2021/06/30

6. アッツ島沖海戦とその後

6-1 海戦発生までの経過

前述したアッツ島付近へのアメリカ艦隊の予想外の出現により、2月中に計画されていた「ア」号作戦による残りの輸送は中止された。日本軍にとっては、輸送船がそれまで警戒してきた航空機ではなく、夜間に水上艦艇によって沈められたことは衝撃だった。第五艦隊では船舶を用いた輸送方法の全面的な見直しを迫られた。その結果、アッツ島への輸送は第五艦隊による強力な護衛をつけた集団輸送が計画された。第一次集団輸送は水上機母艦「君川丸」と輸送船「粟田丸」、「崎戸丸」を重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦2隻で護衛する形で実施された。集団輸送の艦隊は3月10日に無事にアッツ島に到着して、二式水戦6機、水偵3機、飛行場用建設資材、人員342名の輸送に成功した [4, p442]。しかし、この輸送はホルツ湾沖でアメリカ潜水艦によって発見された [3, p250]。

引き続いて第二次集団輸送が計画された。輸送艦隊は特設巡洋艦「浅香丸」、輸送船「崎戸丸」を細萱戊子郎中将率いる主隊である重巡洋艦「那智」、「摩耶」、軽巡洋艦「多摩」、駆逐艦「若葉」、「初霜」と護衛部隊である森友一少将率いる第一水雷戦隊(一水戦)の軽巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「電」、「雷」が護衛し、第二護衛部隊として輸送船「三興丸」を駆逐艦「薄雲」が護衛した [4, p472]。これらの中のアッツ島向けの輸送船には、第二地区隊長山崎大佐と地区隊本部、砲兵大隊、高射砲大隊本部、高射砲中隊、野戦病院の一部など550名と火砲、食糧、飛行場建設資材等を積載していた [19, p197]。「三興丸」と「薄雲」は3月22日1600時に幌筵を先に出港し、残りは3月23日に3回に分かれて幌筵を出港した [4, p475]。

しかし、24日早朝から台風並みに発達した中心気圧978hPaの低気圧の影響によって、輸送艦隊付近の海上では0600時頃には風速20 m/sの東風が吹いた。激しい波浪とうねりのため、25日1515時に第五艦隊司令長官は、到着の予定を27日に延期した [4, p475]。しかし、27日への延期の判断は少し早過ぎたようである。その直後の25日夕方から天候は回復に向かい、1800時にアッツ島からは26日の揚陸は可能と打電された [4, p475]。波が収まってきた26日に主隊や護衛艦隊などの艦船は合同したが、先に出港した「三興丸」と「薄雲」は主隊と護衛部隊に合同できなかった。

一方でアメリカ軍情報部は第五艦隊が2回目の輸送作戦を実施することを予想し、北太平洋軍はマクモリス少将率いる第16.6任務部隊旗艦の軽巡洋艦「リッチモンド」、重巡洋艦「ソルトレイクシティ」、駆逐艦「ベイリー」、「ゴグラン」、「デイル」、「モナガン」にその阻止を命じた。ただし、アメリカ軍は第五艦隊に重巡洋艦「摩耶」が増強されていることを知らなかった [2, p54]。輸送阻止命令を受けて、第16.6任務部隊は3月27日夜明け前にアッツ島のはるか西のコマンドルスキー諸島南方海域を航行していた。この日、日本軍の輸送艦隊はこのアメリカ艦隊と遭遇し、アッツ島沖海戦(コマンドルスキー諸島海戦)が発生した。この時の天候は曇り、南東の風約4 m/sでややうねりがあった [10, p64]。視程は良かったが、高度約800 mに雲が一面にかかっていた [2, p55]。

6-2 海戦の戦闘経過

アッツ島沖海戦に関しては、主隊の行動に関する戦闘詳報のようなものは戦後に残されなかった。戦史叢書「北方方面海軍作戦」のアッツ島沖海戦の章は、主に「第一水雷戦隊戦闘詳報」と若干の第五艦隊関連文書と戦後の関係者の手記や聞き取りに基づいて作成されている。関係者の回想は内容が一致しているとは限らず、本海戦の全体像は必ずしも十分な資料が揃っているとは言えない部分がある。そういう状況ではあるが、アメリカ海軍の資料も参考にその経過をまとめる。

6.2.1 緒戦の状況

嵐のために合同できなかった輸送船「三興丸」と駆逐艦「薄雲」を除いて、日本艦隊は旗艦である重巡洋艦「那智」を先頭に、主隊と第一水雷戦隊の順番で単縦陣でアッツ島の西約300 kmを北上していた。輸送船「浅香丸」、「崎戸丸」は第一水雷戦隊の中で駆逐艦2隻に挟まれて航行していた [4, p477]。27日夜明け前(日出は0320時)の0200時頃、第一水雷戦隊の旗艦である軽巡洋艦「阿武隈」は最南端の「電」から「敵見ゆ」という報告を受けた。「阿武隈」はこれを味方の「三興丸」と「薄雲」と思った [4, p477]。「阿武隈」自身も0237時に南西方向に2隻の艦影を認めたが、これを引き続き味方と思った [4, p477]。「那智」の第五艦隊司令部でもこの報告を合同してきた味方の「三興丸」と「薄雲」と思い込んで何の対応も行わなかった [4, p480]。しかし18時間以上先に出航したこれらの2隻は、実際には艦隊の北西側にいた。日本艦隊はアメリカ艦隊がこれほど西方に進出しているとは全く考えていなかった [4, p481]。この時、日本艦隊は早朝訓練が終わったばかりで、しかもそれまで海が時化続きだったため、乗組員たちは久々に緊張が解けて安堵した直後のことだった [4, p482]。

一方で、アメリカ艦隊も0230時に駆逐艦「コグラン」のSCレーダーに映った北方約15 km先の目標を当初は日本の駆逐艦と輸送船4隻と思っており、相手が自分たちよりはるかに強力な艦隊とは思っていなかった [8, p28-34]。駆逐艦数は4隻ずつと同じだったが、日本艦隊の重巡洋艦と軽巡洋艦の数はアメリカ艦隊の2倍だった。アメリカ艦隊は日本艦隊発見と同時に総員配置について増速した。0320頃に軽巡洋艦「リッチモンド」が初めて日本艦隊が9隻で重巡洋艦1隻と他にも巡洋艦が2隻いると判断したが、輸送船団を含めて数隊に分かれていた日本艦隊の全容については、なかなかわからなかった [8, p34]。

日本艦隊では、夜が明けて視界が広がってきた0313時に「阿武隈」が「軽巡1、駆逐艦2を発見」と報告し、この時点で初めて敵艦であることが判明した [4, p479]。「戦闘配置につけ」の号令に対して、また訓練なのかと乗組員の対応は鈍かったようである。日本艦隊では、直ちに敵艦隊に対して退路を断つために北東側に占位することと、輸送船団を北西に退避させることを決定した [4, p479]。日本艦隊は輸送船団を北西へ分離した後、時計回りに南南東に変針して南のアメリカ艦隊に挑んだ。その際に駆逐艦2隻を一水戦につかせたため、主隊は重巡洋艦2機と軽巡洋艦1隻、第一水雷戦隊(一水戦)は軽巡洋艦1隻と駆逐艦4隻となった。一水戦は主隊に編入されていた2隻の駆逐艦と合同するためにやや遅れて、敵との反対側である主隊の東側にいた。しかも水雷戦隊の各艦は燃料節約のためボイラーの燃焼を落としており、0400時頃まで速度を上げられない状況だった。


第1水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「阿武隈」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Abukuma_cl1941.jpg

一方でアメリカ艦隊から見て輸送船団は北北西側にあり、日本艦隊は北東側にあった。16.6任務部隊のマクモリス艦隊司令官は、水雷戦隊に合流する2隻の駆逐艦を見て日本軍が輸送船団から護衛を外した考えた。そして日本艦隊の射程内に入る前に北北西にいる輸送船団を攻撃できる可能性があると見た。またそうすれば、日本艦隊は輸送船団護衛に戦力を割かざるを得なくなって戦力が均衡するかもしれなかった [8, p35]。この時点ではまだ東への退避も可能だっただろうが、マクモリスは戦うことを選んだ。アメリカ艦隊は0333時に北北西(330°)に変針し、南下してくる日本艦隊の西側をそのまま北進して、輸送船団を襲撃しようとした [8, p34]。反航体勢となった両軍は急速に接近し、重巡洋艦「那智」と「摩耶」は、0340時からアメリカ艦隊の先頭を行く旗艦「リッチモンド」を目標に砲撃を開始した。ほぼ同時にアメリカ艦隊も砲撃を開始した。そのときの「那智」までの距離は、「リッチモンド」のSGレ-ダーで約18000 mとなっている [8, p36]。

6.2.2 「那智」の被弾と主砲方位盤の故障

緒戦の0350時に、アメリカ艦隊からの一弾が「那智」艦橋右舷後部に命中した。これにより32名が死傷するとともに、通信装置と電路盤を破壊して、主砲の方位盤が故障した。このため、「那智」は砲撃を精度が劣る砲側照準(個別照準)で行った [4, p482]。さらに0352時には発射管室に命中して、戦死2名、負傷者5名を出した [4, p482]。これらの命中弾に関して、重巡洋艦「ソルトレイクシティ」では、3回目か4回目の主砲の斉射で、0342時頃距離19000 mで日本の重巡洋艦に命中弾を与えて、艦橋付近に一瞬炎が上がったとしている [8, p36]。しかし「那智」砲術長井上武男中佐は、「(那智の)初弾発砲の直後四本煙突の軽巡の発砲を認めた。・・・敵の第二斉射(駆逐艦の弾であったかもしれない)が艦橋に命中し、通信装置が破損して」と回想している [4, p484]。ただし戦史叢書「北東方面海軍作戦」は「被害状況からみても駆逐艦のものであったろう。」としている [4, p486]。なお、同書はアメリカ駆逐艦の射程が18 kmであり、日本の駆逐艦より射程が長かったとしている [4, p509]。たしかに、この時の日本の駆逐艦「雷」の射程は約13 kmだったという回想がある [20, p302]。

突然の会敵に慌てた重巡洋艦「那智」では、操作を間違えていったん発電機を切ってしまい、砲塔動力が一時停止した [4, p484]。このため、戦闘の初期に主砲方位盤(射撃指揮装置)が使えず、約30分間にわたり精度が悪い各砲の砲側照準で砲撃せざるを得なくなった [4, p482]。この砲側照準になった原因について、「那智」機関科分隊長佐橋盛夫中尉は命中弾によるものではなく、前述したように操作を誤って発電機を切ったため、砲塔動力が止まって砲術指令所と砲側のそれぞれの指針がずれてしまったのが原因とはっきり述べている [4, p484-485]。ただし命中弾により通信装置が故障したことにより、この混乱が助長された面はあった。また重巡洋艦「摩耶」でも慌てて目標を変更したため、当初約30分間は近づきつつある重巡洋艦を射撃目標にしながら、遠ざかりつつある軽巡洋艦を測距目標にして射撃を行ったとしている [4, p485]。

なお戦史叢書「北方方面海軍作戦」には、旗艦「那智」の被弾による通信装置の損傷の程度や復旧に関する記述がない。通信の問題は海戦に重大な影響を与え得る。後述するように、実際に「那智」に水偵からの情報は届かなかった。しかし「那智」からは突撃命令などは発信されており、損傷した装置が復旧せずとも他の代替通信手段があったと考えられるので、通信装置が復旧したかどうかにかかわらず、ここでは何らかの通信手段があったものとして話を進める。

重巡洋艦「那智」

第五艦隊旗艦の重巡洋艦「那智」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Heavy_cruiser_Nachi.jpg

6.2.3 アメリカ艦隊の西への変針

旗艦の軽巡洋艦「リッチモンド」は、0340時頃から日本の重巡洋艦から距離約20 kmで砲撃を受け、砲弾は同艦を夾叉した。アメリカ艦隊は北東側から急速に接近する日本艦隊に対して距離を開けるため0343時に西北西(290°)に変針した。0346時に「那智」は8本、「摩耶」は4本の魚雷を発射した [4, p482](「摩耶」は0407時の説もある [4, p485])。アメリカ艦隊は、0348時にさらに西南西(250°)へと転舵した [8, p36]。この理由については書かれていないが、後述するように日本の魚雷攻撃を見てそれをかわすためだったとも考えられる。なお「那智」の魚雷発射を、敵の東方への変針による同航戦を予想して敵艦隊の東方に発射したという回想も一部にあるが [4, p480]、それだとアメリカ海軍の記録と合わない。戦史叢書「北方方面海軍作戦」は、魚雷発射時の態勢が同航だったか反航だったかは判然としないと結論している [4, p481]。この魚雷の行方は後述する。

この転舵を見た日本艦隊は右に舵を切って南西へ、その後西へと向かい、約20 km先のアメリカ艦隊を追撃し始めた。これによって、偶然にも先を進んでいた主隊はアメリカ艦隊の左舷後方(後方南側)に、遅れていた一水戦は同艦隊の右舷後方(後方北側)に位置することになった [2, p57]。アメリカ艦隊は砲撃と雷撃を避けながらジグザグに逃げた。日本艦隊はそれに合わせながらも、全砲塔を使うために砲撃のたびに艦を敵の航路に対して斜めに向けて追ったため、両軍の差はなかなか縮まらなかった [2, p57]。日本艦隊の砲弾はしばしばアメリカ艦隊を夾叉した。その度にアメリカの艦艇は砲弾が落ちた水柱に突っ込んで次の砲弾を避けた。駆逐艦「デイル」からそれを見ていた司令官ホーン少佐は、日本艦隊の砲撃を「美しい」と表現して、重巡洋艦「ソルトレイクシティ」が砲弾を回避できたのは奇跡だったと述べている [8, p39]。
 

アッツ島沖海戦における両艦隊の航跡

0358時に軽巡洋艦「リッチモンド」の船首下を数本の魚雷が通過した。この少し後に駆逐艦「ベイリー」も3.6 km先に雷跡を発見した [8, p38]。魚雷は艦隊を追走したとあるので、ほぼ同方向だったようである。日本側に魚雷の調定諸元の記録は残っていないが、「那智」が魚雷発射時に南南西にいたアメリカ艦隊の進行先を狙って南西方向に発射したのであれば、アメリカ艦隊はその後大きく西南西へ回頭しているので、その後に魚雷がアメリカ艦隊を通過しても方位、時刻ともそれほど矛盾しない(魚雷通過時の「リッチモンド」の位置は、雷速を45ノットとすると魚雷発射点から約17 kmとなる)。「那智」の木下砲術参謀の手記の「(魚雷発射によって)反航対勢の敵の先頭を圧して、彼をして不利な反転と南西への避退を余儀なくさせた」 [4, p482]という回想とも矛盾しない。むしろ木下砲術参謀の述解のように、この魚雷攻撃を見たアメリカ艦隊が南西へ転舵した可能性がある。
 
軽巡洋艦「リッチモンド」(1944年6月24日、ワシントン ピュージェット・サウンド海軍造船所 沖で)
軽巡洋艦「リッチモンド」
(1944年6月24日、ワシントン ピュージェット・サウンド海軍造船所 沖で)
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Richmond_(CL-9)#/media/File:USS_Richmond_(CL-9)_port_side_June_1944.jpg
 
アメリカ艦隊がこの針路に転舵したのは、魚雷がもっと北方を通過すると思ったか、こんなに遠くにまで魚雷は届かないと思ったのかもしれない。なお魚雷の深度は深いほど命中した際の効果は大きいが、設定が深すぎると艦底を通過する。巡洋艦を目標にして魚雷の調定震度を深く設定していた可能性もある。

当時は風速4 m/s程度となっているが、前日までの嵐で波高数メートル程度の波浪が残っていた可能性が高い。水圧センサーや水平舵の応答速度に依るが、魚雷は海面までの高さに応じて上下しようとしても時間差を生ずる場合があるし、目標の船も波や波浪に応じて上下する。海面が凪いでいない限り、魚雷が調定深度通りの深度を維持することは難しい。正常な雷道を取ったとしても、深度設定によっては魚雷が艦底を通過することはあり得ると思われる。

珊瑚海海戦でも、イアントール著の「太平洋の試練(村上和久訳)」では、日本の雷撃機が投下した魚雷について、「確実にレキシントンに命中したかに思われた二本は、あきらかに艦底の真下にもぐって、反対側から出てきたのが目撃された。」と述べている(p.211)(なお、空母レキシントンはその後の爆弾と魚雷の命中で航行を停止した。しかし、最初の魚雷が命中しておれば、残りはヨークタウンの攻撃に向かっていたかもしれない)。当時もかなりの波浪があった。

6.2.4 重巡洋艦「ソルトレイクシティ」の被弾

日本艦隊は最も大きい重巡洋艦「ソルトレイクシティ」を集中的に砲撃した。0410頃、一発の砲弾が同艦に命中し、砲弾は重油タンクと隔壁を突き破って機関室の1 m後ろで爆発し、重油が機関室にあふれ出た [8, p39]。しかし、0427時には重油タンクの亀裂を塞いで重油の流出はほとんど止まった [8, p40]。同艦はまだ30ノット以上の速力を出せる状態にあった。0430頃に北太平洋軍からマクモリスに、支援の航空機が0930頃まで発進できないという連絡があった。北太平洋軍司令長官キンケイドは撤退を勧めたが [8, p40]、これを聞いて旗艦「リッチモンド」にいたマクモリスは笑みを浮かべたとなっている [8, p40]。その理由はわからない。
チャールズ・マクモリス准将
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Charles_Horatio_McMorris.jpg

0443時頃、日本艦隊の先頭で横腹を晒している軽巡洋艦「多摩」を砲撃しようと、「ソルトレイクシティ」は針路を北(320°)へ向けた。さらに同艦の砲弾が日本の重巡洋艦にも命中したので、マクモリス艦隊司令官はさらに日本艦隊を砲撃しようとして、0450時に北北西(340°)への変針を指示した [8, p40]。これを見て、日本艦隊も0457時に針路を北側へ向け [4, p489]、これによって主隊と一水戦は、両方ともアメリカ艦隊から見て右舷後方に位置することになった。

0502時頃に「ソルトレイクシティ」が艦橋近くに被弾し、操舵室に負傷者を出した。また、その頃自身の砲撃による爆風によって舵止めが故障し、舵は操舵輪に応答しなくなった [8, p41]。操舵操作は後部操舵室に移されたが、最大10°の舵幅を持つ緊急操舵しか行えなくなった。また「リッチモンド」も斉射を受けたため、日本艦隊との距離を開けるために0502時に針路を330°に変更した [8, p41]。0510時にはさらに別な砲弾が「ソルトレイクシティ」のメインデッキの前方を貫通した。0512時には、この状況を見てマクモリスは、駆逐艦「ベイリー」と「コグラン」に「ソルトレイクシティ」を隠匿するための煙幕の使用を指示した [8, p41]。

アメリカ艦隊は0509時に30°左(300°)に変針した [8, p41]。この理由について、アメリカ海軍の資料 [8]では触れられていないが、0507時に「阿武隈」が魚雷を4本放っている(命中はしていない)。この魚雷攻撃について、阿武隈水雷長の岩淵悟郎大尉は「進出が遅れて攻撃手段がなく、攻撃は余り期待できないが、魚雷でもという気持ちで司令部に進言し発射することとなった。」と述べている [4, p490]。この際に魚雷の斜進(航走中の方位変更)の調定を忘れたため、「阿武隈」は魚雷発射の際に大きく外側へ変針して敵と離隔した [4, p490]。しかし、日本側ではこの魚雷攻撃によりアメリカ艦隊は北方離脱を断念して西方に変針したと解釈している [4, p488]。0528時に、アメリカ艦隊は「ソルトレイクシティ」を守るために西(240°)へ変針した [8, p42]。ほぼ同時刻に日本艦隊も変針し、西に向かうアメリカ艦隊を右舷後尾(北東側)から追いかける形となった。

また0559時に「ソルトレイクシティ」右舷のカタパルトに8インチの砲弾が命中し、0603時には別な砲弾が船尾の左舷側面に命中した [8, p43]。その砲弾の爆発はその前の砲弾の命中で生じた浸水を広げた。まもなくさらに砲弾が命中して、船尾のジャイロ室に油が噴出し始めた。油と海水が対空配電盤室と船体後部の5インチ砲操作室、船体後部の5インチ砲弾格納庫に浸水して、船は左舷に4~5度傾斜した [8, p44]。0625時に「ソルトレイクシティ」の浸水は1.5 mの深さにまで達し、そのために傾斜は緩和したが水が主機関の下まであふれて後部機関室は操作不能になった。この状態を復旧させるために、同艦は後部の機関を停止させた。船速が落ちるにつれて、砲弾が同艦を夾叉し始めたが、0629時には後部機関室の油と水は排出されて、おかげで再び左舷に傾いたものの後部機関は徐々に運転状態に戻った [8, p45]。

6.2.5 0602時のアメリカ艦隊の南への変針

理由は後述するが、アメリカ艦隊はまず南方へ転舵し、その後東に旋回することによって逃げることが決定された(基地のあるアダック島の位置はほぼ真東だった)。0602時に針路を30度左へ曲げて210°にする合図が出され [8, p44]、0608時にはさらに針路を180°にする合図が出された [8, p45]。日本艦隊がこの針路変更に気付くまでの時間を稼ぐために、煙幕の使用が指示された。この南への転舵の理由について、アメリカ海軍資料はこのまま西に向かうと日本の爆撃機が来るかもしれないので、南に向かった後に東に向かうことが決定されたと述べている [8, p44]。しかし、距離的には最初から日本機の攻撃圏内にいるので、この理由は釈然としない。このまま西に向かっても何れはカムチャッカ半島にぶつかってしまい、北側はコマンドルスキー諸島に塞がれている上に北東からは日本艦隊が追いかけてきているので、南に逃げるしかなかったというのが実情ではなかろうか?

この転舵によって日本艦隊には距離を詰める絶好の機会が訪れた。日本艦隊はこの変針に気づき、0600時頃に「全軍突撃セヨ」と命令したものの、アメリカ艦隊の変針点付近まで西航してから南南東に変針したため以前と同じ追撃体勢となり、距離を詰めて決定的な打撃を与える好機を逸した [4, p492]。これについて戦史叢書「北東方面海軍作戦」中の回想で、「那智」の田中発令所長は「〇六〇〇過ぎ、敵方位の変化が大となり敵の南方変針を判定した。何回も「右砲戦」にして下さいと進言した。」、井上砲術長は「発令所から「右砲戦」にして下さいという進言があったが、艦橋には届けなかった。」、杉山水雷長は「当時司令部はすでにファイトが少なくなっていたように感じた。」、木下砲術参謀は「変針の遅れたのは、一水戦が邪魔になったからであり、」と回想している [4, p492]。なお一水戦は、もし主隊が寄ってくれば水雷戦隊は当然避けるし、それでも邪魔と感じるならば東に寄れと指示すれば良い、と一水戦戦闘詳報で反論している [4, p492]。

「全軍突撃セヨ」を受けて、「摩耶」では0605時に魚雷を4本、「那智」では0607時に8本、「阿武隈」では0615時に4本を発射した。それから南へ転舵したと思われるが、魚雷は何れも命中しなかった。戦史叢書「北東方面海軍作戦」では、すぐに転舵しなかった主な理由として「「全軍突撃セヨ」下令により魚雷発射を実施したこと(発射運動)および全砲火を集中(砲戦運動)するためであったと思われる。」「この時機に魚雷発射を行なったことに対しては、多大の疑問を感ぜざるを得ない。」と結論している [4, p492-493]。

0621時にいったん160°に変針したアメリカ艦隊は、日本艦隊との距離を開けるために0629時に再び真南(180°)に転舵した [8, p45]。また機関が運転し始めた「ソルトレイクシティ」をスムーズに退却させるために、マクモリスは0632時に駆逐艦隊に日本艦隊へ向けて魚雷攻撃の準備を行うように指示した。しかし、0638時に同艦は26ノットを出せるようになり、駆逐艦隊に対する雷撃命令は取り消された。しかし、この駆逐艦隊の雷撃行動を見た日本艦隊は右(西側)への一時的な転舵を余儀なくされた [8, p46]。

6.2.6 重巡洋艦「ソルトレイクシティ」の停止

南に向かいながら北側の日本艦隊を後部砲塔で砲撃し続けていた「ソルトレイクシティ」は、0630時頃から後部砲塔の弾薬が切れ始めた。後部砲塔は日本艦隊を防ぐ頼みの綱だった。前部弾薬庫から手押し車を用いた後部への砲弾の移送が行われた。手押し車が通れるように途中のハッチは壊された。装薬は一列に並んだ乗組員の手渡しで送られた [8, p46]。0640時頃には後部砲塔に徹甲弾がなくなり、榴弾(High Explosive)を使って砲撃し始めた。この着弾による激しい水しぶきは、低く広がった雲上のどこからか航空攻撃が行われているという誤解を日本艦隊に与えたようである。日本の重巡洋艦は激しい対空砲火を上げ始めたとアメリカ側は記録している [8, p46]。これは後述するように、日本艦隊が航空攻撃を危惧したことの証左となろう。なお一水戦戦闘詳報では、敵は戦闘の初期と終期に「那智」に対して榴散弾射撃を行い、砲弾は上空50mから100mの高度で「那智」から200m以内で炸裂したと述べている [4, p509]。これは「ソルトレイクシティ」の榴弾攻撃を指していると思われる。

その最中の0647時頃に、数発の砲弾が「ソルトレイクシティ」の舷側喫水線下に命中した [8, p46]。ボイラーへ供給されている重油に海水が混じったため、ボイラーの火が次々に消えた。同艦は行き脚が落ち始め、0653時には速力8ノット、0655時には完全に停止した [8, p46]。このボイラー停止の原因を、命中弾によるものではなく船の傾斜を直すため注水した海水がボイラーへの給油管に混じったためとしているものもある [2, p59]。「ソルトレイクシティ」は「我速度ゼロ」という信号旗を掲げたが、その旗は直ちに日本軍の激しい砲弾によって切り裂かれた。艦長は艦の停止を受けて総員退艦をいったん指示したが、南太平洋と異なっていったん海中に飛び込んだら助からないことに気づき、艦内に放送される前に思い直した [2, p59]。

アッツ島沖海戦での重巡洋艦「ソルトレイクシティ」
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-70000/80-G-73827.html

駆逐艦隊司令は、直ちに日本艦隊を防ぐための魚雷攻撃をマクモリスに進言した [2, p59]。これを受けてマクモリスは、0655時に駆逐艦「ベイリー」、「コグラン」、「モナハン」に魚雷攻撃を命じた。「デイル」は引き続き「ソルトレイクシティ」の艦尾付近(北方)で煙幕を張り続けるように指示された [8, p47]。命令を受けた3隻の駆逐艦隊は1列になって、5インチ主砲を打ちながら北方の日本艦隊に向かって決死の突進を行った。これを見た日本艦隊は、射撃目標を「ソルトレイクシティ」からこの駆逐艦隊に変更したため、最も日本艦隊に近づいた駆逐艦「ベイリー」は0700時に矢継ぎ早に数発の8インチ砲弾を受けた。

魚雷発射管への砲弾の命中を危惧した駆逐艦隊司令は、0703時に直ちに魚雷発射を命じた [2, p62]。「ベイリー」は魚雷5本を8700m先の2番目の重巡洋艦に向けて発射した [8, p49]。日本艦隊主隊では後方に雷跡4本を確認している [4, p494]。危惧していたように、0704時に「ベイリー」はさらに8インチ砲弾を受けた。砲弾はベイリーの舷側を貫いて爆発した。士官1人が重傷を負い、3名が軽傷を負った。またその破片は船体に穴を開け、そこから流れ込んだ海水は右舷の機関を止めた [8, p49]。なお他の駆逐艦は目標が遠すぎたため、魚雷を発射しなかった。

駆逐艦「ベイリー」(1942年12月12日)
駆逐艦「ベイリー」(1942年12月12日)
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Bailey_(DD-492)#/media/File:USS_Bailey_(DD-492)_underway_on_12_December_1942_(80-G-264956).jpg

一方「ソルトレイクシティ」の機関は、停止してから3分後の0658時にゆっくり始動し始めた。0700時には15ノット、0715時には22ノットを出せるようになった。しかし「ベイリー」の損傷により、艦隊の最高速度は15ノットまでだった [8, p52]。しかし、0740時頃には日本艦隊は40 km以上離れて西の水平線に消え去ったことにより、戦闘が終結したことが明確になった [8, p52]。

6.2.7 0638時頃の日本艦隊の南西への転舵

アメリカ艦隊を追いかけての南方への転舵が遅れた日本艦隊だったが、0620時頃からはアメリカ艦隊の左舷後方(北東側)を南南東に向けて追っており、そのまま南方へ直進していれば退路を断って有利な状況になったと考えられている [4, p491, 499]。ところが、0638時頃に主隊は突如として針路を南西へと向け、一水戦もそれに続いた [4, p493]。これによって日米艦隊間の距離は急速に開くこととなった。「ソルトレイクシティ」が被弾していたこともあり、日本艦隊がそのまま南へ追撃していれば、両軍の距離は急速に縮まっただろう。そうすれば、この海戦は次の局面に入ったと思われる。
 
日本艦隊が南西へ変針した理由について、「那智」の杉山水雷長と三浦航空参謀は主砲の弾丸がなくなったという報告があったと回想している [4, p495]。しかし「那智」の砲術関係者は、徹甲弾はなくなったがまだ砲弾はあったと述べており、実際にまだ砲弾は残っていた。戦史叢書「北東方面海軍作戦」は転舵の理由の一つとして「これら砲術関係者の回想から推定するに、司令部は「徹甲弾なし」の報告を、弾丸がなくなったものと誤判断したものであろう。」と述べている [4, p495]。

 このように戦史叢書「北東方面海軍作戦」は、この0638時頃の転舵を「那智」の砲弾がなくなったという誤判断により追撃を断念して南西に変針したとしている[4, p499]。しかし「那智」だけの状況でそのような判断が行われるものだろうか?「摩耶」には残弾の問題はなく、0717時まで砲撃を継続している [4, p496]。

アメリカ軍側の判断はこれとは異なっている。前述のようにアメリカの駆逐艦隊は0632時に雷撃体勢に入っていた。最終的には命令は取り消されたが、アメリカ艦隊は駆逐艦隊の雷撃体勢を見て日本艦隊が南西へ転舵したと考えている。この理由の方が説得力があるように思える。最終的には突進してきたアメリカ駆逐艦「ベイリー」が発射した魚雷を避けるために0707時にさらに西方へ転舵し、日本艦隊はそのままその針路を変えることなく西に消え去り、戦闘は終結した。
 

6.2.8 アメリカ艦隊の退却

0735時に「ベイリー」は、左舷機関のみで15ノットを出せるようになったが、船尾の主配電盤が浸水してショートし、すべての電力が失われた [8, p52]。0745時には「コグラン」が「ベイリー」に近づいて曳航する準備をしたが、「ベイリー」はふらついていたものの前進できたので曳航は中止された。0803時には、今度は「コグラン」が煙突の下から出火したが、その火は0816時に消火された [8, p53]。

マクモリス艦隊司令は、損傷した「ソルトレイクシティ」と「ベイリー」をアダック島に回航させ、残りの艦隊で輸送船を追ってアッツ島へ向かう提案を北太平洋艦隊キンケイド司令長官に行った [8, p53]。しかしキンケイドは、日本艦隊が実際に撤退したかどうかわからず、さらに日本軍の航空機や潜水艦による攻撃を懸念した。これを受けてマクモリスは艦隊を分けてダッチハーバーとアダックに向かうことを指示した [8, p54]。数時間にわたる海戦で追撃されてようやく窮地を脱した艦隊で、今度は輸送船団の撃滅のためにアッツ島へのさらなる進撃を提案する艦隊司令官マクモリスの敢闘精神には驚かされる。

6.2.9 この海戦の帰結

この海戦は、第二次世界大戦において艦艇だけで勝負を決しようとした最後の戦いとなった。この海戦によって、アメリカ軍は7名の戦死者と20名の負傷者、日本軍は14名の戦死者と26名の負傷者を出した [21, p64]。輸送船団はアッツ島に入港させても揚陸時に湾内で大規模な空襲を受けることが予想され、また駆逐艦もこの海戦で燃料を大量に消費したため、輸送艦隊は全て幌筵へ引き返して輸送作戦は不成功に終わった。なお、「三興丸」を護衛していた駆逐艦「薄雲」は、0355時に南方に砲煙が上がるのを見て、「三興丸」を西へ退避させて南へ向かったが、戦闘には間に合わず、0725時に輸送船団を護衛して幌筵へ帰投するように命ぜられた。この海戦の不首尾により、細萱第五艦隊司令長官は更迭されて予備役へ編入され、第五艦隊司令長官は河瀬四郎中将に代わった。

6-3 海戦に対する考察

6.3.1    第五艦隊司令長官の判断

第五艦隊司令長官はこれまでの経過から、戦闘を継続するも決定的戦果を期待し難いと考えていた。撤退した理由として次の5つを挙げている [4, p496]。
  1. 敵艦隊には相当の損害を与えたが、敵の煙幕のためその戦果を確認できなかった。
  2. 無線諜報により敵陸上攻撃機がアムチトカ島を出発したことがわかった。
  3. 主砲弾の大部分を消費したにもかかわらず、敵にほとんど損害を与えられなかった。
  4. 駆逐艦の残り燃料がわずかとなり今後の戦闘継続に不安があった。
  5. 水雷戦隊の進撃が緩慢で行動が不活発であった。
1と3については、一水戦司令官は0659時に「敵艦中大ナル重油ヲ流シアルモノアリ」と電話で主隊に報告しており、一水戦戦闘詳報でも0700時頃敵巡洋艦の火災を報告している点からみて、米重巡に相当な打撃を与えたことは主隊でも分かっていたものと推定されている [4, p497]。2については一水戦戦闘詳報にこのような受信記録はない。むしろ同詳報では、キスカ島から0656時に「敵陸軍飛行機ノ発進セル模様ナシ」、また0705時に「今迄ノ処通信上敵陸軍機ノ飛翔セル形跡ナシ」と連絡を受けていた [4, p498]。敵の攻撃機の件は、橋本重房通信参謀の「七ないし九時に敵飛行機が来ると予測し、その間に敵飛行圏外に出たいと考えていた。」という回想から、実際の来襲の把握ではなく来襲の可能性を考慮したものと考えられている [4, p498]。しかし前述したように、0638時頃から始まった「ソルトレイクシティ」の榴弾による砲撃が航空攻撃の危惧を助長した面があるかもしれない。

4については、戦闘後の各駆逐艦の燃料は、あと数時間追撃しても心配する状況ではなかったとなっている [4, p499]。5については、第一水雷戦隊は「0620過ぎからの南方追撃において主隊の左後方を並進したに過ぎなかった。」「0645には、主隊の南西方変針に随動して西方に変針し、遂に非敵側に出る結果となった。」となっており、戦闘後の研究会でも一水戦先任参謀有近六次中佐は、研究会参加者から批判を受けている [4, p498]。同研究会では水雷戦隊の行動について、「水雷戦隊の行動不活発、且つ主隊との連係不良」と結論された [4, p499]。 

6.3.2 戦史叢書「北方方面海軍作戦」の戦訓、所見

まずは、戦史叢書「北方方面海軍作戦」の戦訓、所見について述べる。全体は「全般的事項」、「砲戦関係」、「水雷戦関係」の3つに分かれているが、それら11ページ中7ページが「砲戦関係」に割かれて、砲戦について細かく記述されていることが特徴である。「全般的事項」は、第五艦隊参謀木下甫少佐の戦後の手記に基づいたものと一水戦戦闘詳報によるものの2つが記されている。ここでは、一水戦戦闘詳報による全般的事項が公式的記録としての色合いが濃く、また極めて示唆に富んでいると思われるので、その一部を掲載する [4, p504-505]。
1 ー作戦部隊ハ前進基地出撃以後出来得ル限リ兵力ヲ分散セズ、集中或ハ緊密ナル連繋裡(視界内保持)ニ行動スルヲ要ス。特ニ会敵ノ算大ナル時及北方ノ如ク天候急変シ易キ作戦海面ニ於テ然リ
2 突嗟会敵発見通報ノ速達二関シ研究準備ノ要アリ
今回ノ如ク全ク予期セザル時機及海面二於ケル敵発見通報ハ、普通ノ信号ヲ以テシテハ多クノ場合遅延スルヲ免レズ。特ニ今回ノ如ク縦長長キ陣列ニ於テ後方ニ敵発見の場合、之ガ最高指揮官宛速達二ハ普通信号以外(発砲、電話、特殊信号等)警報式速報二関シ研究準備ノ要アリ
3 巡洋艦部隊ヲ基幹トスル昼間追撃戦二於ケル水雷戦ノ戦術運動ニ関シ研究考慮ヲ要スルコ卜大ナルヲ体験痛感セリ
 (一) 主隊卜水雷戦隊及敵味方共殆ド等速ニシテ、水雷戦隊運動力ニ余裕ナキヲ常態トスルヲ以テ、水雷戦隊トシテハ急速近迫卜退路抑制ノ両者ヲ考慮シ運動最適切ナルヲ要ス。(以下略)
 (二) 主隊、水雷戦隊間ハ常時有形無形、緊密ナル連絡ヲ確保シ、水雷戦隊が主隊ノ意図ヲ常二考慮シツツ運動スベキハ勿論ナルモ、主隊トシテハ所要ニ応ジ其ノ意図ヲ明示シ、尚要スレバ水雷戦隊ニ対シ運動方向ヲ指示スル等ノ処置ヲ講ズルコト肝要ナリ。(以下略)
 (三)・・・彼我共ニ巡洋艦部隊ヲ基幹トスル追撃戦ニ於テハ最初ノ砲戦、或ハ魚雷戦ニ依リ敵ノ一艦ニナリトモ大打撃ヲ与へ、避退ノ自由ヲ抑制スルニ非ザレバ水雷戦隊ノ戦闘力発揮ノ好機極メテ少キヲ切歯扼腕中二痛感セリ
4  嗟会戦ノ要訣ハ、敵ノ備ナキニ先立チ我先ヅ起チテ急襲猛撃ヲ加へ勝ヲ一挙ニ決スルニ在リ(以下略)
2に書かれている通信については、旗旒信号か発光信号を用いていることを指しているかもしれない。通信手法に何かしらの問題があったと受け取れる。3の(二)については、主隊と水雷戦隊が有機的に連携する必要性を説いている。これは、この海戦の他の戦訓・所見の部分には見られない特徴である。

6.3.3 日本艦隊の戦闘方針について

この海戦では、日本艦隊は緒戦においてアメリカ艦隊の頭を押さえて西に転舵させることに成功し、輸送船団への当面の脅威はなくなった。その後、西へ逃げるアメリカ艦隊を追って、砲雷撃しながらの追撃が始まった。しかし、それ以降の日本艦隊の基本方針は何だったのだろうか?追う敵に対して、砲弾を命中させるために火力を集中させる方針と敵との距離を詰める方針とは相反すると思われる。そのどちらを優先しようとしたのか?あるいは敵艦隊を撃滅するために他の考えがあったのか?それがはっきりしない。

その後のアメリカ艦隊には3回の大きな転舵があった。0443時頃アメリカ艦隊が北転した際に、日本艦隊の追跡は右舷後方(南東方向)からに変わった。次にアメリカ艦隊が0528時頃に南南西に変針すると、日本艦隊はそのまま右舷後方(北東方向)から追跡した。そのためアメリカ艦隊が0600時頃南に転舵した際には、日本艦隊はその北東20 km付近にあった。これによって6.2.5で述べたように、アメリカ艦隊は最大の危機を迎えたように見える。アメリカ艦隊は、このままだと日本に近づきつつ自軍の航空支援の圏外へ向けて進むことになるので、どこかで東へ転舵して決戦を挑むしか方策はなかっただろう。日本艦隊には、そのまま敵艦隊の東方をまっすぐ南下するか、水雷戦隊を敵艦隊の東側に南下させて挟み撃ちにするなどの選択肢があったように思える。

この海戦は延々4時間も続いた。時々刻々と変わる状況に応じて適切な判断のための思考を続けることは猛烈に疲れる。これは誰しも避けられない。この海戦は、砲弾を少しでも当てようとして、高速で逃げる敵艦隊の後ろをとにかく長時間追い回したように見える。その結果、最後は疲労で思考力が落ちて、聞き違えが起こったり消極的な思考に陥ったりしたのかもしれない。しかし、だからこそ細かな状況の変化に左右されない、この戦いの一貫した基本方針が必要だったのではないかと思う。

6.2.5で述べたように、アメリカ艦隊が南に転舵した最大の好機に突撃命令によって即座の砲撃や雷撃を行ったため、転舵が遅れて日本艦隊は好機を逃した。この時点での日本艦隊の情勢を見ると、艦船数や火力では勝っており、天候も良く、昼の時間はまだ長く、戦域はだんだん日本へ近づいているという状況だった。後は慌てずに「いずれ行われる敵の東方への変針を待って、近接してから火力の総合発揮によって敵を撃滅する」という基本方針で十分だったのではなかろうか。もちろん戦闘である以上、その結果はわからない。航空攻撃に対する懸念は6.3.5で述べる。

6.3.4 第一水雷戦隊の行動

緒戦の反航時、一水戦(軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦4隻)は敵と反対の東側を主隊と併走していた。その後も主隊に追随したが、敵弾を避けて変針したり、魚雷攻撃を行うために針路が敵から外れたりして、最後まで有効な攻撃を行えなかった。第五艦隊司令長官は、水雷戦隊の進撃が緩慢で行動が不活発であったことを撤退の理由の一つに挙げている。一方で、「一水戦戦闘詳報」によると、6.3.1で書かれているように、予期せぬ会敵と速やかに変わる状況においては通常の通信では遅延して連携が取りづらかったことと、主隊の意図や主隊との役割分担がはっきりせず、また雷撃によって水雷戦隊が敵と乖離してしまったことなどの行動を攻撃が制約された理由として挙げている [4, p504-505]。さらに追撃戦においては、主隊より劣速な水雷戦隊は砲撃のための行動を企図する余地がなく、旗艦である軽巡洋艦「阿武隈」の主砲は敵駆逐艦より射程が短かったとも述べている [4, p508]。主隊が速度35ノット以上で行動するのに対して、駆逐艦「若葉」と「初春」は速度34ノットを出せなかったとの回想もある [20, p303]。

アメリカ艦隊は、南洋ソロモン諸島で何度か手痛い目に会ったように、日本の駆逐艦隊が突撃して来て巧妙で正確な魚雷攻撃を行うことを危惧していた。日本軍の駆逐艦隊がそれを行なわなかった理由として、アメリカ側では駆逐艦に補給物資や兵士が積まれていたためではないかと推測している [8, p54]。しかし日本側の資料では駆逐艦への補給物資搭載の記述はなく、一水戦の駆逐艦は突撃の時機まで燃料を節約していたが、突撃の機会がなかったということになっている [4, p498]。

結局一水戦はこの海戦の最中に遊軍と化すことが多く、積極的にこの海戦に加わるのは最後の方だけとなった。これは前述したように、主隊の意図や主隊との役割分担がはっきりしなかったことが大きいと思われる。一水戦の立場は、敵艦隊を追いかけながらも主隊の動向も把握して自隊の行動を決めなければならない。主隊の意図がわからないと、その判断は容易ではない。下手に行動すれば、後で主隊の行動や作戦を妨害したと糾弾される恐れさえある。しかし主隊が一水戦に対して意図を明示したり具体的な行動を指示したりした形跡はなく、結果として一水戦が積極的な行動を取れなかったことを責めるのは酷と思われる。一水戦を有効に活用するためには、まずは主隊の方でその方針とそのために水雷戦隊は何をするべきかという、簡明かつ具体的な指示を出すなどのコミュケーションが必要だったのではないかと思われる。これは6.3.7で述べるアメリカ艦隊とは対照的である。

6.3.5 アメリカ軍の航空攻撃に対する懸念

日本艦隊がアメリカ艦隊の追撃を0700時過ぎに断念した理由の一つとして、アメリカ軍の航空攻撃を危惧した面があった。戦闘終結に対する北方部隊指揮官の判断の根拠の一つとして、「無線諜報に依り爆撃機十数機よりなる敵陸上攻撃機が〇六四〇アムチトカを出発した事は事実である。」と述べられている [4, p496]。実際には同基地ではまだとても爆撃機が発進できる状態ではなかった。しかし、前述したようにこの敵機来襲の可能性への考慮、つまりそろそろ敵機が来てもおかしくないという憶測が追撃断念の一因になったと考えられている。

アムチトカ島とアダック島の航空隊では、当日いつものようにキスカ島爆撃用に通常爆弾を爆撃機に搭載しており、増槽や艦船攻撃用の徹甲爆弾の準備が出来ていなかった。めったに使わない徹甲爆弾は地面に凍り付いていた。注意深く掘り起こした徹甲爆弾と増槽を爆撃機に搭載するのに4時間かかった。さらに悪天候で2時間待機した [10, p67]。その結果、アムチトカ島からは0905頃にB-25爆撃機3機、P-38戦闘機8機が出撃したが、実際にアメリカ艦隊上空に到着したのは1104時だった [8, p54]。アダック島も同様で、同島を0836時に発進したB-24爆撃機13機とB-25爆撃機8機が到着したのは1202時だった [8, p54]。どちらも海戦には全く間に合わなかった。一方で、アメリカ艦隊側も日本艦隊が自軍の航空支援を要請しているかもしれないことを覚悟しながら戦っていた [8, p43]。

アメリカ軍機の動向はキスカ島の電探で把握できており、実際にキスカ島の電探隊は0700時前後にアムチトカ島上空には異常がなく、通信上もアメリカ軍機が飛翔している形跡がないことを発信している。また0930時にはアムチトカ島から発進したアメリカ軍機を捉えたことも発信している [4, p498]。また海戦域はアムチトカ島から約800 km離れており、海戦域までアムチトカ島から航空機で約2時間かかる。6.2.7で述べたキスカ島から発信されたアメリカ軍機の動向に関する情報が、艦隊できちんと把握されていれば0700時過ぎに退避する必要はなかった。旗艦「那智」の通信装置損傷の問題もあるのかもしれないが、艦隊のキスカ島との連携の意図の薄さを感じる。

6.3.6 「那智」水上偵察機の通信問題

着弾観測するための「那智」水上偵察機が0354時に1機発進した(残り機は主砲の発射によって破損したため投棄された [4, p483])。アメリカ艦隊は水偵が近づくと着弾精度が増すので、水偵が約10 km以内に接近しようとするたびに執拗に追い払っている。那智の水偵に対する帰投命令は0720時となっており、それを受けて同機は実際にアッツ島へ帰投している [4, p501]。一方で、アメリカ艦隊は0430時頃水偵を1機撃墜し、後刻その残骸をアメリカ軍の航空機が確認している [8, p40]。そのため、「那智」以外からも水偵が発進していた可能性がある。

0655時の重巡洋艦「ソルトレイクシティ」の停止は、「那智」の水偵では把握されていたが、この重大情報は艦隊には伝わらなかった。「那智」水偵による「ソルトレイクシティ」停止の報告は、一水戦でも受信された記録はなく、アッツ島へ帰着後に発信されたものしか残っていない [4, p497]。しかし砲戦の着弾観測のために搭載されている水偵からの報告が、通信機器の故障でもない限りわざわざ海戦後に帰着してから行われるとは考えにくい。アッツ島からの報告は、帰着後に現地通信隊によって記録として再度発信されたものかもしれない。

「那智」砲術長井上武男中佐の回想によると、これに限らず「那智」水偵の観測通信は砲術長には届いていない [4, p506]。木下砲術参謀は、「那智」被弾のための電路故障で通信が全部受信されなかったと述べている [4, p491, 507]。しかし水偵はアッツ島への帰投命令を受けてから帰投しているので、「那智」から水偵への通信は出来たのだろう。もし「那智」で受信できなかったとすれば、「那智」では受信が出来ない旨を水偵へ伝えて、代替通信手段を講じることは出来なかったのだろうか?高速で動き回る艦船に対しては難しいかもしれないが、水偵から報告球などを投下するという手段もあったかもしれない。木下砲術参謀は水偵の観測通信を二番艦で受信し、これを一番艦に伝える等の対策や訓練に欠けていたと述べている [4, p507]。周波数配分や緊急時の通信方法などの日本艦隊の通信体系の問題もあるのかもしれない。とにかく、通信に問題があったことは事実である。

6.3.7 海戦における通信と意思疎通の問題

主隊と第一水雷戦隊とは、6.3.3で述べたように円滑で綿密な意思疎通に欠けており、水雷戦隊は有効な戦闘協力ができなかった。またこの海戦において、軽巡洋艦「多摩」はなぜか0350頃から主隊の重巡洋艦2隻と分離し、0630頃まで単独で行動していた。ただその行動は積極的で、戦史叢書「北東方面海軍作戦」では「常に敵方に進出してその行動が立派であった」と述べられている [4, p490]。アメリカ海軍の資料 [8]でも、「多摩」と思われる軽巡洋艦がしばしば脇を突こうとしたり、迫ってこようとしたりする様子が記述されている。しかし、なぜ「多摩」だけ単艦で行動していたのかはよくわからない。結果として、日本艦隊は主隊の重巡洋艦2隻、軽巡洋艦「多摩」、一水戦の3隊それぞれが連携や協力なしに攻撃していたように見える。

軽巡洋艦「多摩」。北海用の迷彩塗装をしている。1942年撮影
https://ww2db.com/image.php?image_id=7643

一方で、アメリカ艦隊では、旗艦と被害を受けた艦と護衛の駆逐艦間の通信が頻繁に行われた。どの艦がいつ被害を受けたという報告、どの艦がどこに煙幕を張るかという指示、および危機に駆逐艦隊が魚雷攻撃を日本艦隊に行うという指示が行われた。その結果、日本艦隊は視界をしばしば遮られ、針路を変えさせられて効果的な攻撃が妨げられた。アメリカ艦隊は戦闘への組織的な対応によって危機を脱したように見える。それとは対照的に、日本艦隊には連携して効果的な攻撃を行うためのコミュニケーションが決定的に不足していたのではないかと思える。しかし戦史叢書「北東方面海軍作戦」を見ると、日本艦隊は水偵からの報告が来ないこと、主隊が一水戦に具体的な指示をしていないこと、3つの艦船グループが連携せずに行動していること、の3点についてはあまり論じていない。

6.3.8 幌筵への航空機の無配備

この海戦を引き起こした集団輸送は、2月のアッツ島付近へのアメリカ艦隊の出没を受けてのものだったが、その目的は単なる輸送強化ではなく、輸送作戦に伴って発生が予想されるアメリカ艦隊との決戦によりこれを撃滅する計画だった [4, p441]。それであれば、日本軍はアメリカ軍艦船の出現に備えて北千島の幌筵の飛行場に哨戒機や攻撃機を配備しておけば、その目的を達成できたと思われる。日本の陸上攻撃機はアッツ島まで往復攻撃が出来る能力を持っていた。

1942年5月には美幌海軍航空隊の分遣隊が陸上攻撃機を配備したが、夏季だけだったようである。冬季の荒天を心配したのかもしれないが、アメリカ軍はアダック島から冬季も航空攻撃を続けていた。決戦も視野に入れた集団輸送を行うに際して、艦隊による対応だけしか考えないという発想は柔軟性に欠ける。縦割りの弊害なのだろうか?一方で、アメリカ艦隊は海戦中に日本軍機が襲ってくるかもしれないという覚悟の上の行動だった。結局5月にアッツ島に連合国軍が上陸するまで幌筵に陸攻や哨戒機は配備されなかった。

6-4 海戦後の日米の対応

6.4.1 新たな防衛方針

この海戦で日本艦隊は大きな打撃を蒙ったわけではなかったが、海戦後に重巡洋艦「那智」、「摩耶」と第二十一駆逐隊(「若葉」、「初霜」)は横須賀へ回航した。3月30日には強風のため幌筵港内で駆逐艦「雷」と「若葉」が接触して大きく破損し、「雷」も横須賀へ回航した [20, p306-308]。軽巡洋艦「多摩」と「阿武隈」も4月後半に舞鶴へ修理(整備?)に戻っている [4, p524]。第五艦隊は戦力が大幅に減少した。アメリカ軍の北太平洋艦隊は唯一の重巡洋艦「ソルトレイクシティ」が大きな被害を受けため、代わりに2隻の軽巡洋艦「サンタ・フェ」、「デトロイト」が配備された。第五艦隊は再び集団輸送を計画することはなく、制海権をも明け渡してしまう形となった。戦史叢書「北東方面海軍作戦」では、アッツ島沖海戦での北方戦場の雰囲気として、「北方の戦場は、南方の戦場が陽性であるのに対し陰性であった。一年を通じて悪天侯に悩まされる。しかも、西部アリューシャン列島占領以来、受身の作戦を続け自然に消極的とならざるを得なかった。」と述べている [4, p500]。天候は両軍に平等に作用するので、これは日本軍の気分の問題であったろう。

日本海軍は3月25日にこの情勢における太平洋の作戦全般にわたる作戦方針の指示を行った。この方針において聯合艦隊司令部は、北東方面について1年前の消極的な態度とは打って変わって、「北東方面死守セザルベカラズ」という方針を立てて、4月の飛行場完成とともに航空機により敵の飛行揚を叩き、敵の補給遮断と艦艇攻撃を行なうことにした [4, p432]。しかしながら、同方面の防衛に必須であるアムチトカ島攻略には自信がなく、4月12日には大本営はまた防衛方針を変更し、輸送が困難なキスカ島を前進基地に変更して、アッツ島とその付近のセミチ島、アガツ島の3島に防衛拠点群を置く方針を打ち出した [3, p263]。そして4月24日と25日に青森の浅虫で開催された北方軍、第五艦隊、大本営の関係者が集まった会議(浅虫会議)で、これからの霧の季節を利用して、5月下旬から8月上旬まで「ア」号第二期作戦を「『霧』輸送」と称して、防衛強化のために延べ21隻の輸送船で半年分または1年分の物資と人員を輸送することを計画した [18, p424]。その輸送には海戦も辞さずとして、第五艦隊に重巡洋艦3隻、駆逐艦4隻を増強する予定を立てた [18, p428]。

大本営ではアメリカ本土でアリューシャンでの作戦が近いと報道されていることなどから、濃霧期に連合国軍が上陸する可能性も意見されていた [18, p417]。しかし、中央ではそれほど急迫した事態とは感じなかったのではないかと思われる [3, p266]。大本営が策定した作戦指導要領にも現地陸海軍協定にも敵が来攻した場合の対処については一言も触れておらず [18, p425]、大本営で検討された防衛強化策は「『霧』輸送」と5月以降の飛行場完成の件がほとんどだった。4月上旬に大本営に出頭した北海守備隊参謀は、霧輸送の前にアメリカ軍が上陸してくる可能性があるとして、「確保という命令をしているからには裏付けをくれ、現状ならば死守という命令にしてくれ」と啖呵を切っている [3, p260]。しかし「(大本営も北方軍も)当時の状況は既定計画に基づく輸送を促進する外他に策なき実情に在りたり」という記録が残っている [3, p259]。

後述するように、アッツ島へ連合国軍が実際に上陸すると、大本営はわずか1週間程度でアッツ島の実質放棄とキスカ島からの撤退を決定した。日本軍のそういう当時の状況を勘案すると、北海守備隊の参謀が連合国軍による上陸が迫っていると主張した4月初めの時点で、大本営は両島からの撤退あるいは連合国軍が上陸してきた際の対応策がを検討されてもおかしくなかった。戦史叢書「北東方面海軍作戦」は、この時期に「(大本営による連合国軍の)来攻時機の判断あるいはこの対策に関する検討がなされていないのは不思議」と述べている [4, p435]。

6.4.2 アリューシャンへ方面の輸送

4月4日にはキスカ島は主食7月まで、副食5月まで、アッツ島は食糧4月末までという報告が上がってきた [3, p256]。第五艦隊では4月上旬に駆逐艦「電」、「薄雲」2隻を用いた食糧弾薬の輸送が2回試みられたが、悪天候とアメリカ軍機による接触のため2回とも途中で断念された[4, p445]。当時のアメリカ軍の哨戒機は、キスカ島付近で日本の艦船を発見するとアムチトカ島の航空基地へ無線で連絡するとともに、艦船の上空に煙幕で大きな輪を描いて位置を知らせた。すると30分以内に敵機が攻撃にやってきた。高速を出せる駆逐艦でも30分以内にその輪の付近から脱出するのは困難だったとある [22, p227]。

アッツ島海戦以降、第五艦隊による輸送計画は濃霧時の潜水艦によるものに変更され、応急時にのみ駆逐艦で輸送することになった [4, p448]。しかし、潜水艦で輸送できる量はたかがしれていた。この軍備増強の遅れが、後の連合国軍上陸時に救援準備が整うまでアッツ島防衛軍が島を保持できないという理由で、大本営が救援を早々と諦めてしまう原因の一つとなった。第二地区隊長を命じられた山崎大佐は3月の集団輸送でアッツ島に向かったが、前述したアッツ島沖海戦のためアッツ島に到着できず、ようやく4月18日に潜水艦でアッツ島にどうにか進出した。

6.4.3 連合国軍の活動強化

制海権を手にした連合国軍は、4月27日に軽巡洋艦3隻、駆逐艦6隻で再びアッツ島の艦砲射撃を行った。このときも艦砲射撃の終了時近くになって陸軍のB-24爆撃機が艦隊の退避支援にアッツ島の爆撃を行った。艦隊は2月の艦砲射撃時よりも攻撃の手応えを感じた。5月に入ると連合国軍側の空襲は激しさを増し、キスカ島とアッツ島それぞれに17回、合計で470トンの爆弾を落とした。28機が失われたが、そのうち3分の1が対空砲火によるもので、残りは天候によるものと考えられている [8, p57]。


5. アリューシャン列島の冬

5-1     冬の到来

11月に入ると、低気圧がアリューシャン列島付近でしばしば台風並みに発達して荒天が多くなった。強風や滑走路に溜まった水で、アメリカ軍航空機の活動は制限されるようになった。航空機が飛び立っても途中で引き返すことや、雲の上から爆撃することが多くなった。天候による航空機事故も多発し、1127日のアッツ島での輸送船「チェリボン丸」への攻撃を除いてアメリカ軍航空機の活動は12月末まで低下した。その間に軽巡洋艦「阿武隈」、「木曽」、駆逐艦「若葉」の3隻を用いた輸送(K船団)が行われ、123日に独立歩兵302大隊の525名がキスカ島へ到着した [4, p380]

アメリカ軍はこの荒天の間に、春季に進攻作戦を行なうための基地の整備を行った。アダック島に兵舎、格納庫、倉庫、無線通信所、桟橋、乾ドック等を海軍建設工兵隊と陸軍工兵隊が建造した。また付近の島にも給油桟橋、石油タンク、弾薬貯蔵所等を建設した。アメリカ軍は戦力だけでなく、戦力を支援するための施設の整備も入念に行った。

日本軍は千島とアリューシャン方面への輸送を強化するために、12月下旬に30碇泊場司令部を幌筵に組織し、船舶工兵、揚陸中隊、海上輸送隊、船舶工作廠を掌握した。1225日には二式水戦6機がアッツ島経由でキスカ島にようやく補充され、陸軍輸送船「公安丸」と「山百合丸」の2隻が1229日にアッツ島に入泊した [4, p9]。物資の揚陸時には、空襲を避けて湾内の滞在時間を短縮するため、袋詰めやドラム缶に詰められた物資を海中に投擲し、それを陸から引き揚げるなどの工夫がなされた。

年が明ける前後からアメリカ軍機の活動が再開した。キスカ島に入港した輸送船「浦塩丸」は12月31日に爆撃により湾内に擱座した。翌年の1月6日にはキスカ島に向けた輸送船「もんとりーる丸」とアッツ島に向けた輸送船「琴平丸」は、アメリカ軍航空機の攻撃を受けて、それぞれ目的地に到着前に洋上で沈没した。「琴平丸」は食糧、組立兵舎、燃料を搭載していた [3, p196]。「もんとりーる丸」は、独立歩兵302大隊の将兵の一部など831名などを乗せていた [4, p391-392]。この2隻の遭難により物資と将兵全てが海没した。2月を目処とする防衛強化計画は大幅に遅延せざるを得なくなった。

四五二空の水上機隊は、冬季に入ると空襲だけでなく、低気圧による暴風や波浪によっても使用不能機が続出した [7, p215]。特に14日の暴風は猛烈で、キスカ島では4 mの高波で湾内に係留中の水上機全てが破損した。そのため、海岸近くの高台を切り崩して飛行機の引き揚げ場が作られた。夜間や暴風時は飛行機を陸に引き揚げることになったものの、一人乗りの軽い水戦はまだしも、三人乗りの重い水偵などは毎日湾内への引き出しと陸への引き揚げ作業は大変だった [7, p222]。なお、アッツ島ではこの日の暴風による高波で備蓄していた食糧の一部が流出したが、もともと不足していたこともあってその後最後まで食糧の十分な補充を行うことができなかった [3, p196]。

5-2     飛行場の建設

キスカ島の飛行場は、キスカ湾北方の平地に建設された。計画では2月末までに長さ800 m、幅120 mの滑走路、さらに4か月後までにそれに斜行する長さ1200 mの滑走路を建設する予定だった。建設は1942121日に開始されたが、資材輸送が滞ったため進捗は遅れに遅れた。建設資材やツルハシ、もっこ、スコップなどが届いたのは24日だった [3, p201]。一方、飛行場建設を最優先したため、築城施設、防空施設、兵舎、防御陣地間の道路掘削などの建設は最低限のものに限られた。また、どこかの時点でブルドーザーがキスカ島 [3, p398]とアッツ島 [7, p423]に送られたようである。しかし、現地の記録では日本製ブルドーザーの稚拙な性能では島の固い岩盤に対して用をなさなかったとある [3, p256]。これは機械だけの問題ではなく、当時の日本では作業者(運転手)に経験者がおらず、その操作にブルドーザーを初めて見るトラックの運転手を充てたという話もある [17, p199]。当時の設営機械は、製造技術の低さ、材質不良、運転技倆の未熟さなどから故障も頻発していた。

連合国軍は、120日に日本軍がキスカ島に滑走路を建設中であることを発見して、作業現場への爆撃を始めた。そのため、建設現場近くに避難のための防空壕やたこつぼが掘られた [3, p202]。建設作業には設営隊だけでなく兵士も動員された。1日の作業人数は平均600名とされている [3, p201]。ただし、天気が良いと空襲で作業は中断され、吹雪の悪天候下では建設作業はなかなか進まなかった [7, p148]。補給の途絶、特に岩盤を爆破する爆薬の不足は工事に深刻な影響を与えた。3月に入ると防衛強化のためほとんどの兵士は本来任務に戻り、設営隊だけによる作業に戻った。

キスカ島の飛行場は4月末には800 mの滑走路が概成した(3月末には完成していたという説もある。しかし、戦史叢書北東方面陸軍作戦は3月末の進捗を55分としている [3, p278])。空襲を受けるキスカ島では飛行機を防護する掩体壕が必要であり、飛行隊が進出するのはその工事が終わる5月中旬以降の予定だった。5月末には滑走路だけでなく誘導路、掩体壕も完成し、飛行場は利用可能となった。しかし、アッツ島を失陥していたこともあって利用されることはなかった。さらに飛行場の拡張にも着手したが、後述する「ケ」号作戦の開始によって68日に作業は中止された [3, p279]

アッツ島では当初飛行場適地がないとされていたが、再上陸以降の調査でホルツ湾奥の東浦に適地があることがわかった。人員や資材が整った225日から幅60 m、長さ1000 mの滑走路の建設工事が開始された。飛行場予定地の土質は砂地で、キスカ島より作業は容易ではかどったようである [3, p297]。飛行場予定地は昼夜人間の足で踏み固められ、その上に小さいローラーを引いて路面は固めてられていった。5月末概成の予定だったが、連合国軍の上陸により未完成に終わった [3, p298]

なお従来飛行場は東浦に造成されたことになっており、その点では各資料は一致している。しかし、グーグルの衛星写真を見ると、アッツ島の西浦のアディスン川に沿って長さ900 mの滑走路と掩体壕用の誘導路の建設跡がはっきり見える。これは誰が何の目的で作ったのか謎である。アメリカ軍の現在でも使われている滑走路はマッサカル湾岸に別にある。東浦にも滑走路のようなものを200 m程度作りかけたように見える跡があるが、その後風化したのか河や沼が多数あるため、滑走路跡なのかどうかはっきりしない。ちなみにキスカ島の飛行場跡は、半分は衛星画像の解像度が悪くてよくわからないが(2021年7月末現在)、残りの半分を見る限り第一滑走路らしき平原だけがなんとなく残っているだけである。

5-3     連合国軍によるアムチトカ島の占領

連合国軍は侵攻に備えてアダック島の施設を大幅に拡充した。その一環で魚雷艇をアダック島に派遣した。しかし冬季は船体に着氷してトップヘビーになっただけでなく、冬季の激浪によって5隻が海岸に打ち上げられた [4, p399]。結局魚雷艇は作戦には使えず、海が穏やかなときに哨戒や物資の輸送に使われただけだった [10, p47]。アダック島から約300 km西にあるアムチトカ島は、キスカ島からわずか130 km東に位置しており(キスカ島とアッツ島間の約半分)、平坦な島で良港があった。アムチトカ島に航空基地が出来れば、わずかな霧や雲の合間をついて攻撃が可能になるため、空襲の頻度を格段に高めることが可能だった。逆にアムチトカ島を占領されれば、日本軍のキスカ島とアッツ島は首根っこを掴まれたも同然だった。連合国軍にとって同島の占領が次の目標となった。

1221日にアメリカ統合参謀本部はアムチトカ島の占領作戦の実施を承認した。19431月にテオバルド少将に代わってトーマス・キンケイド少将が海軍の北太平洋軍司令長官に着任した。キンケイドは巡洋艦隊を率いて珊瑚海海戦に参加し、後に空母エンタープライズを率いて第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦の修羅場を経験した智将だった。この人事と同時に陸軍アラスカ防衛軍のバックナーは中将に、第11航空軍のバトラーは少将へ昇格した。バックナーはキンケイドを信頼しており、これによって陸軍と海軍の対立は解消へと向かった [16, p12]。キンケイドは日本軍の補給の弱点を見抜いて、アッツ島とキスカ島への補給線のアムチトカ島からの強力な遮断を計画した [16, p16-17]

 

トーマス・キンケイド少将。19435月アダック島の司令部にて。
https://ww2db.com/image.php?image_id=783

連合国軍の当初のアムチトカ島への上陸予定は194315日だったが、天候が悪いため112日に延期された。当日は理想的な天候からはほど遠かったが、作戦は決行され2100名の部隊が上陸した。しかし、駆逐艦「ウォーデン」は激しい風と海流に煽られて暗礁に乗り上げて14名が冷たい海で凍死した [10, p59]。悪天候は続いて翌13日にも輸送船1隻が座礁した。

 

座礁した駆逐艦「ウォーデン」(左横)
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-70000/80-G-75591.html

さっそくアムチトカ島での飛行場建設が始まった。滑走路用地はまず湿地の水を抜いて乾いた土砂で覆う必要があったが、ぬかるみのため車両は使えずに工事は難航した [10, p60]1943124日にアムチトカ島を偵察した日本軍の水戦は、連合国軍が同島に上陸して航空基地を建設中であることを発見した [4, p384]。連合国軍のアムチトカ島占領は、日本軍の西部アリューシャン列島の防衛に大きな衝撃を与えた。やがて出来るであろう航空基地によって空襲はさらに激化し、キスカ島やアッツ島への輸送や補給は極めて困難になることが予想された。アムチトカ島に飛行場適地があることを知っていながら放置したつけが回ってきた。この後、日本軍ではアムチトカ島を奪回する案が何度か出されることになるが、連合国軍が既に占領している島への上陸作戦は、想定される損害を考慮するとできるはずもなかった。ここでも対応は後手に回った。

日本軍の二式水戦と水偵数機が、21日から16日まで5回にわたって飛行場建設を妨害するためにアムチトカ島の爆撃を行った [7, p207]。しかし218日にはアムチトカ島の滑走路が完成し、P-40P-38戦闘機が進出した [8, p24]219日にアムチトカ島飛行場建設の偵察に出た2機の二式水戦は未帰還となった。この2機はアムチトカ島から迎撃のために飛び立った20機ほどの敵戦闘機と空中戦を演じたことが、キスカ島の電探で捉えられている [7, p214]。この中の1機は敵機を20機以上撃墜破してエースとして知られた佐々木一飛曹だった。彼らは全弾を撃ち尽くして壮烈な最期を遂げたと考えられている。 

5-4     4度目の防衛強化

大本営の岩越紳六少佐は、19日、10日とキスカ島とアッツ島(上陸せず)を視察し、補給輸送は荒天、敵潜水艦、敵機の妨害により、兵器4割、糧食6割、建築資材2割しか到達できておらず、3月頃までに両島に歩兵大隊1ずつの増加が完了しなければガダルカナル島の二の舞となる可能性があると128日に報告した [3, p537]21日に第五艦隊参謀長一宮義之少将は、軍令部において今後の方針について、敵はアッツ島、キスカ島を遮断して孤立を図った後反攻するであろうから、2月末までに8月までに必要な物資を輸送する必要があると述べた。ただし、反攻のための米海上兵力は水上機母艦を含んだ10隻内外と判断していた [18, p138]。またその際に、第五艦隊ではアムチトカ島奪取の必要性を主張したものの [4, p416-417]、その具体案の結論が出ないうちに3か月後に逆にアッツ島に上陸されてしまう結果となった。

連合国軍のアムチトカ島占領によって、西部アリューシャン方面の状況が切迫してきた。大本営は25日に大陸命第七百四十七号を発し、アッツ島とキスカ島の4度目の防衛強化に乗り出した。それまで北海道と南樺太防衛(対ソ作戦準備を含む)と、キスカ島とアッツ島への兵站支援が任務だった北部軍を、突如「北方軍」という作戦軍(実戦軍)にして従来に加えてアリューシャン方面の防衛戦をも担わせることになった [18, p140, 144]。北方軍司令官には、北部軍司令官樋口季一郎中将が親補された。

大本営による同日の軍中央協定によって、陸軍の北海守備隊は第五艦隊の指揮下を離れて、新たにできた陸軍の北方軍の下に入り、北海守備隊のうち佐藤政治大佐を隊長とする第一地区隊(歩兵大隊3、砲兵大隊1,高射砲大隊1、工兵大隊1、通信中隊1)がキスカ島の、山崎保代大佐を隊長とする第二地区隊(歩兵大隊1、砲兵大隊1,高射砲大隊1、工兵中隊1、通信中隊1)がアッツ島の防衛を担うことになった [3, p245]。また、11月の中央協定では別途協定することになっていた飛行場完成時の飛行機の派遣元は、海軍と決められた。しかし飛行場建設は陸軍であったため、海軍は飛行場の概成ではなく、誘導路や掩体壕の完全完成まで飛行機の進出に慎重になった [19, p191]。なお、この協定によって千島の防衛強化も図られることになり、北・中・南千島に守備隊が置かれることになった。またこの防衛強化によって、1943年後半から1944年初めにかけて樺太、北海道を含めて新たに15の飛行場が建設されることになった [3, p312]

この軍中央協定で、大本営はアッツ島とキスカ島を中心とする要地群と航空基地を3月末概成を目途として建設することとなり、そのための資材と兵力は「ア」号作戦と称して2月末迄に送ることとなった[4, p421]。このため、重巡洋艦「摩耶」や潜水艦「伊三十一」など4隻が第五艦隊に編入された。これによって後に「摩耶」はアッツ島沖海戦に参加することになる。この軍中央協定は、陸上機が進出するための条件として航空基地の完全な完成を前提としていたが、アムチトカ島に建設中のアメリカ軍の航空基地が出来れば常時制空権を奪われることは明白だった。北海守備隊司令官は、飛行場の完成のためにはむしろ先に制空権を確保して輸送を強化する必要があることを懸念した [4, p242]

「ア」号作戦として2月中旬に計画された6回の船団輸送は次の通り [4, p436-438]

  • 213日にキスカ島へ向けた第十四船団(輸送船「崎戸丸」、「春幸丸」、巡洋艦「木曽」、駆逐艦「若葉」、「初霜」)
  • 214日にアッツ島へ向けた第十六船団(輸送船「あかがね丸」、海防艦「八丈」)
  • 218日にキスカ島へ向けた第十五船団(輸送船「粟田丸」、巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「電」)

が幌筵を出港した。さらに

  • 219日にアッツ島へ向けた第十八船団一次(輸送船「どーばー丸」)
  • 224日にキスカ島へ向けた第十七船団(輸送船「藤蔭丸」、巡洋艦「阿武隈」、「木曽」)
  • 224日にアッツ島へ向けた第十八船団二次(輸送船「山百合丸」)

が幌筵を出港する予定だった

この作戦の最中の219日に後述するようにアメリカ艦隊によるアッツ島への艦砲射撃が行われた。これによって、第十六船団「あかがね丸」は20日にアッツ島へ突入する途中でアメリカ艦隊に捕捉され撃沈された。航行中だった第十四船団は途中で引き返し、残りの第十七船団と第十八船団一次、二次の輸送は中止された [4, p440]。第十五船団だけは222日にキスカ島への輸送に成功した [4, p440]。この船団によって、キスカ島へ防空隊約400名、25 mm機銃8門、13 mm機銃8門、弾丸2万発、探照灯3台、トラック11両、その他防護材、大発(大型発動機艇)などの増強に成功した [7, p96]2月に輸送に成功したのは、この第十五船団とアッツ島に212日に到着していた第十三船団(輸送船「山百合丸」)だけで、残りの5回は何れも不成功に終わった。

5-5     アッツ島への艦砲射撃と「あかがね丸」の沈没

アムチトカ島を占領した連合国軍は、日本軍の反攻を危惧した。特にアッツ島は多少離れており、まだ増援が行われていることが想定された。そのため219日にマクモリス少将率いる重巡洋艦「インディアナポリス」、軽巡洋艦「リッチモンド」、駆逐艦「コグラン」、「ギレスピー」、「バンクロフト」、「コールドウェル」がキスカ島よりはるか西方に進出し [8, p24]0930頃から2時間20分間にわたってアッツ島のチチャゴフ湾と陸上施設への艦砲射撃を行った [4, p439]四五二空の水偵は16日、17日、19日とアメリカ艦隊をアッツ島沖に発見していたにもかかわらず [4, p436]、このアッツ島への艦砲射撃は日本軍にとって奇襲となった。砲撃後、アメリカ艦隊は東へ退却すると見せかけた上で、巧妙にも針路をアッツ島の南西へと向けた [8, p25]。これは、日本の輸送船がアメリカ艦隊が去ったのを見計らってアッツ島へ入港するのを阻止するためだった。

日本軍は水偵3機を飛ばしてアメリカ艦隊を追跡しようとしたが、天候不良で行方を掴めなかった。しかし、北方部隊指揮官は待機させていた輸送船「あかがね丸」にアッツ島へ入港するように指示した [4, p439]。アメリカ艦隊は201830頃にレーダーによってアッツ島の南で日本の輸送船1隻を発見した。これが予定を遅らせてアッツ島へ入港しようとした「あかがね丸」だった。海防艦「八丈」は途中まで護衛していたが、アッツ島に近づいたため護衛を終了して引き返した直後だった。アメリカ艦隊は砲撃で「あかがね丸」に火災を発生させたものの沈まなかったので、6本の魚雷を発射したが、何れも外れるか船の手前で爆発した。やむを得ず再び砲撃してやっと沈めることができた [8, p26]。アメリカ艦隊のアッツ島への艦砲射撃は、陸上戦力への打撃もさることながら、前述したように日本軍の5つの船団輸送の阻止という効果を上げた。これは、逆に日本軍にとっては3月末までの防衛強化の大きな障害となった。

(つづく)

参照文献は右上の「参考ページ」に表示

2021/06/27

4. 西部アリューシャンの防衛

 4-1     最初の防衛方針の変更

4.1.1  占領方針の変更

海軍軍令部作戦課は、まだミッドウェー作戦とアリューシャン作戦の最中であった67日に陸軍参謀本部作戦課を呼んで、戦況の説明と今後の作戦についての意見交換を行った。その際に西部アリューシャン列島を恒久的に確保することを研究することで両者の意見は一致した [4, p276]。この理由については、本土空襲の基地を与えないという意義だけでなく、第五艦隊司令長官による「アッツ、キスカ両島とも越冬が可能なことがわかり、予定通りに秋期に撤退を行なえば再占領は困難になるので両島を確保すべき」という意見具申によるものである [3, p125]。それ以外に米ソの遮断の意義も考慮された。

その結果、6月23日に大本営から大陸命第六百四十七号でアッツ島、キスカ島の恒久占領が発令された [4, p277]。また、前述したように6月25日に北海支隊は大本営直轄となった [3, p124]。この方針変更について「太平洋戦争海軍作戦史第九巻」には、上記「第五艦隊司令長官の意見と合わせて、ミッドウェー海戦後の内外の政戦両略等の見地より・・・」とも記されている [4, p277]。

しかしそれならば、占領方針の抜本的な見直しを行って航空基地を作ることが必要であったろう。ダッチハーバー攻撃時のアリューシャン東部の新しい航空基地の発見の情報は、キスカ島とアッツ島の上陸後の島の防衛や輸送計画に重大な影響を与えるはずのものだった。アメリカ軍がこれを根拠地にしてさらに西へ航空基地を進めて、キスカ島、アッツ島への補給を脅かしながら自国領である両島を速やかに奪還しようとしてくることは十分に考えられることだった。

北方部隊の駆逐艦「若葉」の陸戦隊は、612日にセミチ島(セミア島)とアムチトカ島の調査を行った。アッツ島の東50 kmにあるセミチ島は、飛行場に適した乾燥した草原が広がっていることが確認された。また、キスカ島の南西130 kmにあるアムチトカ島については、少し手を入れれば不時着場として使用できる平地があることがわかった [4, p256]。しかし、日本軍は両島を放置してしまう(セミチ島は11月に占領作戦が発令されたが中止された)。後に述べるように、特にアムチトカ島を放置して翌年2月にアメリカ軍に航空基地を作られたことが、最終的に西部アリューシャン列島防衛にとって致命的となってしまう

日本軍の方針が秋季までの占領予定だったこととアメリカ軍の攻撃を過小評価していたこともあって、防衛のために上陸時にアッツ島とキスカ島に揚陸した大砲は、キスカ島には12 cm砲4門、7 cm広角砲4門とアッツ島には7.6 cm砲2門、大隊砲2門だけと貧弱なものだった [4, p278]。アメリカ軍の空襲による予想外の反撃を受けて、早速防衛強化が検討された。


西部アリューシャン列島の地図

第五艦隊は防衛のための早急な飛行場の建設を要望したが、海軍軍令部および聯合艦隊司令部は陸上機の派遣には消極的だった。その軍令部の航空主務部員だった三代辰吉中佐は「占領は敵をして使用させない事が目的」と述べており [4, p298]軍令部は占領してさえおけば敵は攻めて来ないだろうという考えだった。これには連合国軍の西部アリューシャン方面への反撃を甘く見ていたことと、貴重な陸上航空戦力を消耗戦に巻き込みたくないという思惑もあった。軍令部は陸上兵力と水上機だけで島の防衛は可能と判断しており [4, p298]、これが上陸後の時点で島の防衛が連合国軍の攻撃の後手になる最初の判断となった。

第五艦隊は根拠地隊の編成を海軍軍令部に要望したため、舞鶴第三海軍特別陸戦隊を母体に基地内の兵員と合わせて71日付けで第五警備隊が編成された [4, p280]。しかし連日にわたる大型爆撃機による空襲を受けて、北方部隊では飛行場建設をたびたび要望した。これにより、海軍軍令部は623日に来年以降の工事のために調査員を出すことに同意した。また聯合艦隊司令部でも721日に、今年は気象状況を確認して来年に飛行場を整備するかどうかを考えるという方向に変わった [4, p299]

海軍上層部は、ミッドウェー海戦の敗戦が今後の戦況の進捗に与える影響を、十分に考慮したとは考えにくい。それほどまでに真珠湾攻撃での戦果を過大評価していたのかもしれない。いずれにしても直ちに飛行場を建設する計画はなかった。結果論になるが、もし空襲が本格化する前のこの時期に飛行場建設のための資材輸送と建設作業にとりかかっておれば、アメリカ軍がアダック島に飛行場を建設して利用を開始した9月中旬頃には、日本軍も対抗できる飛行場を建設できていたかも知れない。

キスカ島の防衛強化として、海軍第二連合特別陸戦隊と砲兵隊、野戦高射砲中隊、設営隊と15 cm6門、12 cm高角砲(高射砲)4門、7 cm野戦高角砲4門、山砲8門、速射砲8門、その他機銃10門、甲標的(以降、特殊潜航艇)6基と水上戦闘機6機が、7月初めに輸送部隊によってキスカ島へ送られることになった [4, p281]この輸送に合わせて第二次邀撃作戦が立てられ、6月28日に空母(機関故障の「隼鷹」を除く)を含む前回とほぼ同じ規模の北方部隊が大湊を出港して北海道はるか東方でアメリカ艦隊の出現に備えて待機した [4, p263]。しかしアメリカ艦隊は現れず、北方部隊による2回にわたるアメリカ艦隊邀撃作戦は空振りに終わり、大量の燃料を消費しただけに終わった。しかし、次に述べるように輸送部隊はキスカ島沿岸で潜水艦に狙われた。

4.1.2  特殊潜航艇などの配備

74日に防衛強化のための特殊潜航艇と二式水上戦闘機(二式水戦)を載せた水上機母艦「千代田」、輸送船「あるぜんちな丸」、駆逐艦「霰」、「霞」、「不知火」からなる輸送部隊は、霧雨の中をキスカ島に到着した。「千代田」と「あるぜんちな丸」は霧の中をなんとか進んでキスカ湾内に停泊したが、3隻の駆逐艦は湾外に停泊した。これらの駆逐艦はアメリカ潜水艦「グロウラー」による攻撃を受けて、「霰」は沈没、残り2隻も大破した [4, p272]75日には駆逐艦「子ノ日」がアメリカ潜水艦「トライトン」によってアガツ島沖で撃沈された。前述したように、715日にはキスカ湾外で駆潜艇2隻が潜水艦「グラニオン」によって撃沈された。キスカ島の将兵は、本来潜水艦を葬る役目の駆逐艦や駆潜艇が次々と逆にやられて、前途の厳しさを実感することとなった。しかし、「千代田」によって運ばれてきた二式水戦と特殊潜航艇は無事に揚陸された。これによって特殊潜航艇の基地隊350名と各種大砲が増援された。

空襲を受ける中で、7月から設営隊による特殊潜航艇の基地建設が開始された。100メートル程度の滑台、海岸を掘り下げた格納庫、ボイラーなどが3か月かけて完成した。しかし、特殊潜航艇は湾内で数回訓練を行った後は、荒天による浸水や絶縁不良、爆撃によるボイラーや発電機の損傷のため、全ての艇が相次いで使用不能となった [7, p91]。厳しい気象とアメリカ軍機の制空権下では、特殊潜航艇が何らかの作戦に使用されることはなかった。

キスカ島の特殊潜航艇(甲標的)。キスカ島占領後にアメリカ軍によって撮影されたもの。(194397日)
https://ww2db.com/image.php?image_id=3332

731日にアッツ島経由でキスカ島へ向かっていた特設運送船「鹿野丸」は、キスカ湾外でアメリカ潜水艦の魚雷1本が船体後部右舷に命中して航行不能となった [4, p314]。この潜水艦はその後発射した魚雷が不発だったため砲戦で沈めようと思ったのか浮上してきた。「鹿野丸」は前部の8 cm砲を発射し、この砲弾は司令塔に命中して潜水艦は沈没した [4, p327]。この沈没した潜水艦は近年になってアメリカ潜水艦「グラニオン」と認定された。しかしアメリカ側での沈没原因は、自艦が発射した魚雷による昇降舵の破損と推測されている [14]。「鹿野丸」はキスカ湾内に曳航されて修理に努めていたが、915日の大規模空襲で爆撃を受けて擱座した。

アッツ島は、アメリカ軍の大型爆撃機の攻撃圏外であるため高射砲部隊は配置されなかった。しかしキスカ島の状況を見て不安を感じたため、陸軍は817日にアッツ島に高射砲中隊を増援した。7 cm高射砲4門、20 mm高射機関砲5門と貨物自動車など約40台が揚陸された。しかしアッツ島には道路がなく、車両はほとんど使えなかった [7, p103]。しかも後述するように、この直後のアッツ島撤収という防衛方針の変更により、牽引車、弾薬車などごく一部を除いて、ほとんどの車両は9月の撤収時に放棄された [7, p104]

4.1.3  電波短信儀(電探)の配備

キスカ島には海軍の一号電波短信儀(レーダー:以降電探と記す)も送られた。電探は桂山と称した山頂に大きなアンテナ施設8月頃には設置された。予定では探知範囲100 kmのところを実際には300 km先の敵機を捕捉できた [7, p239]。電探を操作した電探隊は軍人ではなく、工業系や無線通信系の学校を出た軍属・技手で構成されていた。彼らは専門知識と経験を活かして、ブラウン管に映る戻ってきたパルス波の波形から目標を読み取って防空隊に逐次報告した。

この報告は地上の兵士が空襲の際に事前に退避するのに利用された。また、高射砲隊も敵機の針路を聞いて射撃準備をしておき、敵機が山陰から現れたところを撃墜するなどして大いに役立てた [7, p248]。さらに後述する水上戦闘機隊は、防空隊から敵機襲来の連絡を受けてまず発進し、上空で敵の位置を無線で受けてその方向へ迎撃に向かった [7, p212]。電探隊は何も知らない兵士たちから電探のことをなんでもわかる超大型望遠鏡のように思われて苦労したと述べている。電探隊は敵機の確実な捕捉だけでなく、19432月頃にはブラウン管に映る波形から目標が爆撃機なのか戦闘機なのか、単機なのか編隊なのか、また敵機のおおかたの機種まで判別できるようになっていた [7, p241]

キスカ島の電探アンテナは当然アメリカ軍機の目にも止まったと思われるが、数多い空襲の中で電探のアンテナは最後まで攻撃を受けなかった。一号電探は30台程度製作され、南方のラバウルなどにも送られたが、キスカ島のものが最も性能を発揮した [15, p94]。戦争の早い時期に、日本軍が電探と通信を組み合わせた効果的な迎撃システムの構築に成功した例があったことは、特筆しておいて良いと思う。利用が水戦でしかも機数が少なかったのが惜しまれる。

4.1.4  高射砲と水上戦闘機の配備

水上機母艦「千代田」によりキスカ島に輸送された二式水戦6機は、78日にはB-24爆撃機と空戦を行うなど、高射砲隊と合わせてある程度港湾防衛に寄与できるようになった。海軍がキスカ島に配備した7 cm野戦高角砲(八八式七糎野戦高射砲)は陸軍から譲り受けたものであった。しかし、陸海軍が同じ高射砲を運用していることを利用して、キスカ島では陸軍と海軍がそれぞれ持っている情報や弾薬の一元化を図り、また訓練も協力して行うことにより効率よく運用されたようである [7, p226]。第五警備隊砲術長(舞鶴第三特別陸戦隊副官)であった柿崎誠一大尉は、陸軍の7 cm野戦高射砲は海軍の12 cm高角砲より軽快で、大変使い使いやすい手頃な砲であったと述べている [7, p229]。海軍は艦艇を含めてこのクラスの高角砲(対空砲)を持っていなかった(旧式の砲を除く)。この砲は輸送船においても空襲の防空に役に立った。陸軍の独立野戦高射砲第二十二中隊長和田朝三大尉は、キスカ島へ派遣される際に乗船する輸送船「ぼるねお丸」に7 cm野戦高射砲3門を設置した。そして敵機が来襲した際の航行法を船長と事前に調整して、海上で大型爆撃機を撃破した。それによって「ぼるねお丸」は無事にキスカ島に到着した [7, p111]。この高射砲は、適切に使用すれば船舶の防空にも効果があったと思われる。

二式水戦は零式戦闘機をベースに開発された水上戦闘機で、20 mm機銃を装備していた。しかしB-17B-24などの大型爆撃機の方が優速のため三撃以上かけることができず、撃破することは出来ても撃墜することは至難の業だった [7, p212]9月にアダック島にアメリカ軍航空基地が出来た後には、P-39P-40P-38などのアメリカ陸軍戦闘機との戦闘も行われた。二式水戦は大型フロートがついており零式戦闘機より速度は低下したが、その浮力によって逆に旋回性能は増した。当時の搭乗員には技量優秀なベテランも含まれており、敵戦闘機は優勢の時しか二式水戦に戦闘を挑んでこなかったともいわれている[7, p213]815日までの戦果は、撃墜B-17爆撃機1機、水偵1機、撃破B-17B-24爆撃機各1機で搭乗員の被害なし [4, p297]、その後915日までの戦果は撃墜5機、撃破2機、味方は未帰還2機、被弾大破2機となっている [4, p308]

 

二式水上戦闘機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BC%8F%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:A6M2-N_Rufe.jpg

当時の二式水戦の月産はわずか約10~20機で、しかもその配備はキスカ島と南洋諸島で二分していた。キスカ島への二式水戦の補充は水上機母艦で月に一回行われれば良い方で、わずかな機数を補充してもすぐに戦闘や荒天で漸減した。稼働水戦なしの期間もかなりあり、配備機数や基地環境のためキスカ島での迎撃能力は限定的だった。なおキスカ島の水上機隊は、85日に第五航空隊として編成され、11月に四五二海軍航空隊(四五二空)と改称された。

昭和17年度の二式水戦生産機数。[43, p628]をもとに作成

4.1.5  キスカ島への艦砲射撃

大型爆撃機による爆撃では雲に妨げられるなどして効果的な爆撃が出来ないと考えたアメリカ軍は、果敢にもキスカ島への艦砲射撃を企図した。最初の計画は723日の攻撃を予定して、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻、掃海駆逐艦4隻でコジアクを出撃したが、キスカ島付近まで来て霧のため引き返した。再び727日に出撃したが、やはり濃霧に遭遇して引き返した。この途中で、霧のため駆逐艦「モナガン」と掃海駆逐艦「ロング」が衝突し、掃海駆逐艦「ランバートン」と「チャンドラー」も衝突した [10, p41]。これら4隻はコジアクへ引き返し、修理に数か月を要した。

北太平洋軍のテオバルド少将は、ニミッツの指示により83日に持っていた北太平洋艦隊の指揮権をウィリアム・スミス准将に委譲した [2, p46]88日にスミス准将が率いる重巡洋艦「インディアナポリス」、「ルイビル」、軽巡洋艦「ホノルル」、「セントルイス」、「ナッシュビル」、駆逐艦4隻からなるアメリカ艦隊がキスカ島に接近した。この日は曇りで霧が濃く、レーダーを用いて一度沿岸に突入したが霧のため艦隊の位置を失したため、一旦沖合に引き返した [10, p41]。アメリカ艦隊は水上偵察機を飛ばして、キスカ島付近の霧が晴れたのを確認してから再び島に接近して砲撃した [8, p19] 

アリューシャン方面の重巡洋艦「ルイビル」(1943年4月25日アダック島クルック湾にて)
https://ww2db.com/image.php?image_id=3665

キスカ湾(鳴神湾)内には10隻の貨物船、潜水艦4隻と軽巡洋艦1隻がいたが、湾の入り口は駆逐艦などが警戒していたため、アメリカ艦隊はキスカ湾ではなくキスカ湾南方のサウスヘッドと呼ばれる半島の南西に占位した。キスカ湾内は半島の陰で直接照準できないため、湾内と海岸付近を間接照準で艦砲射撃を行った [8, p19]

前日の87日には南洋のガダルカナル島でアメリカ軍による上陸が行われたため、キスカ島には北方部隊から警戒の指示が出されたばかりだった。ただアメリカ艦隊による攻撃がこの日になったのは霧によるためであり、ガダルカナル島の上陸作戦に合わせたものではなかった。この襲撃は日本軍にとっては奇襲となった。日本軍は上空にアメリカ軍の水上偵察機を発見して初めて敵艦隊の来襲を知り、その直後から激しい艦砲射撃を受けた [7, p128]。アメリカ軍の水上偵察機はキスカ島の二式水戦に迎撃され、1機が撃墜され3機以上が損傷した。また二式水戦は駆逐艦「ケイス」の銃撃も行った。さらに九七式大艇が雲上からアメリカ艦隊を爆撃したが、アメリカ艦隊に損害はなかった [2, p46]

アメリカ艦隊は58インチ砲弾7000発を打ち込んだ。後半からは艦隊の退避支援のために爆撃機による空襲も合わせて行われた。しかしキスカ島の被害は、水戦1機破損、戦死2名だけだった [4, p290]。アメリカ軍は後日の航空偵察の結果、湾内の駆逐艦1隻と輸送船1隻を撃沈、輸送船1隻に被害を与えたものの陸上部隊への影響は少なかったと判断した。しかし、それらの損害が今回の砲撃によるものなのか、以前の爆撃によるものなのかはわからなかった [10, p44]。スミス准将は、艦砲射撃よりは航空攻撃の方が効果が大きいと判断した。一方で、バックナーはテオバルドの大胆さに欠けた高空からの爆撃の指示に疑問を抱いていた [2, p47] 

4-2     2度目の防衛方針の変更

4.2.1  アッツ島守備隊のキスカ島への移駐

連合国軍の反攻は予想以上に早くかつ強力だった。このキスカ島への爆撃と艦砲射撃は、日本軍にとって連合国軍がキスカ島の攻略に重点を置いているように見えた。またアメリカ軍のガダルカナル島への上陸も、キスカ島の防衛に不安を与えた [3, p146]。第五艦隊司令部は、このままの状況では西部アリューシャン列島の長期確保は難しいという意見を大本営へ上げた。大本営は兵力をまとめて指揮系統を単一にして防衛強化するため、アッツ島の兵力をキスカ島へ移すことに決定した。2度目の防衛方針の変更だった。

大本営は825日にアッツ島の北海支隊を第五艦隊司令長官の指揮下に戻し、キスカ島に移駐するよう指示した。826日にはその先遣隊96名が輸送船「長田丸」でキスカ島へ出発した。しかし輸送船「射水丸」による主隊の移送は荒天のため時間を要した。また移動に割り当てられたもう1隻の輸送船「野島丸」はキスカ島での空襲によって大破したため移動は遅延した。アッツ島部隊の移駐は、911日、18日の2度に分けてようやく完了した。移駐部隊は兵舎パネルの一部をキスカ島へ持って行ったが、残りの木材や食糧など敵に利用されそうなものはアッツ島で全て焼却した[3, p147]。

防衛方針の変更を受けて、915日に海軍はキスカ島に第五十一根拠地隊を編成し、秋山勝三少将を司令官に任命した [4, p339]。陸軍は11月に再びアッツ島を占領することになるが、このアッツ島の一時的な放棄と資材の焼却は、防衛のための施設工事を遅らせ、後にアッツ島守備隊が短期間で全滅する原因の一つとなった。

4.2.2  アメリカ軍によるアダック島の占領

アメリカ軍は日本軍がアムチトカ島に飛行場を建設し、さらに東のアダック島(キスカ島から東へ400 km)を占領することを警戒した。またアラスカ州の住民たちも日本軍の東への侵攻を心配した。これを防ぐため、718日に西部方面防衛軍司令長官デウィット中将は基地を西に進めておく必要を感じた。アラスカ防衛軍のバックナーはキスカ島までの距離が300 kmのタナガ島への基地推進を提案して一旦はアメリカ統合参謀本部の了承まで得た。ところが北太平洋軍のテオバルドはキスカ島に近すぎるとしてこれに反対し、アメリカ合衆国艦隊司令長官アーネスト・キングに艦隊のために適した湾があるアダック島への基地設置を直接訴えた [5, p14]。最終的にマーシャル陸軍参謀総長は、デウィットにアダック島を占領するように指示した [16, p14]。このアメリカ統合参謀本部を巻き込んだ論争のため、作戦の実施は約1か月遅れた。

連合国軍は828日にアダック島に偵察隊を上陸させて日本軍がいないことを確認した後、830日に陸軍将兵4500名を上陸させた。30日に工兵隊も上陸し、平地をブルドーザーで整地し、溝を掘って水抜きし、そこにマーストンマットと呼ばれる38 cm×3 mの網状の鉄板6万枚を急いで敷き詰めた。その超人的な努力により長さ1500 m、幅150 mの滑走路は912日に完成した [10, p53]。しかし、水はけの悪い土地上に作られた滑走路のため、雨が降ると航空機が離着陸するたびに高い水しぶきが上がった。

後にアリューシャン列島のタナガ島に敷かれたマーストンマット
https://en.wikipedia.org/wiki/Marston_Mat#/media/File:Marston_mat_laid_by_CB_45.jpg

828日に日本軍の水偵がアトカ島ナザン湾に軽巡洋艦1隻、駆逐艦1隻を発見した。翌日水偵3機が攻撃したものの艦艇はおらず、飛行艇を爆撃したが効果はなかった。潜水艦「呂六十一」、「呂六十二」、「呂六十四」の3隻にもアトカ島への監視攻撃命令が出された。潜水艦「呂六十一」はナザン湾に進入して巡洋艦に魚雷を1本命中させた [4, p302]。しかし同艦はカタリナ飛行艇と駆逐艦「レイド」の爆雷で浮上を余儀なくされ、同艦の砲撃によって撃沈された。乗組員5名が「レイド」に救助されて捕虜となった [2, p49]。同艦が巡洋艦と思ったのは水上機母艦「カスコ」で、雷撃によって湾内に擱座したが、その後曳航されてダッチハーバーに戻った [8, p21]。その他に潜水艦「呂六十二」からもアメリカ艦隊の発見の報告があり、北方部隊指揮官はアメリカ艦隊の攻撃に備えたが、アメリカ艦隊の動きはアダック島上陸のためで日本軍への攻撃はなかった。 

水上機母艦「カスコ」19435月アッツ島占領後のマッサカル湾にて
https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-60000/80-G-65978.html

94日に初めて戦闘機がキスカ島を空襲した。これはフォート・グレン航空基地からのP-38戦闘機とされている [3, p154]。これはアダック島の滑走路が、万一の不時着時に使えるようになったためではなかろうか。カタログ上は航続距離が届いても、途中の天候の変化、機体のトラブルなども考えられるため、実際の航空機の運用にはそういったことも考慮されていたのではないかと思われる。

航続距離の短いはずの陸上戦闘機がキスカ島を空襲したために、日本軍はアメリカ軍が航空基地を前進させたのではないかという疑念を抱いたが、その後空襲がなかったことからアダック島が占領されたことには気づかなかった。アメリカ軍は913日にB-24爆撃機15機、P-38戦闘機15機、P-39戦闘機16機をアダック島に進出させた [10, p53]。アダック島の基地は、その後9000名の兵士や要員が駐留する大基地へと拡張されていった。 

アダック島航空基地のP-38戦闘機
https://en.wikipedia.org/wiki/Naval_Air_Facility_Adak#/media/File:54th_Fighter_Squadron_P-38s_Adak_Alaska.jpg

4.2.3  戦爆連合による空襲

アメリカ軍は、915日にアダック島からキスカ島を本格的に空襲した。キスカ島の電探は敵機を捉えて、事前に空襲警報が出された。しかし、今回はそれまでの少数の大型爆撃機のみによる爆撃ではなく、B-24爆撃機12P-38P-39戦闘機28が護衛に加わった初めての戦爆連合による大規模な空襲だった。しかも爆撃を効果的にするために戦術を変更し、それまでの高高度からではなく低空からの爆撃を行った [2, p50]。爆撃と銃撃によって日本軍は輸送船「野島丸」が航行不能 [4, p307]、潜水艦「呂六十三」と「呂六十八」の2隻が損傷するなど在泊艦船と陸上施設に大きな被害を被った [4, p341]。この迎撃に飛び立った二式水戦4機は、5機の撃墜を記録した [4, p313]。一方で二式水戦2機が自爆して1機が大破した。アメリカ側の資料だと、被害は空中で衝突したP-38戦闘機2機の損失となっている [2, p50]。この戦闘により、キスカ島での二式水戦の稼働機は1機となった。

アメリカ軍は戦果を拡大しようとしたが、この後10日間は悪天候のため航空機は飛び立てなかった。その間に、アッツ島守備隊のキスカ島への移駐は無事に終了した。しかし天候が回復すると、926日、29日、30日と大規模な空襲が続くようになった。926日には潜水艦「呂六十七」がキスカ湾内で爆撃により損傷した [4, p341]101日になって、ようやく水偵がアダック島に航空基地を発見した [4, p331]。日本軍は連合国軍のアダック島への進出を知り、102日、3日の夜にアダック島を水偵で空襲した [4, p332]。潜水艦「呂六十二」と潜水艦「呂六十五」もアダック島クルック湾への攻撃を行ったが、どちらも戦果はなかった [4, p341]。突然現れた航空基地に日本軍は驚いたと思われるが、アダック島へのアメリカ軍基地前進に対する対応は水戦の補充と防空施設用資材・弾薬の輸送だけだった [4, p334]

アダック島にアメリカ軍の航空基地が出来たおかげで、空襲の頻度が大幅に増加した上にアメリカの爆撃機に戦闘機の援護が付くようになり、二式水戦による迎撃は困難になってきた。キスカ島へは、925日に「君川丸」によって二式水戦6機と水偵2機が補充されたが、26日以降の戦闘で104日には二式水戦の稼働機1機、10日には水偵の稼働機も1機となった [4, p340]。第五艦隊は水戦の補充を要望したが、損耗の激しさに生産が追いつかなかった。それでもキスカ島の水戦の定数を12機に改め、1013日には北方部隊指揮官は二式水戦5機と水偵3機の輸送を決定した [4, p336]

107日には輸送船「ぼるねお丸」がキスカ島の七夕湾内で爆撃されて擱座、9日と10日には駆潜艇なども被害を受けて、水上艦艇はキスカ島からいったん引き揚げることになった [4, p334]。また15日の空襲で陸上の物資・弾薬などが大量に焼失した [4, p334]。この後、資材の輸送に駆逐艦が充てられるようになったが、1017日には、キスカ島北方で弾薬輸送中の駆逐艦「朧」と「初春」がB-26爆撃機6機の攻撃を受け、「朧」が沈没、「初春」も損傷した [4, p334]。駆逐艦を用いた輸送でも、なんとか夜間にキスカ湾に入港して、わずかな時間に荷揚げをするありさまだった [4, p338]。しかも、26日にはキスカ島への補給品を積んだ輸送船「啓山丸」が、幌筵島の摺鉢湾でアメリカ潜水艦S-31に撃沈される [2, p50]など、北千島でもアメリカ潜水艦の活動が活発化してきた。

キスカ島の日本軍は、今後も続くことが想定される大規模な空爆に耐える堅固な地下防空壕が必要となった。キスカ島の部隊は陸上防御施設の建設を中止して、地下防空壕のための掘削が始まった。弾痕の調査から地下壕は深さ10m以上に設置された [7, p141]。削岩機などの資材は1016日に駆逐艦「若葉」で緊急輸送された [4, p337]。道具と言っても日本軍には削岩機の他にはつるはしとスコップ位しかなく、ツンドラの下の固い岩盤の掘削は、用いたつるはしの先端が短くすり減るほどの難工事だった。連合国軍の空襲に対して兵士たちは地下の防空壕で耐え忍ぶしかなかったが、苦労して作った防空壕のおかげで多少の被害が出ることはあっても甚大な被害を蒙ることは避けることができた。

一方で10月中旬にアメリカ艦隊は再びキスカ島の艦砲射撃を計画した。ところがこの頃、南方でのガダルカナル島を巡る攻防が最盛期を迎えており、アメリカ海軍はアリューシャン方面から巡洋艦などを数隻引き抜かざるを得ず、艦砲射撃計画は中止された [8, p22]。さらに12月には残りの艦船の一部も南洋へ転用され、北太平洋艦隊は、潜水艦を除いて軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と魚雷艇数隻だけとなった [4, p399]。再度のキスカ島の艦砲射撃は実現しなかったものの、アメリカ海軍の北太平洋における士気は高く、積極的かつ果敢だったようである。 

4-3     3度目の防衛方針の変更

4.3.1  防衛方針の再検討

10月になると、キスカ島は戦爆連合による空襲に曝され、付近にはアメリカ海軍の哨戒艦艇が頻繁に出没した。連合国軍のアダック島進出と飛行場建設によってキスカ島に対する海と空からの攻撃力が強化された。一方で、日本軍にはこれに対抗する手段がなく、アッツ島とキスカ島への輪送は困離な状況となった。しかもソロモン諸島方面の戦況が緊迫したため、アリューシャン方面への海軍力の増強も困難だった。108日には大本営で陸海軍の情報交換が行われた。そこでの敵情判断は、「アメリカ軍は砲爆撃によって日本軍の長大な補給線を遮断しながら戦力の低下を図っており、南方作戦の関係ですぐには無理だろうが来春には反攻が行われる公算が高いため、日本軍は3月を目途として準備を行う必要がある」というものだった [4, p356]。この時点で大本営がアメリカ軍の来春の反攻を予期していたことに留意しておく必要がある。

第五十一根拠地隊司令官はアダック島を攻略することを意見したが、その実現が難しいならば航空兵力と潜水艦の増強を要望した。第五艦隊司令部としては概ね第五十一根拠地隊の意見を支持したが、アダック島の攻略は望みがないとして、海軍軍令部に第二案の兵力増強を要望した。しかし、軍令部は二式水戦の補充のほか潜水艦2隻と駆逐艦2隻を第五艦隊に増強しただけだった[4, p358]。第五艦隊司令部はどれほど地上兵力を増強しても、陸上航空兵力の進出なくしては敵の攻略を止めることは困難と考えており、むしろ冬季を利用して撤退も考えていた [4, p358-359]

これに対し聯合艦隊司令部は、引き続き陸上兵力のみによる確保を考えていた。海軍軍令部も陸上機の派遣には賛成でなかったものの、第五艦隊の熱望もあって軍令部全般の空気は10月頃には飛行場の建設に変わった [4, p362]。しかし、聯合艦隊は主戦場であるソロモン諸島方面の対応に忙殺されており、アリューシャン方面への姿勢は消極的だった。海軍内の態度を見た陸軍参謀本部の第二課長は、1012日に「「キスカ」方面ハ確保ヲ要スルト考ヘル 海軍ノ思想ハ複雑、之ガ解決ヲ期シ度」と述べている [4, p360]。むしろこの頃から、陸軍の方が日米の攻防並びに米ソ提携防止の要地として、西部アリューシャン列島を重要視するようになっていた [3, p167]

陸軍はいったんはアッツ島を放棄したものの、工事能力の高さからアメリカ軍はアッツ島に航空基地を建設可能と考えた。海軍もアッツ島に航空基地が建設されるとキスカ島が危うくなると考えた [3, p168]。海軍軍令部では1014日に西部アリューシャン列島防衛に関する打ち合わせがあり、17日頃にはアッツ島の再確保の方針が決まった [4, p364]

1021日に第五艦隊と軍令部参謀三上作夫中佐と参謀本部参謀瀬島龍三少佐との打ち合わせが大湊で行われた。この打ち合わせ内容は残されていないが、次のように推測されている。第五艦隊では冬季の航空機活動の不活発な時期にむしろ撤退を考えるべきで、保持のための方策を講じずに徒に地上兵力のみを増強すると、補給が増えてかえって敵の思うつぼとなると考えていた [3, p169]。しかし海軍軍令部では、アッツ島とキスカ島の敵による利用阻止と、撤退は敵に自信を与え敵の侵攻を可能にするなどの理由を挙げて、前述したようにアッツ島を再び確保するとともに翌年2月頃までにアッツ島とキスカ島に飛行場を建設する方針を打ち出していた [3, p170]。撤退を考えていた第五艦隊としては、ともかくも飛行場建設の方針が示されたことで納得したようである [4, p359]。上陸以来3度目の防衛強化のための方針変更だった。

北部軍の軍司令官8月1日に樋口季一郎中将に代わった。彼はハルピンに赴任していた際に、数万人のユダヤ人をハルピン経由で上海へ脱出させたことでも有名である。アリューシャン方面は北部軍の担任外であったが、樋口軍司令官は関心を持っており、同方面の戦備案を大本営へ上げた。このため大本営は、9月に防衛のための資料収集に木村松治郎少将を団長とする北方調査団をキスカ島へ派遣した。この調査団の報告会が1026日陸軍参謀本部で行われた。この報告内容は当時の判断として要点を適切に衝いているので、いくつかを要約して掲げておく [3, 付録第八]

「アリューシャン」方面の情勢(敵情)判断

  • 敵の反攻は来春が最も公算が高く、3月を目途として準備する必要がある。
  • 敵の反攻の戦法は、長い我が補給線を遮断し、また直接爆撃によって戦力低下を図っている。
  • 反攻は奇襲の公算は低く、砲爆撃によって我が戦力を低下させ、次いで強襲戦法に依って攻撃して来るだろう。
防衛地帯設定の件
  • このためには飛行場を必要とする。
  • アムチトカ島は比較的平坦であり、特にコンスタンチン港沿岸は平坦であるが、沼沢が多く相当の工事を行わなければ飛行場とならない。
  • セミチ島東端の島には飛行場適地が2か所ある。
  • キスカ島の飛行場適地は100m×800mにて、工事には約7万人日を必要とする。
築城
  • 飛行場なしで築城のみにて防御させることは残酷と思われる。兵は萎縮して益々苦境に立つだけである。

 この報告会の結果を聞いて、陸軍は来年45月頃までに飛行場の設置と要塞化の両方を終えようと考えたようで、峯木北海守備隊司令官は短期間での両方の完成に疑問を抱いた。また彼は工事や作戦を行う上で、アッツ島の気象条件の検討が不足していることも感じていた [3, p171]

4.3.2  アッツ島の再占領

ところが、1018日に連合国軍がアムチトカ島を占領したという情報が突然に飛び交った。これは誤報だったのだが、この情報源はアメリカのラジオ放送がアムチトカ島を占領したと発表したためとされている [4, p364]。この情報を受けて、アッツ島確保の方針が内定していたこともあって、陸軍は1020日に急遽北部軍にアッツ島再占領の命令(大陸命第七百六号)を下した。アッツ島再占領のために「挺身輸送部隊」が編成され、北部軍から抽出した米川浩中佐率いる北千島要塞歩兵隊など約600名が軽巡洋艦「阿武隈」、「多摩」、「木曽」の3隻によって1029日にアッツ島に急いで再上陸した [4, p347]。アッツ島撤収からわずか1か月半後だった。また西部軍や東部軍から高射砲部隊などが集められ、1112日に輸送船「どうばあ丸」、「大倫丸」で約520名がアッツ島に増強された [3, p176] 

キスカ島とアッツ島を確実に確保するため、陸軍は1024日にキスカ島に峯木十一郎少将を司令官とする「北海守備隊」を新設し、北海守備隊は作戦に関して第五艦隊の指揮下に入ることとなった。111日には「陸海軍中央協定」によって、キスカ島、アッツ島、セミチ島を中心とする陸上航空基地群を19432月を目途として建設すること、アッツ島にも水上航空基地を設置すること、航空基地は陸軍が建設し、海軍が輸送に協力すること、アッツ島に要塞歩兵隊を進出させること、今後状況によりアムチトカ島を占領することがあることを決定した [4, p366]。しかし、アムチトカ島の占領については余地を残しただけで、実質的に先送りすることを意味していた [3, p168]。北海支隊は独立歩兵三百一大隊となって北海守備隊の下に入った。新設された北海守備隊には、築城資材、電話、飛行設営用ダイナマイト、防寒被服、雨外套、ゴム長靴などが交付された [3, p173]

1110日に峯木十一郎少将などの陸軍北海守備隊司令部が、駆逐艦に分乗してキスカ島に着任した [4, p347]。直ちに海軍第五十一根拠地隊司令官秋山勝三少将との打ち合わせが行われ、防衛強化のための方針が決定された。それによってキスカ島、アッツ島、セミチ島に陸軍が飛行場を含めた複合防衛地帯を2月末までに構築すること、そのために12月上旬には必要な資材を輸送することが確認された [3, p181]。その際に、もし制空権がなければ来年3月以降にアメリカ軍の活動が容易に活発化し得ることと、もしアメリカ軍がアムチトカ島を占領すれば、キスカ島の防衛が極めて困難になることが議論された。しかし、アムチトカ島占領に関する具体的な案が検討された形跡はない。

ようやく西部アリューシャン列島の本腰を入れた防衛強化に乗り出すことになった。そして前述の陸海軍中央協定により、12月末までにそのための大量の資材輸送とアッツ島近くのセミチ島の占領作戦が計画された。しかしアメリカ軍がアダック島に航空基地を建設したことにより、アッツ島もそこからの空襲圏内に入っていた。116日に「君川丸」はアッツ島に二式水戦5機と水偵3機を輸送したが、翌日の暴風とアメリカ軍の空襲により全機使用不能となった。1127日にアッツ島に入港した輸送船「チェリボン丸」は、B-24爆撃機1機、B-26爆撃機4機などにより低空から爆撃を受けて擱座した [3, p187] その人的被害は、戦死10名、重軽傷者38名、行方不明3名である[44, p12]。

アッツ島ホルツ湾の二式水戦。おそらく強風のため2機が接触している。アメリカ軍のB-24爆撃機から撮影。左下に投下された爆弾が見える。
https://ww2db.com/image.php?image_id=11832

セミチ島攻略部隊は、軽巡洋艦「多摩」、駆逐艦「初霜」、陸軍輸送船「モントリール丸」「八幡丸」に分乗して1124日に幌筵を出港したものの、アッツ島での「チェリボン丸」の被害を受けて兵力資材の揚陸は困難と判断された。攻略部隊は幌筵へと反転し、28日にセミチ島占領作戦の中止が決定された [3, p187]。この件は30日に北海守備隊に通知された。実はその前日、攻略部隊の反転を知った北海守備隊司令官峯木少将は、第五艦隊司令部に対して、「輸送を今、断行するに非(あら)ざれば所期の守備は完(まった)きを得ざる故之(これ)が断行方(かた)意見具申す。」と占領の強行の意見を打電していた[44, p12]。北海守備隊は海軍の指揮下という立場では、第五艦隊の決定に涙をのまざるを得なかった。

アメリカ軍によるアムチトカ島占領の誤報の際には、一部ではアムチトカ島を奪回できなければこの方面を根本的に考え直すとまで意気込んだ[3, p167]。ところが誤報とわかると同島の占領は先送りされ、翌年2月に連合国軍に航空基地を建設されてしまう。さらにアッツ島で輸送船が被害を受けると、アムチトカ島占領どころかアッツ島に近いセミチ島占領作戦も中止になった。これらの判断は、今後のキスカ島とアッツ島の防衛に大きな困難をもたらすことになった。

(つづき)

参照文献は右上の「参考ページ」に表示

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *