2-1 アラスカ方面の軍備
2.1.1 アメリカ軍の北太平洋での命令系統
アメリカ軍の北太平洋、アラスカ方面における命令系統を簡単に整理しておく。基本的には大統領のもとにアメリカ統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff)があり、その下に海軍と太平洋艦隊(US Pacific Fleet: 司令長官チェスター・ニミッツ大将)があり、さらにその下に北太平洋軍(Northern Pacific Force: 司令長官ロバート・テオバルド少将)があった。一方で、陸軍はアメリカ統合参謀本部の下に西部方面防衛軍(Western Defense Command: 司令長官ジョン・デウィット)があり、その下にアラスカ防衛軍(Alaska Defense Command: 司令長官サイモン・バックナー・ジュニア少将)、さらにその下に第11航空軍(US Eleventh Air Force)があった [5, p15]。
2.1.2 アメリカ陸軍の地上部隊
アラスカとアリューシャン列島は、アメリカ合衆国領ではあったがアリュート人が住む広大な辺境域で、内陸にはほとんど交通路がなかった。当時発達し始めた航空路についても、1931年にチャールズ・リンドバーグがアラスカのノームからカムチャッカのペトロパブロフスクへの冒険的な飛行に初めて成功した程度で、確立された航空路や大きな飛行場はなかった [4, p19]。第二次世界大戦直前の日本とアメリカ間の緊張は、この辺境地域に光を当てることとなった。アメリカ陸軍は1940年頃から日本軍によるアラスカ占領と基地設営の脅威を感じて、ジョン・デウィット中将を司令長官とするアメリカ第9軍(IX Corps Area: 後の西部方面防衛軍)の下に、1940年6月にサイモン・バックナー・ジュニア少将を司令長官とするアラスカ防衛軍(Alaska Defense Command)を設立した。アンカレッジに設立されたアラスカ防衛軍は、1941年9月30日までに、歩兵連隊4個、高射砲連隊3.5個、砲兵連隊1個、戦車連隊1個の21,565名に増強された [2, p9]。しかし未開の地アラスカでは、陸軍と海軍ともにまずはインフラ整備のための工兵隊や兵站部隊の割合が必然的に高かった。
ジョン・デウィット中将の写真
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/80/John_Lesene_Dewitt_copy.PNG
2.1.3 アメリカ陸軍航空隊
当時、アメリカ軍の航空機は、空母搭載機と水上機は海軍に属していたが、それ以外は全て陸軍航空隊(Army Air Corps)に属していた(1941年6月に陸軍航空軍(Army Air Force)となる)。アラスカ防衛軍司令長官に任命されたサイモン・バックナー・ジュニア少将は第一次世界大戦時に育成されたパイロット出身であり [2, p8]、航空機の重要性を認識していた。彼は広大なアラスカを防衛するには航空部隊が不可欠であることを認識して、アラスカ防衛軍においてまずは航空部隊開設を優先した。この第一世界大戦の頃のパイロットが司令長官クラスになっていたのは、他の兵科と異なって航空機の特性に基づいた独特な運用を必要とする航空戦にとって大きな利点だったと思われる。
サイモン・バックナー・ジュニア少将の写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Bolivar_Buckner_Jr.#/media/File:General_Simon_B._Buckner,_Jr.jpg
彼が奔走した結果、開戦直前の1941年10月17日にアラスカ防衛軍に航空隊が開設された。これは開戦後の翌年2月5日にアメリカ第11航空軍(US Eleventh Air Force)となり [2, p9]、司令官にはウィリアム・バトラー准将が任命された。もともとアラスカでは日常の移動には航空機を用いており、地元には地理や気象に精通したパイロットがいた。バックナーはアメリカ本土から来たパイロットに、地元出身のパイロットによるアラスカの気象に適応した訓練を受けさせた [2, p19]。これによってアメリカ軍パイロットは、後に日本軍が不可能と考えていた気象状況でも航空攻撃を行えることができるような操縦技術を身につけた。
激しい闘志と抜きん出た実行力を持ったバックナーは、アリューシャン列島の地理と気象を自ら出向いて調査し、そして飛行場適地を見つけた。官僚主義を軽蔑していた彼は、1941年夏にアラスカ半島西側のコールド・ベイに架空の魚加工会社を設立して、缶詰工場という名目で秘密裏に飛行場を建設した。その費用は軍の資金を違法に流用したものだったが陸軍省はそれに気づかなかった。また同省は11月にウムナク島オッター岬にフォート・グレン基地の建設を許可した [2, p9]。彼が秘密裏に基地を建設したのは、日本軍を欺くためだけでなく、陸軍省の目を逃れるためでもあった。これらの基地は後の日本軍のアリューシャン侵攻に対して大きな役割を果たすこととなる。
2.1.4 アメリカ海軍
アメリカ海軍は、アラスカの防備を沿岸警備隊(The US Coast Guard)に任せていた。沿岸警備隊は、旗艦である2000トンの砲艦「チャールストン」を除くと第一次世界大戦時の旧式駆逐艦8隻とSボートと呼ばれる旧式の潜水艦6隻、警備艇5隻などだったが、1940年には水上機母艦「カスコ」「ギリス」「ウィリアムソン」の3隻とカタリナ飛行艇20機を配置した。なお、日本との戦争が切迫した1941年5月には、さらに巡洋艦5隻と、駆逐艦4隻を追加した [2, p19]。また、アリューシャン列島のウナラスカ島にあるダッチハーバーとアンカレジ南方にあるコジアク島のコジアクに泊地の建設を進めた。ダッチハーバーは、アリューシャン列島の中で艦隊や飛行艇の泊地に適した数少ない重要な湾を擁しており、1941年9月までに海軍航空隊の飛行艇基地と潜水艦基地が建設された [4, p36]。日本との開戦後は後述するように北太平洋軍が設立され、その中に沿岸警備隊を元にした北太平洋艦隊が創設された。
2.1.5 カナダ軍
カナダは1940年8月にアメリカと非公式に防衛合同委員会(Permanent Joint Board on Defense)を設立して、アメリカと共同での太平洋沿岸の防衛計画を策定した [2, p14]。そのため、ここではアメリカ軍とカナダ軍が合同した軍を連合国軍と記している。
2-2 千島とアリューシャンの日本軍の活動
2.2.1 アリューシャン列島
日本ではサンフランシスコやシアトルに滞在した駐在武官が、満州事変でアメリカとの緊張が高まった1932年にアラスカ方面の情報収集に当たった。シアトルでは日系の漁業関係者がアラスカ、アリューシャン方面に出漁するので、彼らに気象などの調査を依頼していた [4, p27]。日本軍はそれとともに日系アメリカ人のスパイを10人程度アラスカに送り込んでいたが、開戦直後に西部方面防衛軍司令長官デウィットの提言によって日系人は施設に強制収容されたため、彼らは開戦後に全く活動できなかった [2, p23]。一方で日本本土から出漁する北洋漁業者にも、アリューシャン方面の気象や海象の調査を依頼していたが、同方面の自然地理的に関する情報は全く不足していた。
2.2.2 千島
当時南千島には島民が常駐して主に漁業を行っていた。中千島は農林省の官吏だけが常駐して、政府は海獣保護と毛皮を取るための養狐事業を経営し、一般船舶の寄島を禁止していた。北千島の幌筵島は長さ100 km、幅28 kmの北千島では最大の島であり、柏原湾などいくつかの湾があって、漁業基地と缶詰工場などがあった。北千島周辺には大規模な漁場があり、夏季は関係者が数多く渡って漁業に従事していたが、冬季は少数の越年者だけが居住していた。
北千島の幌筵島には1934年に海軍航空基地の建設が決定され、1938年頃には完成した。しかし、1940年8月における同基地の状況では2本の1000 m滑走路があったが、200名収容の仮兵舎があるのみで、航空機格納庫もなく不時着場程度の施設だった。夏季はなんとか使用できたが、それでも低気圧の通過により強風が吹けば飛行機の係留は困難な状況だった [4, p30]。そのためか、連合国軍がアッツ島へ上陸するまで飛行場が基地として使われた記録はない。なお、幌筵島の柏原には1940年11月に陸軍の北部軍の北千島要塞司令部が置かれた。
2.2.3 千島とアリューシャンの気象観測
1933年~1934年頃から北方の気象観測の必要性が認められたため、幌筵に気象観測所が作られた。開戦時には北方には40か所程度の気象観測所があった。これらの観測所は、アリューシャン作戦にともなって1942年5月に北海道の厚岸に設立された第五気象隊に編入された [4, p240]。
日本の陸軍参謀本部はアリューシャン作戦が決まった1942年5月1日に、作戦部隊にアリューシャン列島で任務の参考にするために「アリウシャン群島事情」を編纂して発行した。それにはアリューシャン列島の沿革、位置、面積、地形、気象、産業、交通、通信、宿営及食糧、衛生、住民の状況などが記されていた。その中に陸軍気象部の調査による「航空気象要図」がある。それによると、アリューシャン上空の航空路は、6,7月は濃霧、10月~2月は暴風雨多しとなっており、10月から3月までは飛行可能日数は月に9~12日、11月から1月までは月に9日以下と判断されている [3, p103]。
この数字は、いくつかの当該地域の地上気象観測所のき観測結果から推測したものではないかと思われる。天候の変化が早いアリューシャン域の場合、飛行場の気象が良くて飛び立てても目的地に着く頃の気象が好適とは限らない。結果的にアメリカ軍機の活動を見ても、実際に出撃しても途中や目的地の天候が悪くて引き返した、あるいは目視の爆撃が出来なかった記録が出撃数の半数程度ある。そのことから、実際の航空機による作戦可能日数は、「航空気象要図」の飛行可能日数の半分程度だったのではないかと思われる。