2021/06/27

4. 西部アリューシャンの防衛

 4-1     最初の防衛方針の変更

4.1.1  占領方針の変更

海軍軍令部作戦課は、まだミッドウェー作戦とアリューシャン作戦の最中であった67日に陸軍参謀本部作戦課を呼んで、戦況の説明と今後の作戦についての意見交換を行った。その際に西部アリューシャン列島を恒久的に確保することを研究することで両者の意見は一致した [4, p276]。この理由については、本土空襲の基地を与えないという意義だけでなく、第五艦隊司令長官による「アッツ、キスカ両島とも越冬が可能なことがわかり、予定通りに秋期に撤退を行なえば再占領は困難になるので両島を確保すべき」という意見具申によるものである [3, p125]。それ以外に米ソの遮断の意義も考慮された。

その結果、6月23日に大本営から大陸命第六百四十七号でアッツ島、キスカ島の恒久占領が発令された [4, p277]。また、前述したように6月25日に北海支隊は大本営直轄となった [3, p124]。この方針変更について「太平洋戦争海軍作戦史第九巻」には、上記「第五艦隊司令長官の意見と合わせて、ミッドウェー海戦後の内外の政戦両略等の見地より・・・」とも記されている [4, p277]。

しかしそれならば、占領方針の抜本的な見直しを行って航空基地を作ることが必要であったろう。ダッチハーバー攻撃時のアリューシャン東部の新しい航空基地の発見の情報は、キスカ島とアッツ島の上陸後の島の防衛や輸送計画に重大な影響を与えるはずのものだった。アメリカ軍がこれを根拠地にしてさらに西へ航空基地を進めて、キスカ島、アッツ島への補給を脅かしながら自国領である両島を速やかに奪還しようとしてくることは十分に考えられることだった。

北方部隊の駆逐艦「若葉」の陸戦隊は、612日にセミチ島(セミア島)とアムチトカ島の調査を行った。アッツ島の東50 kmにあるセミチ島は、飛行場に適した乾燥した草原が広がっていることが確認された。また、キスカ島の南西130 kmにあるアムチトカ島については、少し手を入れれば不時着場として使用できる平地があることがわかった [4, p256]。しかし、日本軍は両島を放置してしまう(セミチ島は11月に占領作戦が発令されたが中止された)。後に述べるように、特にアムチトカ島を放置して翌年2月にアメリカ軍に航空基地を作られたことが、最終的に西部アリューシャン列島防衛にとって致命的となってしまう

日本軍の方針が秋季までの占領予定だったこととアメリカ軍の攻撃を過小評価していたこともあって、防衛のために上陸時にアッツ島とキスカ島に揚陸した大砲は、キスカ島には12 cm砲4門、7 cm広角砲4門とアッツ島には7.6 cm砲2門、大隊砲2門だけと貧弱なものだった [4, p278]。アメリカ軍の空襲による予想外の反撃を受けて、早速防衛強化が検討された。


西部アリューシャン列島の地図

第五艦隊は防衛のための早急な飛行場の建設を要望したが、海軍軍令部および聯合艦隊司令部は陸上機の派遣には消極的だった。その軍令部の航空主務部員だった三代辰吉中佐は「占領は敵をして使用させない事が目的」と述べており [4, p298]軍令部は占領してさえおけば敵は攻めて来ないだろうという考えだった。これには連合国軍の西部アリューシャン方面への反撃を甘く見ていたことと、貴重な陸上航空戦力を消耗戦に巻き込みたくないという思惑もあった。軍令部は陸上兵力と水上機だけで島の防衛は可能と判断しており [4, p298]、これが上陸後の時点で島の防衛が連合国軍の攻撃の後手になる最初の判断となった。

第五艦隊は根拠地隊の編成を海軍軍令部に要望したため、舞鶴第三海軍特別陸戦隊を母体に基地内の兵員と合わせて71日付けで第五警備隊が編成された [4, p280]。しかし連日にわたる大型爆撃機による空襲を受けて、北方部隊では飛行場建設をたびたび要望した。これにより、海軍軍令部は623日に来年以降の工事のために調査員を出すことに同意した。また聯合艦隊司令部でも721日に、今年は気象状況を確認して来年に飛行場を整備するかどうかを考えるという方向に変わった [4, p299]

海軍上層部は、ミッドウェー海戦の敗戦が今後の戦況の進捗に与える影響を、十分に考慮したとは考えにくい。それほどまでに真珠湾攻撃での戦果を過大評価していたのかもしれない。いずれにしても直ちに飛行場を建設する計画はなかった。結果論になるが、もし空襲が本格化する前のこの時期に飛行場建設のための資材輸送と建設作業にとりかかっておれば、アメリカ軍がアダック島に飛行場を建設して利用を開始した9月中旬頃には、日本軍も対抗できる飛行場を建設できていたかも知れない。

キスカ島の防衛強化として、海軍第二連合特別陸戦隊と砲兵隊、野戦高射砲中隊、設営隊と15 cm6門、12 cm高角砲(高射砲)4門、7 cm野戦高角砲4門、山砲8門、速射砲8門、その他機銃10門、甲標的(以降、特殊潜航艇)6基と水上戦闘機6機が、7月初めに輸送部隊によってキスカ島へ送られることになった [4, p281]この輸送に合わせて第二次邀撃作戦が立てられ、6月28日に空母(機関故障の「隼鷹」を除く)を含む前回とほぼ同じ規模の北方部隊が大湊を出港して北海道はるか東方でアメリカ艦隊の出現に備えて待機した [4, p263]。しかしアメリカ艦隊は現れず、北方部隊による2回にわたるアメリカ艦隊邀撃作戦は空振りに終わり、大量の燃料を消費しただけに終わった。しかし、次に述べるように輸送部隊はキスカ島沿岸で潜水艦に狙われた。

4.1.2  特殊潜航艇などの配備

74日に防衛強化のための特殊潜航艇と二式水上戦闘機(二式水戦)を載せた水上機母艦「千代田」、輸送船「あるぜんちな丸」、駆逐艦「霰」、「霞」、「不知火」からなる輸送部隊は、霧雨の中をキスカ島に到着した。「千代田」と「あるぜんちな丸」は霧の中をなんとか進んでキスカ湾内に停泊したが、3隻の駆逐艦は湾外に停泊した。これらの駆逐艦はアメリカ潜水艦「グロウラー」による攻撃を受けて、「霰」は沈没、残り2隻も大破した [4, p272]75日には駆逐艦「子ノ日」がアメリカ潜水艦「トライトン」によってアガツ島沖で撃沈された。前述したように、715日にはキスカ湾外で駆潜艇2隻が潜水艦「グラニオン」によって撃沈された。キスカ島の将兵は、本来潜水艦を葬る役目の駆逐艦や駆潜艇が次々と逆にやられて、前途の厳しさを実感することとなった。しかし、「千代田」によって運ばれてきた二式水戦と特殊潜航艇は無事に揚陸された。これによって特殊潜航艇の基地隊350名と各種大砲が増援された。

空襲を受ける中で、7月から設営隊による特殊潜航艇の基地建設が開始された。100メートル程度の滑台、海岸を掘り下げた格納庫、ボイラーなどが3か月かけて完成した。しかし、特殊潜航艇は湾内で数回訓練を行った後は、荒天による浸水や絶縁不良、爆撃によるボイラーや発電機の損傷のため、全ての艇が相次いで使用不能となった [7, p91]。厳しい気象とアメリカ軍機の制空権下では、特殊潜航艇が何らかの作戦に使用されることはなかった。

キスカ島の特殊潜航艇(甲標的)。キスカ島占領後にアメリカ軍によって撮影されたもの。(194397日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=3332

731日にアッツ島経由でキスカ島へ向かっていた特設運送船「鹿野丸」は、キスカ湾外でアメリカ潜水艦の魚雷1本が船体後部右舷に命中して航行不能となった [4, p314]。この潜水艦はその後発射した魚雷が不発だったため砲戦で沈めようと思ったのか浮上してきた。「鹿野丸」は前部の8 cm砲を発射し、この砲弾は司令塔に命中して潜水艦は沈没した [4, p327]。この沈没した潜水艦は近年になってアメリカ潜水艦「グラニオン」と認定された。しかしアメリカ側での沈没原因は、自艦が発射した魚雷による昇降舵の破損と推測されている [14]。「鹿野丸」はキスカ湾内に曳航されて修理に努めていたが、915日の大規模空襲で爆撃を受けて擱座した。

アッツ島は、アメリカ軍の大型爆撃機の攻撃圏外であるため高射砲部隊は配置されなかった。しかしキスカ島の状況を見て不安を感じたため、陸軍は817日にアッツ島に高射砲中隊を増援した。7 cm高射砲4門、20 mm高射機関砲5門と貨物自動車など約40台が揚陸された。しかしアッツ島には道路がなく、車両はほとんど使えなかった [7, p103]。しかも後述するように、この直後のアッツ島撤収という防衛方針の変更により、牽引車、弾薬車などごく一部を除いて、ほとんどの車両は9月の撤収時に放棄された [7, p104]

4.1.3  電波短信儀(電探)の配備

キスカ島には海軍の一号電波短信儀(レーダー:以降電探と記す)も送られた。電探は桂山と称した山頂に大きなアンテナ施設8月頃には設置された。予定では探知範囲100 kmのところを実際には300 km先の敵機を捕捉できた [7, p239]。電探を操作した電探隊は軍人ではなく、工業系や無線通信系の学校を出た軍属・技手で構成されていた。彼らは専門知識と経験を活かして、ブラウン管に映る戻ってきたパルス波の波形から目標を読み取って防空隊に逐次報告した。

この報告は地上の兵士が空襲の際に事前に退避するのに利用された。また、高射砲隊も敵機の針路を聞いて射撃準備をしておき、敵機が山陰から現れたところを撃墜するなどして大いに役立てた [7, p248]。さらに後述する水上戦闘機隊は、防空隊から敵機襲来の連絡を受けてまず発進し、上空で敵の位置を無線で受けてその方向へ迎撃に向かった [7, p212]。電探隊は何も知らない兵士たちから電探のことをなんでもわかる超大型望遠鏡のように思われて苦労したと述べている。電探隊は敵機の確実な捕捉だけでなく、19432月頃にはブラウン管に映る波形から目標が爆撃機なのか戦闘機なのか、単機なのか編隊なのか、また敵機のおおかたの機種まで判別できるようになっていた [7, p241]

キスカ島の電探アンテナは当然アメリカ軍機の目にも止まったと思われるが、数多い空襲の中で電探のアンテナは最後まで攻撃を受けなかった。一号電探は30台程度製作され、南方のラバウルなどにも送られたが、キスカ島のものが最も性能を発揮した [15, p94]。戦争の早い時期に、日本軍が電探と通信を組み合わせた効果的な迎撃システムの構築に成功した例があったことは、特筆しておいて良いと思う。利用が水戦でしかも機数が少なかったのが惜しまれる。

4.1.4  高射砲と水上戦闘機の配備

水上機母艦「千代田」によりキスカ島に輸送された二式水戦6機は、78日にはB-24爆撃機と空戦を行うなど、高射砲隊と合わせてある程度港湾防衛に寄与できるようになった。海軍がキスカ島に配備した7 cm野戦高角砲(八八式七糎野戦高射砲)は陸軍から譲り受けたものであった。しかし、陸海軍が同じ高射砲を運用していることを利用して、キスカ島では陸軍と海軍がそれぞれ持っている情報や弾薬の一元化を図り、また訓練も協力して行うことにより効率よく運用されたようである [7, p226]。第五警備隊砲術長(舞鶴第三特別陸戦隊副官)であった柿崎誠一大尉は、陸軍の7 cm野戦高射砲は海軍の12 cm高角砲より軽快で、大変使い使いやすい手頃な砲であったと述べている [7, p229]。海軍は艦艇を含めてこのクラスの高角砲(対空砲)を持っていなかった(旧式の砲を除く)。この砲は輸送船においても空襲の防空に役に立った。陸軍の独立野戦高射砲第二十二中隊長和田朝三大尉は、キスカ島へ派遣される際に乗船する輸送船「ぼるねお丸」に7 cm野戦高射砲3門を設置した。そして敵機が来襲した際の航行法を船長と事前に調整して、海上で大型爆撃機を撃破した。それによって「ぼるねお丸」は無事にキスカ島に到着した [7, p111]。この高射砲は、適切に使用すれば船舶の防空にも効果があったと思われる。

二式水戦は零式戦闘機をベースに開発された水上戦闘機で、20 mm機銃を装備していた。しかしB-17B-24などの大型爆撃機の方が優速のため三撃以上かけることができず、撃破することは出来ても撃墜することは至難の業だった [7, p212]9月にアダック島にアメリカ軍航空基地が出来た後には、P-39P-40P-38などのアメリカ陸軍戦闘機との戦闘も行われた。二式水戦は大型フロートがついており零式戦闘機より速度は低下したが、その浮力によって逆に旋回性能は増した。当時の搭乗員には技量優秀なベテランも含まれており、敵戦闘機は優勢の時しか二式水戦に戦闘を挑んでこなかったともいわれている[7, p213]815日までの戦果は、撃墜B-17爆撃機1機、水偵1機、撃破B-17B-24爆撃機各1機で搭乗員の被害なし [4, p297]、その後915日までの戦果は撃墜5機、撃破2機、味方は未帰還2機、被弾大破2機となっている [4, p308]

 

二式水上戦闘機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BC%8F%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:A6M2-N_Rufe.jpg

当時の二式水戦の月産はわずか約10~20機で、しかもその配備はキスカ島と南洋諸島で二分していた。キスカ島への二式水戦の補充は水上機母艦で月に一回行われれば良い方で、わずかな機数を補充してもすぐに戦闘や荒天で漸減した。稼働水戦なしの期間もかなりあり、配備機数や基地環境のためキスカ島での迎撃能力は限定的だった。なおキスカ島の水上機隊は、85日に第五航空隊として編成され、11月に四五二海軍航空隊(四五二空)と改称された。

昭和17年度の二式水戦生産機数。[43, p628]をもとに作成

4.1.5  キスカ島への艦砲射撃

大型爆撃機による爆撃では雲に妨げられるなどして効果的な爆撃が出来ないと考えたアメリカ軍は、果敢にもキスカ島への艦砲射撃を企図した。最初の計画は723日の攻撃を予定して、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻、掃海駆逐艦4隻でコジアクを出撃したが、キスカ島付近まで来て霧のため引き返した。再び727日に出撃したが、やはり濃霧に遭遇して引き返した。この途中で、霧のため駆逐艦「モナガン」と掃海駆逐艦「ロング」が衝突し、掃海駆逐艦「ランバートン」と「チャンドラー」も衝突した [10, p41]。これら4隻はコジアクへ引き返し、修理に数か月を要した。

北太平洋軍のテオバルド少将は、ニミッツの指示により83日に持っていた北太平洋艦隊の指揮権をウィリアム・スミス准将に委譲した [2, p46]88日にスミス准将が率いる重巡洋艦「インディアナポリス」、「ルイビル」、軽巡洋艦「ホノルル」、「セントルイス」、「ナッシュビル」、駆逐艦4隻からなるアメリカ艦隊がキスカ島に接近した。この日は曇りで霧が濃く、レーダーを用いて一度沿岸に突入したが霧のため艦隊の位置を失したため、一旦沖合に引き返した [10, p41]。アメリカ艦隊は水上偵察機を飛ばして、キスカ島付近の霧が晴れたのを確認してから再び島に接近して砲撃した [8, p19] 

アリューシャン方面の重巡洋艦「ルイビル」(1943年4月25日アダック島クルック湾にて)
https://ww2db.com/image.php?image_id=3665

キスカ湾(鳴神湾)内には10隻の貨物船、潜水艦4隻と軽巡洋艦1隻がいたが、湾の入り口は駆逐艦などが警戒していたため、アメリカ艦隊はキスカ湾ではなくキスカ湾南方のサウスヘッドと呼ばれる半島の南西に占位した。キスカ湾内は半島の陰で直接照準できないため、湾内と海岸付近を間接照準で艦砲射撃を行った [8, p19]

前日の87日には南洋のガダルカナル島でアメリカ軍による上陸が行われたため、キスカ島には北方部隊から警戒の指示が出されたばかりだった。ただアメリカ艦隊による攻撃がこの日になったのは霧によるためであり、ガダルカナル島の上陸作戦に合わせたものではなかった。この襲撃は日本軍にとっては奇襲となった。日本軍は上空にアメリカ軍の水上偵察機を発見して初めて敵艦隊の来襲を知り、その直後から激しい艦砲射撃を受けた [7, p128]。アメリカ軍の水上偵察機はキスカ島の二式水戦に迎撃され、1機が撃墜され3機以上が損傷した。また二式水戦は駆逐艦「ケイス」の銃撃も行った。さらに九七式大艇が雲上からアメリカ艦隊を爆撃したが、アメリカ艦隊に損害はなかった [2, p46]

アメリカ艦隊は58インチ砲弾7000発を打ち込んだ。後半からは艦隊の退避支援のために爆撃機による空襲も合わせて行われた。しかしキスカ島の被害は、水戦1機破損、戦死2名だけだった [4, p290]。アメリカ軍は後日の航空偵察の結果、湾内の駆逐艦1隻と輸送船1隻を撃沈、輸送船1隻に被害を与えたものの陸上部隊への影響は少なかったと判断した。しかし、それらの損害が今回の砲撃によるものなのか、以前の爆撃によるものなのかはわからなかった [10, p44]。スミス准将は、艦砲射撃よりは航空攻撃の方が効果が大きいと判断した。一方で、バックナーはテオバルドの大胆さに欠けた高空からの爆撃の指示に疑問を抱いていた [2, p47] 

4-2     2度目の防衛方針の変更

4.2.1  アッツ島守備隊のキスカ島への移駐

連合国軍の反攻は予想以上に早くかつ強力だった。このキスカ島への爆撃と艦砲射撃は、日本軍にとって連合国軍がキスカ島の攻略に重点を置いているように見えた。またアメリカ軍のガダルカナル島への上陸も、キスカ島の防衛に不安を与えた [3, p146]。第五艦隊司令部は、このままの状況では西部アリューシャン列島の長期確保は難しいという意見を大本営へ上げた。大本営は兵力をまとめて指揮系統を単一にして防衛強化するため、アッツ島の兵力をキスカ島へ移すことに決定した。2度目の防衛方針の変更だった。

大本営は825日にアッツ島の北海支隊を第五艦隊司令長官の指揮下に戻し、キスカ島に移駐するよう指示した。826日にはその先遣隊96名が輸送船「長田丸」でキスカ島へ出発した。しかし輸送船「射水丸」による主隊の移送は荒天のため時間を要した。また移動に割り当てられたもう1隻の輸送船「野島丸」はキスカ島での空襲によって大破したため移動は遅延した。アッツ島部隊の移駐は、911日、18日の2度に分けてようやく完了した。移駐部隊は兵舎パネルの一部をキスカ島へ持って行ったが、残りの木材や食糧など敵に利用されそうなものはアッツ島で全て焼却した[3, p147]。

防衛方針の変更を受けて、915日に海軍はキスカ島に第五十一根拠地隊を編成し、秋山勝三少将を司令官に任命した [4, p339]。陸軍は11月に再びアッツ島を占領することになるが、このアッツ島の一時的な放棄と資材の焼却は、防衛のための施設工事を遅らせ、後にアッツ島守備隊が短期間で全滅する原因の一つとなった。

4.2.2  アメリカ軍によるアダック島の占領

アメリカ軍は日本軍がアムチトカ島に飛行場を建設し、さらに東のアダック島(キスカ島から東へ400 km)を占領することを警戒した。またアラスカ州の住民たちも日本軍の東への侵攻を心配した。これを防ぐため、718日に西部方面防衛軍司令長官デウィット中将は基地を西に進めておく必要を感じた。アラスカ防衛軍のバックナーはキスカ島までの距離が300 kmのタナガ島への基地推進を提案して一旦はアメリカ統合参謀本部の了承まで得た。ところが北太平洋軍のテオバルドはキスカ島に近すぎるとしてこれに反対し、アメリカ合衆国艦隊司令長官アーネスト・キングに艦隊のために適した湾があるアダック島への基地設置を直接訴えた [5, p14]。最終的にマーシャル陸軍参謀総長は、デウィットにアダック島を占領するように指示した [16, p14]。このアメリカ統合参謀本部を巻き込んだ論争のため、作戦の実施は約1か月遅れた。

連合国軍は828日にアダック島に偵察隊を上陸させて日本軍がいないことを確認した後、830日に陸軍将兵4500名を上陸させた。30日に工兵隊も上陸し、平地をブルドーザーで整地し、溝を掘って水抜きし、そこにマーストンマットと呼ばれる38 cm×3 mの網状の鉄板6万枚を急いで敷き詰めた。その超人的な努力により長さ1500 m、幅150 mの滑走路は912日に完成した [10, p53]。しかし、水はけの悪い土地上に作られた滑走路のため、雨が降ると航空機が離着陸するたびに高い水しぶきが上がった。

後にアリューシャン列島のタナガ島に敷かれたマーストンマット
https://en.wikipedia.org/wiki/Marston_Mat#/media/File:Marston_mat_laid_by_CB_45.jpg

828日に日本軍の水偵がアトカ島ナザン湾に軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を発見した。翌日水偵3機が攻撃したものの艦艇はおらず、飛行艇を爆撃したが効果はなかった。潜水艦「呂六十一」、「呂六十二」、「呂六十四」の3隻にもアトカ島への監視攻撃命令が出された。潜水艦「呂六十一」はナザン湾に進入して巡洋艦に魚雷を1本命中させた [4, p302]。しかし同艦はカタリナ飛行艇と駆逐艦「レイド」の爆雷で浮上を余儀なくされ、同艦の砲撃によって撃沈された。乗組員5名が「レイド」に救助されて捕虜となった [2, p49]。同艦が巡洋艦と思ったのは水上機母艦「カスコ」で、雷撃によって湾内に擱座したが、その後曳航されてダッチハーバーに戻った [8, p21]。その他に潜水艦「呂六十二」からもアメリカ艦隊の発見の報告があり、北方部隊指揮官はアメリカ艦隊の攻撃に備えたが、アメリカ艦隊の動きはアダック島上陸のためで日本軍への攻撃はなかった。 

水上機母艦「カスコ」19435月アッツ島占領後のマッサカル湾にて
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-60000/80-G-65978.html

94日に初めて戦闘機がキスカ島を空襲した。これはフォート・グレン航空基地からのP-38戦闘機とされている [3, p154]。これはアダック島の滑走路が、万一の不時着時に使えるようになったためではなかろうか。カタログ上は航続距離が届いても、途中の天候の変化、機体のトラブルなども考えられるため、実際の航空機の運用にはそういったことも考慮されていたのではないかと思われる。

航続距離の短いはずの陸上戦闘機がキスカ島を空襲したために、日本軍はアメリカ軍が航空基地を前進させたのではないかという疑念を抱いたが、その後空襲がなかったことからアダック島が占領されたことには気づかなかった。アメリカ軍は913日にB-24爆撃機15機、P-38戦闘機15機、P-39戦闘機16機をアダック島に進出させた [10, p53]。アダック島の基地は、その後9000名の兵士や要員が駐留する大基地へと拡張されていった。 

アダック島航空基地のP-38戦闘機
https://en.wikipedia.org/wiki/Naval_Air_Facility_Adak#/media/File:54th_Fighter_Squadron_P-38s_Adak_Alaska.jpg

4.2.3  戦爆連合による空襲

アメリカ軍は、915日にアダック島からキスカ島を本格的に空襲した。キスカ島の電探は敵機を捉えて、事前に空襲警報が出された。しかし、今回はそれまでの少数の大型爆撃機のみによる爆撃ではなく、B-24爆撃機12P-38P-39戦闘機28が護衛に加わった初めての戦爆連合による大規模な空襲だった。しかも爆撃を効果的にするために戦術を変更し、それまでの高高度からではなく低空からの爆撃を行った [2, p50]。爆撃と銃撃によって日本軍は輸送船「野島丸」が航行不能 [4, p307]、潜水艦「呂六十三」と「呂六十八」の2隻が損傷するなど在泊艦船と陸上施設に大きな被害を被った [4, p341]。この迎撃に飛び立った二式水戦4機は、5機の撃墜を記録した [4, p313]。一方で二式水戦2機が自爆して1機が大破した。アメリカ側の資料だと、被害は空中で衝突したP-38戦闘機2機の損失となっている [2, p50]。この戦闘により、キスカ島での二式水戦の稼働機は1機となった。

アメリカ軍は戦果を拡大しようとしたが、この後10日間は悪天候のため航空機は飛び立てなかった。その間に、アッツ島守備隊のキスカ島への移駐は無事に終了した。しかし天候が回復すると、926日、29日、30日と大規模な空襲が続くようになった。926日には潜水艦「呂六十七」がキスカ湾内で爆撃により損傷した [4, p341]101日になって、ようやく水偵がアダック島に航空基地を発見した [4, p331]。日本軍は連合国軍のアダック島への進出を知り、102日、3日の夜にアダック島を水偵で空襲した [4, p332]。潜水艦「呂六十二」と潜水艦「呂六十五」もアダック島クルック湾への攻撃を行ったが、どちらも戦果はなかった [4, p341]。突然現れた航空基地に日本軍は驚いたと思われるが、アダック島へのアメリカ軍基地前進に対する対応は水戦の補充と防空施設用資材・弾薬の輸送だけだった [4, p334]

アダック島にアメリカ軍の航空基地が出来たおかげで、空襲の頻度が大幅に増加した上にアメリカの爆撃機に戦闘機の援護が付くようになり、二式水戦による迎撃は困難になってきた。キスカ島へは、925日に「君川丸」によって二式水戦6機と水偵2機が補充されたが、26日以降の戦闘で104日には二式水戦の稼働機1機、10日には水偵の稼働機も1機となった [4, p340]。第五艦隊は水戦の補充を要望したが、損耗の激しさに生産が追いつかなかった。それでもキスカ島の水戦の定数を12機に改め、1013日には北方部隊指揮官は二式水戦5機と水偵3機の輸送を決定した [4, p336]

107日には輸送船「ぼるねお丸」がキスカ島の七夕湾内で爆撃されて擱座、9日と10日には駆潜艇なども被害を受けて、水上艦艇はキスカ島からいったん引き揚げることになった [4, p334]。また15日の空襲で陸上の物資・弾薬などが大量に焼失した [4, p334]。この後、資材の輸送に駆逐艦が充てられるようになったが、1017日には、キスカ島北方で弾薬輸送中の駆逐艦「朧」と「初春」がB-26爆撃機6機の攻撃を受け、「朧」が沈没、「初春」も損傷した [4, p334]。駆逐艦を用いた輸送でも、なんとか夜間にキスカ湾に入港して、わずかな時間に荷揚げをするありさまだった [4, p338]。しかも、26日にはキスカ島への補給品を積んだ輸送船「啓山丸」が、幌筵島の摺鉢湾でアメリカ潜水艦S-31に撃沈される [2, p50]など、北千島でもアメリカ潜水艦の活動が活発化してきた。

キスカ島の日本軍は、今後も続くことが想定される大規模な空爆に耐える堅固な地下防空壕が必要となった。キスカ島の部隊は陸上防御施設の建設を中止して、地下防空壕のための掘削が始まった。弾痕の調査から地下壕は深さ10m以上に設置された [7, p141]。削岩機などの資材は1016日に駆逐艦「若葉」で緊急輸送された [4, p337]。道具と言っても日本軍には削岩機の他にはつるはしとスコップ位しかなく、ツンドラの下の固い岩盤の掘削は、用いたつるはしの先端が短くすり減るほどの難工事だった。連合国軍の空襲に対して兵士たちは地下の防空壕で耐え忍ぶしかなかったが、苦労して作った防空壕のおかげで多少の被害が出ることはあっても甚大な被害を蒙ることは避けることができた。

一方で10月中旬にアメリカ艦隊は再びキスカ島の艦砲射撃を計画した。ところがこの頃、南方でのガダルカナル島を巡る攻防が最盛期を迎えており、アメリカ海軍はアリューシャン方面から巡洋艦などを数隻引き抜かざるを得ず、艦砲射撃計画は中止された [8, p22]。さらに12月には残りの艦船の一部も南洋へ転用され、北太平洋艦隊は、潜水艦を除いて軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と魚雷艇数隻だけとなった [4, p399]。再度のキスカ島の艦砲射撃は実現しなかったものの、アメリカ海軍の北太平洋における士気は高く、積極的かつ果敢だったようである。 

4-3     3度目の防衛方針の変更

4.3.1  防衛方針の再検討

10月になると、キスカ島は戦爆連合による空襲に曝され、付近にはアメリカ海軍の哨戒艦艇が頻繁に出没した。連合国軍のアダック島進出と飛行場建設によってキスカ島に対する海と空からの攻撃力が強化された。一方で、日本軍にはこれに対抗する手段がなく、アッツ島とキスカ島への輪送は困離な状況となった。しかもソロモン諸島方面の戦況が緊迫したため、アリューシャン方面への海軍力の増強も困難だった。108日には大本営で陸海軍の情報交換が行われた。そこでの敵情判断は、「アメリカ軍は砲爆撃によって日本軍の長大な補給線を遮断しながら戦力の低下を図っており、南方作戦の関係ですぐには無理だろうが来春には反攻が行われる公算が高いため、日本軍は3月を目途として準備を行う必要がある」というものだった [4, p356]。この時点で大本営がアメリカ軍の来春の反攻を予期していたことに留意しておく必要がある。

第五十一根拠地隊司令官はアダック島を攻略することを意見したが、その実現が難しいならば航空兵力と潜水艦の増強を要望した。第五艦隊司令部としては概ね第五十一根拠地隊の意見を支持したが、アダック島の攻略は望みがないとして、海軍軍令部に第二案の兵力増強を要望した。しかし、軍令部は二式水戦の補充のほか潜水艦2隻と駆逐艦2隻を第五艦隊に増強しただけだった[4, p358]。第五艦隊司令部はどれほど地上兵力を増強しても、陸上航空兵力の進出なくしては敵の攻略を止めることは困難と考えており、むしろ冬季を利用して撤退も考えていた [4, p358-359]

これに対し聯合艦隊司令部は、引き続き陸上兵力のみによる確保を考えていた。海軍軍令部も陸上機の派遣には賛成でなかったものの、第五艦隊の熱望もあって軍令部全般の空気は10月頃には飛行場の建設に変わった [4, p362]。しかし、聯合艦隊は主戦場であるソロモン諸島方面の対応に忙殺されており、アリューシャン方面への姿勢は消極的だった。海軍内の態度を見た陸軍参謀本部の第二課長は、1012日に「「キスカ」方面ハ確保ヲ要スルト考ヘル 海軍ノ思想ハ複雑、之ガ解決ヲ期シ度」と述べている [4, p360]。むしろこの頃から、陸軍の方が日米の攻防並びに米ソ提携防止の要地として、西部アリューシャン列島を重要視するようになっていた [3, p167]

陸軍はいったんはアッツ島を放棄したものの、工事能力の高さからアメリカ軍はアッツ島に航空基地を建設可能と考えた。海軍もアッツ島に航空基地が建設されるとキスカ島が危うくなると考えた [3, p168]。海軍軍令部では1014日に西部アリューシャン列島防衛に関する打ち合わせがあり、17日頃にはアッツ島の再確保の方針が決まった [4, p364]

1021日に第五艦隊と軍令部参謀三上作夫中佐と参謀本部参謀瀬島龍三少佐との打ち合わせが大湊で行われた。この打ち合わせ内容は残されていないが、次のように推測されている。第五艦隊では冬季の航空機活動の不活発な時期にむしろ撤退を考えるべきで、保持のための方策を講じずに徒に地上兵力のみを増強すると、補給が増えてかえって敵の思うつぼとなると考えていた [3, p169]。しかし海軍軍令部では、アッツ島とキスカ島の敵による利用阻止と、撤退は敵に自信を与え敵の侵攻を可能にするなどの理由を挙げて、前述したようにアッツ島を再び確保するとともに翌年2月頃までにアッツ島とキスカ島に飛行場を建設する方針を打ち出していた [3, p170]。撤退を考えていた第五艦隊としては、ともかくも飛行場建設の方針が示されたことで納得したようである [4, p359]。上陸以来3度目の防衛強化のための方針変更だった。

北部軍の軍司令官8月1日に樋口季一郎中将に代わった。彼はハルピンに赴任していた際に、数万人のユダヤ人をハルピン経由で上海へ脱出させたことでも有名である。アリューシャン方面は北部軍の担任外であったが、樋口軍司令官は関心を持っており、同方面の戦備案を大本営へ上げた。このため大本営は、9月に防衛のための資料収集に木村松治郎少将を団長とする北方調査団をキスカ島へ派遣した。この調査団の報告会が1026日陸軍参謀本部で行われた。この報告内容は当時の判断として要点を適切に衝いているので、いくつかを要約して掲げておく [3, 付録第八]

「アリューシャン」方面の情勢(敵情)判断

  • 敵の反攻は来春が最も公算が高く、3月を目途として準備する必要がある。
  • 敵の反攻の戦法は、長い我が補給線を遮断し、また直接爆撃によって戦力低下を図っている。
  • 反攻は奇襲の公算は低く、砲爆撃によって我が戦力を低下させ、次いで強襲戦法に依って攻撃して来るだろう。
防衛地帯設定の件
  • このためには飛行場を必要とする。
  • アムチトカ島は比較的平坦であり、特にコンスタンチン港沿岸は平坦であるが、沼沢が多く相当の工事を行わなければ飛行場とならない。
  • セミチ島東端の島には飛行場適地が2か所ある。
  • キスカ島の飛行場適地は100m×800mにて、工事には約7万人日を必要とする。
築城
  • 飛行場なしで築城のみにて防御させることは残酷と思われる。兵は萎縮して益々苦境に立つだけである。

 この報告会の結果を聞いて、陸軍は来年45月頃までに飛行場の設置と要塞化の両方を終えようと考えたようで、峯木北海守備隊司令官は短期間での両方の完成に疑問を抱いた。また彼は工事や作戦を行う上で、アッツ島の気象条件の検討が不足していることも感じていた [3, p171]

4.3.2  アッツ島の再占領

ところが、1018日に連合国軍がアムチトカ島を占領したという情報が突然に飛び交った。これは誤報だったのだが、この情報源はアメリカのラジオ放送がアムチトカ島を占領したと発表したためとされている [4, p364]。この情報を受けて、アッツ島確保の方針が内定していたこともあって、陸軍は1020日に急遽北部軍にアッツ島再占領の命令(大陸命第七百六号)を下した。アッツ島再占領のために「挺身輸送部隊」が編成され、北部軍から抽出した米川浩中佐率いる北千島要塞歩兵隊など約600名が軽巡洋艦「阿武隈」、「多摩」、「木曽」の3隻によって1029日にアッツ島に急いで再上陸した [4, p347]。アッツ島撤収からわずか1か月半後だった。また西部軍や東部軍から高射砲部隊などが集められ、1112日に輸送船「どうばあ丸」、「大倫丸」で約520名がアッツ島に増強された [3, p176] 

キスカ島とアッツ島を確実に確保するため、陸軍は1024日にキスカ島に峯木十一郎少将を司令官とする「北海守備隊」を新設し、北海守備隊は作戦に関して第五艦隊の指揮下に入ることとなった。111日には「陸海軍中央協定」によって、キスカ島、アッツ島、セミチ島を中心とする陸上航空基地群を19432月を目途として建設すること、アッツ島にも水上航空基地を設置すること、航空基地は陸軍が建設し、海軍が輸送に協力すること、アッツ島に要塞歩兵隊を進出させること、今後状況によりアムチトカ島を占領することがあることを決定した [4, p366]。しかし、アムチトカ島の占領については余地を残しただけで、実質的に先送りすることを意味していた [3, p168]。北海支隊は独立歩兵三百一大隊となって北海守備隊の下に入った。新設された北海守備隊には、築城資材、電話、飛行設営用ダイナマイト、防寒被服、雨外套、ゴム長靴などが交付された [3, p173]

1110日に峯木十一郎少将などの陸軍北海守備隊司令部が、駆逐艦に分乗してキスカ島に着任した [4, p347]。直ちに海軍第五十一根拠地隊司令官秋山勝三少将との打ち合わせが行われ、防衛強化のための方針が決定された。それによってキスカ島、アッツ島、セミチ島に陸軍が飛行場を含めた複合防衛地帯を2月末までに構築すること、そのために12月上旬には必要な資材を輸送することが確認された [3, p181]。その際に、もし制空権がなければ来年3月以降にアメリカ軍の活動が容易に活発化し得ることと、もしアメリカ軍がアムチトカ島を占領すれば、キスカ島の防衛が極めて困難になることが議論された。しかし、アムチトカ島占領に関する具体的な案が検討された形跡はない。

ようやく西部アリューシャン列島の本腰を入れた防衛強化に乗り出すことになった。そして前述の陸海軍中央協定により、12月末までにそのための大量の資材輸送とアッツ島近くのセミチ島の占領作戦が計画された。しかしアメリカ軍がアダック島に航空基地を建設したことにより、アッツ島もそこからの空襲圏内に入っていた。116日に「君川丸」はアッツ島に二式水戦5機と水偵3機を輸送したが、翌日の暴風とアメリカ軍の空襲により全機使用不能となった。1127日にアッツ島に入港した輸送船「チェリボン丸」は、B-24爆撃機1機、B-26爆撃機4機などにより低空から爆撃を受けて擱座した [3, p187] その人的被害は、戦死10名、重軽傷者38名、行方不明3名である[44, p12]。

アッツ島ホルツ湾の二式水戦。おそらく強風のため2機が接触している。アメリカ軍のB-24爆撃機から撮影。左下に投下された爆弾が見える。
https://ww2db.com/image.php?image_id=11832

セミチ島攻略部隊は、軽巡洋艦「多摩」、駆逐艦「初霜」、陸軍輸送船「モントリール丸」「八幡丸」に分乗して1124日に幌筵を出港したものの、アッツ島での「チェリボン丸」の被害を受けて兵力資材の揚陸は困難と判断された。攻略部隊は幌筵へと反転し、28日にセミチ島占領作戦の中止が決定された [3, p187]。この件は30日に北海守備隊に通知された。実はその前日、攻略部隊の反転を知った北海守備隊司令官峯木少将は、第五艦隊司令部に対して、「輸送を今、断行するに非(あら)ざれば所期の守備は完(まった)きを得ざる故之(これ)が断行方(かた)意見具申す。」と占領の強行の意見を打電していた[44, p12]。北海守備隊は海軍の指揮下という立場では、第五艦隊の決定に涙をのまざるを得なかった。

アメリカ軍によるアムチトカ島占領の誤報の際には、一部ではアムチトカ島を奪回できなければこの方面を根本的に考え直すとまで意気込んだ[3, p167]。ところが誤報とわかると同島の占領は先送りされ、翌年2月に連合国軍に航空基地を建設されてしまう。さらにアッツ島で輸送船が被害を受けると、アムチトカ島占領どころかアッツ島に近いセミチ島占領作戦も中止になった。これらの判断は、今後のキスカ島とアッツ島の防衛に大きな困難をもたらすことになった。

(つづき)

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