5-1 冬の到来
11月に入ると、低気圧がアリューシャン列島付近でしばしば台風並みに発達して荒天が多くなった。強風や滑走路に溜まった水で、アメリカ軍航空機の活動は制限されるようになった。航空機が飛び立っても途中で引き返すことや、雲の上から爆撃することが多くなった。天候による航空機事故も多発し、11月27日のアッツ島での輸送船「チェリボン丸」への攻撃を除いてアメリカ軍航空機の活動は12月末まで低下した。その間に軽巡洋艦「阿武隈」、「木曽」、駆逐艦「若葉」の3隻を用いた輸送(K船団)が行われ、12月3日に独立歩兵302大隊の525名がキスカ島へ到着した [4, p380]。
アメリカ軍はこの荒天の間に、春季に進攻作戦を行なうための基地の整備を行った。アダック島に兵舎、格納庫、倉庫、無線通信所、桟橋、乾ドック等を海軍建設工兵隊と陸軍工兵隊が建造した。また付近の島にも給油桟橋、石油タンク、弾薬貯蔵所等を建設した。アメリカ軍は戦力だけでなく、戦力を支援するための施設の整備も入念に行った。
日本軍は千島とアリューシャン方面への輸送を強化するために、12月下旬に第30碇泊場司令部を幌筵に組織し、船舶工兵、揚陸中隊、海上輸送隊、船舶工作廠を掌握した。12月25日には二式水戦6機がアッツ島経由でキスカ島にようやく補充され、陸軍輸送船「公安丸」と「山百合丸」の2隻が12月29日にアッツ島に入泊した [4, p9]。物資の揚陸時には、空襲を避けて湾内の滞在時間を短縮するため、袋詰めやドラム缶に詰められた物資を海中に投擲し、それを陸から引き揚げるなどの工夫がなされた。
年が明ける前後からアメリカ軍機の活動が再開した。キスカ島に入港した輸送船「浦塩丸」は12月31日に爆撃により湾内に擱座した。翌年の1月6日にはキスカ島に向けた輸送船「もんとりーる丸」とアッツ島に向けた輸送船「琴平丸」は、アメリカ軍航空機の攻撃を受けて、それぞれ目的地に到着前に洋上で沈没した。「琴平丸」は食糧、組立兵舎、燃料を搭載していた [3, p196]。「もんとりーる丸」は、独立歩兵302大隊の将兵の一部など831名などを乗せていた [4, p391-392]。この2隻の遭難により物資と将兵全てが海没した。2月を目処とする防衛強化計画は大幅に遅延せざるを得なくなった。
四五二空の水上機隊は、冬季に入ると空襲だけでなく、低気圧による暴風や波浪によっても使用不能機が続出した [7, p215]。特に1月4日の暴風は猛烈で、キスカ島では4 mの高波で湾内に係留中の水上機全てが破損した。そのため、海岸近くの高台を切り崩して飛行機の引き揚げ場が作られた。夜間や暴風時は飛行機を陸に引き揚げることになったものの、一人乗りの軽い水戦はまだしも、三人乗りの重い水偵などは毎日湾内への引き出しと陸への引き揚げ作業は大変だった [7, p222]。なお、アッツ島ではこの日の暴風による高波で備蓄していた食糧の一部が流出したが、もともと不足していたこともあってその後最後まで食糧の十分な補充を行うことができなかった [3, p196]。
5-2 飛行場の建設
キスカ島の飛行場は、キスカ湾北方の平地に建設された。計画では2月末までに長さ800 m、幅120 mの滑走路、さらに4か月後までにそれに斜行する長さ1200 mの滑走路を建設する予定だった。建設は1942年12月1日に開始されたが、資材輸送が滞ったため進捗は遅れに遅れた。建設資材やツルハシ、もっこ、スコップなどが届いたのは2月4日だった [3, p201]。一方、飛行場建設を最優先したため、築城施設、防空施設、兵舎、防御陣地間の道路掘削などの建設は最低限のものに限られた。また、どこかの時点でブルドーザーがキスカ島
[3, p398]とアッツ島 [7, p423]に送られたようである。しかし、現地の記録では日本製ブルドーザーの稚拙な性能では島の固い岩盤に対して用をなさなかったとある
[3, p256]。これは機械だけの問題ではなく、当時の日本では作業者(運転手)に経験者がおらず、その操作にブルドーザーを初めて見るトラックの運転手を充てたという話もある
[17, p199]。当時の設営機械は、製造技術の低さ、材質不良、運転技倆の未熟さなどから故障も頻発していた。
連合国軍は、1月20日に日本軍がキスカ島に滑走路を建設中であることを発見して、作業現場への爆撃を始めた。そのため、建設現場近くに避難のための防空壕やたこつぼが掘られた
[3, p202]。建設作業には設営隊だけでなく兵士も動員された。1日の作業人数は平均600名とされている [3, p201]。ただし、天気が良いと空襲で作業は中断され、吹雪の悪天候下では建設作業はなかなか進まなかった
[7, p148]。補給の途絶、特に岩盤を爆破する爆薬の不足は工事に深刻な影響を与えた。3月に入ると防衛強化のためほとんどの兵士は本来任務に戻り、設営隊だけによる作業に戻った。
キスカ島の飛行場は4月末には800 mの滑走路が概成した(3月末には完成していたという説もある。しかし、戦史叢書北東方面陸軍作戦は3月末の進捗を5割5分としている [3,
p278])。空襲を受けるキスカ島では飛行機を防護する掩体壕が必要であり、飛行隊が進出するのはその工事が終わる5月中旬以降の予定だった。5月末には滑走路だけでなく誘導路、掩体壕も完成し、飛行場は利用可能となった。しかし、アッツ島を失陥していたこともあって利用されることはなかった。さらに飛行場の拡張にも着手したが、後述する「ケ」号作戦の開始によって6月8日に作業は中止された [3, p279]。
アッツ島では当初飛行場適地がないとされていたが、再上陸以降の調査でホルツ湾奥の東浦に適地があることがわかった。人員や資材が整った2月25日から幅60 m、長さ1000 mの滑走路の建設工事が開始された。飛行場予定地の土質は砂地で、キスカ島より作業は容易ではかどったようである
[3, p297]。飛行場予定地は昼夜人間の足で踏み固められ、その上に小さいローラーを引いて路面は固めてられていった。5月末概成の予定だったが、連合国軍の上陸により未完成に終わった [3, p298]。
なお従来飛行場は東浦に造成されたことになっており、その点では各資料は一致している。しかし、グーグルの衛星写真を見ると、アッツ島の西浦のアディスン川に沿って長さ900 mの滑走路と掩体壕用の誘導路の建設跡がはっきり見える。これは誰が何の目的で作ったのか謎である。アメリカ軍の現在でも使われている滑走路はマッサカル湾岸に別にある。東浦にも滑走路のようなものを200 m程度作りかけたように見える跡があるが、その後風化したのか河や沼が多数あるため、滑走路跡なのかどうかはっきりしない。ちなみにキスカ島の飛行場跡は、半分は衛星画像の解像度が悪くてよくわからないが(2021年7月末現在)、残りの半分を見る限り第一滑走路らしき平原だけがなんとなく残っているだけである。
5-3 連合国軍によるアムチトカ島の占領
連合国軍は侵攻に備えてアダック島の施設を大幅に拡充した。その一環で魚雷艇をアダック島に派遣した。しかし冬季は船体に着氷してトップヘビーになっただけでなく、冬季の激浪によって5隻が海岸に打ち上げられた [4, p399]。結局魚雷艇は作戦には使えず、海が穏やかなときに哨戒や物資の輸送に使われただけだった
[10, p47]。アダック島から約300 km西にあるアムチトカ島は、キスカ島からわずか130
km東に位置しており(キスカ島とアッツ島間の約半分)、平坦な島で良港があった。アムチトカ島に航空基地が出来れば、わずかな霧や雲の合間をついて攻撃が可能になるため、空襲の頻度を格段に高めることが可能だった。逆にアムチトカ島を占領されれば、日本軍のキスカ島とアッツ島は首根っこを掴まれたも同然だった。連合国軍にとって同島の占領が次の目標となった。
12月21日にアメリカ統合参謀本部はアムチトカ島の占領作戦の実施を承認した。1943年1月にテオバルド少将に代わってトーマス・キンケイド少将が海軍の北太平洋軍司令長官に着任した。キンケイドは巡洋艦隊を率いて珊瑚海海戦に参加し、後に空母エンタープライズを率いて第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦の修羅場を経験した智将だった。この人事と同時に陸軍アラスカ防衛軍のバックナーは中将に、第11航空軍のバトラーは少将へ昇格した。バックナーはキンケイドを信頼しており、これによって陸軍と海軍の対立は解消へと向かった [16,
p12]。キンケイドは日本軍の補給の弱点を見抜いて、アッツ島とキスカ島への補給線のアムチトカ島からの強力な遮断を計画した
[16, p16-17]。
連合国軍の当初のアムチトカ島への上陸予定は1943年1月5日だったが、天候が悪いため1月12日に延期された。当日は理想的な天候からはほど遠かったが、作戦は決行され2100名の部隊が上陸した。しかし、駆逐艦「ウォーデン」は激しい風と海流に煽られて暗礁に乗り上げて14名が冷たい海で凍死した
[10, p59]。悪天候は続いて翌13日にも輸送船1隻が座礁した。
さっそくアムチトカ島での飛行場建設が始まった。滑走路用地はまず湿地の水を抜いて乾いた土砂で覆う必要があったが、ぬかるみのため車両は使えずに工事は難航した [10, p60]。1943年1月24日にアムチトカ島を偵察した日本軍の水戦は、連合国軍が同島に上陸して航空基地を建設中であることを発見した
[4, p384]。連合国軍のアムチトカ島占領は、日本軍の西部アリューシャン列島の防衛に大きな衝撃を与えた。やがて出来るであろう航空基地によって空襲はさらに激化し、キスカ島やアッツ島への輸送や補給は極めて困難になることが予想された。アムチトカ島に飛行場適地があることを知っていながら放置したつけが回ってきた。この後、日本軍ではアムチトカ島を奪回する案が何度か出されることになるが、連合国軍が既に占領している島への上陸作戦は、想定される損害を考慮するとできるはずもなかった。ここでも対応は後手に回った。
日本軍の二式水戦と水偵数機が、2月1日から16日まで5回にわたって飛行場建設を妨害するためにアムチトカ島の爆撃を行った [7, p207]。しかし2月18日にはアムチトカ島の滑走路が完成し、P-40とP-38戦闘機が進出した [8, p24]。2月19日にアムチトカ島飛行場建設の偵察に出た2機の二式水戦は未帰還となった。この2機はアムチトカ島から迎撃のために飛び立った20機ほどの敵戦闘機と空中戦を演じたことが、キスカ島の電探で捉えられている [7, p214]。この中の1機は敵機を20機以上撃墜破してエースとして知られた佐々木一飛曹だった。彼らは全弾を撃ち尽くして壮烈な最期を遂げたと考えられている。
5-4 4度目の防衛強化
大本営の岩越紳六少佐は、1月9日、10日とキスカ島とアッツ島(上陸せず)を視察し、補給輸送は荒天、敵潜水艦、敵機の妨害により、兵器4割、糧食6割、建築資材2割しか到達できておらず、3月頃までに両島に歩兵大隊1ずつの増加が完了しなければガダルカナル島の二の舞となる可能性があると1月28日に報告した [3, p537]。2月1日に第五艦隊参謀長一宮義之少将は、軍令部において今後の方針について、敵はアッツ島、キスカ島を遮断して孤立を図った後反攻するであろうから、2月末までに8月までに必要な物資を輸送する必要があると述べた。ただし、反攻のための米海上兵力は水上機母艦を含んだ10隻内外と判断していた [18, p138]。またその際に、第五艦隊ではアムチトカ島奪取の必要性を主張したものの
[4, p416-417]、その具体案の結論が出ないうちに3か月後に逆にアッツ島に上陸されてしまう結果となった。
連合国軍のアムチトカ島占領によって、西部アリューシャン方面の状況が切迫してきた。大本営は2月5日に大陸命第七百四十七号を発し、アッツ島とキスカ島の4度目の防衛強化に乗り出した。それまで北海道と南樺太防衛(対ソ作戦準備を含む)と、キスカ島とアッツ島への兵站支援が任務だった北部軍を、突如「北方軍」という作戦軍(実戦軍)にして従来に加えてアリューシャン方面の防衛戦をも担わせることになった
[18, p140, 144]。北方軍司令官には、北部軍司令官樋口季一郎中将が親補された。
大本営による同日の軍中央協定によって、陸軍の北海守備隊は第五艦隊の指揮下を離れて、新たにできた陸軍の北方軍の下に入り、北海守備隊のうち佐藤政治大佐を隊長とする第一地区隊(歩兵大隊3、砲兵大隊1,高射砲大隊1、工兵大隊1、通信中隊1)がキスカ島の、山崎保代大佐を隊長とする第二地区隊(歩兵大隊1、砲兵大隊1,高射砲大隊1、工兵中隊1、通信中隊1)がアッツ島の防衛を担うことになった [3, p245]。また、11月の中央協定では別途協定することになっていた飛行場完成時の飛行機の派遣元は、海軍と決められた。しかし飛行場建設は陸軍であったため、海軍は飛行場の概成ではなく、誘導路や掩体壕の完全完成まで飛行機の進出に慎重になった [19, p191]。なお、この協定によって千島の防衛強化も図られることになり、北・中・南千島に守備隊が置かれることになった。またこの防衛強化によって、1943年後半から1944年初めにかけて樺太、北海道を含めて新たに15の飛行場が建設されることになった [3, p312]。
この軍中央協定で、大本営はアッツ島とキスカ島を中心とする要地群と航空基地を3月末概成を目途として建設することとなり、そのための資材と兵力は「ア」号作戦と称して2月末迄に送ることとなった[4, p421]。このため、重巡洋艦「摩耶」や潜水艦「伊三十一」など4隻が第五艦隊に編入された。これによって後に「摩耶」はアッツ島沖海戦に参加することになる。この軍中央協定は、陸上機が進出するための条件として航空基地の完全な完成を前提としていたが、アムチトカ島に建設中のアメリカ軍の航空基地が出来れば常時制空権を奪われることは明白だった。北海守備隊司令官は、飛行場の完成のためにはむしろ先に制空権を確保して輸送を強化する必要があることを懸念した [4, p242]。
「ア」号作戦として2月中旬に計画された6回の船団輸送は次の通り [4, p436-438]。
- 2月13日にキスカ島へ向けた第十四船団(輸送船「崎戸丸」、「春幸丸」、巡洋艦「木曽」、駆逐艦「若葉」、「初霜」)
- 2月14日にアッツ島へ向けた第十六船団(輸送船「あかがね丸」、海防艦「八丈」)
- 2月18日にキスカ島へ向けた第十五船団(輸送船「粟田丸」、巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「電」)
が幌筵を出港した。さらに
- 2月19日にアッツ島へ向けた第十八船団一次(輸送船「どーばー丸」)
- 2月24日にキスカ島へ向けた第十七船団(輸送船「藤蔭丸」、巡洋艦「阿武隈」、「木曽」)
- 2月24日にアッツ島へ向けた第十八船団二次(輸送船「山百合丸」)
が幌筵を出港する予定だった。
この作戦の最中の2月19日に後述するようにアメリカ艦隊によるアッツ島への艦砲射撃が行われた。これによって、第十六船団「あかがね丸」は20日にアッツ島へ突入する途中でアメリカ艦隊に捕捉され撃沈された。航行中だった第十四船団は途中で引き返し、残りの第十七船団と第十八船団一次、二次の輸送は中止された
[4, p440]。第十五船団だけは2月22日にキスカ島への輸送に成功した [4, p440]。この船団によって、キスカ島へ防空隊約400名、25 mm機銃8門、13 mm機銃8門、弾丸2万発、探照灯3台、トラック11両、その他防護材、大発(大型発動機艇)などの増強に成功した [7,
p96]。2月に輸送に成功したのは、この第十五船団とアッツ島に2月12日に到着していた第十三船団(輸送船「山百合丸」)だけで、残りの5回は何れも不成功に終わった。
5-5 アッツ島への艦砲射撃と「あかがね丸」の沈没
アムチトカ島を占領した連合国軍は、日本軍の反攻を危惧した。特にアッツ島は多少離れており、まだ増援が行われていることが想定された。そのため2月19日にマクモリス少将率いる重巡洋艦「インディアナポリス」、軽巡洋艦「リッチモンド」、駆逐艦「コグラン」、「ギレスピー」、「バンクロフト」、「コールドウェル」がキスカ島よりはるか西方に進出し
[8, p24]、0930頃から2時間20分間にわたってアッツ島のチチャゴフ湾と陸上施設への艦砲射撃を行った [4, p439]。四五二空の水偵は16日、17日、19日とアメリカ艦隊をアッツ島沖に発見していたにもかかわらず [4, p436]、このアッツ島への艦砲射撃は日本軍にとって奇襲となった。砲撃後、アメリカ艦隊は東へ退却すると見せかけた上で、巧妙にも針路をアッツ島の南西へと向けた
[8, p25]。これは、日本の輸送船がアメリカ艦隊が去ったのを見計らってアッツ島へ入港するのを阻止するためだった。
日本軍は水偵3機を飛ばしてアメリカ艦隊を追跡しようとしたが、天候不良で行方を掴めなかった。しかし、北方部隊指揮官は待機させていた輸送船「あかがね丸」にアッツ島へ入港するように指示した [4, p439]。アメリカ艦隊は20日1830頃にレーダーによってアッツ島の南で日本の輸送船1隻を発見した。これが予定を遅らせてアッツ島へ入港しようとした「あかがね丸」だった。海防艦「八丈」は途中まで護衛していたが、アッツ島に近づいたため護衛を終了して引き返した直後だった。アメリカ艦隊は砲撃で「あかがね丸」に火災を発生させたものの沈まなかったので、6本の魚雷を発射したが、何れも外れるか船の手前で爆発した。やむを得ず再び砲撃してやっと沈めることができた [8, p26]。アメリカ艦隊のアッツ島への艦砲射撃は、陸上戦力への打撃もさることながら、前述したように日本軍の5つの船団輸送の阻止という効果を上げた。これは、逆に日本軍にとっては3月末までの防衛強化の大きな障害となった。