2021/05/18

1. はじめに

1-1    忘れられた戦争

ここでアリューシャンでの戦いとは、1942年6月の日本軍によるダッチハーバー攻撃と西部アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の占領から始まり、翌年8月の連合国軍によるキスカ島占領までを指す。この一連のアリューシャン方面の戦いは、太平洋中部における日米の主攻線での戦いと比べれば、北方のへんぴな場所での戦いであり注目度は低い。もちろん「ダッチハーバー攻撃」、「アッツ島とキスカ島の占領」、「アッツ島沖海戦」、「アッツ島守備隊の玉砕」、「キスカ島守備隊の撤退」とエピソード毎に語られることは多いが、この戦い全体が通して語られることは必ずしも多くない。しかし、アメリカ側の資料を含めて全体を通して見ることによって、個別ではわからなかったことが見えてくるかもしれない。

アリューシャンでの戦いがそれほど顧みられないことはアメリカでも同様のようで、アリューシャン方面での一連の戦いは「忘れられた戦争(the forgotten war)」とも呼ばれている [1]。「Aleutian 1942-1943」の著者ブライアン・ハーダーは、「アメリカの文化は、目的の明確さ、決断力のある行動、際立つ英雄、そして簡明で具体的な事象に価値を置く」 [2, p91]と述べている。そして、それらに適う事象は中部太平洋や欧州での戦いには豊富にあるが、陰鬱で霧にかすむことが多いアリューシャンでの戦いにはあまりない。これらがアメリカでも忘れ去られやすい原因の一部かもしれない。

アリューシャンでの戦いは、南太平洋でのガダルカナル島の戦いより2か月早く始まり、それが終わるキスカ島からの撤退はガダルカナル島の戦いより約半年遅かった。最後はガダルカナル島と同様に、キスカ島からの撤退という形でこの方面の戦いは終了した。ガダルカナル島での戦いは、連合国軍の突然の上陸から始まった飛行場の争奪戦というめまぐるしいが焦点が絞られた戦いだった。一方でアリューシャンでの戦いは、アッツ島での戦いを除くと焦点となるような攻防は少なかった。連合国軍はアッツ島とキスカ島の日本軍とその補給線を1年以上かけて空と海から攻撃しながら、徐々にアリューシャン列島を西へと前進していった。この時期は日米両軍の戦力差はそれほどなかった。それだけに日米両軍の戦争に対する考え方の違いが結果に明瞭に現れた戦いではなかったかと思う。そして策をじっくり時間をかけて練ることができた戦いであったにもかかわらず、日本軍はアッツ島での玉砕とキスカ島からの撤退を避けることができかった。その理由は何だったのだろうか。

アリューシャン列島は北緯50°付近に位置しており、その気候は日米間の主戦場となった熱帯の中部太平洋とは大きく異なる。アリューシャンでの戦いは敵とだけではなかった。日米両軍の兵士たちは厳しい気候や地形とも戦わなければならず、それによっても両軍は大きな犠牲を出した。上記の各エピソードには気象が何らかの形で影響している。アリューシャンでの戦いは、気象や気候が戦闘に及ぼす影響が大きな貴重な例となった。アリューシャン方面での一連の戦いでのそれらの戦訓は、アメリカ軍にとってその後の第二次世界大戦における作戦に影響を与えた。ここではアリューシャンでの戦い一連の経過について、気象・気候との関連を含めて詳しく見ていくことにしたい。

1-2    アラスカとアリューシャン列島

1.2.1 地理

アリューシャン列島は、デンマーク生まれのロシアの探検家ベーリング(Vitus Bering)が1741年に発見した島々で、アラスカとカムチャッカ半島の間の2000 kmにわたって弧状に連なっている。列島は約120の火山島からなり、その多くは固い岩盤の急峻な山々を持ち、少し高い山は通年で冠雪している。植物は灌木以外はほとんど生えない。平地は少なく、あっても火山泥によって深さ1 m近くぬかるむ湿原で、歩くことさえ容易でない場所が多い [2, p5]。島々の入り江は複雑に入り組んでいる上に岩礁や暗礁も多く、付近の航海には注意を要した。なお、アダック島とキスカ島には港として適した湾がある。

アリューシャンでの戦いの舞台となるキスカ島とアッツ島は、北太平洋とベーリング海との境となっているアリューシャン列島の西部にある。その中でキスカ島は長さ35 km、幅8 kmの火山島で、北端にはキスカ富士(標高1218 m)、島中央部の東側にキスカ湾(鳴神湾)があり、その南西にやや小さなガートルード入江(七夕湾)があった。その付近しか人が住める場所はなく、派遣されていた数名のアメリカ軍気象観測所員以外は無人だった。アッツ島は長さ48km、幅13~24 kmを持つやや大きな島だった。同島の海からそびえ立った断崖は複雑で、1000 m級の雪を頂いた鋸状の尾根に挟まれた峡谷があちらこちらにあった。島の東端にチチャゴフ湾(熱田湾)があってそこに数十名のアリュート人が住んでいた。そこから西に半径10~15 km程度が人が往来できる場所で、戦闘もその範囲で行われた。島のさらなる西側(島の4分3以上)はほとんど人が入ることはなかった。

アッツ島チチャゴフ湾の風景(1937年)。険しい地形の中で現地の人々の建物が見える。https://www.loc.gov/pictures/item/2017872310/

1.2.2 歴史

アリューシャン列島を含むアラスカは、1867年にアメリカがロシアから購入した。当時この購入は、アメリカではそれを企図した国務長官の愚挙と誹られたりした [3, p92]。その後19世紀末からアラスカでゴールドラッシュが起こり人口が増加した。それまでアラスカ地区(District of Alaska)だったアラスカは、1912年に正式にアメリカ合衆国の領土となった。1924年には原住民を含むアラスカに住む人々全てにアメリカの市民権が与えられた。

ロシア領(旧ソビエト連邦領)のコマンドルスキー諸島を除くと、アリューシャン列島のアメリカ領の西端はアッツ島で、同島はアメリカ軍の根拠地だったダッチハーバーからは約1300 km、日本軍の根拠地だった千島の最北端の幌筵(ほろむしろ、英語名ではパラムシル)からは約1200 km離れている。1922年のワシントン条約によってアリューシャン列島と千島は現状維持とされたため、日米ともに軍事施設を置けなかった [3, p11]。ワシントン条約は1937年に効力を失ったが、その後も日米ともヨーロッパで第二次世界大戦が始まるまで、アリューシャン方面はほとんど無防備だった [2, p6]。それは日本領だった北千島も概ね同様だった。

1.2.3 気候

アリューシャン列島は日本から見るとはるか北にあるが、キスカ島やアッツ島のある北緯53度付近は、アメリカ大陸でいうとカナダのエドモントン付近の緯度で、ヨーロッパでいうとイギリスのグラスゴー付近とそう変わらない。大西洋では暖流であるメキシコ湾流は直接高緯度まで流れ込むため、ヨーロッパ西岸は高緯度でも比較的温暖である。しかし太平洋の暖流である黒潮は東北沖で地形や親潮の影響で東に向きを変えるため、アリューシャン列島はヨーロッパ西岸の同緯度ほど暖かくない。向きを変えた黒潮は少しずつ北に広がっていき、アリューシャン列島付近でベーリング海の寒冷な海水とぶつかる。そのため、そこの大気は霧や曇りなどの不安定な気象を起こすことが多い。なお、冬季は寒冷になるものの付近の海が凍ることはない。

アッツ島の月平均気温。戦前の資料による [4, p23]。

アリューシャン列島は、夏季を除いてストームトラックと呼ばれる北日本を通って発達しながら北東に進む低気圧の通り道になる。その発達した低気圧はアリューシャン列島付近でしばしば停滞する。そうなると日本では西高東低の冬型の気圧配置が続くが、アリューシャン列島では低い雲が垂れ込めてブリザードなどの暴風雪が続くこととなる。日本では冬季にこの冬型の気圧配置になることが多いことからも、この季節にアリューシャン列島付近で暴風雪の頻度が少なくないことがわかる。しかも地形によっては、急峻な山からウィリワウ(williwaws)と呼ばれる局地的な強風が突然吹き下ろすこともある。

また夏季は比較的穏やかな気候であるものの、太平洋からと北極域からの海流や気団のぶつかりによってこの付近では霧が多発することが知られている。戦前の資料によるとその平均頻度は、5月が18%、6月が26%、7月が57%、8月が38%、9月が19%となっている。また霧には高気圧性と低気圧性の2種類がある。高気圧性の霧は太平洋高気圧の北西縁辺に発生して持続することが多く、低気圧性の霧は低気圧の接近に伴って発生し、その通過とともに消散するとなっている [4, p25]。秋から冬と春にかけては曇天や暴風雪とそれに伴う強風と高波の継続、夏は霧の多発がアリューシャン列島が持つ独特な気象である。

1.2.4 戦場としての環境

地図だけ眺めると、北米から日本まで(あるいは日本から北米まで)は、アリューシャン列島を通るルートが大圏コースとして最短となる。それに加えて1600 kmにわたって多数の島が連なっているアリューシャン列島は、一見すると順次侵攻していくための理想的な条件を備えているように見える。しかも、西部アリューシャン列島は、航空機の発達による航続距離の急速な延伸により、開戦時にアメリカ領土から日本領土(北千島)を直接爆撃できる唯一の場所だった。

しかしながら、アリューシャン列島付近の冬季を中心とする寒さ、頻度の高い強風とそれによる激しい風浪、霧や雲による頻繁な視程の低下などの気候、およびアリューシャン列島の多くの島での雪を頂く急峻な山々と複雑な海岸線、ほとんど木がないゴツゴツとした固い岩や深い湿地に覆われたわずかな平地という地理は、他の戦場とは環境が大きく異なっている。アリューシャン列島の少ない湾と暗礁の多い海岸は、大規模な艦船の停泊地、補給基地として不向きだった。強風による高波や霧の多発、冬季の着氷、複雑な海岸線と多くの岩礁は、艦船の航行を困難にした。航空機にとっては、この地域の天候の急変、離着陸時の強風、霧や雲による視程低下の多発、翼への着氷などは安全に対する脅威となった。そして将兵にとっては、低温と強風や雪の頻発、歩くことが困難な泥湿地、寒冷で晴れの少ない陰鬱な気候、見通しのきかない霧の多発は、そこにいるだけで過酷な環境だった。また霧の多発による湿り気は、通信機器などの電子機器の動作を不安定させることも多かった。

人間である兵士と航空機、艦船を始めとする精密機械による近代戦闘兵器の使い勝手を考慮すると、アリューシャン列島はおよそ軍事には向かない自然といえた。しかも、両軍とも戦争の前にはアリューシャン列島のそういった自然・気象にほとんど関心を持っていなかった。


1-3 アリューシャンでの戦いあらまし

近年の若い人たちは、過去に日米が戦ったことを知らない人もいると聞く。さすがにここを読んでいる方々にはそういう方は少ないと思う。しかし、アリューシャンでの長い戦いを通して読むのは骨が折れるので、ここにあらましだけ述べておく。これを頭の中に入れておくと、2章以降がわかりやすいかもしれない。タイトルは本文と対応している。

戦争前の状況

日本は真珠湾攻撃によって連合国と開戦したが、東北・北海道地方の東方海上には島一つない広大な太平洋が広がっていた。そこからアメリカ艦隊の急襲を受ける可能性があり、日本北方海上の防衛を担当していた第五艦隊はその防備の困難性を感じていた。第五艦隊はアメリカ領である西部アリューシャン列島を利用した哨戒線の前進を大本営に要望した。大本営も1942年3月の南鳥島空襲によってその危険性を理解した。

大本営は、ミッドウェー島と西部アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を利用した哨戒線を構築することを計画した。また作戦の目的として連合国軍のアリューシャン列島を経由した日本侵攻の防止も考慮された。そのため、大本営は折から計画していたミッドウェー作戦と並行して、西部アリューシャン列島の攻略(AL作戦)を計画した。

しかし、AL作戦への参加の申し出を受けた陸軍はこれを断った。ところが、4月のドゥーリトル日本空襲によって陸軍も哨戒線前進の必要性を感じ、一転してアリューシャン攻略への参加を承諾した。その結果、キスカ島を海軍陸戦隊が、アッツ島を陸軍の北海支隊が上陸・占領することになった。

アッツ島、キスカ島の占領の際にはアメリカ軍による抵抗が考えられた。それはアッツ島、キスカ島のアメリカ軍部隊をアダック島のアメリカ軍基地が支援し、それをダッチハーバーにある根拠地が支援するというものだった。そのため両島の占領に当たって、ミッドウェー作戦と並行して空母2隻から成る日本軍機動部隊がアダック島とダッチハーバーを空襲する計画が立てられた。

5月下旬に行った海軍の潜水艦とその搭載水上飛行機による偵察の結果、アッツ島、キスカ島にはアメリカ軍はおらず、アダック島にも軍事施設がないことがわかった。しかし、ダッチハーバー空襲計画はそのまま進められ、その攻撃日はミッドウェー島攻撃の1日前に設定された。

アリューシャン作戦(AL作戦)

1942年6月4日に空母「隼鷹」と「龍驤」からなる第2機動部隊はダッチハーバーを空襲した。しかし、この地方特有の雲と霧の多い天候によって、実際に攻撃を行えたのは一部の攻撃隊だけだった。そのため第2機動部隊はアダック島攻撃の計画を変更して、翌日5日に再びダッチハーバーを空襲した。

第2機動部隊はアメリカ軍のB-17、B-26による果敢な攻撃を数度にわたって受けたが、幸いに被害はなかった。しかし、数機の九九式艦上爆撃機がダッチハーバー西方に秘密裏に新設された航空基地から発進した戦闘機の迎撃を受けて撃墜された。さらに暗闇と霧によって機位を失した2機が母艦に戻れずに自爆した。この新航空基地発見は聯合艦隊司令部へ報告された。

また、5日のダッチハーバー攻撃時に零式戦闘機が1機地上砲火で被弾し、アクタン島の湿地に不時着した。搭乗員は死亡し、飛行機は後にアメリカ軍に接収されて性能試験が行われた。

一方で、5日のミッドウェー作戦の失敗により、AL作戦(上陸作戦)もいったん中止された。しかし、ミッドウェー島を用いた哨戒線の前進が不可能になったにもかかわらずAL作戦は再開された。6月8日からのキスカ島とアッツ島の上陸は順調に進められた。

キスカ島では10名のアメリカ軍気象観測員が捕虜となった。アッツ島ではアメリカ民間人夫婦が捕虜となった。両名は自殺したが妻は生き残って大戦間の唯一の民間人捕虜となった。現地のアリュート族約40名は、一時期日本軍と友好的に共存して暮らしていたが、彼らは日本軍が8月にアッツ島を一時撤収した際に、キスカ島経由で日本に連行された。

西部アリューシャンの防衛

アメリカ軍は6月12日から主に長距離大型爆撃機B-24とB-17を用いたキスカ島への空襲を開始した。これはアリューシャン東部に新航空基地を建設していたからこそ可能だった。一方で、ダッチハーバーを攻撃するまでそれを知らなかった日本軍にとっては、想定外の反撃だった。

湾内で荷揚げ中の輸送船が被害を受けて、日本軍は防衛の強化に迫られた。大本営は二式水上戦闘機、甲標的(特殊潜航艇)、追加の大砲の輸送を行った。その際に湾外で駆逐艦3隻が潜水艦から雷撃されて沈没・大破したが輸送は成功した。

空からの爆撃では効果が少ないと考えたアメリカ海軍はキスカ島への艦砲射撃を計画した。しかし、その実行は霧のために延びて8月8日となった。この日はアメリカ軍の南太平洋ガダルカナル島上陸の翌日であったが、それと連動したものではなかった。日本軍の被害は少なかったが、日本軍にとって心理的影響は大きかった。

これによってアメリカ軍のキスカ島侵攻を危惧した大本営は、8月末にアッツ島の陸軍部隊を撤収してキスカ島に移動させ、防備を集中する配置を行った。アッツ島へ陸揚げされていた資材の多くは、万一敵が上陸した際に利用されないように焼却された。この配置変更は後のアッツ島玉砕の伏線となった。

一方で、アメリカ軍は8月末にキスカ島から400 km東のアダック島に上陸し、わずか2週間で滑走路を完成させた。そして9月15日から護衛戦闘機を随伴させた戦爆連合による大規模空襲を開始した。これによってキスカ島の防空はより困難になり、物資の輸送には駆逐艦が用いられることが多くなった。

この状況を受けて、第五艦隊では冬季の間に撤退も検討していた。しかし、大本営では西部アリューシャンの確保を継続し、10月にアッツ島の再占領と3月を目処としたアッツ島とキスカ島の滑走路の建設、アッツ島東のセミチ島(セミア島)の占領を計画した。10月末から11月にかけてアッツ島再占領はなんとか無事に行えたものの、11月に発令されたセミチ島占領作戦は、アッツ島での輸送船被害を受けて途中で中止された。南太平洋でのガダルカナル島攻防も日本軍の敗色が濃くなりつつあった。

アリューシャン列島の冬

冬季に入ると、荒天とその合間の空襲で輸送はいよいよ困難になってきた。しかも1943年1月になるとアメリカ軍はキスカ島からわずか130 km東のアムチトカ島に上陸して飛行場を建設し始めた。キスカ島の水上機数機が数度のアムチトカ島爆撃を行ったが、この程度では工事にほとんど影響がなかった。

2月18日にアムチトカ島の飛行場は完成し、天候が良くなる春にはアメリカ軍による激しい空襲が予想された。これは天候さえ良ければキスカ島上空がアメリカ軍機によって常時制圧されることを意味した。ちょうどガダルカナル島からの撤退が行われた頃だった。

危機感を募らせた大本営は飛行場建設と防衛のための輸送を強化するため、2月に「ア」号作戦と称して船舶による6回の輸送を行うことを決定した。ところが、2月19日にアメリカ艦隊が今度はアッツ島への艦砲射撃を行った。さらにその際に、「ア」号作戦の輸送を行っていた輸送船がアメリカ艦隊によって途中で撃沈された。このため「ア」号作戦で計画されていた5回の輸送が中止された。これがアッツ島防衛に大きな影響を与えた。3月3日には南太平洋でもビスマルク海海戦で日本軍の輸送船8隻と駆逐艦4隻が沈没し、ニューギニアへの輸送が阻止された。

アッツ島沖海戦とその後

第五艦隊はアメリカ艦隊の妨害を排除して輸送を強行するため、3月に巡洋艦と駆逐艦からなる強力な護衛を付けた「集団輸送」を計画した。この第1回目の輸送は3月初めに無事に成功した。第2回目の輸送の途中の3月27日、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻からなる日本艦隊は、アッツ島南西で重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻からなるアメリカ艦隊と遭遇した。

最初西へ、その後南へ高速で逃げるアメリカ艦隊を日本艦隊が4時間にわたって追いかける「アッツ島沖海戦」が起こった。戦力ではアメリカ艦隊より優っていた日本艦隊だったが、決定的な打撃をアメリカ艦隊に与えることが出来なかった。有利な態勢だったにもかかわらず、情報が錯綜していた日本艦隊は転舵して戦場から去り、輸送も中止された。

この後、キスカ島とアッツ島への輸送は潜水艦によるものだけとなった。キスカ島の飛行場の完成は5月になると見込まれた。

5月頃からアリューシャン列島は霧の季節となる。大本営では4月頃からこの霧を利用した「霧輸送」と称した輸送によって、霧の期間に半年から1年分の物資をまとめて輸送する計画を立てた。大本営は、前年秋に翌春の連合国軍による侵攻を予見したにもかかわらず、「霧輸送」の検討の際に、この時期に連合国軍が西部アリューシャンへ侵攻してきた場合の対応を全く検討しなかった。

連合国軍のアッツ島上陸

霧のために予定より遅れたものの、連合国軍は5月12日にキスカ島より日本に近いアッツ島へ霧の中を11000名を突如上陸させ、これを聞いた大本営はあわてた。アッツ島守備隊では独自の判断で上陸を警戒していたが、上陸は警戒態勢を解いた直後のことだった。連合国軍の霧の中での上陸を可能にしたのは、極超短波を用いたSGレーダーのおかげだった。

不意を突かれた大本営は対応に手間取った。2500名のアッツ島守備隊は補給途絶により物資不足だった上に、再上陸後防衛のための築城を後回しにして飛行場を建設していたこともあって、防備態勢は完成していなかった。

アッツ島守備隊は頑強に抵抗したが、霧が晴れると上陸部隊からの指示に基づいた戦艦による艦砲射撃と航空機によるピンポイント攻撃によって防衛拠点は次々に破壊され、徐々に不利に陥った。

アッツ島守備隊は、5月18日に建設中の飛行場予定地を明け渡してチチャゴフ湾奥の根拠地へと撤退した。反撃を計画していた大本営は、アッツ島守備隊が建設中の飛行場を明け渡したことで、5月20日にアッツ島救援を諦めるとともにキスカ島からの撤退も決めた。アメリカ軍が上陸してわずか1週間ほどのことだった。なお、日本軍の粗雑な建設能力を知っていたアメリカ軍は、日本軍が建設中の飛行場を使わずに後日別な場所に新たに飛行場を建設した。

北方軍は5月20日に訣別の電報をアッツ島守備隊へ送った。アッツ島守備隊はその後も頑強な抵抗を続けていたが、防御陣地が破壊された上に食糧が尽きていた。アッツ島守備隊は29日夜から30日の夜半にかけて最後の突撃を何度も繰り返して行った。一部は連合国軍の前線を突破したものの連合国軍は予備隊を含めた反撃を行い、アッツ島守備隊は全滅した。その際には自決した兵士も多かったと考えられている。アッツ島守備隊の全滅は日本国内では初めて「玉砕」と報道され、太平洋戦争における最初の玉砕となった。

キスカ島撤収-「ケ」号作戦

アッツ島玉砕後、キスカ島はアッツ島とアムチトカ島の連合国軍から東西から封鎖された形になった。そのため潜水艦を使った守備隊の撤収(第一次撤収)が5月29日から始まった。キスカ島には5600名の守備隊がいたが、潜水艦では1回で60~80名の収容しか出来ず、潜水艦を用いた撤収には9月までかかると見られた。

それでも潜水艦を用いた撤収作戦は当初は順調に進捗し、6月18日までに約870名の撤収に成功した。ところがアッツ島攻略が一段落した6月中旬から、連合国軍のキスカ島封鎖は強化された。当時の潜水艦は海中に潜ると長距離の移動は行えず、移動はもっぱら水上航行に依存していた。海上航行中の潜水艦は、霧の中で連合国軍の駆逐艦から相次いでレーダー射撃を受けて数隻が沈没した。これによってキスカ撤収作戦はいったん中止された。

連合艦隊は艦船を用いた一挙撤収を企図した第二次撤収を決定した。しかしこれは賭けだった。日本艦隊は霧が出ると航空攻撃は避けることができるが、レーダー性能が劣っているため、封鎖しているアメリカ軍の艦船から不意にレーダー射撃を受ける可能性が高かった。しかも、もし霧が晴れると航空攻撃からも逃れる術はなかった。撤収の際の敵攻撃圏内の滞在時間を最小にするために、輸送船ではなく、水雷戦隊の軽巡洋艦と駆逐艦を用いた撤収艦隊が組織された。

キスカ島付近の霧の出現を予測した撤収艦隊は7月7日に北千島の幌筵を出港した。艦隊はアメリカ軍の攻撃圏外に待機してキスカ島付近が霧になりそうな日を待った。いったんキスカ島へ突入しかけたが、安定した霧は現れず燃料もなくなってきたために、水雷戦隊指令官木村昌福少将は帰投を指示した。

この帰投はやむを得ないものだったが、大本営と第五艦隊は水雷戦隊の判断に疑念を抱いた。次回の撤収作戦には第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で途中まで随行することになった。2回目の第二次撤収は7月22日から行われた。今度は途中の霧が深かったため、部隊の一部が霧の中で行方不明になったり艦船が衝突したりした。

今回は霧の日が多かったにもかかわらず、同行していた第五艦隊司令長官は、最後の突入の判断に逡巡した。周囲の押しもあって7月28日に突入の命令は下され、7月29日にキスカ島での撤収が行われた。

キスカ島を封鎖していた戦艦を含む強力なアメリカ艦隊は、27日の夜に謎のレーダー反応によって、キスカ島の南で幻の相手に砲撃を行い、たまたま29日にキスカ島から離れた洋上で補給を行っていた。29日はキスカ島は霧が深かっただけでなく、日本艦隊にとって幸運にもアメリカ艦隊はキスカ島付近から一時的に離れていた。

キスカ島に突入した艦隊はわずか1時間足らずで、全将兵を収容して幌筵へ向かった。途中で霧の中でアメリカ軍の浮上潜水艦に遭遇したが、潜水艦は味方艦隊と誤認したようだった。艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして残りの5186名も無事にキスカ島からの撤収に奇跡的に成功した。

連合国軍によるキスカ島上陸

アメリカ軍は入念な砲撃と爆撃の後に、8月16日に約35000名がキスカ島へ霧の中を上陸した。引き続き頑強な日本軍が守っていると信じていた彼らは霧の中での同士討ちや日本軍が仕掛けた地雷などで二百数十名の死傷者を出した。連合国軍は最終的に8月23日にキスカ島の確保宣言を出した。連合国軍はアッツ島に航空基地を建設し、何度か北千島に小規模な爆撃を行ったものの、ここを根拠地にして北日本へ侵攻することはなかった。

以上がアリューシャンでの戦いのあらましである。

(つづく)

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