アリューシャンでの戦いは、太平洋の戦いにおいて初期から中期にかけて1年2か月にわたって細く長く戦われた。 日本軍が太平洋での戦闘をどのように考えていたか、そしてそれがどのように変わっていったのかを示す良い例だと思っている。そしてアリューシャンでの戦いを通して、アメリカ軍と日本軍の対応を対比させてきたが、その結果、日本軍は占領しても飛行場を作らないなど、そもそも航空戦に対する日本軍の戦争観が他国と異なっていたことがわかる。そして、日本軍の航空戦に対する戦争観は、欧米に比べて質・量ともに一時代昔のものだったのではないかと思っている。
第一次世界大戦後、日本の航空機開発技術は全く遅れていた。世界水準の航空機を自主的に開発製造出来るようになったのは、1935年頃からである[36, p35]。その後急速に技術が向上し、確かに1000馬力級では日本はいくつかの優秀な航空機(機種)を開発して、数百機程度の運用を行うことはできた。しかし、結果的にそれが限界だった。次世代航空機(2000馬力級)の開発は欧米より遅れ、一部の活躍はあったものの、2000馬力級の航空機数千機を用いた航空戦力の持続可能な安定した運用は、実質うまくいかなかったと言えると思う。
その原因は、個々の航空機が持つ性能(速度や航続距離、操縦安定性など)にのみ焦点が当たり、航空戦力を発揮させるための航空機の生産量や運用基盤の体系的整備体制(搭乗員への配慮、予備部品の補充、機体輸送、エンジンと機体整備、航法・通信システムなど)、航空部隊を有機的に結合させる手段などへの理解が足りなかったというのが私の感想である。航空機性能の一時的な優越と偏った戦争観が、米英と戦えると判断した一因とすれば、それは日本軍首脳部の奢りと航空戦力に対する狭い見方だったためとしか思えない。
航空機の生産量という概念が欧米に及ばなかった原因について
この原因は第一次世界大戦にあると思う。近年、第一次世界大戦と第二次世界大戦を一つの戦争として考え始められている。それまでの戦争は、銃砲弾などの消耗品を除いて、戦争開始以前に持っていた軍備を使い、それで大方の勝負がついた戦争だった。しかし、第一次世界大戦では、それ以前には全く使われたことのない新兵器を戦争中に大量に生産して戦場で使うことが行われた。典型的なものは航空機や戦車である。
航空機を見た場合、第一次世界大戦開始時は兵器としての威力はまったく不明だったが、戦争終了時にはその戦力の重要性ははっきり確立していた。それは、第一次世界大戦中にフランスが67000機、イギリスが49000機、遅れて参戦したアメリカが13500機の航空機を製造していたことでもわかる[46,p32]。これはそのための生産設備を整備し、運用体系を確立していたということである。
当然次の戦争が起これば、それに匹敵する機数が必要になることは容易に想像できる。そして、欧州で次の戦争の兆候が見られた段階で、各国、特にアメリカは戦争に備えた大量の航空機の生産計画を作成した。しかも日本以外の国々は、手直しは必要だとしても、第一次世界大戦を通して、ある程度はその開発・生産基盤をすでに持っていた。
ところが、第一次世界大戦で本格的に戦っていない日本は(駆逐艦の地中海派遣と青島攻撃のみ)、第一次世界大戦ではわずかな既存の航空機を青島攻撃で試験的に使ってみただけで終わっている。戦後、それから航空機をどう戦力として見なすかという議論が始まったが、その議論は航空機単体の性能と運用に終始した感がある。そして平時でもあり、航空機の製造はマスプロダクトではなくオーダーメイドであり、そういう生産基盤しか持っていなかった。
生産設備の拡充
陸軍が1935年に派遣した伊藤航空視察団、翌年の菅原航空視察団、1940年の山下独伊軍事視察団など、いくつかの訪欧視察団の報告によって徐々に航空戦力としてはその国産化と量の整備が必要であることの認識が始まった。海軍でも昭和十二年度海軍補充計画(③計画)、昭和十四年度海軍軍備充実計画(④計画)、昭和十七年度艦船建造補充、航空兵力増勢計画(⑤計画案)が制定され、不十分ながら結果としてその拡大が段階的に図られた。
しかし、生産設備の拡充には時間がかかる。もともと資源が乏しい上に手工業中心で生産基盤が薄いため、その生産拡充は後手後手に回った。つまり、生産拡充計画を立てても、その達成には5年なりの時間がかかる。しかし実際には数年たつと、計画は実態に見合わないものとなり、計画が達成されていないにもかかわらず、すぐに生産計画の見直しが始まった。その繰り返しが終戦まで延々と続いた。それが段階的という意味である。生産現場は、生産しながら生産設備の改修を図ることになり、それに相当振り回されたのではないかと思われる。
数値として見える航空機製造量というのは、氷山の水面上に見えているわずかな部分なようなものでしかなく、その生産量を支えるには水面下に膨大な生産基盤の整備が必要である。結局、資材の不足(原料不足や精錬施設の限界のため、既存の資材の陸海軍の取り合い、性能の劣る代替資材の利用)、製造設備の不足(一部の機械は輸入に頼っていたため、戦争が始まると自主開発に迫られた)、生産方法の見直し(1940年頃から熟練作業員の広範な工程にわたる手作業から一般工員ごとの工程の単一化による効率化)、生産設備の空襲による破壊や疎開作業などによって、計画した航空機の生産量に見合う生産基盤は最後まで整わなかった。
軍首脳や航空司令官に航空戦の経験者がいなかった
航空機の生産量や運用基盤の整備、有機的な運用が欧米に及ばなかったもう一つの原因は、航空機の運用(航空戦)を真に経験した軍首脳や航空司令官がほとんどいなかったことである。アメリカ海軍は航空隊の司令官を任命するに当たり、航空機の操縦経験を重視していた。これはアメリカ海軍初代航空局長だったウィリアム・モフェットが、1920年代に海軍航空部隊の指揮官と空母の艦長は、航空分野出身の士官のみから選出するという決定を行ったためである。また、それなりに航空経験者の蓄積もあった。
これによって、航空戦に理解のある指揮官を登用できただけでなく、海軍の有能な人材を航空分野にひきつけることができた。これによって、海軍航空局は海軍内部で影響力のある航空分野の上級将校の厚い層を生み出すことに成功した(塚本勝也、戦間期における海軍航空戦力の発展、戦史研究年報 第7号, 防衛庁防衛研究所、2004、p36)。
そのため、例えばアメリカ合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キングは、空母レキシントン艦長になるにあたり、48歳で航空機操縦免許を取得している。また、ウィリアム・ハルゼーは機動部隊を指揮するために52歳で航空機の操縦免許を取っている。太平洋の各地で上陸戦を指揮した海軍のリッチモンド・ターナーは、かつてはパイロットであり、また航空隊を指揮した経験もあった。
また、アメリカ海軍パイロットの第一号であったヘンリー・タワーズは、1942年10月太平洋航空部隊司令部司令官になると、第一線で活躍するには歳を取り過ぎているがパイロットの資格を持つ、数多くの予備役をその育成にあたせるという体系的なパイロット速成プログラムを作成した。これが大量のパイロットの育成を可能にした。
またアメリカ陸軍でもアラスカ防衛軍司令官だったバックナーを見てもわかるように、一部の司令官は第一次世界大戦で実際に航空機を操縦した経験があった。それが例えばアラスカでの迅速な航空戦力の整備の重視に貢献した。航空隊の司令官ではないが、連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワーは、350時間の操縦経験を持っていた。これは欧州で数々の地空海統合作戦を指揮するに当たり、大きな役割を果たした。例えばノルマンディー上陸作戦計画時、総司令官であるアイゼンハワーはイギリスにいる英米の戦略空軍の指揮権を持っていなかった。しかしその重要性を認識していた彼は強行に主張してその指揮権を手に入れている。その結果、それによってフランスにいるドイツ軍の防衛基盤の空からの破壊に成功した。
一方で当時の海軍の日本の司令官クラスを見ると、操縦経験を持っていた海軍高官は大西瀧次郎くらいだろう。他に山本五十六、塚原二四三、井上成美、草鹿龍之介、山口多聞は操縦経験はないが偵察員もしくは航空隊を指揮した経験を持つわずかな高官の一人だった。しかし、第一次世界大戦時とその後の航空機の量がわずかだった日本では、操縦経験者たちが海軍将官まではまとまって育っておらず、一部の航空経験者は個人的な対応に留まり、効果的な航空作戦を企図できる派閥や組織までのまとまった層にはなっていなかったと思われる。
日本海軍でも、航空戦力の拡充にともない、航空出身の高級幹部として早くから航空以外の分野から人材を選抜して、空母艦長や航空隊司令などに配属している(塚本勝也、戦間期における海軍航空戦力の発展、戦史研究年報 第7号, 防衛庁防衛研究所、2004、p42)。しかし、後述するような航空戦に対する肌感覚を身につけた高級幹部が少なかったことは、複雑で繊細な航空戦を戦うに当たって致命的になったと思われる。これは個人の問題と言うより組織の問題である。
では、なぜ操縦経験が重要なのだろうか?それはそれまでの兵器とは全く異なる航空機という特殊な兵器の運用への理解にある。航空機は攻撃に使えば強力であるが、その戦力を発揮する前に多くの弱点を抱える。それはそれまでの 戦力や兵器である歩兵・砲兵や大砲・軍艦などの運用とは全く異なる。それらの経験からは航空機(航空戦)の運用の複雑さを理解できない。しかも空母を使った航空戦力の使用は、ミッドウェー海戦を見ればわかるように、全く新しい極めて独特でかつ複雑なノウハウが必要となる。
陸上機の最前線の航空機の機体の運用だけ見ても、航空機の稼働率は高くなく(つまり使える機数は実数よりかなり少ない)、エンジンと絶えざる整備、弾薬燃料の補給、機体の修理・補充など、その運用にはさまざまな手間がかかる。しかも被害も多く、そうでなくてもエンジンや機体の寿命は短い。そのために定期的に前線への航空機や予備部品の補充(もちろん生産も)が必要となる。また航空機だけでなく、(設営能力を別としても)飛行場の維持管理や補修、敵の攻撃を防ぐ防空体制、通信施設の維持整備、気象状況の把握設備、搭乗員の健康管理などの関連基盤も必要となる。これらは総合的かつ体系的に運用されないと、どこか一つでも隘路があるとそれがボトルネックとなって全体に影響する。
操縦員を見ても、その技量の維持には定期的な訓練が欠かせない。一方で疲れも大きな敵となる。一定程度飛行を重ねると食欲の減退、判断力の低下、気力の低下を招く。これは航空病と呼ばれることもある。その対応に欧米では搭乗員への実線・休養・訓練のサイクルを確立するなどして配慮が行われていた。アメリカ軍では、空中勤務者には、300時間の戦闘飛行後、本国帰遠休暇の権利が与えられた。また、その中間で、オーストラリアヘの短期休暇が活用されていた [46,p275]。
日本では、戦前から航空疲労等の実体解明に努めていたが、「その原因・病理・治療法・予防法等について成案を得ないまま、大東亜戦争に突入した。」[46,p459]。戦時中の日本軍では航空機の特殊な環境はほとんど理解されず、操縦員を一般兵士と同様に酷使した。戦史叢書には、「慢性航空疲労のため無気力に陥った者を、卑怯者や精神病者と同一視する風潮も一般には存在した。」[46,p274]と書かれている。航空部隊が補充部品の不足や悪天候のため出撃できない状況を見て、航空兵科以外出身の指揮官が「空中勤務者は精神力が劣っているから再教育をすべきだ」との意見書を出した例もあった(由良 富士雄、 太平洋戦争における航空運用の実相, 戦史研究年報 第15号、2012、p86)。
その結果、搭乗員が病気のまま出撃したり、「死ななければ帰れない」というような悲観的な空気が流れた。坂井三郎氏の「大空のサムライ」にも、訓練している搭乗員に支給されていた特別栄養食を支給停止にした主計長を2座のゼロ戦の後部座席に乗せて、実戦同様の飛行を行って、操縦が如何に過酷であるかということを納得させたという話が記載されている。
航空戦の諸問題を理解しない司令官が、陸戦・海戦と同様な無理な要求を出して、補給・補充の悪い状態で第一線で操縦員を酷使した結果、熟練した搭乗員でも判断力の低下や体力の低下などで撃墜されあるいは墜落した者も数多くいたと思われる。例えば、ガダルカナル島での航空戦では、ラバウルからの無理な遠距離飛行も含めて、笹井醇一などの零戦の数多くのベテラン搭乗員が、性能が劣ると言われているF4Fワイルドキャットに撃墜されていることもこういった運用と関連しているかもしれない。
これらの航空機運用の繊細で特殊な面は、中央の司令部にいてはわからず、実際に飛行機を日々操縦して、現場で日常的に起こる疲労、整備不良、補給不足、天候による不時着、場合によって敵襲の問題を肌感覚としてわかっていないと理解できないだろう。そういった理解が日本の航空戦力に関する戦争指導層には不足していたのではないだろうか?
前線を支援する施設の整備
さて、航空戦力の基盤整備に話を戻すと、最前線が内地から遠いと、その航空戦力を支えるための支援施設が途中に必要となる。これは前線で消耗した航空機や交換エンジン、弾薬、燃料、エンジンオイル、補修部品などを集積して、必要な場所へ送るために施設である(これは今の物流でも同じである)。飛行場の維持に必要な物資も同様である。場合によっては前線で修理できない航空機の修理・改修も行う。当然、各地の前線の兵員を支える物資の輸送もここが拠点となる。
そして、ここは中間設備であるため、内地から物資を受け取って必要な場所へ送るための輸送手段(例えば輸送機やその操縦員)も、多くの場合にここが管理することになる。さて日本軍は東南アジアや南太平洋へ戦線を拡大して行くにつれて、シンガポールやトラック島に支援施設を構築した。1942年に大湊、舞鶴、鎮海の航空廠支廠を昇格させ、第四十一、第三十一、第五十一航空廠とした。そして、占領地にも順次101空廠シンガポール、102空廠スラバヤ、103空廠マニラ、104空廠パラオ、105空廠サイパン、106空廠ルオット、108空廠ラバウルを設置した[36, p293]。
しかし、それは十分に体系的な組織としてではなく、とりあえず設置した観が強い。実態としてはそれから構築が始まったのだろうが、戦史叢書では、「不足がちの補用品などが、所要時機に所要部隊に届かず、他方面の倉庫に眠ってしまうこともあった。広域を担任する大特設航空廠の制度を採り、 戦況などにより担当区域内の補給品を現地において移動供給できることとしていたが、既述のとおり、在庫品や 輸送力不足などもあって、その機能を十分に発揮するに 至らなかった。 」とある[36, p342]。
その上、アメリカ軍は1944年2月にトラック島の補給基地を叩いて、前線への補充が滞っていた飛行機を数百機の単位で破壊することに成功した。これがラバウルからの航空戦力の撤退のきっかけとなった。補給施設の整備不足・防備不足が最前線での航空戦力の発揮を弱めた可能性がある。
無線電話技術の後れ
私は航空戦に敗退した原因として、もう一つ無線電話技術があると考えている。もし空中でコミュニケーションがとれれば、バトル・オブ・ブリテンでイギリスが無線で味方機を敵機へ誘導してドイツ機の撃退に成功したように、その有用さは計り知れない。太平洋戦争の末期を除いて、日本の航空機での無線電話の利用(特に単座機)について、あまり体系的な資料を知らない。
真珠湾攻撃の際の攻撃隊内の指示は、無線ではなく指揮官機からの信号弾だった。1発だと奇襲、2発だと強襲と決められていた。指揮官機は奇襲と判断して信号弾1発を打ったが、念のためにもう1発打ったため、一部の攻撃隊は強襲と勘違いして、混乱が起こったのは有名な話である。それでも多数の航空機からなる攻撃が成功したのは、真珠湾攻撃に特化した特殊な作戦のための特殊な部隊として訓練されていたためである。その能力は属人的・属所的であり、航空機を用いた攻撃システムとしての汎用性はなかった。
真珠湾攻撃に匹敵する大規模航空攻撃を試みた1942年4月の「い号」作戦では、その欠点が露呈し、他の機が針路や目標を妨害したりして連携がうまくいかなかった。例えば 4月7日のX攻撃(ガダルカナル島)では、戦闘機157機と急降下爆撃機67機が出撃したが、戦果としては、沈没したのは駆逐艦1、油槽船1、掃海艇1でその他に複数の損傷艦があっただけだった(戦果はwikipediaによる)。日本軍の航空攻撃が沿岸監視員によって事前に漏れていた原因もあろうが、大規模な攻撃の割には戦果が上がったとは言いがたい。
1944年のフィリピン防衛の戦記(例えば新藤常右衛門著、「あヽ疾風戦闘隊」)を読んでも、近くの航空基地が攻撃を受けて苦戦しているため、航空基地上空の警戒機に応援へ行けと地上の掲示板で指示しているのに、警戒機はそれに気づかずにゆうゆうと着陸してくるなど、欧米とは別次元の戦いを行っているようである。航空作戦には、少なくとも無線は必須であろう。
また、空母同士の海戦においても、到着までは戦闘機が攻撃機を援護できても、いったん攻撃隊が散開して攻撃が始まると、無線機を積んでいない日本の戦闘機隊はどこで何が起こっているのかわからなかったと思われる。アメリカ軍は戦闘機がいない帰りの雷撃機や爆撃機を意図的に狙った。日本の攻撃隊は帰りには戦闘機に援護を頼む術がなく、かなりの雷撃機や爆撃機が帰途時に撃墜されたようである。それが反復攻撃力を削いだ。
私が知っている範囲で言えば、単座機では一部は無線電信機を使っていた航空機部隊もあった。しかし、無線電信機を使おうとするとモールス信号をマスターしなければならない。当時の搭乗員の様子を見ると、養成課程の違いによってモールス信号の教育を受けていない搭乗員もかなりいたようである。そのため、無線電話の実用化は重要だった。
しかし、用兵側もあまりコミュニケーションを重視しなかったためか、航空機用の無線電話技術の開発・改善が遅れた。そして無線電話が使えなかった大きな技術的要因はノイズにあり、それがアースの取り方で改善するのは1944年夏頃からだったようである。つまり無線電話が機上で使えるようになるのは、それ以降と言うことになる。もちろん混信を防ぐためにその運用方法も確立する必要があった。
英米独は1939年の大戦当初から航空機で無線電話を使っており(地上からの対地攻撃の指示、陸上・艦上からの対空防御の指示など)、それが効果的な地上攻撃や防空システムに大きく役立っていた。この技術差による不利はいかんともしがたかった。
操縦員・搭乗員の養成
航空機の量と対となるもう一つの問題は操縦員の養成である。日本軍はわずかしか養成できない名人を重要視し。数が必要という考えが乏しかった。そのため、日本軍は多数の搭乗員の養成が欧米に比べて後手に回った。
高度な技術を要求される搭乗員(特に操縦員)の養成は時間がかかる上に、どこかの段階で操縦教員による一対一の指導が必要となる。そのため、操縦員の大量養成には大量の操縦教員が必要となる。日華事変を戦っていたこともあって、太平洋戦争のための搭乗員の養成が、最も重要な時期に十分に行えなかった。搭乗員の募集は出来ても、常に教員不足に悩まされた(それを補おうとすると最前線が手薄にあるという二律背反に悩まされた)。
搭乗員の養成には膨大な手間と時間がかかっており、また貴重なノウハウを蓄積している。その損失は戦力の喪失と直結している。しかし、撃墜された、あるいは墜落した搭乗員の救出(例えば飛行艇や潜水艦を配備)は、一部の決戦時などを除いてあまり積極的ではなかったようである。トラック島からラバウルへ移動途中の三式戦飛燕が、洋上でエンジン不調を起こした際に、操縦員は悲観してそのまま海に突っ込んだ例が複数ある(碇義朗、戦闘機「飛燕」技術開発の戦い、1996、p140)。その点アメリカ軍では、航空機へのサバイバルキットの搭載と搭乗員の救出を徹底していた。
また、無線電話が使えなかったことは、搭乗員の育成にも大きな影響を与えたのではないか?無線電話が使えれば、ある程度操縦技術さえマスターすれば、後は常時教員が一緒に搭乗してなくても空中から、あるいは地上から助言を無線電話で行える。もしこれが出来ていれば、飛行訓練が終わって戻ってきて伝えるよりも、訓練時の上達の効率をはるかに上げることができたのではないかと思う。あるいは、訓練時の事故も減ったかもしれない。
内地での航空機の生産はどうだったのか?
航空機を効率よく大量生産するためには、まず原材料の確保、生産設備の準備、労働力の確保、生産方法の改善、電力などの動力の確保が必要となる。日本の場合、アルミニウムやエンジン特殊鋼、パッキン用のゴムなどの原材料は、原料を輸入しなければならなかったり、精錬の電力に限りがあったりして、全体を増やすことは難しく、結局ゼロサムゲームの材料の取り合いに終始した観がある。設計者や生産技術者に量産の経験があまりなく、試作時から量産方法についての検討も十分でなかった。
治具や工具の製造能力があまりなかったため、航空機生産の立ち上がりや増強に支障を来した。アメリカから輸入できなくなった治具をドイツから取り寄せようとしたが、独ソ戦の開戦によって、移送ができなくなったものもあった。零戦をアメリカ製の機械で作っていた話は有名である。また、国の工業水準が元来低く、部品の標準化や規絡化が進んでいなかったのも生産効率を下げた。
労働力は、1943年になると国民徴用制度が拡大され、女学生なども作業に当たったようである。しかし、航空機の生産には、1937年頃から始まった女性工員の雇用の方が貢献したようである。日本人は確かに名人芸による現場合わせのような作業が得意だが、それでは大量生産は無理である。どこかで変えなければならない。この認識は戦前からあったようで、熟練工が汎用機械でさまざまな工程をこなすのではなく、単一機械による単一作業への転換が少しずつ行われていた(前田裕子、戦時期航空機工業における生産技術形成、経営史学、第33巻第2号、2009)。しかし、生産システムを変えるには時間がかかる。しかも規模の増大も同時である。どんな簡単な作業でも、最初は不慣れな作業となろう。しかも相手はエンジンも含めて精密機械である。
製造作業が定型化されていったためかはわからないが、熟練工も容赦なく徴兵された。ラバウルで三式戦飛燕の不具合に悩まされていた航空隊は、陸兵の中に飛燕の製造に関わった兵士を見つけて整備のために現地で引き抜いたという話もある。一方で、個々の作業過程の定型化によって、熟練工減少による製造への影響は小さかったとする説もある(古峰文三、日本の戦時航空機生産、歴史群像170号、2021)。
確かに航空機の大量生産化を一部の熟練工でこなすのは不可能であり、大量の一般工員による作業が必要となる。しかし、一般工員による大量生産の急速なシステム化を行ったから、それで生産がうまくいくとは限らない。1980年代のオートメーションが進んだアメリカの車産業でさえ、月・金に作られた車を買うなという話があった。つまり週明けと週末は作業が雑になるからというわけである。
戦時中に一部の航空機製造会社では、政府が工員を多数増員したものの、技術者や基幹工員が不足して増員した工員に技術教育を施す時間がなかったため、逆に作業のない工員が遊んでいたという話もある[36, p416]。急速なシステム化は、熟練工の不足もあって、大量に増えた工員を十分に教育するための時間が十分でなかったと見るのが自然だろう。ここでも準備が間に合わなかったといえる。
海軍の航空機の生産は1944年11月の月産約1243機が最高である[36, p414]。しかし、品質はどうだったのだろうか?1944年頃には航空機の破損が多く、滑走路の横に壊れた航空機が高く積み上げられていたという話もある。戦史叢書にも「飛行機に粗製乱造の傾向があり、新採用の飛行機に不具合のところが多く」と述べられている[36, p427]。航空機の製造品質を判断できる資料はないようであるが、とにかく戦争後半には航空機の稼働率の低下が甚だしかった。生産の質が悪いのか、整備が悪いのか、操縦者の技量が低下したのか、あるいは空襲で破壊されたのかわからないが、せっかく製造しても戦闘以前に壊れた航空機の数は少なくなかったようである。
日本海軍と米国の航空機年間生産機数 |
感想
太平洋戦争中に、ノックス米海軍長官が、「日本は近代戦を理解しないか、また近代戦を戦う資格がないかのいずれかである」と述べたことは有名だが、この近代戦の意味の中に航空戦が含まれていることは明白である。これはこれまで述べてきたように、日本が第一次世界大戦で過酷な航空戦を経験しなかったことにあると考えている。そして航空戦の本質を理解しないまま太平洋戦争に突入した。
これは逆に言えば、第一次世界大戦を十分に研究して、次の戦争での航空戦がどのようなものになるのかという推測が出来ておれば、1941年の時点で日本軍の航空戦力では戦えないことがわかったのではないか?つまり英米と戦争をするという判断は出来なかったのではないか?
政府と大本営は真珠湾攻撃の成功によって、アメリカの反撃が始まるのは新しく戦艦が揃う昭和18年後半以降と見なしていた(戦史叢書第049巻 南東方面海軍作戦<1>, p350)。自分たちは航空戦力によってアメリカの戦艦群を沈めておきながら、打ち漏らした航空戦力によっては、当面自分たちは大きな被害を受けることはないだろうという、打撃と被害に対する大本営の非対称的な考えが垣間見える。しかも、この判断はミッドウェー海戦後も続いた。この戦艦を過大評価(航空戦力を過小評価)した判断が、その後の戦局のさまざまな誤判断の根源となっている。
艦隊決戦という一面的な発想で戦艦さえ沈めてしまえばなんとかなるという考えと、それが真珠湾奇襲で成功したことが、アリューシャンでの戦いで見てきたように、日本の航空戦力の整備をさらに遅らせることとなったのだろう。
「持続可能な」航空戦力の重要性に気づいたのは1942年後半のガダルカナル島での飛行場の攻防戦以降なのだろう。1942年前半の航空機製造数はそれ以前の平時とあまり変わらない。その後、あわてて泥縄式に航空戦力増産の準備を開始したが、それが軌道に乗り始めるはずの1944年後半頃には原料不足や空襲で、計画よりはるかに少ない数となった。
量より質に重点を置いた日本の航空戦力は、卵の薄い殻のようなもので、外側はある程度堅いが、それがいったん破られると柔らかい黄身にまでの侵攻を止める術はなかった。1943年2月にラバウルから航空戦力が撤退すると、実質的にアメリカ軍の航空戦力に対抗することはできなくなり、それから4か月でサイパン島へ、8か月足らずでフィリピンのセブ島へのアメリカ軍の上陸を許し、南方からの資源の移送は困難になった。
戦争のグランドデザイン
戦争の経過だけ見れば、とどのつまりは冒頭に述べたように戦争への準備不足ということである。アメリカは欧州での状況を見て、1939年ころから戦争の準備を始めて、兵器の開発や膨大な生産設備の整備を開始していた(それが武器貸与法による大量の武器の供与にも寄与している)。そによって航空機生産は1942年頃から軌道に乗っていた。
日本は1940年に日独伊三国同盟を結んだ後、それに合わせて航空機製造の大幅拡張を始めてもおかしくなかったが、そうはならなかった(というより国力上出来なかった。しかし、1942年以降を見ると、本気でやれば出来なくはなかったと思われる。)。1940年頃の日本の航空機製造の(1943年頃からのと比べての)穏やかな増加状況を見ると、航空戦力に関してはアメリカと戦争するつもりはなかった、あるいは第一次世界大戦以前のように戦争になっても手持ちの軍備で片がつく、と考えていたとしか思えない。
もともと1937年の帝国国防要領などを見ても、もしアメリカが向こうから攻めてきたなら、決戦で艦隊を叩いて即講和というのが戦争計画だったのではないか?石油や鉄や機械を依存しているアメリカに対して、こちらから戦争を挑むという戦争・戦備計画は、アメリカが石油の全面禁輸を行うまではなかったと思われる。それは艦隊決戦思想に偏った作戦(想定はあくまで迎撃である)や南方からの石油の還送(輸送)のための海上護衛戦を全く想定していない体制、そして遠く離れた南太平洋での戦闘を想定していない軍備ということにも現れている。つまり計画も想定もしていない戦争を、泥縄的に考えて始めたように見える。
そのためか、帝国海軍は常にアメリカ海軍主力艦とのバランスのみを考えており、1920年以降対日戦のために発展してきたようなものであるアメリカ海兵隊に対して、日本軍が注意を払っていた形跡がほとんどない。結局太平洋での島嶼の防衛は、各地でアメリカ海兵隊(とそれが開発した上陸戦用の特殊装備)に悉く撃破されることになる(ただし、アリューシャンで戦ったのは、それを参考にしたアメリカ陸軍である)。
日本軍が深く考えずに行った南部仏印進駐に対応して、日本は1941年8月に予想外のアメリカによる石油の全面禁輸に直面した。それによって南方からの石油の自給自足をあわてて図ろうとして、想定も準備もしていない戦争をこちらから仕掛けて破綻した、というのが私の太平洋戦争に対する勝手な総括である。
長年想定してきた状況と異なる国際情勢になったのだから、それを見通せなかったことを謙虚に反省するとともに、それまでの戦争計画にない情勢になったのであれば、いったんは冷静に引き下がるというのがどうみても常識的な判断だったと思われる。
おわりに
結果がわかっている後世の視点から過去の歴史を批判や論評することはたやすい。しかし、ここでは敢えてそれを行っている部分がある。それは、そこで行われたことが決して過去の遺物とは限らないと思っているからである。
現代の生活は高度に文明化しているが、それは多くの人々の努力で多少の技術の進歩があったことによるものであり、人間そのものが変わったためではないと思っている。そうであれば、人間の底流に流れているものは大昔から大きくは変わっておらず、過去で起こったことは形を変えて今後も起こり得る。歴史を知ることは人間を知ることだと思っている。その参考になればと思って自戒を込めて記した部分がある。
私は歴史の研究者ではなく、これは研究成果でもないので、この著述をインターネットのブログ上に発表している。私としてはこの著述が今後のさらなる議論の苗床(seed-bed)になること、つまりこれを批判しながらでもここから次の議論が始まることを願っている。
専門家ではない私の軍事に関する知識は浅く、私の理解不足や思い違いも多いのではと思っている。もしそれにお気づきの方がおられれば、指摘していただければ修正を行っていきたいと考えている。もしそうやって正確さが増していけば、この著述の資料としての意義が高まるかもしれない。この著述がアリューシャンの戦いの再考のきっかけになれば幸いと思っている。