爆撃機が第二機動部隊を発見した。1機が霧の合間を衝いて高度300 mから爆撃したが命中しなかった。もう1機は重巡洋艦「高雄」に撃墜された。フォート・グレン基地から再び6機のB-26爆撃機が攻撃に向かい、空母「龍驤」と「隼鷹」を雷撃したが、命中しなかった [2, p33]。このようにミッドウェー方面だけでなく、ダッチハーバー方面でもアメリカ軍の反撃は勇敢で激しいものだった。
1140時に空母「龍驤」から零戦6機、艦攻9機がダッチハーバー攻撃のために発進した。1150時には空母「隼鷹」から零戦5機、艦爆11機が発進した [4, p247]。ダッチハーバーのあるウナラスカ島東端の岬の一つであるフィッシャーマンズ岬にある陸軍の気象観測所は、1237時に日本軍の攻撃隊がエッグ島近くでPBYカタリナ飛行艇を撃墜した後、艦爆3機がダッチハーバーに向かったことを報告した [2, p34]。
艦爆隊は1300時頃雲の隙間から急降下爆撃を行い、ダッチハーバー基地の倉庫、格納庫と新造されて満タンだった4基の石油タンクを破壊した [8, p13]。また港に係留されて発電機と宿舎として使われていた古い商船「ノースウェスタン」に爆弾が命中し、火災は近くの倉庫に燃え移ったが、発電機と宿舎の機能は失われなかった [2, p34]。艦爆隊は1340時(現地では夕刻)に零戦隊と合同して空母へ向かった [4, p247]。
一方で、艦攻隊は1320時頃ダッチハーバーの海軍基地を爆撃し、艦攻4機の爆弾の1個は飛行艇格納庫に穴を開け、別な爆弾は高射機銃陣地に命中して2名が死亡した。残りの艦攻5機の爆弾は高射機銃陣地に命中して4名が死亡した [2, p34]。
この攻撃で地上を銃撃していた零戦1機が被弾して、ダッチハーバー東のアクタン島の平原に不時着しようとした。しかし、湿地の泥に脚を取られてひっくり返って搭乗員は死亡した。後にこの機体はアメリカ軍にほぼ無傷で接収され、零戦の性能が調査されて後の空戦方法に大きな影響を与えることになった。
日本の攻撃隊は帰途時に空中で隊形を整えるために、ウナラスカ島南西端上空1000 mを合流地点としていた [11, p114]。この合流地点は、ウムナク島のフォート・グレン航空基地とウムナク海峡をはさんで目と鼻の先にあった。零戦隊はフォート・グレン航空基地を発見してその海岸施設を機銃掃射したが、同基地のP-40戦闘機8機が迎撃してきて上空で交戦し、艦爆2機が撃墜された [8, p13]。アメリカ軍もP-40戦闘機2機を失った [2, p34]。
アメリカ軍は、帰投中に燃料が尽きかけた日本機が味方艦隊をさかんに無線で呼び出しているのを受信したため、多数の日本機が海上に墜落したと推定した [8, p13]。実際に艦爆2機が帰投時に夕闇の霧の中で艦隊を見つけられなくなっていた。通信電波から哨戒中と思われるアメリカ軍の大型爆撃機が艦隊のすぐ近くにいることがわかっており、艦隊は探照灯をつけることが出来なかった。燃料が尽きた艦爆2機は自爆した [11, p124]。北太平洋軍の司令官テオバルド少将は、コジアクの南東に待機した艦隊にいたため無線封止で指揮が執れず、5日の午後にコジアクに戻ったが主な戦いは既に終わっていた。アメリカ軍は大規模な哨戒態勢と反撃態勢を構築していたが、雲と霧による天候と通信の不調により日本軍の第二機動部隊の位置を正確に追跡することが出来ずに、攻撃の成果を上げることができなかった。
アメリカ軍の最終的な被害は、爆撃で68名が死亡、64名が負傷した。乗員は25名が死亡したか捕虜となった。航空機はB-26爆撃機2機、P-40戦闘機2機、B-17爆撃機1機、LB-30哨戒機1機、PBYカタリナ飛行艇4機が撃墜され2機が損傷した。ダッチハーバーの施設の被害は、せっかく新設した石油タンクが破壊された以外は、大きな被害はなかった [2, p34]。
せっかくはるか東方まで遠征してのダッチハーバー空襲だったが、めぼしい成果はなかった。5月下旬の偵察でアダック島に軍事施設がないことがわかった時点で、アッツ島とキスカ島上陸時に陸上と海上からの大きな反撃がないことは予想できたと思われる。そうであれば、空母2隻とその搭載機80機以上を投入したダッチハーバー攻撃の必要性はなかった。石油タンクの破壊には成功したが、後述するように8月初めには北太平洋艦隊はキスカ島を砲撃しており、艦隊行動に大きな影響があったようには見えない。
日本軍の攻撃を受けて、6月5日にP-38「ライトニング」戦闘機がフォート・グレン航空基地に派遣され、さらにB-24爆撃機6機、A-29ハドソン爆撃機8機、B-17爆撃機4機がアメリカ本土からアラスカに集められた [2, p36]。アメリカ軍のP-38戦闘機は、本来は高高度の迎撃戦闘機として設計されたが、その双発エンジンによる長い航続距離は、アリューシャン列島付近の作戦に適していた。
この陸軍戦闘機は南太平洋の諸島を巡る戦いでも活躍することとなった。それまでの陸軍のP-39、P-40戦闘機は航続距離が比較的短く、そのため海洋上の戦闘には制約が多かった。P-38戦闘機の長い航続距離はそれを軽減した。よく知られているように、ガダルカナル島から長躯、ブイン上空で山本五十六搭乗機を待ち伏せして撃墜したのはP-38である。戦闘機の開発開始から配備まで4~5年はかかる。この戦闘機は航続距離の長いP-47、P-51単発戦闘機が出てくるまでの中継ぎの役割を見事に果たし、「間に合った」戦闘機となった。アメリカ陸軍の戦闘機開発思想と計画が成功した例の一つかもしれない。
P-38戦闘機の初めての戦果は、アリューシャン列島上空で8月4日に哨戒中に遭遇した九七式大艇の撃墜とされている [2, p52]。しかし大量養成されたパイロットはまだ十分な航法訓練を受けていなかった上に、アリューシャン列島には航法支援設備がほとんどなかったため、悪天候による犠牲も多かった。最初に配属された30名のパイロットの内、1年後に残っていた者は半数だけだった [10, p49]。
3.5.5 AL作戦(アッツ島とキスカ島の占領)の再興
聯合艦隊司令部は、ミッドウェーで第一機動部隊が攻撃を受けつつある状況を受けて、6月5日1010時にAL作戦を一時延期することを発令した [4, p249]。これに対しミッドウェーの状況を知らない北方部隊司令部は、予定通り作戦を実施したい旨を具申したところ、聯合艦隊司令部は1430時にアッツ島とキスカ島の攻略の実施を許可した。これは山本聯合艦隊司令長官が、ミッドウェー方面の戦闘をまだ有利に進めることが出来ると判断したためである[43, p543]。しかし第一機動部隊の空母が全滅したことが判明した2355時に、聯合艦隊司令部はAL作戦の延期を発令した [4, p250]。この延期というのは実質中止の意味だったであろう。
一方で、山本聯合艦隊長官はミッドウェー方面での不利な戦況にともなって、アメリカ軍が北方方面で反撃に出ることを懸念し始めていた[43, p543]。聯合艦隊司令部はAL作戦再興によって当初の目的通り、敵航空基地の前進阻止を考えた [4, p251]。翌6日1130時に、聯合艦隊参謀長から北方部隊の中澤佑参謀長宛に、北方部隊の戦力を増強した上でAL作戦を継続するかどうかの意見を伺う電報が来た。第五艦隊司令部は、ミッドウェー作戦が不成功となったからには西部アリューシャン列島だけを攻略しても哨戒線の前進には効果がないと考えていた [4, p250]。しかし、北方部隊細萱司令長官は聯合艦隊司令部の意向を受けて、1210時にキスカ島とアッツ島の占領行動の実施を発令した [43, p544]。戦史叢書「北東方面海軍作戦」にも「アリューシャン攻略作戦は聯合艦隊司令長官の決心によって再興された意図が明瞭である。」 [4, p250]と述べられている。
その後海軍軍令部は大本営陸軍部と打ち合わせを行った上で、1630時にAL作戦(アッツ島とキスカ島の攻略)はこの際なるべく決行すべきという追認の命令を発した [4, p251]。ただし、アダック島の攻撃は、同島に重要な軍事施設がないという理由で中止された。アダック島を攻撃しない作戦計画はオプションとして予め立てられていた。
聯合艦隊司令部はアメリカ海軍との航空戦力が逆転したために、AL作戦の継続に不安を持った。しかし、アリューシャン方面は霧になることが多く航空兵力の十分な活動は難しいことが多いので、高速な水上部隊、潜水部隊を投入すれば有利な戦闘を期待できると判断した。また聯合艦隊は、アメリカ機動部隊が出てくれば、アリューシャン方面においてミッドウェーの仇討ちができるかも知れないとも考えた[43, p545]。
聯合艦隊司令部は、南下させていた第二機動部隊を北方部隊に戻すとともに、増援部隊として空母「瑞鳳」、第3戦隊の戦艦「金剛」、「比叡」と第8戦隊の重巡洋艦「利根」、「筑摩」、第四駆逐隊(駆逐艦「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」)、第十三潜水隊(「伊百二十一」、「伊百二十二」、「伊百二十三」)、特設水上機母艦「神川丸」を北方部隊に編入した[43, p545]。北方部隊とその増援部隊はアメリカ艦隊の来襲を予期してアッツ島の南約200 km(51°N, 174°E)へ向かい、6日にキスカ島とアッツ島への上陸を行っている間その海域で待機した [4, p253]。11日に海軍は、通信状況によりアメリカ軍の機動部隊がキスカ島に向けて北上していると判断して注意電を発した[43, p552]。
3-6 アッツ島とキスカ島の占領
3.6.1 アッツ島への上陸
アッツ島攻略部隊は6月7日夜にアッツ島のホルツ湾(北海湾)外に到着し、特設運送船「衣笠丸」に乗船した北海支隊は8日0010時(払暁)に濃霧の中で上陸した [3, p116]。戦史叢書「北東方面陸軍作戦」には「予想しない山岳が重畳し連大隊砲は一門も携行することができず、霧中の方向判定が困難で、且つ地図も不正確なので進路を誤ることがしばしばであった。」と記されている [3, p117]。6月とはいえまだかなり雪が残っており、それを踏みしめながらの進軍となった [12]。急峻な地形での一面の残雪をかきわけて進軍し、0730時にチチャゴフ湾(熱田湾)を占領した。日本軍は最終的に歩兵1個大隊(歩兵第26連隊第1大隊)、工兵1個中隊(工兵第7連隊の1中隊)、海軍通信隊など北海支隊約1143名が上陸した [7, p18]。
アッツ島にはアメリカ軍兵士は配置されておらず、37名のアリュート人とアメリカ人の無線技士夫妻の2人を保護した [4, p255]。なお、アメリカ側の資料と「キスカ戦記」ではアッツ島に住んでいたアリュート人は42名となっている [2, p37] [7, p412]。無線技士夫妻は自殺を図ったが妻は命を取り留め、捕虜として日本に送られた [7, p413]。彼女は戦争期間を通じて唯一のアメリカ民間人の捕虜となった。日本軍はアリュート人の居住地との境を決めて、彼らとは友好的に暮らしていた [7, p414]。日本軍は8月末にアッツ島を放棄した際に、アリュート人を連れてキスカ島へ移った。最終的にアリュート人はキスカ島から小樽に移住させられた [7, p413]。しかし、慣れない日本の風土で大勢が亡くなり、終戦時に生きていたアリュート人は24名だけだった [2, p37]。
アッツ島上陸の際に、輸送船「衣笠丸」からの物資(食糧3か月分)の揚陸には1週間は必要と見込まれたが、北方部隊は上陸3日後の10日には「衣笠丸」に帰投命令を出した [3, p119]。この理由は書かれていない。アッツ島には6月12日にPBYカタリナ飛行艇が偵察を行っただけで、空襲はなかった。アッツ島へ燃料(石炭)の補給を行っていた油槽船「日産丸」は、10日にキスカ島へ回航して航空燃料等を同島に補給することになった。これによって「日産丸」はキスカ湾で爆撃されることとなる。
3.6.2 キスカ島への上陸
キスカ島攻略部隊を乗せた輸送船「白山丸」と「球磨川丸」は、6月7日2227時にキスカ湾北の白糸湾(レイナルド・コーブ)付近に到着して上陸を開始した。最終的に3個中隊・高射砲隊・見張隊(電波探信員)と主計・医務・通信などの支援部隊からなる海軍第三特別陸戦隊550名と設営隊約750名が上陸した [7, p17]。キスカ湾の北西には5月18日に作られたばかりのアメリカ軍の気象観測所があり、そこに観測員10名がいた。彼らは日本軍の機関銃音で日本軍の接近を知り、1名がこの弾によって負傷した。あわてて暗号書を焼いたが、そこで2名が捕虜となった。残りの8名は逃走したが、負傷した観測員の傷が悪化したため、1名を除いて翌朝に日本軍に投降した [2, p36]。残りの1人も後に投降した。
キスカ島には特設巡洋艦「粟田丸」によって水上機基地が設置された。8日には零式水上偵察機(零式水偵)が水上機母艦「君川丸」で輸送されて、哨戒飛行が開始された。また9日には東港海軍航空隊支隊の九七式大艇6機と防備のための駆潜艇3隻が到着した。さらに15日には水上機母艦「神川丸」によって水上機が増援された。その結果、キスカ島の小型水上機は零式水偵7機、零式観測機4機、九五式水偵2機となった [4, p269]。一方で、輸送船2隻からの荷揚げはなかなか進まなかった。12日からは次項で述べるようにアメリカ軍による爆撃が始まった。また大型発動艇(大発)を使った揚陸のために海岸に土嚢で作った桟橋は、波浪によって何度も損壊した。また揚陸物資を運ぶために、海岸から内陸への道路も開設しなければならなかった [7, p40]。
3.6.3 上陸後のアメリカ軍の対応
アメリカは6月8日にキスカ島からの気象通報が来なくなくなったことに気づいた。9日に哨戒機がキスカ島の湾内の日本軍艦船とアッツ島に建設された幕舎を発見し [2, p37]、両島が日本軍に占領されたことがはっきりした。太平洋艦隊司令長官ニミッツは、空母「サラトガ」から6日にハワイの北で消耗した航空機の補充を受けた第16任務部隊(機動部隊)の空母「エンタープライズ」と「ホーネット」に対して、8日にキスカ島沖の日本軍北方部隊を攻撃するように命令を下した。第16任務部隊はキスカ島沖へ向かったが、ニミッツは東京からのラジオ放送がアッツ島とキスカ島の占領を終えたことを放送していることを知り、日本艦隊の待ち伏せ攻撃に遭うことを危惧して11日に攻撃を中止して艦隊を呼び戻した [2, p37]。日本海軍は5月28日に暗号を変更しており、そのためミッドウェー作戦以降の日本軍の計画が読めなかったことも関係しているかもしれない。
それまでアメリカは、アリューシャン方面に対して副次的な作戦価値しか置いていなかった。しかし、日本軍はさらに東へ侵攻する意図を持っているかもしれなかった。アメリカはアリューシャン方面に対する防衛の準備を整えるとともに、戦争資源の配分の優先度を上げざるを得なくなった。アメリカ軍はさらなる侵攻を食い止めるために、まずは日本軍の戦力を航空機による爆撃と潜水艦による攻撃によって消耗させて弱めるという戦略を採用した。アリューシャン方面の気候や地理などに関する情報はほとんどなかったため、航空偵察が頻繁に行われた。また古い地図が引っ張り出されたが、それらの地図ではほとんど海岸線の形しかわからなかった [10, p73]。
日本軍の上陸を知ったアメリカ海軍は、水上機母艦「ギリス」をアトカ島のナザン湾に派遣した。そこに20機のPBYカタリナ飛行艇を集めて、6月12日から15日までキスカ島の爆撃と銃撃を、ある搭乗員は24時間の間に19.5時間飛んだほど繰り返した [2, p42]。数機のPBYカタリナ飛行艇が修理不能なほど被害を受けたが、キスカ島上空で撃墜されたのは1機だけだった。
第11航空軍はアメリカ本土にいたB-17爆撃機とB-24爆撃機を急遽フォート・グレン基地に集めて12日からキスカ島の爆撃を開始した。柔らかい湿地の上に鉄板を敷いただけの滑走路は、重い大型爆撃機の離着陸の際にマットレスのように波打った。まず6月12日には、フォート・グレン基地からB-24爆撃機3機が出撃した。キスカ島に到着してみると、湾内の日本の艦船は防護のために高射砲による上空の援護の傘の下に集められていた。日本軍はB-24爆撃機1機トッド大尉機を対空砲火で撃墜し [2, p41]、この時の模様はキスカ島の日本軍の報道班員によってカメラに収められた[アリューシャン方面の戦い 「大日本帝国海軍」]。続いてアトカ島のナザン湾から発進したPBYカタリナ飛行艇5機が爆撃したが、その際に搭乗員3名が対空砲火を受けて死亡した。さらに続けてB-17爆撃機5機が来襲して爆撃を行い [2, p41]、この爆弾の一つがキスカ湾の入り口で対潜警戒していた駆逐艦「響」が右舷前部に命中した。「響」は奇跡的に一人の負傷者も出さず、駆逐艦「暁」によって曳航されてキスカ湾へ戻った [7, p68]。
その後天候が許す限りアメリカ軍による爆撃は続いた。フォート・グレン航空基地からキスカ島まで往復2500 kmあり、アメリカ軍が長距離爆撃を行うにはキスカ島付近の気象情報が不可欠だった。そのため、ほぼ毎朝大型爆撃機を気象観測機としてキスカ島とアッツ島の周囲に派遣して、気象観測の結果を報告させていた [10, p38]。しかし、それより西の気象状況はわからず、変わりやすい天候と困難な予報のため、爆撃機は出撃しても途中で引き返したり、雲から頭を出しているキスカ富士を目印にそこからの経過時間を用いた推測爆撃を行うこととも多かった。日本軍にとっては幸いなことに、6月はアメリカ軍の空襲は天候などの影響で6回しか成功しなかった。7月は15回出撃したが、そのうち7回は天候悪化のため途中で引き返した [10, p39]。
3.6.4 上陸後の日本軍の対応
キスカ島では海岸の燃料集積所が爆撃されて、ガソリンが数日間燃え続けた。キスカ島の日本軍兵士たちは、アメリカ軍航空機の執拗な攻撃に緊張した。兵士たちは爆撃しているのはアメリカ海軍の飛行艇だと思っていため、12日に撃墜した飛行機を調べて、アメリカ陸軍の大型爆撃機だったことに驚いた。彼らは上陸してこれほど早くアメリカ陸軍の大型爆撃機が来襲するとは思っていなかった [7, p64]。この空襲は日本軍にとって全く予想外のことだった。キスカ島に配備された水上偵察機と水上観測機では、大型爆撃機を迎撃することが出来ず、また急いで海岸に敷設された野戦高射砲は数が少ないため、防空能力が不十分だった。そのため、後述するように当初の計画になかった二式水上戦闘機が防空のために投入されることになった。13日には軽巡洋艦「木曽」艦長が、第二機動部隊からキスカ島上空へ迎撃のための戦闘機を派遣してはという意見具申を北方部隊に対して行ったが、第二機動部隊の位置秘匿のため却下された [4, p262]。
九七式大艇は基地整備が終わった6月半ばから哨戒飛行を開始したが、この時期は頻発する霧のために搭乗員は偵察と離着水に苦労した。霧の上端高度は高くなく、島々の山は霧の上に首を出すことが多かったため、操縦者は霧の中での着水の際に、山の形から島の地形を記憶しておき、夜間着水法と同じ手法で霧の中に突っ込んで着水した [13, p204]。しかし、高緯度のためコンパスは大きく変位した。さらに前線が通過すると、出発時に地上気圧でゼロにセットした高度計(気圧計)は大きく狂った [10, p47]。
13日には「君川丸」の水上偵察機がアトカ島ナザン湾に水上機母艦1隻、飛行艇11機を発見した。日本軍は6月15日にこの水上機母艦を九七式大艇5機で攻撃した [4, p269]。しかし、この攻撃が行われたのは、水上機母艦と飛行艇隊の消耗によってアメリカ軍が14日夜にナザン湾から撤退した後だった [2, p42]。水上機母艦は事前に情報部から警報を受けて湾外に退避したという説もある [3, p124]。
キスカ島の飛行艇は、アメリカ軍の大型爆撃機の爆撃にも曝された。そのため6月21日から22日にかけて東港海軍航空隊支隊の九七式大艇はいったん幌筵へ引き揚げた。水上機部隊も水上観測機を除いていったんアガツ島へと待避した。それらは7月1日に再びキスカ島へ進出したものの、ガダルカナル島近くのツラギに展開していた飛行艇隊である横浜海軍航空隊が8月7日に連合国軍の上陸によって全滅したため、東港海軍航空隊支隊の九七式大艇は8月14日に全機横浜へ引き揚げた [4, p296]。これによって遠距離の哨戒は不可能となり、敵航空基地進出防止という目的の遂行に部分的な支障を生じることになった。なお、残ったキスカ島の水上偵察機部隊は、7月に送られた水上戦闘機を加えて8月5日に第五航空隊になった [4, p297]。
大湊に停泊中の特設水上機母艦「君川丸」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kimikawa-maru_in_1943.jpg
6月19日にはB-24爆撃機5機とB-17爆撃機3機による爆撃で油槽船「日産丸」がキスカ湾内で撃沈され、キスカ湾に停泊していた艦船と輸送船2隻は残っていた資材を揚陸できないまま6月20日にキスカ湾から撤退した[4, p270]。アメリカ軍の空襲が効果を発揮した形になり、キスカ湾には駆潜艇3隻と大型発動機艇だけが残された。その駆潜艇も7月15日にキスカ湾外でアメリカ軍潜水艦「グラニオン」の攻撃で2隻が沈められた [4, p325]。
3.6.5 アメリカ機動部隊邀撃作戦
通信情報からアメリカの機動部隊が北上する気配ありとして、6月11日に大本営は聯合艦隊と第五艦隊に警告電を発した [4, p258]。ただし前述したように、この日にアメリカ機動部隊は攻撃を断念して反転した。13日のアトカ島の水上機母艦の発見により、アメリカ軍機動部隊の出現に備えていた第二機動部隊は、その待機水域をアトカ島からの哨戒圏外のアッツ島の南西350 kmに変更した [4, p259]。また同日聯合艦隊司令部は、北方部隊に空母「瑞鶴」と駆逐艦などを増援したために第二機動部隊の空母は4隻となり [4, p260]、同海域で行動している日本軍の艦船は合計で80隻近くに上った。
アメリカ軍は大規模な日本艦隊の存在を察知して、アリューシャン列島全域が日本軍に占領されるのではないかと危機感を募らせた [8, p15]。日本艦隊の動向を探るため、1000トン前後の旧式S級潜水艦を北部太平洋に展開したが、このクラスの潜水艦にとって暗礁の多いアリューシャン列島付近での荒波の中での作戦は厳しかった。6月19日にはアムチトカ島付近で悪天候のためS-27が座礁して遭難した。乗組員は6日間救命ボートで漂流した後、救出された [10, p46]。
13日の「木曽」艦長からの提案に引き続き、今度は北方部隊司令官が空母「瑞鶴」と「瑞鳳」の2隻から艦上戦闘機を6月20日にキスカ島上空へ派遣して、大型爆撃機を迎撃する計画を立てた。しかし、20日の予報が悪天候だったためこの計画を21日に延期した。ところが聯合艦隊司令部は機動部隊の戦力を2分してのこの作戦に反対し、20日に北方部隊に大湊へ回航して次の作戦に備えるように命じた [4, p262]。そのため、結局この作戦は実施されなかった。増援部隊を含む北方部隊の全ての艦船は24日までには大湊などへ戻った。
日本海軍が暗号を変更したため、この時期のアメリカ軍情報機関の情報は錯綜していた。この機関は日本軍による西部アリューシャン列島の占領は、北太平洋全域の征服の始まりかもしれないと思っていた [2, p43]。6月20日にこの機関はレーダーによる情報から、日本軍の4隻の空母と2隻の戦艦を核とする大規模な艦隊がアラスカのノーム(北緯64.5度)に向かってベーリング海を北上していると判断した。陸路のないノームへの防衛のために、6月21日から2週間かけて140機以上の輸送機を用いて兵士と兵器の大規模な空輸作戦が行われた [2, p43]。それによって7月初めには2000名からなる部隊がノームに設立された。また日本軍の侵攻を裏付けるかのように、6月20日には潜水艦「伊二十六」がバンクーバー付近を砲撃し、6月22日には潜水艦「伊二十五」が西海岸にあるオレゴン州のアメリカ軍基地を砲撃した。